1-1 加速
この何年か、「なろう」で色々読ませていただきました。読んでいて「これはすごい」と感じるもの、「自分ならこう書くのに」とか感じるもの、色々あって、自分でも書いてみようと思うに至りました。よろしくお願いいたします。
「なろう」のジャンルや章設定など、わかってないところもありまして、今後変更するかもしれませんが、ご容赦願います。
第一話、状況説明を書いていると長くなってしまいました。適切な長さの文というのは、むつかしいものです。
「管制よりIS四三七、マーリン7、飛行計画を確認。GMTで本日一五四五時に発進許可。」
「IS四三七マーリン7より管制。今より約二時間後、本日一五四五ZにデルタV実施許可を了解。それまでは待機姿勢を維持し、現軌道で待機する。」
「管制よりIS四三七、マーリン7。現時刻は一五四〇Z。Tマイナス三〇〇秒。そちらの準備状況はどうか」
「IS四三七マーリン7より管制。現在Tマイナス二九八秒。標準時同期を確認。機関および待機姿勢に異常は検知されず。このまま待機を継続する。規定によりこれより外部アンテナを収容し、電波による通信を終了する。以降、通信はレーザーのみに限定。デルタVは一五四五Zに自動実施の予定。」
「管制よりIS四三七。レーザー回線の接続を確認。一五四五Zに加速を開始せよ。」
管制は地表と軌道を結ぶ路線を一番優先する。出発時刻で数分のずれが距離にして数百キロのずれになるからだ。次に優先されるのが太陽系内を結ぶ路線。これも大抵は厳密な計算によってエネルギー消費を最適化した軌道が選択されていて、変更や修正の余地が少ない。マーリン7のように太陽系外を目的地とする飛行計画は大抵待たされる。目的地までの距離が光年単位で誤差を含んでいることと、誤差含みの条件で立案された飛行計画には予備物資もそれなりに積まれているというのが待たされる理由だ。概要を申請すると「空域内のセパレーション五分以上」などの各種条件を満たせる時刻が管制から指定されるが、優先度の高い飛行計画の割り込みで変更されることもある。今待機している一五四五ZのデルタVも、最初は一三三〇Zで予定されていたものが発進の一時間ほど前に取り消され、組み直されたスケジュールは二時間ほどずれている。
その後の待機中に計画変更の指示もなく、GMT一五四五時、マーリン7は加速を開始して軌道を離れた。管制とマーリン7のレーザー回線もしばらくすると距離減衰と照準誤差のため接続が切れやすくなり、数時間以内に途絶する。管制AIは想定時刻にレーザー通信のエラーを検知し、エラーのパターンが通信相手の加速離脱に該当していると判断する。そしてマーリン7の速度分類を「恒星間航行用の加速で離脱を確認」を示すコード「四」に変更する。
「一」は惑星や衛星の周回軌道に駐留中、いわゆる第一宇宙速度。「二」は恒星系内の惑星間航行、或いは恒星周回の第二宇宙速度。「三」は太陽系脱出速度、第三宇宙速度。「四」は更にそれ以上、亜光速またはそれ以上の速度で実用的な期間内に他の恒星系へ達することができる加速を行っていることを示す。
速度分類「四」に至った宇宙船は、少なくとも数年間は地球系の社会と隔絶した「独立」状態となる。管制AIが「四」の飛行計画に対して、提出されている他の飛行計画との干渉がないことを確認すると、ファイルは閉じられ、管制対象の一覧からマーリン7を削除。一連の記録は人間の統括管制官の目でも確認を受けてから、アーカイブに送られ、同時にマーリン7が所属している可住惑星調査機構へも転送される。
さてちょっと格好良く始めてみた。船長です。地球文明圏でこの記録を読む人は、多分内容の概要くらいは知った上で読み始めているとは思う。が、概要を知らずに読み始めた人もいる、という前提で、書いてみよう。
