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秋の歴史企画2022『手紙』3作品

第二次世界大戦前夜にニューヨーク出身の女性がカナダの文通友だちに宛てた手紙とその返信。

親愛なるおともだちへ(ディア マイフレンド)


 この前はお手紙をありがとう。

 あなたに会いにカナダへ行ったことが懐かしく思い出されます。


 また会いましょうと約束したのに、まさか経済危機のために世界中でたくさんの会社が倒産し、その影響で旅行に出られなくなるとは夢にも思いませんでした。

 あれから3年、我が国の政府が国民のために大がかりな政策を打出して、我が国の経済危機は回復したと報じられています。


 しかし、実際はそうではないのです。


 政府の公共工事は増えました。おかげで生活が助かった人々もいます。

 それは幸運な人々なのです。

 いまでも都会といわれる街を歩いていてさえ、大勢の失業者が仕事を求めてうろついているのですから。


 仕事が無くなると世の中の楽しいことなんて一部の人だけの特権としか思えなくなってしまうものですね。

 郵便局で20世紀の記念切手を買うのも一苦労です。


 身近な()(らく)といえば、私も含めてほとんどの人はディズニーのアニメーションを見に行くのがせいいっぱいでしょう。


 それはそうと、あなたはディズニー・プロダクションの最新作を見たかしら。いまや娯楽映画はアニメーションの時代ですね。

 あのすばらしく美しいカラー作品をグリム童話の原作者が見たら、きっと驚いて腰を抜かすだろうと私は思います。


 楽しい音楽を聞いたり新しいアニメーション映画を見ていると、ときどき現実のひどさが信じられない感じがするもの。


 カナダでも1930年頃から干ばつが問題になっていましたね。


 アメリカはいまも黒い嵐が発生します。

 1933年に初めの砂嵐(ダストボウル)がノースダコタ州で発生して以来、アメリカ中部の大平原地帯では断続的に砂嵐が起こり、元は畑だった土地の表土が吹き飛ばされて、すっかり砂漠になってしまったそうです。


 テキサス、アーカンソー、オクラホマ州も被害が出ていて、その原因は、大平原だった土地を(かい)(こん)して表土を押さえていた草を()いで土をむき出しにしたせいですって。

 そこへ同じ作物ばかりを何度も続けて植えたので土壌の養分がすっかり無くなり、雑草すらも生えなくなったそうです。


 水が無くなった土地では人間は生きていけません。


 350万もの人々が干からびた農地を捨て、開拓時代さながらにカリフォルニア州へ移り住んだそうです。

 政府が土壌保護局を作ったことはご存じかしら。これからの農業は、政府が自然環境のバランスを回復させる指導をしながら行われるのですって。


 少しずつ世の中は良くなっていると思いたいけれど、私は、去年の新聞に掲載されたいたましい話が忘れられません。


 それは、父親が病気で働けなくなった家族の話でした。子どもは6人。母親と18才の娘は働きたくても仕事が見つからないのです。その中の13才の男の子が自ら命を絶ちました。理由は、自分の分の食事を欲しいというのを申しわけなく思ったからです。


 これは大恐慌時代といわれた5年前の話ではなく、昨年末のニュースなのです。


 政府が次々に打ち出す政策は上手くいっていない、という噂を肯定する証明のようなものですね。

 静かなる不況、とでもいえばいいのかしら。


 たとえば大陸横断列車のサービスは、むかしに比べればずいぶん悪くなってきたとか。


 以前は長い移動の合間にフルコースの食事ができました。温かいスープに始まり、焼きたてのステーキからデザートまで給仕係が運んできてくれた素敵な食堂車はすっかり様変わりしています。

 食堂車で提供されるのは、工場で大量に作られた調理済み食品です。何種類かの軽食が車内で温められて販売されます。購入した客がそれを自分の席まで持って行って食べる形式なのです。


