2-5 雪も採取する
墜落から五日目。
朝からαの報告を受けた。
「大気中の成分は、一部に未知の成分が混ざっていて、長期影響評価はまだだけど、検出量が一ppm以上のものの分子構造は特定できたわ。もっと少ないものはまだ分析中。個別の成分を単離するのは時間がかかるから、今、あなたの細胞を入れた培地が決戦の舞台になってる。勝てたら、決勝戦に進出よ。」
勝敗の基準も決勝戦で何をするのかもよくわからないが、何か基準は設けてあるのだろうと思う。
「ダストサンプラーの方はどう?。」
「大気中のダストも、一部に未知の成分が混ざっていて、長期影響評価はまだ。種類が多すぎるから、優先して解析する順位を評価中。予想はしてたけど、微生物も混ざってるみたい。今、あなたの細胞を入れた培地が決戦の舞台になってるわ。ここで影響が大きそうなものを選んで、もっと詳しく調べるつもり。馴化措置に使う微生物候補ね。まだ調べてる途中だけど、少なくとも十種類は採取できてるみたい。」
「今日、水は採取できるかな?。」
「ここまでで、今すぐ逃げ出さなきゃダメっていうほどの危険なものも見つかってないから、ダストサンプラーBの回収でエアロックを開く時にやりましょうか?。ベータとガンマの天気予報じゃまだしばらく同じような天候が続きそうで、サンプラーCは天候が違う時に使いたいの。解析の余力はあるわ。」
「その時に『虫』も出せる?。」
「船の内外で最低一匹ずつ使えるよう、準備してるわ。船内だけど二匹目の基本的な動作確認も終了。あとは天候、特に風の具合次第ね。」
「風はどうやって測ってるんだ?。風速計とかは記憶にないんだが。」
「垂直尾翼が帆船の帆みたいに立ってるから船体構造がそれで押されてるのよ。応力状態と、その時に降ってた雪粒の挙動で風速の推測はできるようになったわ。AIの得意分野よ。」
「じゃあ、午後に、天候次第だけど『虫』も出そう。雪サンプル採取状況の観察と、できたら周辺を飛び回らせて、このあたりの詳細地形も撮影したい。」
「ええ。『虫』が使えるようになったら、地形観察もやりたいと思ってたの。」
一四二〇M。小ニムエが二体、エアロックの前で待機している。そのうちの一体は、腰に作業ベルト巻いており、ベルトの腹部に付いた道具ポケットには小さなスコップと数本のサンプル採取容器が入っていて、肩には『虫』を乗せている。
「まず、ダストサンプラーBの回収から始めるわよ。」
αの宣言に続き、外扉閉鎖から滅菌を経て内扉開放に至る手順が繰り返された。小ニムエのうち何も持っていなかった一体によって、サンプラーBが分析室に運ばれていく。
「では本日のメインイベント、氷サンプルの採取と、『虫』の初飛行よ。」
モニタの画像はエアロック前で待機を続けていた小ニムエの肩に乗った『虫』のものに切り替わった。小ニムエは肩に『虫』を乗せたままエアロック内に入る。画像も歩幅に合わせてゆれる。エアロックの内扉が閉じられる。光源がエアロック内の照明だけになって画像は少し暗くなるが、すぐに増光表示された。そのまま、小ニムエの肩目線の映像は不規則に方向を変える。命綱リールのロックを外し、少し引き出して自分の背中に取り付けているのだ。
ポンプの音が入る。エアロック内を加圧、減圧して気密状態を確認。音声付きで見ていると、今まで気にしていなかったことにも気づけて面白い。二十秒ほど待って、外扉が開き始めた。画像は一瞬真っ白になったあと通常露光モードに切り替わって正常に戻る。
谷の奥を向いている。空は薄曇り。小雪。地面は主に凹凸のある雪。堆積した雪崩の上に薄く新雪が乗ったものだ。所々に岩も顔を出している。船体は右に傾いて停止しているので、地形だけでは見分けにくいが、遠くの木々は斜めに立っているように見えた。αが告げる。
