西丸下三番小隊 第2部
(第1部より続く)
元治元年十月‐西の丸屯所
弥助たちが呼び戻されたのには、訳があった。西丸下屯所に戻って数日後、竹橋の武器蔵から何個もの櫃が、調練場に運ばれてきた。荷車が、小隊ごとに整列した歩兵の前に止る。
「あの櫃を二つ取ってこい。小銃が二十挺入ってるから、気を付けろよ」数馬が命じた。新入りの兵が行く。ひとつで八十キロほどになる計算だが、歩兵達は黙々と運んだ。現代の日本人ならたちまち音を上げる重量である。幕末の農民は、現代人よりはるかに小柄ながら約六十キロの米俵を運び慣れていたので、この程度の作業はなんでもない。
箱を開けて、数馬が小銃を取り出す。
「皆も知っての通り、エンピールだ。今日より我らの制式銃となる。ゲベールと交換するゆえ、一列に並べ」
おお、と兵たちはどよめいた。寅吉のミネー銃を見て羨ましく思っていたものは多い。俺たちも貰えるのか、とざわつく。
「ご公儀は、いよいよ長州征伐の方針を固めた。我ら一番から五番小隊まではその先鋒を賜るため、エンピールを拝領した。厳しく調練するから付いて参れ」
そう訓示した数馬は、大隊の調練に加えて、その日より三番小隊に特別メニューを課した。ランニングである。銃を担いで隊伍を組み、桜田門から出て内堀を廻り、半蔵門に入ると半里ほどになる。先頭に立つのは、もちろん数馬だ。士官は小銃を持たなくて良いのだが、数馬は特別に願い出て支給を受けていた。それに加え、リボルバーや大小も差している。負担は歩兵より重いので、誰も文句を言えなくなってしまった。年長の兵にも配慮して、最初は走りと徒歩を交互に、次第に走る距離を伸ばしていった。
雨の日も例外ではない。銃が濡れるので、帰ったら当然手入れをしなければならない。「疲れているだろうが、実戦ではこういう習慣が生死を分ける。銃が清潔でないと、不安で寝付けないくらいになるのだ」と数馬は言った。すでに実戦を経験している歩兵達は、納得せざるを得なかった。
内堀沿いを走る三番小隊は、「茶袋走り」と呼ばれ、大名行列見物の旅行者の新たな名物となった。
この頃、天狗党は京へ向かって苦難の旅を続けていた。田沼率いる幕府軍は、二日の距離をおいて行軍していた。戦う意思が見えないのだから、追撃とは呼べまい。そのくせ、途中の関所の役人を、賊徒を阻止しなかった罪で処刑したりしている。この田沼と言う男、かなり嫌な奴である。
その年の暮れ、長州征伐の方は、長州藩が禁門の変の責任者である三家老を切腹させて恭順の意を示したため、和睦が成立した。幕府側の総督であった前尾張藩主徳川慶勝は、こうして人命も戦費も節約したのだが、江戸の幕閣は不満だった。長州藩を解体する積りだったからである。が、無理を言って慶勝に総督を引き受けて貰った手前、とりあえず和睦に同意せざるを得なかった。
このとき幕府側の参謀として和睦を推進したのは、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)である。彼は、長州征伐に動員されたものの、軍費の負担にあえぐ諸藩の疲弊ぶりを見て、「敵を分裂させて戦わずに勝つ」と言う孫子古来の兵法を実行したに過ぎない。下手に攻めれば、分裂ぎみになっている長州藩を再結束させるかも知れず、ゲリラ戦にでも持ち込まれ長期化すれば幕府の威信にもかかわってくる。現に天狗党はそうなっているではないか。
これ以上幕府の権威が落ちれば、将軍をを中心として西洋の植民地主義と対決するのも難しくなる。西郷としては最善の策を実行した積りであったろう。
が、空気の読めない江戸の幕閣は、そうは考えなかった。
「あら、『茶袋走り』はあんた達だったの」お志乃は口に手を当てて笑った。「おかしい」
「おかしくはない。天狗党との戦争では、逃げ遅れた者が戦死した」弥助が憮然として言った。「だから、走れるように修練してる」
「そうなの、ごめん」
元治元年の暮れ、弥助たちはまだ江戸に留まったままだったので、お志乃と藤岡屋宅で会っていた
「その天狗党だけど、どうなったの」
「中仙道を京に向かっていたが、道を変えて、越前の方へ回ったらしい。一橋様が総督となって討伐するそうだ」
つい先刻、藤岡屋から仕入れた情報だった。
「まあ、水戸のお身内同士で戦争になるのかねえ」
「お身内だからこそ、甘い顔はできない。一橋様は、江戸詰のご老中連から、朝廷と結託して国事を勝手に動かしていると疑われているからな」
今や重要事項は幕府の独断では決定できず、朝廷の勅許を得なければ進まなかった。諸大名が納得しなくなったのだ。京都で勅許のために奔走しているのが、一橋権中納言慶喜、会津の松平左権中将容保、桑名の松平左権中将定敬で、一会桑などと呼ばれている。この状況を江戸から見ていると、京都の一会桑だけで政治を動かしている様に見え、幕閣との間で齟齬が目立つようになってきていた。
「ところでお志乃ちゃん」同行していた伊兵衛が部屋へ入って来た。ふたりの話がどうでもいい方向に行っているのを、隣室で聞きつけたのだ。「伊織様は、最近お見えになってるのかい」
お志乃は下を向いた。弥助も口をつぐんだ。