 私も一度乗ってみたけれど、飲み物とお皿を乗せたトレイは重くて、走っている車内では歩きにくいから運ぶのがたいへんでした。


 そうそう、地上とは逆に、航空会社の機内食はどんどん進歩しているそうです。

 宣伝映画で見たのですが、これまで出される機内食はコールドチキンと冷たい飲み物だけだったのが、最新の保温庫にいれた温かい紅茶やコーヒーが提供されるようになったそうです。軽食はメニューも増え、温かい料理(ホットディッシュ)に進化しました。


 私もできれば航空機を利用したいけれど、運賃が高くてそうそう乗れません。


 生活するのがやっとでは、とうぶん旅行は行けそうにありません。

 どうか早くもとのように豊かで安定した世の中に戻りますようにと祈るばかりです。


1938年 1月

 ニューヨーク州ブルックリンにて


PS:新聞記事の出典は、1937年11月のニューヨーク・タイムズ紙です。

 ローズヴェルト大統領のニューディール政策はうまくいかなかったと市民は思っています。

 1933年にはじまった世界大恐慌の本当の終わりは、いつになることでしょうね。




……という手紙を、カナダの文通友だち(ペンパル)に送ったのが1年以上前だ。

 私が欧州(ヨーロツパ)へ留学するなんて、考えもしていなかった頃である。


 いま郵便配達人が持ってきたこの封筒は、そのカナダのペンパルからの手紙。


 私は封筒の口を、ペーパーナイフでていねいに切り開けた。

 中身は折りたたんだ便(びん)(せん)が2枚。取り出して広げた。





カナダの女性からの返信


親愛なるアメリカのお友だちへ


 お返事が遅くなってごめんなさい。

 去年からこちらでもいろいろとたいへんだったの。

 1931年にカナダは大英帝国から独立したけれど、こんどはアメリカの影響下に入ったようなものだから、大恐慌のあおりはとにかくひどかったわ。


 私が救済キャンプで炊き出しのボランティアをしていた話は二年前の手紙から書いていたでしょ。

 それがようやく解放されそうなの。


 でも物価の上昇はあいかわらずよ。

 これは世界中の現象でしょうね。


 新しいアニメーション映画は見たわ。とても面白かった。お姫様もかわいいけれど、私は黒いネズミの主人公が好きです。だってすごくユニークだもの。


 今日は昼からずっとラジオのニュースを聞いていました。というより、9月1日のあの放送から、ラジオ放送が気になってリビングから離れられなくて。


 ヒトラーがポーランドへ侵攻したニュースは衝撃でした。


 この戦争はとても馬鹿馬鹿しいと思います。だって、戦争をしたいヒトラーさえ戦争をやめる気になれば、英国もフランスも戦争をする必要はないのですもの。


 そうそう、各国の大西洋横断船がすべて国へ呼び戻され、政府に徴用されたというニュースには驚いたわ。

 一部の客船は残っているみたいだけど、いずれは戦争に使われるんでしょうね。


 あなたは大西洋横断船で行ったのでしょう。急だったけど留学できて本当に幸運だったわね。

 ドイツからはすてきなおみやげをたくさん送ってくれてありがとう。


 ベルリンに親戚がいるなんて(うらや)ましいわ。わたしもヨーロッパ旅行にいきたいけれど、このぶんだといつになることやら。


 私たちは戦争を知らない世代だと思っていたのに、残念です。


 アメリカは中立だから戦争は関係ないわね。でもさっきのラジオ放送で、キング首相がドイツに宣戦布告したと発表がありました。私の夫は医師だから前線には行かないと思うけど、従軍するのがいまから心配だわ。


