15、ミトロピアの犬
「アキト?」
声を掛けられて我に返る。
いつの間にか思案に耽ってしまっていたようで、心配そうな青色の瞳がこちらを見ていた。
「何でもありません。とても似合っていますよ、姉上」
「ありがとう」
華奢な体を純白のドレスが包む。派手すぎず、それでいて所狭しと緻密な刺繍が装飾が施されたドレスは文句無しで美しい。そして、それに身を包む姉も。
今日は結婚式の最終確認で、衣装に不備がないかと当日の装飾品や髪型を決めるために集まっていた。赤色の長い髪は複雑に結われ、髪留めの真珠が良い散りばめられている。
「けれど、アキト。無理はしていない? 毎日忙しいのでしょう?」
「それを言うならリツ殿だって同じですし、姉上の晴れ姿ですよ? 何よりも優先するに決まっているじゃないですか」
「もう」
心配をからかいで返され、姉のアカネが頬を膨らませた。
昔から可愛い人だったが、今では可愛らしさを残しつつ美しく成長した。現に夫になるリツは見惚れていて、こちらの会話が聞こえているかすら怪しい。
「リツ様もそろそろお召しかえを」
「ああ」
女性のほうが支度に手間がかかるからと、花婿の衣装合わせを後回しにしていた。二人が並んでいるのを見て、装飾の数や種類、色を決定するそうだ。そこはもうメイドとアカネに任せているので口を挟む気はない。
「姉さん」
リツが出ていったことで二人きりになった室内で、鏡を見る姉に声を掛けた。
鏡越しに僕を見たアカネは、申し訳なさそうな、今にも泣きそうな顔をしていた。
「ごめんなさい」
泣くのを我慢しているのだろう、震えた小さな声。深い悔恨を滲ませるアカネに、もう何度も繰り返した言葉を口にする。
「謝る必要なんてどこにもない」
「でも、」
「姉さんは、アカネは幸せになっていいんだよ」
分かっていた。僕がどれほど言葉を尽くしても、届かないと。
リツに求婚された時、アカネは断った。自分に幸せになる資格はない、リツにはもっと良い相手がいるはずだ。そう言って首を横に振り続けた。リツと二人がかりで説得し、ようやく受け入れたものの、不意にどうしようもない感情が押し寄せる。
「……」
伏せられた瞳は、もう僕を見ていない。苦悶の表情で俯いている。
今も瞼の裏に張り付いている業火に心を焼かれ、見えない血を流し続けている。それを知っているのに、誰よりその痛みがわかるのに。わかるからこそ救うことができないもどかしさ。
「アカネ」
「ごめんなさい、アキト。私は、」
「分かってる」
震える肩を抱き寄せる。もうすぐ、この役目も僕ではなくなる。
元々頭の出来は良いと言われていた僕は、災禍後あらゆることを学び神童と呼ばれた。出来ないことなんてないのだろうと、何も知らないお気楽貴族に揶揄されたこともある。その度に歯痒かった。
どんなに勉強が出来ても、魔力が高くても、外面が良くても。欲しいものに手が届かないのなら、何の意味もない。
「失礼致します。お茶が入りました」
「入れ」
重い沈黙を破るノックに許可を出すと、メイドがワゴンを押しながら入ってくる。
メイドからアカネを隠すように立ち、感情が落ち着くのを待つ。次第に部屋を満たし始める香りに、アカネの表情が和らいだ。
「ほら、朝から準備して疲れただろう。少し休もう」
アカネをソファまでエスコートし、ドレスを汚さないよう膝に布を掛ける。
菓子を添えて出されたカップに口をつけ、一口飲む。また一口と飲んでいくのにつれて、アカネの肩から力が抜けていく。さすが、彼女特製の茶は効果抜群だ。
”フィー”とリツ達に名乗っていた彼女。
本来の名はフィーでも、フィーラでもない。もちろんアカズ・キンなんて名前でもない。
リツには彼女が持ってくるのはアカネへの滋養薬だと言ったが、本当は少し違う。彼女が持ってくる小袋の中に入っているのは、アカネが今飲んでいる茶の葉と、僕用の薬だ。
幼い頃から体が弱かったアカネは、災禍後、心を病んで神経衰弱を患った。食事も喉を通らず、寝ているのか起きているのかあやふやな状態が続いていた時、彼女からこのお茶を受け取った。精神を安定させる作用があるらしく、アカネは次第に落ち着きを取り戻していった。
とある事情で僕が薬を欠かせなかったことも知っていた彼女には世話になりっぱなしだ。それなのに、彼女は礼を受け取るどころか、会うことすら拒絶する。礼の代わりに他人行儀でいろ、と言いかねない。
「……」
彼女は一体何を考えているのだろう。
災禍後、彼女が国で一番治安が悪いと言われているディソナンテにいると知って会いに行った。短い髪、額に残る傷跡、僕を見て丸く見開かれた緑色の瞳。
体が弱かったアカネは部屋にいることが多く、外遊びは必然的に彼女とが多かった。一つ年上の彼女はお転婆で、木に登るのを真似ると貴方はそんな事をしてはならないとメイドに怒られた。草や土まみれになりながら、花を見つけてはお土産にと持ち帰る彼女とアカネが笑い合う姿を見るのが好きだった。
レイエンダの森にしか咲いていないカデナの花。穢れのない場所にしか咲かないことから、アルマドゥラ国では結婚の時にカデナの花を模した造花を互いに贈り合う。