この記録は、オレ、こと、マコト・ナガキ・ヤムーグが、恒星間往還船マーリン7で、地球から一二〇光年離れたヤーラ359恒星系に行って帰るまでの船長日誌として書き始められている。オレの独り言やマーリン7の制禦AIとの会話を含めた航行ログを、これもまた制禦AIが自動編集した文に、オレが多少の手を入れたものだ。正確には、そのようにして、これから作っていくものだ。今うやって記録している時点では、まだ最初の頁も埋まっていない。
記録に残すことを意識してしゃべった部分と意識できていなかった部分で、多少は語り口の硬軟に違いは出るとは思うが勘弁して欲しい。オレもAIも、記録を残すことには同意するしそれを読みやすいものにしたいという意思はあるが、最優先目標はヤーラ359の情報を持ち帰ることだから。
本文に百パーセントの内容は入れない。全てのトイレの日時を記録しても意味がないだろうと思う。多分、附属書のどれかにはその記録も入ると思うが、気にするのは医者か生理学者ぐらいのもので、それでもオレが体調を崩していた期間の記録以外は読み飛ばすだろう。もしも気になる記述漏れがあったら、附属書のどこかを探して欲しい。
多分、これも附属書のどこかにもっと詳しい内容があるだろうが、出発初日の日誌に記録すべき内容として、船の任務と概要を記しておこう。
任務は増えすぎた人口を移住させるための新たな可住惑星を探索すること。目的地は光学観測による系外惑星探査で遊離酸素その他の条件が可住惑星調査の選定基準を満たしているヤーラ359星系。ヤーラという名前は、地球から見て全天を幾百にも区分した区画の一つで、どこかの伝説から拾ってきた神様の名前から採られたらしい。「星の名前がカタログ番号だけではわかりにくい」ということでそんな名前が付けられたのだが、個人的にはこれで「わかりやすくなった」とは感じていない。そして「359」は、その区画内に見えた光点に対して端から順に番号を付けていった三五九番目だ。行って、降りて、可住性を評価し、帰還する。スコアがよければ、次は本格的な開拓機材を積んだ船団が送り出される。が、まだそれまでには順調に進んでも最低二十年ほどかかるだろう。
宇宙船の登録名はマーリン7。カナードと垂直尾翼を備えたデルタ翼機で、全幅二十メートル。全長は四十メートル。正面から見るとラムスクープ用の開口部もあるが、これはラムスクープ速度以下では閉じられている。登録名称は、可住惑星調査機構が用意した幾つかの候補の中から、船長に任命されたオレが選んだ。先に同名の宇宙船が何隻か就航していたから末尾にに数字は付いたが。ついでに、今回の飛行計画提出時に管制からはIS四三七のコールサインを割り振られている。ISはインタステラ、つまり恒星間航行で申請された計画に割り当てられる符号で、太陽系管制の通信可能圏を離脱するまで友好だ。帰還時には「接近中」の送信をすれば、また別のコールサインが割り振られる。
宇宙船なのに惑星大気圏内を飛行する航空機のような形状となっているのは、宇宙空間においても光速近くなると生じる星間水素などの影響で可能になる空気力学的な挙動も利用するためだ。ついでに、地上の工場で製造した後、工場の低速カタパルトで機体を宇宙へ送り出すのにも都合がいい。船が工場内での検査を終えてからカタパルトで射出され、まだ大圏内にある間は空気力学的特性を確認するための時間でもある。大気圏内で空気力学的特性の確認を終えたら主機を使って加速し、宇宙に出る。
推進用の主機としては、空間そのものに対する反発力を発生させる斥力機関を搭載している。この主機は、乾燥質量比から計算すると毎秒二千メートルの加速、つまり約二百Gまで出すことが可能で、設計計算上の速度上限は光速の約四十倍。船内の人間や荷物が潰れないよう、最大出力四百Gの慣性中和機も備わっている。船は船体後方に形成される推進用斥力場に押し出されて前に進む。