「ここんとこ、お会いしてないわ。騎兵の調練だとかで、お忙しいみたい」
伊織の属する書院番は将軍の供回りである。最近西洋風の装備になり、戎服を着て騎兵銃の射撃訓練をしているところを弥助たちも見掛けている。
「公方様が、大坂へご進発するという話もあったから、きっとお忙しいのだろう」と弥助は言ったが、なぜ慰めるようなことを言ったのか、自分でも判らなかった。
伊兵衛も呆れ顔で話を転換した。
「お志乃ちゃんも、もうすぐ二十五だ。そろそろ見切りを着けちゃどうだい」
お志乃はしばらく黙っていたが、
「そうねえ」
と伏し目がちに言った。
「どうだい、この俺と上総で暮らすってえのは」
お志乃はフフッと小さく笑った。
「ありがと。でもあんた達の年季が明けるのは、三年後じゃないの」
「ちげえねえや。二十八まで待たせらんねえか」
お志乃はまたしばらく黙っていたが、
「上総でも、多摩でもいいんだけど」
と、ぽそりと言った。
帰り道、
「弥助よ、あの言い方は、俺にも脈があるって事かな」
「え?」
「そう驚くない、俺の方に脈はねえから安心しろ。おまえ、その気があんなら、あと三年間お志乃ちゃんをしっかり掴まえておくんだぞ」
そう言われても、何をしておけば良いのか、弥助には判らなかった。
その頃、長州では高杉新作らが決起していた。翌年の二月まで続く内戦の結果、高杉ら主戦派が勝つことになる。
その二月、本庄宗秀、阿部正外の二老中が歩兵四大隊を率いて上京した。朝廷を威圧すると共に、勝手に動いているように見える慶喜を江戸に連れ戻すのが目的だった。が、江戸から情報を得ていた慶喜が先に朝廷に手を回した。参内した二老中は、関白二条斉敬から何しに来たと一括され、すくみ上がってしまった。慶喜を連れ戻すどころではない。朝廷との威光が逆転した幕府の立場を、思い知らされただけだった。
三月、駒場野で将軍家茂臨席のもと、大調練が行われた。歩兵組は、隊伍を組んでの大隊運動を披露した。
終了後、家茂は参加した全部隊を親しく閲兵した。弥助たちが小隊ごとに整列している前を、騎馬の家茂がゆっくりと歩いて来る。
細い顔だな、と弥助は思った。百姓は玄米をはじめ、粟、稗などのかたい雑穀をよく食べる。だから、顎が発達して四角い顔になる。
が、この時代の大名は幼少の頃から特別に調理された柔らかいものばかり食べていたので、顎が細く、面長の顔になる。今に残る家茂の肖像画をみると、現代人よりも面長に見える。甘党だったので虫歯にも悩んでいた。
だが、その華奢で繊細な顔には、暖かい眼差しが光っていた。
こんな方だったのか、と弥助は思った。和宮様も救われたな、と。半ば人質のように関東に輿入れしたうら若い皇女を、気の毒に思う者は江戸市民にも少なくなかった。が、こんな優しい眼差しを持つ夫がいれば、どんな苦難にも耐えられるであろう。
驚いたことに、家茂は弥助たちの前で馬を止めた。
「三番小隊はここか」
若々しく伸びやかな声が、朴訥な兵賦たちをほんわりと包んだ。
「御意にございまする」
突然のことに、先頭の数馬も動揺しながら答えた。家茂は笑みを浮かべると、三番小隊の全員の顔を見渡し、また数馬に視線を戻した。魅力的な笑顔だった。
「そなたが士官であるか。なるほど」
家茂は、また馬を進めた。弥助の耳に、なるほど、なるほど、と呟く公方様の声が聞こえた。
なぜ感心しているのか判ったのは、それから間もなくの事である。
四月七日、慶応に改元された。その日、弥助は三番小隊を代表して、西丸下屯所歩兵頭並の城織部を訪ねた。
「近々、数馬様が祝言を挙げられると聞及びまして」
「うむ、わしも呼ばれておるが、知らなんだか」
「数馬様は、ご自分のことはあまり話されませぬ」
「そち達が知らぬのはいかんの。お相手の井関家は、御小納戸組頭や御広敷用人を代々勤める立派な御家柄だ。一昔前なら、数馬の五百石の家格では、たとえ本人同士が望んでも婚儀など叶わなかった。が、そち達の『茶袋走り』が御当主の目に留っての、誰だか調べたらしい。娘御も、先頭に立つ数馬の凛々しい士官ぶりを見て、ぞっこんだったそうだ」
旗本の縁組は、当然将軍の許可を得る。家茂は、中奥に勤める花嫁の父から、直接数馬の噂を聞いたのであろう。
「それならば、この儀もお願いしやすくなります」
弥助が話すと、城は声をあげて笑い、格別の配慮を持って許す、と言った。
弥助は、屯所に戻ってから、三番小隊の仲間と何事かを決めた。
五日後、抜けるような初夏の青空の下で、佐藤数馬と井関定子の婚儀が執り行われた。五百石の佐藤家の屋敷には、入りきらないくらいの招待客であった。
三々九度を取交し、酒肴の席になってしばらくたった時である。城織部が立ち上った。
「ところで各々方、数馬殿は西丸下三番小隊の指図役を務めておりますが、その歩兵どもが婚儀を祝いたいと参っておりまする」
「まことでございますか」数馬が頭を掻いた。「そのような仕儀に相成りますと恥ずかしいゆえ、皆にはあとで話そうと思っておったのですが」
「歩兵がここに来ておるのですか」井関家の当主夫人が眉をひそめた。歩兵については悪い噂しか聞かない。
「数馬殿の隊は、躾が行き届いておりまする」城は席を立ち、庭へ出た。