「飛べそうね。記念すべきゴーサインは船長の役目よ。」
「了解。『虫』を出して、まずは船尾附近を旋回。そのあとはホバリングしてサンプル採取状況の撮影だ。」
「出します。」
「虫」からの画像が揺れて、再び安定する。横のモニタにある状態表示に「飛翔中」の文字。飛行姿勢や高度などが表示されている。キャリブレーションが不完全なので、数値は表示されているがその横のグラフにある誤差範囲の上下幅はまだ広い。
映像から判断すると、「虫」はホバリングで小ニムエの肩からゆっくりと離れ、安定状態を確認しているところ。次いで、水平飛行で船外に出て、またホバリングを数秒。そのまま一八〇度回頭してカメラをマーリン7に向け直した。機体後端、エアロックの中の小ニムエが立っているのが見える。慣性中和の圏外に出たので「虫」はヤーラ359-1による重力加速の方向を「下」と認識して姿勢を制御している。小ニムエは斜めに立っているように見えた。
「虫」は、そこから螺旋状に上昇しながら俯瞰での撮影を開始した。数秒で、マーリン7の全景が視界に収まる。船首は雪塊に埋まっている。逆に、後半部分は摩擦のない斥力場で雪が滑り落ちるらしく、上面に雪は残っていなかった。飛行安定性の確認とか、「虫」についても試したいことが山積みになっているが、今は雪の採取に戻ろう。
「α、『虫』を小ニムエがよく見える位置までもどして雪の採取をやろう。」
「虫」はコースを変え、マーリン7船尾から数メートルほど離れた位置に戻り、上下動も加えながらゆっくりとした八の字飛行に移行した。カメラは常に、エアロックとその下の雪面双方を捉えている。
エアロック床面から雪の表面までの高低差は小ニムエの身長と比較で二メートル弱。傾斜もあるし小ニムエが降り立って体重を支えられるかの強度も不明。
「命綱でゆっくり下ろして、サンプルを取ったら巻き上げよう。」
「それが良さそうね。雪の締まり具合もわからないから、支えなしで小ニムエをあの上に降ろしたくないわ。」
映像の中で、小ニムエは命綱をエアロック上部に取り付けられている滑車に引っかけた。数歩前進し、体重を命綱に預けて少し斜めになって止まる。
「命綱を伸ばします。」
小ニムエの傾きが大きくなって右脚一歩前へ、出したところで支えはなく、小ニムエは全体重を命綱に預けて吊り下げられた。エアロック床面は小ニムエの膝の裏あたりになっている。膝の裏とマーリン7の外殻の間には、表面斥力場に弾かれてできた隙間がある。
命綱は慎重に伸ばされてゆく。一分以上ほどの時間をかけて、小ニムエの足先が雪に触れたようだ。命綱が止まる。
「足先が雪の表面に接触したけど、新雪だから柔らかすぎて小ニムエの体重を支えられないのでもう少し降ろすわね。」
「うん。命綱が緩んで体重を支えられそうな感じになるか、そのままの姿勢でサンプル採取がしやすそうな高さまで降ろそう。」
小ニムエは同じような速度で降下を再開した。「虫」画像によると命綱は「く」の字に曲がっているようだ。あの折れ点が船内の慣性中和と惑星重力の境界なのだろう。
命綱は伸びてゆくが緩むことはなく、降下が停止した。画像は小ニムエから見たものに切り替わる。見えているのは堆積した雪崩の上に新雪が積もったものだが、マーリン7のすぐ横なので、斥力場で弾かれて滑り落ちた雪の層は、周辺よりも厚いようだ。
「新雪だけのサンプルを一つ。それから、新雪の層を崩して雪崩で落ちてきたサンプル、できたら土壌を含んでるヤツ、でどうかな?。」
「了解。まずは新雪からね。」
小ニムエは右手でサンプル採取容器を取り出し、親指で開蓋のボタンを押した。バネで蓋が開く。次いで左手のスコップで目の前の雪を少し掬い上げ、採取容器に入れた。まだ容器には余裕があるようで、スコップの柄尻で雪を押し込む動作を挟みながら、容器一杯の雪を集めた。最後に、開いたままの採取容器の蓋をスコップの柄尻で押し込むようにして閉じる。柄尻を使うのは、人間なら簡単にやりそうだが、AIにこれを教えたのは誰だろう?。