 早く平和になって、またあなたと会える日が来ますように。そのときは私の自慢のパウンドケーキをごちそうするわね。


1939年9月10日

 いつか20世紀特急に乗ってみたい

        あなたのカナダの友より


PS:いただいたおみやげの中で、押し花のしおりがいちばんのお気に入りになりました。エーデルワイスはとてもきれいな花ね。

 そうそう、ワシントンの住所へ転送した小包はぜんぶ無事に届いたかしら。会社の上司への気遣いも大変ね。

 それではまた……。





「ありがとう、助かったわ」

 私は便せんに向かって微笑した。


 このカナダに住む友人は、長い付き合いの文通相手だ。まだ学校へ通っていた少女の頃、少女雑誌の文通相手募集欄で知り合った。


 私と同年代の彼女は、いまではカナダの平均的な中産階級の主婦をやっている。

 大恐慌のおりにはさすがに家計が打撃を受けたらしいが、父親が元々それなりの資産家だったので彼女は私立の学校を卒業したし、結婚相手は優秀な医師だったので、経済的な()(たん)(まぬが)れたらしい。


 彼女自身は、こちらの調査ではごく一般的な民間人である。それは、6年前に彼女に直接会ったときから知っていることだ。


 ゆえに、あえて詳しいことは知らせず、単なる文通友だちとして協力をしてもらうことに決めた。


 彼女にお願いしたのは、昨年私が留学中に、ドイツから彼女宛に送った小包の中身の一部を、ワシントンにある貿易会社の私書箱へ転送してもらうことだった。


 国際郵便はけっこう高くつく。


 もちろん事前に贈り物として換金しやすい高額な記念切手の束や、十分なお礼の気持ちを含めた金額の現金書留をカナダのエージェントを通じてこっそり渡してあった。

 夫が医師とはいえ、彼女自身は専業主婦だから、いい小遣い稼ぎになっただろう。


 私が送った小包の中身の大半は、なんてことないドイツのおみやげものだ。

 木製のクルミ割り人形などの工芸品、風景画写真のポストカード、陶製のマグカップにビールジョッキ……。


 くるみ割り人形やぬいぐるみの手足や胴体は空洞で、他にも小物を隠せそうな工芸品には巧みな隠し場所が仕込まれていた。


 彼女にはそれらを受け取ったあとで、贈り物は受け取ってもらい、私が暗号で指定した『ある物』だけをワシントンの住所へ転送してもらった。


 クリスマスに送った特大の小包には、伝統的なドイツ製のクリスマスオーナメントなど、特別なものをたっぷり詰め込んだ。

 これらは外国人観光客が気前よく購入してよく海外へ発送するものだったから、私も遠慮無く大きな箱にした。

 そこに、特に念入りに隠されていた真の『みやげ』の正体とは……。


 私が苦労してドイツ国内で撮った何百枚もの写真。

 そのネガフィルムだ。


 私が渡航した肩書きは音楽学校の留学生。バイオリンならともかく、一般人がなかなか買えない高価なカメラや大量のフィルムをまとめてドイツから持ち出そうとしたら、必ずドイツ国境の検閲で怪しまれたろう。


 はじめは私の住む町の知人か、郵便局の私書箱宛てに送ろうかとも考えたが、表向きの住所はニューヨークだ。本当の住居があるワシントンD.C.を宛先にするのはもっとまずい。


 ニューヨークの郵便局で私書箱を借りることも考えたが、留学期間中に置きっぱなしにするのも不安だ。


 なにより家族宛てでなく、自分の私書箱宛てに(ひん)(ぱん)に郵便物を送るのはいちばん怪しまれそう。

 家族以外で、留学報告の手紙を送っても疑われない相手は……。


 そこで思い付いたのが隣国カナダのペンパルというわけだ。


 カナダは1931年に独立国となったとはいえ英連邦国家。彼女自身は政府関係者とは無縁の一市民である。

 彼女宛の手紙をゲシュタポに読まれたとしても、アメリカ人の若い女性が同年代のカナダの女友だちへ楽しい留学生活のあれこれをお喋りしているだけ。ナチスに逆らうような政治思想や立ち入り禁止区域のレポートを匂わせる記述などありはしない。


 そんな徹底的に善良で無害な第三者である彼女が、私にとってもっとも貴重な品物だけを抜き取ってさらに小さく梱包し直し、アメリカのワシントン某所へ発送したって、気に留める人など誰もいない。


