そのカフェにコーヒーゼリーは置いてない。
いつものカフェでコーヒーを飲みながら、あなたを待つ。
熱さに戸惑って、冷えることに怯えながら、一口ひとくちを愛しく思う。
コーヒーが冷める早さに驚く。
誰かと話していても、一人で読書をしていても、気がつけば、カップは冷たくなっていて、苦味だけが残るそれをしょうがなく口へ運ぶ。
どんなに丁寧にカップを温めて、熱湯を注いで、とそんな手順を踏んだところであとは冷えていくだけ。
私にできることはもう、淹れたての熱を少し見逃して、心地よい温度を見計らって、その僅かな時間を堪能すること。
熱すぎても冷たすぎても受け入れることのできないわがままを一緒に飲み込んで、
願わくば、苦味の前に味わい尽くしたい。
あなたのその想いも、私のこの想いも、冷める日に怯えながら、今日の体温を愛しく思う。
「猫舌の君に、僕の想いは熱すぎるから。君は僕の、冷ます労力を知らないだけ。」
今日は金曜日。
明日の休みの喜びを肴に街中 が色めきだっている。
でも結局休み自体はあっという間にすぎていくから、一番楽しいのは金曜日の夜。
私の金曜日の夜は決まってる。
仕事が終わるとその足で電車へ向かう。都会の喧騒から少し離れたそこは、電車とバスを乗り継いでここから30分ほどの距離にある。
静かな鈴の音が鳴る。その一歩でやっと深呼吸ができた気がした。
「いらっしゃいませ。いつものお席空いていますよ。」
「ありがとうございます。ブレンドコーヒー、お願いします。」
「すぐにお持ちいたしますね。」
いつもの場所。
二階席。
木目の美しい深いブラウンの少し急な階段をあがると、左手に大きな窓と向かい合わせのソファ。
窓からはほのかな明かりで照らされた木々が風に揺れているのが見える。
きっと外の庭は丁寧に手入れされていて、日中はお花もみえるのかもしれないけれど、私は夜にしかここに来たことがない。
金曜日の夜に、カフェインたっぷりのコーヒーを飲みに来るために。
ソファに座り、文庫本をカバンの中から取り出したところでちょうどコーヒーが運ばれてきた。薄暗い照明のなか、ソファ横の読書灯が湯気を映し出していた。
湯気を眺めて、恐る恐る、カップを包むように触る。
こうして冷えた手を温めて、香りを楽しみながら、飲むことができる温度まで待つ。
私はこの時間がとても好きだ。
無駄に力が入ってしまって、空回りしてしまう自分を重ねて、隙のあるあの人みたいな、心地よさを待つ。その瞬間を。
カップに口をつけ始めた頃、静寂の中、鈴の音が聞こえた。
どんどん近づくその靴音ですこし身体がこわばる。
光が遮られて、視界の端で静かに黒のカバンが置かれる。
気にもとめていない、そう自分に言い聞かせて、本の文字を追う。
「ハル。」
どうして。どうしてこの声に抗えないんだろう。
どうして、この声にとても安心して、同時に喉の奥が強張ってしまうんだろう。
ダブルボタンのキャメルのコートをカバンの隣に丸めておいて、向かい側のソファ席に座ったその人は外の香りを纏ってまるで、私がここにいるか不確かだったみたいに、少しほっとした優しい声で私の名を呼ぶ。
一度だってここで会えなかったことなんてないのに。
「お待たせいたしました。」
下で先に頼んで来たのか、彼のコーヒーが運ばれて来た。マンデリンの苦いコーヒー。
「うん、美味しい。」
「それ、冷めてないのに苦い。」
「このぐらいが調度いいんだ。」
「冷めたらもっと苦くなるよ。」
「そう?僕は冷めると少し、甘さが引き立つ気がするけど。」
「ない、それはない。」
断定的に言う私に、彼はフッと笑って、
「だから急いで飲まなくていいんだ。その時々で違った味を楽しめばそれでいいし、なんなら冷めたってそれはそれで好きなことには変わりないんだ。」
まるで私の心のなかを読んだみたいに。
どんなに自分を偽ったって、この感情の名をもう知ってしまっている。
私はいつも怯えている。いつか来るその日を。
冷めて、苦いだけの、そのうち、美味しかった記憶が薄れて、誰にも飲まれなくなる。
「ああ、そうだ。冷めてしまったらもういっそ、デザートにしちゃおうよ、コーヒーゼリー。」
まるで最高のことを思いついたみたいな笑顔で彼はそう言った。
「そしたら、熱にうかされて、湯気になって逃げていってしまう分もぜんぶ固めて、風味だって何一つ逃さない。上からとろとろの甘いクリームをかけて、美味しく食べようよ。
あ、どうしたの?
ハル、顔赤いよ?」
「確信犯のくせに。変態。」
冷えたら、甘いお菓子にしよう。
彼はくつくつ笑って、
「ねえ、ハル。明日はコーヒーゼリー作ろうよ。」
短すぎ、稚拙すぎ。
この二人、短編で書き進めようと思います。
こんな駄文を読んでくださったみなさまに心からの感謝を。