もちろんアカネもリツと結婚する時に造花を贈り合うことになっている。今からその瞬間を想像し、胸が締め付けられる。アカネはその瞬間、確実に彼女を思い出す。死んだと、殺してしまったと思っている彼女を。
『二度と来ないで』
災禍後会いに行った彼女の瞳は、アカネと笑い合っていた時の明るい光ではなく、暗く強かな光を宿していた。
取り付く島もなく拒絶する彼女は、それでも連れ帰ろうとする僕にこう言った。
『ここでやることがある。あなたにもやるべきことがあるはずよ』
だから、それぞれやるべきことを、それに見合う場所で。
彼女は僕よりもずっと現実を見ていた。結局反論できずに追い返された。
僕がやるべきことは分かる。
アカネを支え、レイエンダ家の当主となるべく邁進することだ。
ならば彼女のやるべきこととは一体何か。
思いつくものは幾つかあるものの全て決定打に欠け、同時にどれを実行しようにも相当な無茶がつきまとう。それこそ命を落とす程の。
「……」
日を追うごとに嫌な予感が強くなっていく。こういう勘ほどあたるのだから嫌になる。
「待たせたね」
「リツ様」
着替え終えたリツが戻り、アカネが立ち上がった。表情の曇りは晴れていた。二人で鏡の前に並び、メイドに囲まれながら最終調整を始めた。
姉馬鹿だと言われようが、アカネをその辺の馬の骨に渡すつもりはなかった。まさかアカネを心の底から愛し、家柄も性格も申し分ない相手が現れるなんて。
「幸せ、か」
リツはアカネの顔を曇らせることはしないだろう。だが、もう一人は。
飲み終えたカップを置くと、立ち上がる。
「リツ殿。ハルセ殿はどちらに?」
ピルルルと独特な鳥の鳴き声が遠く聞こえる。
僕は似合いの二人を横目に、娘を嫁に出す父親の心境に思いを馳せながら部屋を後にした。
* * *
「もう帰るのか?」
何故こんなところにいるのか。
アキトのバルコニーから飛び降り、屋敷から退出しようとしていたところを、待ち構えていたハルセに捕まった。リツと連れ立って行ったので、もう大丈夫だろうと油断していた。
「なあ、名前はなんていうんだ?」
「……フィーです」
何度目かの自己紹介を溜息混じりでする。
こうして間近に見ると、ハルセはリツと同じくらい背が高い。山吹色の髪は意外と長く、リボンで一つに束ねて背に下げていた。今までもボロを着ていたわけではないが、今日は一段とかしこまった服を着せられている。
ここでジャケットのボタンが全て外されていなければ良かったのにと、残念な生き物をじとりと見上げる。
「うーん……?」
何故か納得の行かない表情で私をじっと見つめて首をひねる。ハルセが本当にマントとフードで見えなかったはずの私と、今の私が同一人物に見えているのなら、男の格好に疑問を持つのは分かる。しかし、どうもハルセは服装ではなく私の名前が気になるようで。
「用がないなら帰ります」
「あるある、めちゃくちゃある! えーと、あ! そう、さっきの話!」
「さっきのとは?」
「アカネ嬢に黙っててほしいんだろ?」
「……はぁ」
何が言いたいのかさっぱりわからない。いや、わかりたくない。
私の行く手を阻むハルセの目はきらきらと輝き、隠しきれない期待で動きが妙に成っている。続く言葉が想像出来すぎて辛い。
「手合わせしてくれるんだったら黙ってやってもいいぞ!」
予想を裏切らない台詞に、本当にこんな単純な男がミトロピア次期当主の護衛なのだろうかと疑いたくなる。ハルセから聞いていたら確実に信じなかった。
「ミトロピア様から口止めされませんでしたか」
「された!」
「なら、こちらから再度頼む必要はありませんよね」
「えっ!」
「雇用主からの箝口令ですから、当然守りますよね」
「あ、う」
「守らないと解雇されるかもしれませんよ」
「それは困る!」
「黙っててくれるんですね、ありがとうございます。では」
ようやくおバカの頭にも届いたようなので、さっさと横を通り抜ける。その腕をひっしと掴まれ、今度こそぎろりと睨みつけた。
「いい加減にしてください。そもそも、何故ここにいるんです。仮にも護衛だと言うのなら、手合わせしたいなんてほざいてないで、仕事に専念すべきではないですか。さっきも勝手に主から離れて怒られていたのを、もう忘れたわけではありませんよね? 犬猫や幼児だって叱られたら多少は学びます。まさか、ミトロピア家次期当主様の護衛のおつむが、彼らより弱いなんてこと、ありませんよね?」
「弱くないっ!」
ちくちくと、馬鹿にも伝わるように一語一語をハッキリ口にする。
言葉尻に食って掛かったハルセの手を思い切り振りほどく。ショックを受けた表情のハルセを正面から見据える。
「だったら、今すべきことはなんですか?」
「……リツのところにかえる」
「よく出来ました。さようなら」
私を引き止めることではないはずだと言外に圧を込めると、叱られた犬のようにしおらしくなった。存在しない耳と尻尾がぺちょんと潰れるのが見えるようで、本当に犬のようだなと、つい帰れと屋敷を指差した。
すごすごと言われた通り屋敷に歩いていくハルセの背を見送り、再び帰路につく。そんな私の背に、負け犬の遠吠えが聞こえた。
「次こそ手合わせしようなー!」
次なんてない。
ハルセにも、リツにも、アキトにも。もう会うことなんてないのだから。