「新雪はこんなものね。じゃ、ちょっと深いところを探るわよ。」
小ニムエはスコップで新雪を大きく削り始めた。反動で体が少し左右に回転しているが、やがて両足先も少し丈夫な雪塊に達したようで、回転が止まる。表面から二十センチほども削ったところで、マーリン7の墜落直後に堆積した雪崩の層らしい雪塊が見えた。
「土壌か、落ち葉でも何でも分析して面白そうなものを含んでいる塊を探すわね。」
αが告げて小ニムエの腕が届く範囲のあちこちを探っている。やがて土粒らしい汚れのある雪塊を見つけ、スコップを道具ポケットに戻し、左手で雪塊を掴み取った。土粒らしい部分が収まるよう、角度を調整しながら右手のサンプル採取容器に雪塊を押し込む。
「もう少し探してみるわ。」
小ニムエは更に五十センチほど降下した。同じように表面に見える新雪を取り除き、スコップで塊を起こし、また少し色の違った雪塊を見つけて採取容器に入れる。
「今日はこんなものかしら。」
「そうだな。引き上げよう。」
画像は「虫」から見た全景に切り替わった。
小ニムエの頭部が雪面より上に出たあたりで巻き上げが一度止まる。目の前の雪壁に両手を突っ込んで、何かを探っている。十数秒ほどそうした後、再び巻き上げが始まり、今度は膝が雪面の高さあたりに達したところで止まった。
何をするのかと見ていると、小ニムエは四つん這いでゆっくり凹凸のある雪の上を五十センチほど進んだ。そして膝立ちになると、周囲の新雪を手で掬い上げ、道具ポケットから取り出したサンプル採取容器の表面に擦り込む。容器の表面から剥がれた雪は道具ポケットを外れた位置に落ちてゆく。
「一応、汚れを落としておこうと思って。あと、足先とか、新雪以外の雪に触れた部分は、船内に戻る前に同じように新雪でこすって土とかが残らないようにするわ。」
道具ポケットに入っていた小物類の表面に、全て同じように新雪を擦り込んだ小ニムエは、新しい雪を手に取ると道具ポケットに入れ、しばらくかき回した後、ポケット内の雪だけを掻き出して捨てた。
「さっき超音波探査で、雪のしっかりした場所、弱いところの概略を出したわ。これ、面白そうだから見てて。」
小ニムエは道具ポケットに蓋をすると、膝立ちの姿勢のままで五メートルほどゆっくり進んで、両手を上げ、前のめりに倒れた。ウィンチが小ニムエの身体を引き戻し始める。小ニムエは雪の上を引きずられてながら、新雪に四肢の先端を擦り付けた痕を残す。まるで雪の上を引きずられて喜んでいる子供のようだ。
「やってみたい?。」
「船内服であんなことやったら風邪引くよ。外気温は何度?」
「十二月半ばの午後三時。緯度四五度。一面の雪景色。気温は摂氏で二度よ。今のあなたのワードローブにあるコレクションだと、元々の私物で持ち込んでた冬用の上下か、船外作業に使う圧力服ぐらいしか適合するものがないわね。あと、資材庫には原住民接触用にローマ時代から現代に至るまでのお偉いさん衣装コレクションがあるわ。隔離区画だから今は取りに行けないけど」
「何をやるにしても、馴化措置の後だな。」
「じゃあ、分析を急がないと。小ニムエとサンプルと、『虫』を回収するわね。」
「『虫』だが、このまま周辺の写真を撮らせてこの谷だけでも詳細に立体データを作れないかな。」
「わかったわ。『虫』以外を回収。『虫』はバッテリー残量を見ながら回収できるギリギリか日没直前まで、この周辺の探索飛行にしましょう。」
その夜に来たβは悔しがっていた。
「私もγも頑張ってるけど近接画像で作った3Dには精度で負けるわね。でも私たちの方が何万倍も広域で3D作ってるんですからね!。」




