誰も知らない黒猫の話
過去に書いた小説のリメイクです。動物に対してやや攻撃的な表現がありますので、ご注意ください。
まだ薄暗く、霧がかかった朝。
手袋をしても、かじかむ程に冷えている。
コツコツと流行りのステッキを鳴らしながら、男は街を一人歩いていた。
こんな時間だから人気はなく、ステッキの音が余計に響く。
噴水広場にあるベンチに足を組んで座り、男は新聞を広げて読み始めた。
手袋をしていては読みづらいので脱ぐが、その分寒さが直に伝わる。
今は朝6時。いつもの時間。
新聞紙をめくる音だけが響く。
にゃおん。
猫の鳴き声が響く。
一匹の黒猫が男の目の前に座り込む。
「……毎日毎日、懲りない奴だ」
男は一瞥し、新聞を読み続ける。
にゃ、にゃ。
黒猫は鳴き続ける。
「こんな朝早くから……。他にする事はないのか。俺は新聞を読むのに忙しいっていつも言ってるじゃないか」
冷えすぎて痛くなってきた手で新聞紙をめくる。
「お前に構ってる暇はないんだ。文句があるならお前も何か言ってみろ」
にゃ、にゃあ。ああ。
様子がおかしいと感じた男は新聞を畳み、妙な鳴き方をし始める黒猫を見た。
どこか苦しそうに声を出そうとしている。
今は6時半。
仕事の支度で住民がぽつぽつと街に出てきた。
「……時間だ。もう帰る」
静かに呟き、男はその場を去った。
にゃおん。
その鳴き声は、もう響かない。
男の後姿を黒猫はただ見つめていた。
翌朝、男は新聞を持っていつもの噴水広場に向かっていた。
自慢のステッキをコツコツ鳴らしながら。
ベンチに座り、男は足元を見つめた。
昨日の事を思い出す。
苦しそうにしていた黒猫の姿が目に焼き付いている。
はあ。
大きくついた溜息が、白く広がる。
今は朝5時50分。
何で早く来てしまったのか。
「ど、うして」
聞き慣れない声と発音が響く。
どこから聞こえてきた?
響いていて分からない。
辺りを見回すと、あの黒猫がこちらに向かって歩いていた。
「今のは、お前か」
まさか。猫が喋るだなんて。
「ど、うして、ここに、いる、の」
足元まで近寄ってきた黒猫を見て、男は目を見開いた。
「お前、どうしたんだ。いつもより酷いぞ」
黒猫は何か物をぶつけられたような傷が出来ており、血が流れた跡がある。
足もおぼつかない様子で、フラフラとしている。
「ど、うして、ここに、いる、の」
まるで問い詰めるかのように歩み寄る。
男には、そう感じた。
「やめろ。俺を見るな」
「ど、うして、ここに、いる、の」
「やめろ。俺に聞くな」
「ど、うして、ここに、いる、の」
やめろ。俺の心を抉るな。
男は立ち上がり、黒猫に背を向けて帰ろうとした。
今は朝6時。
「し、しん、ぶん。よ、んで」
にゃおん、と黒猫は続けて鳴いた。
「しん、ぶん」
「うるさい。文句言うな」
男は我に返った。
文句言えと言ったのは自分だ。
こんな状況でも、それを否定するのは如何なものか。
「……何で喋られるのかは知らないが、文句が言えるなら仕方ないな」
男はベンチに腰掛け、手袋を脱いで新聞を広げた。
「これで満足か」
にゃあ、と黒猫は鳴いた。
黒猫の最初の質問には答えなかった。
黒猫も、あの質問をまた聞く事はなかった。
ただ静かに、男の足元に座り、男が広げた新聞を反対側から読んでいた。
今は6時半。
「帰るか」
男は新聞を畳み、ステッキを握った。
「ど、うして、ここに、いる、の」
あの質問を黒猫は再び口にする。
ステッキを握る手が痛い。寒いからだろうか。
「俺は……」
「旦那!その黒猫追い払ってください!」
街に出てきた住民達が遠くから声を掛けてくる。
「そいつ住みつきやがって。黒猫なんて不吉だ」
「昨日あんなに痛めつけてやったのに。まだ居たなんて」