斥力場は、主機とは別に船体表面に分散配置された発生機によって、後方だけでなく船全体を薄く覆うように形成されている。これはデフレクタとして装備されているものだ。一立方センチに数個というような稀薄な星間水素でも亜光速で衝突すると外殻の分子構造に突き刺さって船体をボロボロにしてしまうので、防御壁が必要なのだ。マーリン7のカタログ上の最高速度が四十Cなのも、表面斥力場の能力と地球軌道近傍の星間水素濃度やデブリ、塵の分布量から求められている。
斥力場は燃料補給にも使われている。マーリン7が消費するエネルギーは融合炉から供給されるが、その燃料となる水素も、推力、表面とは別の斥力場発生器によって形成されたラムスクープによって集められ、水素吸着樹脂に蓄積される。マーリン7に積載された吸着樹脂は二回のフル加速と停止に必要な量で、これは「何らかの理由で亜光速に達する前に加速を中断して減速に転じなければならない事態」に対して安全率二を設定したものだ。
これら、主に三種類の用途に使われている斥力場は電力によって励起される。船全体に表面斥力場を作るには船全体を電気伝導体で覆う必要があるから、このような構造は斥力場を励起させていなくとも電波通信がやりにくい。このため、軌道上で待機している時などは表面斥力場を使わず、船外に何本かのアンテナを突き出して電波通信を行っている。
アンテナを収納して表面斥力場も励起させた状態の時でも、加速を開始する前ならば船体各所に設けられた光学観測窓を通じたレーザー通信は可能だ。しかし加速を始めてしまうとレーザーを相手の受光器に精確向け続けることは距離に応じて難しくなり、最後に通信は切れる。つまり、デルタV開始から数十分も経てば、船は地球からの新たな指示や命令、質問を受けない「独立」した存在になるということだ。尚、光学観測窓も斥力場で保護できるよう、可視光は透過できる導電体で作られている。
斥力場で覆う、という点から派生する欠点はもう一つ。工場や所有者、乗員の好きな色が何であれ、表面斥力場を励起させた瞬間に塗装は全て吹き飛ぶ。油汚れや泥も吹き飛ぶ。銅ベースの合金製外殻の上に斥力場を発生させる光学的には無色透明の特殊結晶を貼り付けて、一見すると無垢銅の金属光沢でピカピカの宇宙船は、少しの光でも反射してとても目立つ。表面の加工方法で多少のツヤ消しは可能だが、それでも宇宙空間で目立つことに変わりはない。軍用などの特別な目的を持って製造された船ではこの欠点を補うために表面を炭素分の多い特殊な塗料で下塗りしている例もあるらしいが、耐久性と斥力場発生の効率に難があるので、マーリン7では採用していない。
武装はない。防御力としては斥力場がある。通信用レーザーも安全回路をバイパスさせれば一応武器になりうるが、そんな使い方をすれば後で部品交換などが必要になる。あとは、船尾を相手に向けて主斥力場を全開放すれば……というところだろうか。
基本的なところは話せたかな?。足りないところは、附属書の一つに船の仕様書や設計図、材料確認書とか細かな性能試験結果とかがまとめてあるだろうからそちらも参照して貰ったらわかると思う。頁にして何万とかになってるみだいだけど。
次はオレ自身の紹介も入れておこう。
諸々の過程を経て軌道を離脱したマーリン7の船長にして唯一の人間の乗組員がオレ、こと、マコト・ナガキ・ヤムーグだ。そう。ナガキ・ヤムーグの家系なのだが、幾つにも枝分かれした傍系の一つの生まれなので、本家と本家に近い幾つかの家ほどの権勢は全くない。
これまでのマコト・ナガキ・ヤムーグの物語は、大したものではなかった。出身は植民惑星の一つであるオータン10-7。主観年齢で十代より地球で育った。小さい頃に家の中で使われていたのは日本語だったが、家の外では他の言葉も普通に使われていたので、オレの思考ロジックは複数の異なる文法による異なる語順のために、何か独特の構成になっているらしい。