「三番小隊、出でよ」
家の横手で、「前へ進め」と号令がかかると、旗を先頭に、二列縦隊で歩調を合わせて正面の庭へ行進してきた。先頭に立つ弥助と、旗を持つ平太は小銃を持っていない。
十人並んだところで、十一人目の清八は後ろへ回り、四列横隊がたちどころに出来上がった。
「休め」
弥助の号令で歩兵達は小銃をおろす。「号令をかけているのは、当家の兵賦でござるよ」と、末席の平次郎が自慢そうに言うのが聞こえた。平次郎は今、横浜駐留の英軍から伝習を受けるため、神奈川奉行所に長期出張している。
「その旗の図柄は、日本惣船印ではないか」井関家の当主が訊いた。一同の中には初めて見る者もいて、怪訝な顔をしている。
「左様、幕府の定めた、日本国の印でございますよ」城が答えた。
開国の折、国籍マークを制定する必要に迫られた幕府は、日の丸をそれと定めた。以来、幕府軍の旗印にもなった。
「うむ、そして源氏の旗印でもある」
井関家の当主が頷いた。このデザインが選ばれたのは、その様な理由もあったろう。
それを聞いた花嫁が、初めて口をきいた。
「あなたはご存じでしたの」
「いや、知りませんでした」あなたと言われて、顔を赤らめた。
「城様のお気遣い、ありがたく頂戴します」
庭では、弥助が城から大刀を受取っていた。武士が百姓に自分の刀を貸し与えるなど、滅多に有る事ではない。
弥助は、その刀を腰に差し、号令を掛けた。
「小隊、担え銃!」
歩兵達が直立する。
「佐藤数馬様と奥様に・・・」
弥助が刀を抜いて、正面で立てた。
「ささげーっ、銃!!」
ガチャ、ガチャ、ガチャと三拍子で歩兵達は、揃いの動作をとった。
ほー、みごとだ、と出席者は口々につぶやいた。
「なるほど、歩兵の魂である鉄砲を、今、捧げてくれたのですね」花嫁は察しが良いようだ。
「百姓は物覚えが悪いなどと聞いていたが、士官に人を得ればこの通りだ」井関家の当主も、思わぬ形で婿自慢が出来て、ご満悦だった。「和宮様や天璋院様にも、さっそく言上申上げよう。上様の大坂ご新発に一番強硬に反対されておるのでな。公辺の陸軍も良く調練されておりますると、これならば言える」
降伏したはずの長州藩だったが、高杉らが実権を握ってからは、幕府の命じた藩主親子の出頭も聞かず、防備を固めていた。このまま無視されるようでは、幕府の権威は地に落ちる。再び戦争の気配が漂ってきていた。
「直れ」の号令を掛けながら、弥助は思っていた。今、ここに集っている人々の運命は、たぶんその戦争にかかっている、と。
実際にこの頃長州藩は、戦闘員にエンピール銃を年賦で購入するように命じている。そして、防御掛兼兵学校用掛に任ぜられた大村益次郎の指導により、散兵戦術の訓練が始まっていた。
慶応元年五月十六日-大坂進発
この日、将軍家茂は数万の軍勢を率い、江戸城を出発した。数万、と曖昧なのは、洋式部隊はさすがに数字が残っているが、老中や若年寄の手勢は人数が記録に残っていないのである。戦国時代に比べても杜撰な管理であった。
こんなところからも前途多難さが伺われるのであるが、弥助たちは第一日目から事件に出くわした。川崎宿の当たりで、エンピールを並木に立掛け小休止を取っていた時のことである。
「数馬様、昨夜、奥様とはさぞお名残りを惜しんだでしょうな」などと、年長の甚平らが冷やかしていた。
「それがな、地球がなぜ丸いかを説明させられた」
「それはまた、艶っぽくないお話で」
「何でも、井関の祖母様だか曾祖母様だかの日記が出てきたそうでな。『蘭学者は地球が丸いなどと見てきたように言うが、そんな事は地球の外に出て眺めてみなければ判らないではないか』と書いてあったそうだ」
無学な歩兵達は、ぽかんとしていた。かろうじてこの大地が丸いとは聞いた事は有っても、「地球の外に出る」、などという発想には付いて行けない。
「地球の外に出ずとも、幾つかの証拠があるのだが、それを説明させられた」
その時である。列の後方から奇声を発して駆けて来る者が有った。中間の服装をし、脇差を抜いている。同じ家中の者であろう、ふたりの武士が、「平助、落ち着け」と言いながら追いかけている。平助は、三番小隊の当たりで息切れし、立止った。ふたりの武士が追いつくと、脇差を振回す。どうも剣術の心得は無い様だ。
「いやだ。長州まで連れて行かれるのは、いやだ」
「いまさら何を言う、そちは給金の前借りまでしているではないか」
「おっ母の薬代に借りたが、帰って来るまでに死んじまう。長州まで行くのはいやだ」
「その時は、格別に宿下がりを許す。船便があれば、大坂から三日で江戸に戻れるではないか」
「おらの従兄弟が天狗党との戦争に出て、鉄砲傷でひどく苦しんで死んだ。おらぁ、あんなのいやだ」
おそらく、今回の進発に合わせ、人数合わせのため口入屋から送込まれた者であろう。充分な覚悟ができる前に、出発の日を迎えてしまったのだ。銃創から敗血症を併発すると、ひどく苦しむのは弥助たちも知っている。抗生剤のない時代では、まず助からなかった。それをよく知っている歩兵組から、この様な発狂者が出ていない事の方が不思議だった。