「ど、うして、ここに、いる、の」
黒猫は繰り返し同じ質問を投げかける。
「もう、来ない」
男はベンチから離れた。
「何やってんだよ旦那。そのステッキで追いやってくださいよ」
「悪い。黒猫なんて触りたくもないからな。そのままにしてしまった」
「まあ、仕方ないか。旦那は貴族様だから。こんな街中に住んでて珍しいから忘れそうになるけど」
黒猫の方を振り向けなかった。
こんな事言っておいて。
もう来れるはずもない。
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男は貴族出身だった。
富があり身分も高いというのは豊かな暮らしだが、それは自他共に見て分かる範囲での事。
心は満足しなかった。
だから親の反対を押し切って、街に住む事にした。
自分で働いて稼いで、使用人も雇わず、自活する事にした。
しかし自分の稼ぎだけではやっていけなかった。
親は資金を送ってくれるので、それに頼っていた。
受け取らないと決めていたのに。
結局、自分は気持ちだけで行動に出来ない奴だと思い知った。
一人になりたかった。
家でも一人だが、籠っていると余計悪いことばかり考えてしまう。
外に出よう。
誰もいない、朝早くに外に出よう。
でも、ぼーっとしているところを万一見られたら、様子がおかしいと思われてしまう。
新聞でも持っていくか。
朝6時。
あの噴水広場で、あの黒猫に出会った。
いつもの自分なら「縁起の悪い。あっちに行け」と追い払っていただろう。
でも、いつもの自分でなかった。
だから放っておくことにした。
コイツも一人なんだろうな、と。
黒猫は何もしてこなかった。
ただ、傍にいた。
ただ、向かい合わせに座って、新聞を読んでいる姿を見つめていた。
翌朝も噴水広場に行くと、黒猫がいた。
同じように、新聞を読む自分を見ていた。
何も邪魔せず、ただじっと。
数日経つと、自分の気持ちも落ち着いてきた。
自分を見つめ直して、また仕事を頑張って自活する。
親の仕送りには頼らない。
だから、もう早朝に一人にならなくても問題ない。
だから、あの黒猫にも会わなくていい。
新聞も、暖炉がある家でゆっくり読めばいい。
早朝、男はステッキを鳴らしながら歩いていた。
雪もちらつく季節のなか。
いつもの噴水広場のベンチで新聞を広げる。
いつもの黒猫が近づいてくる。
今は朝6時。
「懲りないな」
男は初めて黒猫に話しかけた。
にゃおん。
黒猫は初めて男に鳴いた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あれから、どのくらい経っただろうか。
家に帰りついた男は、黒猫と出会った日の事を思い返していた。
よく考えれば、黒猫も向かい合わせになって新聞を読んでいたのではないか。
自分が黒猫に時々話しかけていたし、そういったところから言葉を覚えたのではないか。
「ど、うして、ここに、いる、の」
あの言葉が男を突き刺す。
不吉と呼ばれている黒猫が居ると分かっていて、どうして居るのか。
そういう意味だろうか。
黒猫は何もしてないのに。
住民に傷つけられているのに。
それを見て見ぬふりをする癖に。
どうして居るのか。
そうとしか聞こえなかった。
なんだ。
結局、自分は気持ちだけで行動に出来ない奴だと思い知った。
翌朝、男はステッキを鳴らしながら噴水広場に向かった。
体が震える。
今日は余計に寒く感じる。
いつものベンチに座り、新聞を広げた。
今は朝5時30分。
何故こんなに早く来てしまったのか。
黒猫が来るはずもない。
「ど、うして、ここに、いる、の」
あの言葉が小さく響いて聞こえた。