人並みの学歴を積んで大学までは進んだが、実習中に事故があった。原因調査を兼ねた裁判では過失割合が結構な争点とはなったが、結果的には返済不可能に近い借金を抱える羽目になった。社会の一部では大富豪の代名詞にもなっている「ナガキ・ヤムーグ」の家名に対して、相手側弁護士が頑張りすぎたのもあるらしい。「複数の解釈ができる説明書」、憎むべし。そして、幾つもも言語体系の中で暮らしたことで身についてしまったオレの変な思考ロジックも。
事故後の入院中に、左腕の肘から先は義肢に置き換わっていた。
既に幾つかの使えそうな資格も取ってたから大学での勉学をあきらめて働き始めはしたが、負債の返済もあって口座状況は全く好転の兆しを見せず、抜本的な改善を図るべく、可住惑星調査機構が募集していた開拓調査員に応募したんだ。会ってはいないが機構の上層部にはナガキ・ヤムーグの本家筋の人間もいたから、採用選考ではそれも有利になったかもしれない。血筋は、功罪ともにあるものだと思う。
少なくとも、現在の開拓調査員は、ハイリスクな職業でもある。植民惑星を開拓しなければならないほどの人口過多な状況なので、「一攫千金を目指して命を喪うこと」に対して社会は関心を持たない。「自主的に人口を減らしてくれてありがとう」というレベルだ。
調査は、行き先にもよるが、生還できても地球では最低十年以上が経過しているので、家族や知己などと再会できる可能性もそれなりに小くなる。だがその当時、大学での実習中の事故以来は自棄気味になっていた自分には抵抗が少なかった。機構に採用されたら給料は出るし、訓練所に詰め込まれている間は衣食住も支給。内部で幾度かの試験を受け、各種の資格を取ったら調査に必要な資機材も機構から貸与される。食料や途中で使い捨てとなる調査機器類のような消耗品は、貸与ではなく支給の扱いだ。爆発物持込禁止などの保安基準に反しない限り、私物も調査船内に持ち込める。
管制からマーリン7の出発についての記録を受け取った機構は、裁判所に、出発前にオレが書いていた委任状やその他の関連書類を添えて「マコト・ナガキ・ヤムーグの便宜的な法的死亡」を認定するよう申請する。裁判所がそれを認めると、普通の遺産相続手続が行われるのに加えて定年退職までの生涯賃金に相当する金額が「遺族」に支払われる。税金や債権者への返済もこの時清算される。一応、自分の負債残高を埋めるのに必要な金額が動くことになっているのは確認しているから、オレの経済的、精神的なトラウマとなっている事故への負い目も軽減される。
出発前には衣類や衛生用品、機械化された左腕のメンテナンスキット、その他、本当に必要な身の回りの品を大きめの鞄に一個分だけ残し、それ以外の私物は換金または廃棄していた。機構の事務員には口座記録その他の書類も預けてある。あとは、経理や相続に詳しい専門家に任せるだけだ。
見方を変えれば借金のために自身を売却したようなものだが、運が良ければ地球時間で百年後、主観時間では十年か数十年後に新しい人類植民地の総督となっている可能性を考えると、悪くはない。そう思うことにしたい。
保安基準では「推奨しない」とされているのだが、亜光速に向けて加速を開始した今になっても電波通信用のアンテナを格納してない。レーザー受信機は保安基準のとおりに地球管制に向けてるが、時折「回線異常」のランプが点灯する。レーザーでは今見えている管制局の方向に信号を出しても、距離が半光秒もあって加速も続けているから、信号が到達する頃には管制局の位置が変わってしまうからだ。管制からの信号も同様にマーリン7を狙いにくくなっている。とはいえ、これほど短時間にレーザーを使いにくい距離に到達してしまうマーリン7は少数派だが。
今のオレは船内服姿でマーリン7の主操縦室で船長席に座り、色々な数字とグラフを眺めてるところ。船内服は伸縮性のある生地で作られた上下分離式、インターナショナルオレンジのタイトな全身スーツで、体温脈拍その他の各種センサーが縫い込まれている。小物を収容するポケットもあちこちに付いていて、薄着だが、船内は食料庫など何か目的のある区画を除いて空調を常時摂氏二十度に保ってるから、活動に支障はない。