武士たちは、とにかく落ち着け、と声を掛けるが、平助は脇差を振回すばかりで耳を貸さない。
その様子を見た三番小隊の歩兵達は、立掛けてあった自分の小銃に走り寄って行った。が、平助の方が一歩早かった。
「あ、おらの銃に何する」定吉が叫んだ。西丸下屯所でエンピールを支給されているのは、いまだに五番小隊までである。貴重品なのだ。
平助は、引金をむちゃくちゃに引く。もちろん装填はしていない。
「弾を、弾を寄こせ!」
周りを三番小隊が囲んだ。数馬が、武士たちに言った。
「少々怪我をさせるかもしれませんが、宜しいか」
「止むを得ませんな」
「よし、皆、手槍の要領だ」
伊兵衛が、進み出て小銃を突き出した。平助は後ずさりする。すばやく後ろに回った三人が、平助の腰や背中を銃身で付いた。
「あ痛た」平助は、銃を放り出して倒れた。何人かがのしかかって、取押えた。
「面目次第もござらん」
武士は平身低頭し、平助を引立ていった。
定吉の銃を改めたが、問題無さそうだった。それにしても、初日からこれでは先が思いやられるのだった。
細かなトラブルを巻き起こしながら、大坂に向かっていった。例えば、六月十五日、彦根城を通過したときには、さる旗本の用人が、長州のスパイ容疑で拘束された。
もっとあきれたこともある。この時代になると、直参旗本は質実剛健な三河武士の気概を忘れ、口が肥えてしまっている。旅籠で規定以上の料理を出させ、「入魂じゃ」と言って追加料金を払わない。江戸時代の悪習で、入魂にしてやるから金品を寄こせと言うのだ。朝廷から東照宮に向かう日光例幣使のそれは悪名高いが、一般の武士でもやった。これに捕まると、庶民は逃れられず、必ず金をせびりとられたという。
やはり、明治維新は来るべくして来たのである。
良く知られているように、大坂の幕府軍はそれから一年、大坂に滞留して動かなかった。武威を示せば長州藩は譲歩すると思って、交渉していたのである。
従って、一般の幕臣はあまりすることがない。出張手当も出て懐具合も良いため、規律は弛緩した。武具方の御家人の中には、細工物の内職をする者までいた。だから連日のように町で飲食し、風俗店も大はやりであった。江戸から出張してくる店まである始末だった。
それでもさすがに陸軍は調練があり、歩兵隊も時折ブリキ太鼓に合わせて行進し、射撃訓練など行っている。数十人が一斉に発砲すると、大変な騒音だったと当時の観察者は記録している。
もちろん、われらが三番小隊は茶袋走りの日課を欠かさず、数馬を先頭に大坂の町を走った。
読み書きの堪能な弥助は、ランニングを免除され、使いに出される事があった。食料確保や調練場所の打合せのためである。そんな時、町の飛脚屋へ寄り、藤岡屋やお志乃への手紙を出すことができた。当時、江戸―大坂間には町飛脚の定期便があり、混載便であったためかなり手頃な料金で利用することができたのである。
藤岡屋への情報提供料は、そのまま藤岡屋へ預けていたが、この頃には二十両ほどにもなっていた。
「三番小隊はおるか!」
十月のある日、弥助たちの宿泊する寺へ、立派な身なりの武士が上がりこんできた。
「これはご老中、かような所へ、如何されました」
城織部が慌てて転がり出る。
「公方様が突然、江戸に帰ると御出立されてしまった。わずかな供回りの者しかおらぬゆえ、三番小隊を借りたい」
「それは構いませぬが・・・これ、数馬を呼べ」
寺の隅々まで聞こえるような大声で廊下を歩いてくる。数馬も直ちに駆けつけた。
「そこもとが三番小隊の隊長か。今すぐ出立してもらいたい。三番小隊はどこにおる」
「は、ちょうどこの部屋でございますが・・・」
数馬は、脇の障子を指し示した。
「何、そうか」
ご老中は、委細かまわず障子を開けた。すると、小隊の全員が四列に整列していた。
「恐れながら申し上げます」先頭の清八が、この時とばかりにご老中に口を利いた。「西丸下三番小隊、いつでも仕度はできております」
ご老中は、顔をほころばせた。
「うむ、わしは外国事務総裁の小笠原壱岐守じゃ。公方様の警固に、お前たちを借りるぞ」
小笠原と供回りの唐津藩士三人は騎馬であったが、数馬以下の歩兵は徒歩である。だから、健脚と噂の三番小隊を選んだのだという。本当は旗本で編成した洋式騎兵を連れて来たかったのだが、急場に間に合わなかったらしい。
供回りと数馬の会話で、弥助たちにもおおよそ成行きが判った。
この時、大坂湾には英仏蘭の連合艦隊が押掛けて来ていて、兵庫開港を要求していた。が、京都に近い兵庫に夷人が住み着くという話に、朝廷はアレルギー反応を起こし認めなかった。
色々やり取りがあったのだが、朝廷と連合艦隊の板挟みになった将軍家茂は、ついに征夷大将軍の辞表を朝廷に送り付け、帰国のため大坂城から出発してしまった。
この不祥事とも言っていい事態に、小笠原は家茂を連れ戻しに行くのであった。
「外国は、江戸の幕府を日本国政府として認めている。だがこんな事では、朝廷と直に談判すると言いかねない」
「もう言い出しておると聞いたぞ」
唐津藩士のそんな会話から、小笠原の危機感が伺われた。
六時間ばかり歩き、日が暮れた頃、街道沿いの旅籠で握り飯の小休止をしていると、先行していた唐津藩士が報告に戻ってきた。家茂は、京都の手前、伏見の船宿に入っていると言う。