 彼女はそれが何なのかさえ知らないのだ。


 万が一、隠し場所からネガフィルムを取り出して見たとしても、望遠で撮られた陰鬱な風景写真にしか見えなかっただろう。


 そのネガフィルムこそ、祖国アメリカにとってなによりも貴重な『みやげ』だったのである。




 私の生家は彼女と似たような中産階級だった。

 大恐慌で破産寸前に追い詰められるまでは。

 ペンパルの彼女は私のことを、ニューヨークの貿易会社の社長秘書だと思っていることだろう。

 幼い頃からバイオリンを習い、貿易会社に勤めてからはときどき旅行にもいく、時代の最先端をいく働く女性だと。 


 彼女に転送してもらった小包は、ワシントンにある貿易会社の私書箱にちゃんと届いた。


 そこに小包が届くと郵便局から貿易会社のオフィスへ連絡が行き、職員が来て郵便物を回収する。

 小包は連邦捜査局(FBI)に届けられ、いまごろは詳細な分析が進んでいることだろう。




 1933年にはじまった大恐慌の名残はまだまだ世界中にこびりついている。


 仕事にありつけず、生活が苦しい人々はアメリカにも存在するのだ。

 私の生活はマシな方だ。

 祖父から教わったドイツ語のおかげで、普通の会社に勤めるよりも高給な仕事にスカウトされた。

 子どもの頃からバイオリンを習っていたスキルを利用し、昨年は数ヶ月だったけどウィーンの音楽学校へ留学もした。


 ついでにオーストリアとドイツを旅行してきた。


 1938年3月、ヒトラーはウィーンの都へ侵攻した。オーストリアを(へい)(ごう)したヒトラーが戦争を準備していることは明白だった。


 音楽の都と名高きウィーン、かの伝統ある街並みにはナチスドイツの鉤十字旗(ハーケンクロイツ)が飾られ、褐色のシャツが闊歩していた。

 街では、オーストリアのためにこれで良かったのだと喜ぶ人々と、侵略だと(いきどお)る人々の二派に分裂していた。

 その憤りもあえて表明されることは無かったが。


 私は留学生としてあちこち観光するふりをしながら、一見おだやかそうに見えるナチスドイツの支配圏をじっくり観察してきた。


 私の母はフランス系だが父はドイツ系だ。祖父が1800年代にアメリカへ移民してきたドイツ人で、母よりも父に似た私自身の見た目は非常にドイツ人ぽい。ドイツ語も祖父に習ったおかげでネイティブに喋れる。だからオーストリアを旅行中も、英語を喋らない限りはドイツ人で通せた。


 ドイツに住む親戚とはクリスマスカードのやりとりをする程度の付き合いであったが、今回の留学ではその親戚一家がおおいに協力してくれた。


 滞在させてくれた一家は一応、ナチス党員であった。


 アメリカにもファシズムに傾倒する人々は存在するが、ドイツでは1933年にヒトラーが政権を取って以後、多くの市民がナチス党員になっている。

 ただし、その全員がヒトラーとナチズムに心酔しているわけでは、けっしてない。


 ナチス・ドイツの勢力圏で暮らすには、うわべだけでもナチスを賛美しないと危険なのである。

 親戚の話では、ユダヤ人はほとんどゲットーに隔離されたが、ときどきユダヤ人ではない市民が夜のうちに家族ごと消えるケースもあるという。


 それがヒトラーの秘密国家警察(ゲハイムシユタツツポリツァイ)・通称『ゲシュタポ』のしわざなのは暗黙の了解となっていた。

 真夜中に隣家で何かが起こっても、警察や消防へ電話しても、助けは来ない。


 うかつに()()もつぶやけないと親戚は話していた。


 もしも何かの拍子に――たとえば誰かが見ているところでうっかりナチス式敬礼をしなかったとか、ついナチスに対する不平不満に聞こえるような愚痴をぼやいてしまったとか――それが実際はナチスとは関係ない個人的なことであっても、危険なのだ。