体調といえば、オレが不調を感じていなくても、定期的に血液その他の各種検体は採取され、分析に回されている。これは目的地到着後、現地の大気を呼吸し、現地の食物を摂った後の検査値と比較するためだ。検査自体はオレが睡眠/医療/冬眠タンクで眠っている間に行われるので煩わしさはない。
主操縦室の広さは三メートル四方ほど。標準規格の小型船用操縦室ユニットだ。船長席の他に航法・操舵用と観測・通信用として全部で三席あるが、どの席からでも機能を代行できるよう改造してあるので、乗員がオレ一人でも問題はない、はず。使ってない席は、船長席の機器に不調が出た場合の予備にしようと思ってる。
室内の椅子は高G機動対応型。普通の着席の姿勢から全身を伸ばした耐G姿勢まで変形できる。緊急時には自動的に体幹や頭部などを固定して衝撃に備える機能もある。船内で固定位置にある椅子全てが同じ仕様だ。慣性中和もあるので、変形機能は高G対応よりも休憩などのために使われることがほとんどだが。
マーリン7は乗員定員二十名が三交代で運用することを前提に設計されたもので、同型機はそのように運用されてはいる。しかし、オレが機構に採用される少し前に、同型機で叛乱事件があったらしい。その事件の原因分析とあわせて再発防止のために立案された方策のうち一つが「乗員数を極力少なくする」というものであり、その枠に割り当てられた乗員と試験機がオレとマーリン7だ。おかげでこの船は生きた人間が一人いれば運用できるよう改造されている。食料庫や生命維持系統には余力がたっぷりあり、長期の「独行」に必要以上の余裕を持っている。オレには開示されていないが、「独行」のための乗員候補として、多分オレの性格傾向も機構による採用条件の一つに組み入れていたというのも、推測できるところだ。
壁面は各種の情報を表示するためのモニタで埋められている。操縦室内に外部を直接視認できる窓はない。しかし現在、航法用の重要な数値を見るための幾つかのモニタ以外は船体外壁の光学観測機器群から送られてくる画像を表示していて、閉塞感もなく快適に過ごせる。この光景で普通に過ごせることから見て、オレには広場恐怖の傾向はないようだ。まあ、そんな傾向があったら機構への採用基準で不利になっていたとは思うが。
全長四十メートルのうち船首四分の一は操縦室を含む区画で、機能で見ても長さの配分で見ても「ヘッド・クォータ」と呼べる。続くセカンド・クォータは乗員と乗客の居住区画。ここも一応、乗員と乗客の区画は普通のドアで仕切られている。そしてサードの資機材収納区を経て船尾、フォースの技術・動力区と続く。各クォータの間は船体構造材でもある隔壁で区切られており、エアロック構造、つまり二重構造の扉でつながれている。
慣性中和機は信用してるが、念のためシートベルトも着用中。主機の出力は慣らしも兼ねてまだ一Gに固定。軌道離脱から約一時間で速度は毎秒四十キロメートル。これは積算加速度計の数字。太陽系脱出速度の二倍以上にはなっているが、片道百光年以上の行程だからまだ先は長い。地球圏から漏れてきている電波信号は、徐々に弱まりつつある。加速開始以降、期待もしてなかったが電波、レーザーともにマーリン7への呼びかけは確認できず。そろそろ電波用のアンテナも格納しておくか。船長のオレよりも有能なマーリン7の制禦AIに呼びかける。
「ニムエ、電波通信用のアンテナを収納しよう」
「了解しました。最後に何か発信しておきますか?。」
「いや、今更言いたいこともない。」
「では、アンテナ一から四を順に収納します。」
モニタに外部アンテナの状態一覧が表示され、ニムエのアナウンスとあわせて内容が更新される。