さっそく旅籠を出発し、夜半には目指す船宿に着いた。玄関に数人の武士が屯している。あれは一橋様のご家中だ、と唐津藩士の一人が言った。聞けば慶喜も京都から馬で駆けつけ、家茂を説得中だという。小笠原もその席に加わる。
歩兵たちは、十人ずつ歩哨に立つこととし、交代で休むことになった。
弥助は最初の歩哨を志願し、伊兵衛と共に船着場の警戒に当たった。
二階の一室には明かりが付いている。
「おい、あの声は小笠原様じゃねぇか」伊兵衛が言った。
「だからここを選んだんだ」弥助が答える。
「おいおい、盗み聞きかよ」
「公方様やご老中がどれほどのものか、知りたいじゃないか」
「けっ、聞いちゃならねえ事を聞きそうだから、俺はあっちへ行ってるぜ」
議論はますます白熱しているようである。
「だから将軍職を一橋殿にお譲りすると申しているではないか」、と言う甲高い声には聞き覚えがある。駒場野で会った将軍家茂であろう。
「左様、将軍職に就き何事もご自分でご決済なされば迅速に事が進み、主上へのお覚えも目出度いでござろう」、と皮肉たっぷりに言うのは、小笠原でもない第四の人物。主上とは天皇のことだ。
「向山殿、それは違う」、と理路整然と反駁しているのが慶喜であろう。世評の通り、頭はいいらしい。後で知ったのだが、第四の人物は外国奉行の向山黄村であった。
話は、将軍が大坂に来る必要がそもそもあったのか、という点へ進んでいった。
「長州再征は必要でござる」と慶喜。「大和行幸を口実に恐れ多くも主上を拉致し賜わんと謀り、それが叶わぬと禁裏へ向け兵を進めた長州を、主上はいまだ許しておりませぬ。長州の者が再び禁裏を闊歩するなどと言う事態には、主上は恐怖すら覚えておいででございます。長州との和議はあり得ません」
「ほほう、すると長州再征は、徳川家の御為、外様の毛利家を潰すのではござらぬのか」と向山の声。
「もちろんそれが第一です、しかし・・・」と慶喜。
弥助にもだんだん判ってきた。幕府が何か行おうとしても、朝廷の印鑑を貰わなければ物事が進まなくなっている事を。その孝明天皇にいい顔をしたいばかりに、長州再征が後に引けなくなっている事も。
議論は堂々巡りを続け、結論に至らないうちに歩哨の交代の時間が来てしまった。
弥助が翌朝起きると、家茂は説得を受け入れ大坂城に戻ると告げられた。この様な騒動を起こしておきながら、家茂自身は何ら収穫なく、ただ戻るのだという。弥助は、駕篭に乗込む家茂の線の細い顔を見ながら、この方に乱世の将軍は荷が重すぎるのではないかと思った。
家茂の行列の前後を三番小隊が挟んで、護衛する。将軍駕篭の周りを固めている武士は、あきれた事に誰も銃を持っていない。小笠原が無理に歩兵を連れてきたのも肯ける。
慶喜は騎馬で京都へ戻って行った。こちらの供回りは、和装ながら騎兵銃を担いでいた。
幕府は、長州藩主親子の出頭を命じていたが、何かと理由をつけて回答を引き延ばしていた。いたずらに時だけが過ぎてゆく。諸藩が兵糧米を備蓄したので、米の値段が上がり、庶民も大迷惑であった。このままでは、幕府の面目は丸つぶれだ。もはや武力行使しかない。翌慶應三年の一月、弥助たち西の丸屯所の二大隊も船で広島へ移動することになった。
暑い船室を避け、弥助は甲板に出たが、今度は寒かった。波の少ない瀬戸内の海を、蒸気船は滑るように進んでゆく。マストには、船印の日の丸がはためいていた。
「今日は、茶袋走りはせんのか」
振向くと、城織部がいた。
「甲板を四十人で走り回ったら、下の者に迷惑でございましょう」
「ははは、左様だな」
城は、弥助と並んで甲板の手すりにもたれ掛かった。
「やはり、いくさになるのでしょうか」
「おそらくな。時が経てば経つほど、長州に有利になる」
「長州一国で、御公儀といくさをする積りでしょうか」
「それが、長州一国とばかりは言えんのだ。当初、薩州の船で萩のあたりへ上陸する考えであったが、薩州は兵を出さんと断ってきた」
「なんと」第一次長州征伐では、薩摩藩は主力の一画であったのに。「西郷様がまとめた和議を、御公儀が反故にしたのを根に持っているのでしょうか」
「そんな軽い理由ではなさそうだぞ。長州は最近大量のミネー銃を買ったらしい。長州に銃を売るのは御禁制だが、薩州が表に立ったので、長崎のグラバー商会が売ったようだ」
「それは、御公儀に弓引くことではございませぬか。薩州は何を考えているのございましょう」まだこの時期、倒幕、などという事が可能だとは、多くの日本人が考えていなかった。それをプロジェクトに載せた西郷、大久保の方が異常と言っていい。
「それに、浅野安芸守様も兵を出さぬと言ってきた。長州再征の大義名分が立たぬからだそうだ」
忠臣蔵でも良く名前の出る浅野本家は、今向かっている広島藩の藩主であり、この戦いの主要な策源地でもある。さらに広島藩には千六百人余りの洋式銃隊があり、幕府はこれを先鋒に攻込む計画であったが、それが拒否されてしまったと、城は言った。
「お陰で目算がすっかり狂ってしまった。陸軍奉行の竹中丹後守様は、二番手に予定されていた井伊様や榊原様の御人数を先鋒にするお考えらしいが、どうなる事やら」