 あのヒトラー・ユーゲント、町中を狂気じみた熱心さでパトロールする若い少年たちに見聞きされでもしたら。彼らの口からゲシュタポの耳に入りでもしたら――うっかり愚痴をこぼした当人のみならず、その家族もろともがその夜のうちに体制に反抗する『政治犯』として収容所へ連行される。


 そうしたら、更生したとみなされるまで釈放はない。


 そのようなことは、ヒトラーが政権を取った翌年の1934年頃からすでにおこなわれていたという。


 さいわいにして私の親戚一家はファシズムが危険だと理解できる頭の良い人たちだったので、表ではナチス党員に迎合するふりをしながら、裏ではこっそり反ナチ活動組織に入っていたのである。

 それは年に何度かの手紙のやりとりで知っていたので、下宿させてほしいとお願いしたのだ。


 私の又従兄弟にあたる青年などは若い仲間とエーデルワイス海賊団と称し、町中でヒトラー・ユーゲントをからかい、パトロールの邪魔をしていると自慢していた。

 そんなことをして逮捕されないのかというと、ときどきドジを踏んで逮捕されることはあるんだそうだ。


 ただ、厳しく注意はされるが、たいがいは釈放される。なぜなら彼らの外見はナチスドイツが奨励する立派なゲルマン民族の若者であり、大切な若い労働力だからである。


 ユダヤ人だと逮捕されたら二度ともどってこられないどころか、その場でリンチがはじまっても助けてもらえないというのに。


 他の国からは見えないだけで、ナチスドイツに支配された場所では恐ろしいことが起きている。


 親戚一家には、私の本当の正体は隠していたが、立派なカメラを見てただの観光客ではなく、ジャーナリズムの仕事に関わっていると思ってくれたのだろう。ドイツの現状をアメリカへ持ち帰って伝えてくれるのならと、できる限りの協力を約束してくれた。


 私は浮かれたアメリカ人観光客を装い、親戚や又従兄弟とその仲間達の案内で、観光客なら行けないような場所へもあちこち出歩いた。

 ドイツが自慢する観光名所を訪れ、ときには道に迷ったふりをして外国人には見られたくないだろう街道から少し外れた場所まで、たくさんの写真を撮影した。


 やりすぎてゲシュタポに目を付けられては困るので、用心はした。


 アメリカ大使館やその関係者には近づかなかった。あちらからも接触は無かった。アメリカ大使館にいる大使館員の免責特権を使えば機密事項の国外持ち出しは簡単だが、残念ながら今回は協力を望めない。


 1938年代のアメリカではまだドイツを敵視しておらず、海外での諜報活動の体制はそれほど整っていなかったため、私たちは自力でさまざまな工夫をしなければならなかった。


 そうして私がすべての観光を終えたドイツ出国の日、私が手荷物として旅客船へ持ちこもうとしていたカメラとフィルムはやはり税関で怪しまれた。


 だが、全部のネガに目を通したところで、陽気なアメリカ人観光客がドイツ自慢の明るい観光名所で笑顔で写っているばかり。

 その三倍以上あった暗い真実の風景を撮影したネガフィルムは、私よりもうんと早くアメリカへ渡った後だ。


 こうして私はドイツの国境を越え、無事に祖国アメリカへ帰還したのである。




 私は手紙を丁寧にたたみ直し、分類されたレターケースへ片付けた。


 中断していた作業にもどる。

 いそいでドイツ国内で見聞きしたさまざまな出来事を、詳細な報告書に作成しなければならない。

 FBIのフーバー長官へ提出する期限は明日までだ。


 私は飲みかけのマグカップへ新しいコーヒーを注ぎ入れた。                                   〈了〉


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― 新着の感想 ―
[良い点] 秋の公式企画から拝読させていただきました。 先の大戦が本格化する前夜の状況。 一人の女性のモノローグでそれを見事に浮き彫りにしています。 大変読み応えがありました。 読ませていただきありが…
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