「アンテナ一収納完了、三収納完了、二収納完了……四収納完了しました。引き続きアンテナユニット周辺に規定強度の表面斥力場を展開します。アンテナ一附近完了二附近完了三附近完了四附近完了、表面斥力場形状測定中……アンテナ一附近誤差検出限界値以下二附近誤差許容範囲内三附近誤差検出限界値以下四附近誤差検出限界値以下。アンテナ収容と表面斥力場展開は正常に完了しました。外部との通信方法は可視光による光学通信のみに限定されています。」
物体でも原子でも、斥力場に衝突した物は内部に侵入できずに弾き飛ばされる。例外は人体に無害なレベルの光子だけ。この衝突による運動エネルギーの増減は斥力場発生機に対する負荷の増減として検知される。まだ秒速四十キロメートル過ぎなので大した衝突は発生してないが、アンテナ二近辺が「誤差許容範囲内」だったのはデブリでもあったのだろうか。地表から三〇〇キロメートルの低軌道を出発して、まだ地球近辺、過去数百年の間に様々な宇宙船が通過した領域なのだからデブリもある。出発直後にこなすべき航法関係のチェックリストを埋めたら次の手順は船内総点検なので、推奨手順外を承知で展開していたアンテナ近辺は、検査規定よりも念入りに見ておくことにしよう。
「どこでもいいけどデルタV開始以降でマーリン7に対する呼びかけはある?。」
「加速開始以降、検知していません。」
「加速方向の誤差は?。」
「測定中……誤差は許容範囲内、かつ、最小修正可能量以下です。誤差値の約半分はアンテナを展開していたために生じた船体質量中心のずれによるものと推定されます。」
アンテナを展開していたから、重心が僅かにずれ、小さいが誤差が生じているらしい。機体外縁部だと質量は小さくてもモーメントは大きくなる。まだ星間水素の抵抗を使う空気力学的修正ができるほどの速度は出ておらず、デフレクタの調整で方向を変えようとしても「戻しすぎる」ことになってしまう。出発前の方向決定で使っていた姿勢制御スラスタは、機体全面に斥力場を展開している今は使えない。故に、手は付けない方がいい、というニムエの判断らしい。方向を変えることでちょっと思いついた。
「ニムエ、今から目的地を木星に変更することはできる?。」
「現在設定されている目的地であるヤーラ359星系の周回軌道に入るまで、目的地変更に関する航法プログラムはロックされています。これを変更するには航行を続けることが出来ないと判断できるような重大な故障、目的地であるヤーラ359の消失、または可住惑星調査機構からの承認が必要です。重大な故障とヤーラ消失は検知されていません。また、既に通信回線は接続に支障が出ており、機構への変更申請と回答の受諾前に通信圏から出てしまうと予想されます。」
「了解。そのままヤーラへのコースを維持してくれ。」
乗員が目的地を自由に設定できたら宇宙船を乗り逃げされてしまう。事前に聞かされていた内容を、念のため確認しただけの会話だ。センサーを騙す何らかの改造を行ったら目的地を変更することは不可能ではない、と思う。しかしそんな方法は事故防止のための安全装置の多くも同時に騙すことになり、危険が大きすぎるので手を付ける気にならないし、そもそも、目的地を変えたいと考えているわけでもない。
改めて現在位置その他の情報の表示モニタを見る。デルタV開始以降のXYZ加速度を二回積分した現在位置表示は、地球から〇.四七光秒、月軌道半径にはまだ達していないが、精密な角度調整を必要とするレーザー通信はそろそろ切れそう……。
「地球管制のレーザー通信圏外に出ました。現在の速度は毎秒五五キロメートル。『独立』です。」
マーリン7は、「独立」した。遂に。もう家族や友人と再会することもないだろう。学生時代の事故とそれに引き続くゴタゴタの中で、多くの知人とは疎遠になってしまってる。忌々しい借金と「様式Bに消耗品一覧をまとめて課長決裁を受けて二枚複写して経理と資材担当に一枚ずつ」とも永久にサヨナラ、したものと思いたい。まあそれでも数十年後に生還したなら「様式Bに」とは再会するのだろうけれども。もしかしたら同じ内容で「様式C」に変わっているのかもしれないが。