「井伊様は武門のお家柄でございましょう」
「そうは言うが、井伊家の調練を見てあきれ申したわ。戦国の世そのままの赤備えの騎馬隊でな。それは勇壮だが、肝心の銃を持っているのは鉄砲足軽ばかりだ。戦国の頃ですら、武田の赤備えが信長公の鉄砲隊に敗れたのを御存じないらしい」
戦国末期には小銃兵が三分の一を占めるほどになり、鉄砲が戦闘の中心だった。「入り鉄砲に出女」と言う言葉が、その認識を象徴している。
「なるほど。しかも、今度の相手はミネー銃でございますな」
「左様。われら公辺の陸軍や、紀州様の洋式銃隊を先鋒にすべきだと思うが、丹後守様そうはお考えにならないらしい」
ここで城は、ぐるりと背後を見渡し、人気のないのを確かめた。
「お前には教えておこう。陸軍でも竹中丹後守様あたりになると、今まで兵を実地に指揮する機会が無かった。そのせいか、ゲベールとミネー銃の区別も付いていない様だ。もちろん頭では判っているつもりだが、戦争の実地で肌で感じてはいない。洋式兵学とて、どれだけ判っているか」
「ではなぜ、丹後守様が陸軍奉行に?」
「知るか!戦国の名軍師竹中半兵衛の御血筋だからだろうよ」城は吐き捨てるように言った。「このいくさ、厳しい事になると思う。いくさ場で皆を救うのは、お前のような機転の利く男だ。頼りにしておるぞ」
「私の様な百姓上りが、滅相もございません。どこまでお役に立てますやら」
「仲間のためだ。頼むぞ」
城は、そう言って弥助の肩を叩いた。
慶應二年六月‐石州浜田
「三番小隊はおるか」
広島城の廊下を、そう大声で呼ばわりながら洋装の武士がやってきた。弥助たちの上官、歩兵頭(大佐相当)の戸田肥後守であった。
士官の部屋に詰めていた数馬が、迎えに出る。
「ここにおりますが」
「うむ、三番小隊には、石州口へ行って貰う。あす、蒸気船で浜田城へ出発じゃ」
長州藩を四方から囲んだ幕府軍は、当然、日本海側の山陰道にも軍を集結している。石見国浜田(島根県西部)に本陣を構えていた。
「石州口の先鋒は、福山の阿部主税頭様じゃが洋式銃隊を送ってくれと矢の催促じゃ。とは言っても大軍は送れぬので、お前たちに行ってもらう」
「たかだか一小隊では、何のお役にも立てぬと思いますが」数馬が不審顔で聞いた。
「うむ、そこでちょっと話がある」
数馬だけが別室に連れてゆかれた。しばらくして、出発準備の点検に来た数馬は、後で話すと言い、戸田の指示を明かそうとはしなかった。
蒸気船は途中、便乗者を門司で降ろし、一路日本海へ向かった。長州海軍を警戒して、夜陰に紛れ陸地から離れて航行する。
翌日の朝には浜田へ上陸していた。浜田城の庭に天幕が張られており、その一角に収容された。入口には、特別に支給されていた日の丸を立てた。
直参である為か数馬自身には城内に部屋が用意されていたが、部下と離れるのを嫌がって断った。
次に、老中からの書状を持って挨拶に行く。士分であることを示すため、陣羽織を着ている。
石州口の先鋒総督は、紀州家附家老の安藤飛騨守で、自身も紀州田辺藩主である。浜田藩主松平右近将監は、水戸家からの養子で慶喜の弟でもある。
数馬は、この二人の殿様に拝謁することになり、さすがに緊張していた。二人の下座にいた人物が、福山藩家老内藤角衛門と名乗ったので、ほっとしたくらいだ。藩主阿部主計頭は、病のため前線に出られず、内藤が指揮を執っている。
「我が紀州家にも洋式銃隊があるが、広島において来てしまっての。心細い限りであった」
「我が松平家は、恥ずかしながら財政窮乏しておっての。軍制を洋式に改革する事もなかなか叶わぬ。どうにか、洋銃だけは揃えたがの。
ところで、こたび石州口の長州勢を指揮するのは、洋式兵学者として聞こえた大村益次郎だと聞く。そなた達を頼りにしておるぞ」
「大村は以前、村田蔵六と名乗り御公儀に仕えておりましたゆえ、私も教えを受けました」
「ほう」福山藩の内藤が興味を示した。「して、どんな人物じゃ」
「もはやミネー銃の世の中ゆえ、散兵戦を調練しなければならぬと申しておりました。その方法など、具体的に噛み砕いて教えてくれました。それゆえ、実地の指揮も相当できると推察しております」
「成程、敵将の弟子が居るのは幸いだ。われら福山の兵は益田に出張って陣を構えておる。さっそく、合流してもらおう」
「我が小隊には散兵の調練を施してありますゆえ、望むところでございます」
「待て待て」紀州の安藤飛騨守が言った。「この者たちは今着いたばかりではないか。まずは宿で休ませよ」
「しかし、津和野の様子も怪しきゆえ、益田の防備を固めませんと」内藤が言上する。
「津和野と申しますと、亀井隠岐守様のご家中に何か不穏な動きでも」数馬は訊いた。津和野藩は、長州と浜田藩の間にある四万三千石の小藩である。勤皇派の勢力が強いとも聞いている。
「実はそうなのじゃ。われら福山勢が津和野に入ろうとしても、陣立ての支度が整わぬゆえ失礼があっては当家の恥と言って、立ち入りを認めようとしない」内藤が詳しく説明しようとすると、