幻じゃない。本当に聞こえた。
黒猫の姿が見えない。
「どこだ、どこにいる」
男は周囲を見回した。
「言いたいことがあるんだ。姿を見せてくれ」
「あし、もと」
ベンチの下を覗くと、弱々しくなっている黒猫がいた。
こんなところにいたのに。
気づけなかった。
男は黒猫を抱きかかえた。
「お前、こんなに弱って。こんなに冷たくなって。いつから此処に」
「はやく、くる、とおもった。まえも、はやかった、から」
黒猫は振り絞るような声で尋ねた。
「ど、うして、ここに、いる、の」
その目は、弱々しくもまっすぐ見つめていた。
「お前にここに居てほしいからだ」
黒猫を抱きしめ、男は繰り返した。
「すまない。こんな情けない奴で、すまない……」
黒猫を家に連れ帰り、男は傷の手当てをした。
「素人で悪いが、何もしないよりかはマシだろう」
にゃおん、と黒猫は鳴いた。
「ありがとう、だ。それだけ喋られるのに、何で言えないんだよ」
暖炉の近くに食べ物を用意し、男は手招きした。
「こっちに来なさい。暖かいから、ここで食べなさい」
黒猫は甘えるように鳴き、男のもとに駆け寄った。
そんな日も数日しか続かなかった。
男が黒猫を匿っていることはすぐに知れ渡った。
なにせ早朝に出歩くことがなくなったし、黒猫の姿も外で見えなくなったからだ。
「旦那!黒猫をこの街に入れないでくださいよ」
「みんな不幸になるわよ。周りの事も考えて!」
男の家に住民が押し掛けるようになった。
男は黒猫に対する迷信だと説明したが、それを払拭することは出来なかった。
それだけ根強いものだった。
黒猫が何か悪いことをしたのか?
コイツは努力して人の言葉を覚えたのに。
こんなに精一杯生きているのに。
言っても聞かないなら、相手にしない方がよい。
かといって、このままこの街では生活出来ないだろう。
「出て行くしかない、か。一からやり直しだ」
そう呟き、男は決意した。
その晩、男が眠っていると黒猫がベッドに潜り込んできた。
「うん?どうした、眠れないのか」
「あり、がとう」
「すごいな、勉強したのか。よくやったな……」
黒猫を撫でながら、男はまどろみ、再び眠りについた。
「あり、がとう」
にゃおん、と黒猫は鳴きながら泣いた。
翌朝、黒猫が居なくなった。
どこを探しても居ない。
窓が少し開いていたので、外に出たに違いない。
まだ怪我も治ってないし、体調も万全じゃないっていうのに。
男は慌てて外を探しに行った。
いつもの噴水広場に向かった。
もしかしたら、ここにいるのかもしれない。
辺りを見回すも、見当たらない。
もしや。
男はベンチの下を覗きこんだ。
黒猫は、居た。
冷たくなって、居た。
「おい、こんなところで寝たら風邪ひくぞ」
黒猫は何も言わない。
「家に帰ろう」
黒猫は何も答えない。
「朝ご飯、まだ食べてないだろ。一緒に食べよう」
黒猫は鳴かない。
男は黒猫を抱きかかえた。
弱ってない。ただ、冷たいだけ。
「どうして」
どうして、ここにいるの。
早朝、男はいつもの噴水広場に向かった。
馴染みのステッキをコツコツ鳴らしながら。
ベンチに座り、新聞を広げて読み始める。
今は朝6時。
「旦那さま。おはようございます」
声をする方を見ると、少女が立っていた。
「おはよう。こんな時間に何をしているのかな」
「暖かくなって日も明るくなってきたから、お父さんが『今日から仕事を早く取り掛かる』って。その手伝いです。旦那さまこそ、何をしているんですか」
「そうだな。俺は懲りないから、こうしているんだよ」
「何かあったんですか?」
「君は聞いてない、か。大人たちが不吉だと騒いでいただけだからな。一つお話を聞かせてあげよう」
誰も知らない黒猫の話を。