どうせヤーラまでは行く。そこで何をすることになるかまだわからない。しかし生きるためには、「独立」していようといまいと、チェックリストを埋める作業は欠かせない。管制や地球の諸制度からは独立しても、物理法則には従属している。生きていたいわけでもない。ただ、死にたくないだけ。正確には、死ぬ、という瞬間に訪れるであろう痛みとか苦しみを体験したくないだけ。故に、生存するための手順は欠かさず行う。
まだ太陽系内だが、船内総点検に入る。この作業は数時間前にもやっていたのだが、消耗品状況や加速開始によって壊れたもの、荷物の山の崩れなどがないか、あらためて確認する。慣性中和に異常があれば体で感じるか船自体が圧壊しているはずなので何かが見つかるとは思っていないが、先ほど気になった電波通信用アンテナの確認もこれから行う。
作業は、オレよりやや小柄なアンドロイドにも手伝って貰う。身長は、改造していなければ一五〇センチ。軽量化加工されたアルミ合金製のフレームで人体の骨格を模し、人間と同じような形状となるよう、詰め物と合成皮革の外皮を貼り付けたもので、耐熱耐寒防塵防水仕様、体重は四十キロ。しかし力は成人男性以上に強い。このサイズは標準的な成人男性の体格では入りにくい狭い場所でも運用できるよう設定されたものだ。一応、標準外装の外側に、オレの好みで船外用圧力服のようなデザインの「制服」を着用させている。宇宙船内で違和感がないデザインである上に、合成皮革の外皮だけでは裸の子供が歩いているように見えなくもないからだ。
もしオレがこのアンドロイドと格闘技の試合をやったら、体重差では勝てるものの、絞め技に持ち込まれたりしたら確実に負けるだろう。詰め物と外皮は単に見た目を人間らしくするだけのものなので、外していても支障はない。今は工場出荷時のまま、というだけのことだ。頭部も使用目的や使用者の好みで交換したり外皮を貼り付けたりできるようになっているが、今のところは工場出荷時に取り付けられた状態表示用のパネルがあるだけ。文字情報のほか、人間の表情を模した簡単なピクトグラムが表示されるようになっている。髪も、カツラを取り付けることができるが、まだ何もしていない。機構が作った惑星調査手順では、目的地の惑星に降下した後、必要があればこのアンドロイドを現地人に変装させることを想定しているので、しばらくは手を付けないつもりだ。なお、変装用途では手足を交換して身長も変えられる。
このアンドロイドは通常はニムエと常時同期し、ニムエが操作する。人間型ニムエ、と呼べなくもない。区別の必要がある時は小ニムエと呼んでいる。
数時間後、チェックリストは全項目とも「OK」か「許容値内」で埋まった。環境維持系など一部の項目は、乗員数が設計時の想定よりも少ないので負荷も小さくなるから、点検頻度を落としたり省略することが可能となっている。あまり積み残しをやると後で問題が起きたりするので省略のしすぎはよくないが。
アンテナも目視できるような損傷はなく、試験電波の発信器を作動させると「信号検知」のランプが点灯した。ニムエに呼びかける。
「これで太陽系出発直後にやっておくべきことは全て終わって、巡航速度での運行が安定したことを確認したらオレは冬眠して、ヤーラに向けて減速を始める前までは操縦をニムエに任せるだけ、になったと思うんだけど、何か見落としはない?。」
「承認された計画において現時点までに確認すべき項目は規定のとおり埋まっており、想定外の事象は確認されていません。主機は計画のとおりに出力を上げることができており、今後は定格の二百Gに向け、毎時一Gづつ出力を上げてゆきます。定格運転での安定を確認後、人工冬眠に入っていただく予定です。」
次回は冬眠明けから。
20250504 管制との通信を一部修正