「まあ、良いではないか。津和野にも何か考えがあるのであろう」安藤飛騨守が遮った。「この浜田城は天下の堅城じゃ。いざとなれば、ここに敵を引受けて戦うまで。ミネー筒の威力がどれ程ものであろうと、この城壁までは崩せまい」
結局、三番小隊の益田進出は先送りとなり、内藤と数馬は退出した。
「困ったものだ。総督は城に籠ってばかりで、兵を励まそうとすらしない」
「ひとつお願いがございます。隊の主だったものを連れて、益田まで行きたいのですが。道々、地形なども見せておきたいのです」
「うむ、物見という事なら飛騨守様もお赦しになるだろう。軍監の三枝刑部殿に書状を書くゆえ、持って行くがよい」
「ありがとうございます」
数馬は、不在の間隊を清八に任せる事にした。その為に清八には、当時セコンドと呼ばれた懐中時計を持たせた。幕府陸軍は、すでに西洋時で動いている。
数馬の供は、弥助と寅吉だった。
「実はな」数馬は、歩きながら明かした。
「歩兵頭の肥後守様から密命があった。三番小隊の健脚を見込んでの命だそうだ。戦争が始まったら、長躯敵の本陣に乗込み、大村益次郎の首を取れと」
「この様な見知らぬ土地で、長躯しろと?」弥助が訊いた。迷子になるのが落ちではないか。
「だから、お前たちに地形を見せている。寅吉、お前の腕が頼りだ」
「任せてください。陣羽織を狙えばいいんでしょう」
「その通りだ」と数馬は答えたが、弥助は、あの村田殿と派手な陣羽織はどうも結び付かない様な気がしていた。
短い道中だが、地形を見聞するのだから寄り道が多い。洋式の軍装をしているので、目立つ。言葉もちがうのでなおさらだ。茶屋などで小休止していると、土地の子供たちが遠巻きにして聞き耳を立てている。
二日かけて益田に到着した。町はずれの万福寺が幕府側の本陣と聞いている。通りすがりの農婦に、万福寺への道を聞くと、南の方を指し示しながら何か言うと、そのまま行ってしまった。
「やれやれ、何を言ってるのか判りませんの」
寅吉が言うと、数馬も苦笑いをした。
「せっかく広島の言葉に慣れてきたのにな。まあ、あっちへ行けばよいことはわかった」
ところが、道を換えた三人を早馬が追抜いて行った。まっすぐ万福寺の山門に吸込まれて行く。山門にも、幕府軍の旗印である日の丸が立っていた。
何かあったな、と思いつつ山門の歩哨に内藤からの紹介状を手渡す。中に通されると、二人の武士が書状を読んでいた。猩々緋の派手な陣羽織を着込んだ方が幕府軍監三枝刑部、もう一人は浜田藩用人山本半弥と名乗った。
「三日前の六月八日、瀬戸内の大島という島に、伊予松山松平隠岐守様の御人数が上陸したそうだ。いよいよはじまったな」三枝が言った。
「われらも今日あたり、大島に上陸する手筈でございました」数馬が答える。実際にこの日、戸田肥後守に率いられた西の丸屯所の大隊が、幕府海軍の支援下に上陸していた。
「こちらでも相呼応して攻込まねばならぬ。そなた達の小隊は、天狗党の騒動でも戦ったつわものと聞く。是非先陣を切ってもらいたい」
「私もその積りですが、飛騨守様が歩兵組は浜田でゆるりとせよと」
「ふん」三枝と山本は顔を見合わせた。「やはりな。臆したか、お殿様」
「左様なのでございましょうか」
「そなた達を手放さぬのも、ご自分の警固の人数とでも思っているのであろう。
今の状況は、益田と浜田に兵が二分されている。いたずらに兵を分かつのは、古来より兵法の戒めるところだ」
「西洋の兵法でも同様でございます」
「そうであろう。そこで、浜田城の人数を至急こちらに呼び寄せねばならぬ。そなた達は、いつ浜田に戻る?」
「これから国境の様子を見まして、今夜はこちらで休ませていただきとう存じます。あす、日の出前に立ちます」
「うむ、では紹介状を書こう」
「ありがとうございます」
日が落ちるまで付近を見て回った。浜田藩、福山藩の兵が居るが、駐留しているだけで防御陣地などを作っている様子はない。一気に攻込む積りなのだから陣地など必要無いとも言えるが、問題は先鋒総督の安藤飛騨守が前線に進出してくる様子がない事であった。
開戦した以上、差し当たっては益田川に架かる橋など要所に守備の兵を置き、味方が通過するまで守る必要があろう。その前にもし長州側が攻めてくれば、橋を焼けばよい。
それにしてもあきれたのは、浜田藩兵の持つ「洋銃」がゲベールだったことである。先にも触れたように、命中率なら日本の火縄銃にも劣る代物だが、どうやら洋銃なら皆性能は同じと思っているらしい。
街道沿いに様子を見て回ると、多田という集落に出る。その先は、津和野との藩境になるので扇原関所がある。関所に近づくと、猟師態の男が立っていたが、すぐ番所に引っ込んだ。替って出てきた見事な体格の武士に、数馬は身分を名乗った。
「これはこれは、ご直参が自ら物見でござるか。お役目御苦労でござる」
武士の話す言葉は土地の訛と違い、どことなく関東風である。それもその筈で、松平家は三十年ほど前に上州館林(群馬県)から入封したことを、弥助は後で知った。
「拙者は、松平右近将監が家中、物頭勤方取次、岸静江と申す。この関所の守備を命ぜられております」
「ところで、配下の御人数は如何程でござるか」
「ここに居る者だけでござるが」
岸に従うのは、足軽や猟師などが十数人であった。これでは山賊の取締りに役立つ程度で、戦時の編成ではない。
数馬は、大島口で戦闘が始まったことを伝え、訊いた。
「この石州口でもこちらから押出す手筈になっておりますが、色々あって時が掛るようでございます。もし、長州勢の方から先に押寄せて参りましたら、如何されます」
「さすれば勿論、我が主君の命に従い、この関所を守備し申す」
「失礼だが、この御人数でそれは無理だ。本陣まで退かれよ」
「その時は、この岸に策がある故、心配ご無用。この者たちを犬死させるような事はあり申さぬ」
それでも数馬が何か言おうとすると、関東の方は心配性じゃのう、と豪快に笑った。
そこまで言うので辞去し、万福寺まで戻ることにした。弥助が振り返ると、岸が手を振った。決して大男ではなかった。ただ堂々たる押出しが、そう見せているだけであった。
翌六月十二日未明、守備の方法について意見具申した短い文書を残して、弥助たちは出発した。
その日のうちに浜田城に着く。清八が天幕の前で待っていた。
「どうだった」数馬が訊く。
「皆息災でございます」
「城の様子はどうだ」
「それが、何とも呑気なもので。芸州でいくさが始まったというのに」
話を聞くと、いくさが始まったのを知ったのは、今日の朝になってからだった。隊の者が噂を聞きつけて来て、係の浜田藩士に問質すと、清八は士分ではないので伝えなくとも良いと思ったという。
「御公儀の兵だからと百姓が思い上がるな、そんな態度でございましたよ」
「そうか、嫌な思いをさせてしまったな」
数馬はそれから本丸に向かい、浜田城の全軍を率いて直ちに益田へ進出する事を説いたが、二人の殿様は、
「相判った、まずはゆるりとせよ」
と答えるだけだった。
この二日後の六月十四日、瀬戸内海側の芸州口では、のちの歴史を左右する有名な戦闘が始まっていた。
戦場となった付近は、現在でこそ巨大な化学工場が存在するために海岸線が遠くなっているが、この当時は山が海に迫り、海岸沿いのわずかな平地に街道が走っている。
城織部が言ったように、広島浅野家が出兵を拒んだので、二番手の彦根井伊家が自動的に先頭に押出されていた。
この日の早朝、井伊家は街道上に長い行列を作り、彼らの誇る赤備えの騎馬武者を中心に、勇んで進軍していた。しかし、国境の小瀬川を渡河していると、右手の山々が一斉に火を噴いた。長州側は小瀬川の上流を渡り、海沿いに細長い火線を敷いて待ち構えていたのである。
山の上から狙われるのだから、遮蔽物などない。側面を突かれているので、行列の前の方は進むも引くもならず、海へ逃げるしかなかった。この状況では、精鋭度の高い軍隊でも混乱する。ましてや、彦根藩は二百年以上も実戦を経験していなかった。
街道で射殺される者、沖合の幕府軍艦まで泳ごうとして溺死する者、戦死者は四千人中四百人にも上ると伝えられる。戦い終わった戦場には、大砲の様な重装備はもちろん、武士の魂である大小、そして赤備えの鎧兜が大量に遺棄され、散乱していた。
後方へ逃げた彼らの恐怖心は、大竹に詰めていた高田榊原家にも伝染し、そこへ長州勢が撃ち掛けてきたので両家とも大混乱となって壊走した。
この後、ミネー銃装備の紀州家銃隊と幕府陸軍が前面に出たので、戦線は膠着した。
芸州口で激戦が続いている間も、浜田城では何の動きもなかった。二人の殿様は、芸州口と下関の防衛で手一杯だから、長州はこちらには手を出してこないだろう、などと希望的観測を述べ合っていたが、長州は水面下でも動いていた。津和野藩の了解を取付けると無血で通過し、六月十七日益田の幕府軍に襲いかかったのである。
幕府側の浜田藩兵や福山藩兵は、負けずに撃ち返したが、和銃やゲベール銃なので射程が短い。地形を頼りに一時は持ち堪えたが、軍監三枝刑部が狙撃され、「引くな者共」と兵を叱咤していた浜田藩用人山本半弥も戦死するに及んで、総崩れとなり敗走した。
敗報は当日中に浜田城にもたらされたが、十九日になって敗残部隊の一部が戻ってきたので、様子を聞くことができた。
弥助には気懸りな事がひとつあった。
「扇原関所の岸静江様は、どうされましたか」
士卒の間を回って、消息を掴むことができた。益田が襲撃される前日の十六日、二百人ばかりの長州勢が関所に押寄せてきたらしい。
岸は配下の者全員を万福寺への伝令に走らせ、ひとり残ったという。一部の足軽が従わず付近に潜み、以下の状況が伝わった。
岸は関所の門前に、得意の槍をかざし仁王立ちとなった。長州側からも士官と思しき者が進み出て、通せ通さぬの押し問答となった。長州側も惜しい男と思ったのであろう、この説得はかなり長時間に及んだらしい。しかし岸が頑として言う事を聞かないので、しからば、と兵を下げ、数人で銃撃した。ミネー銃で外すような距離ではなく、岸は仰向けにどうと倒れた。ドサッ、という音が潜んでいた足軽にまで聞こえてきたと言う。
弥助が天幕に戻ってきた時、目を真っ赤に泣き腫らしていた。仲間が心配して集まってくる。訳を聞いて、寅吉が言った。
「そうか、あの時、策があると言っていたが、そう言うことだったのか」
「策なんかであるものか」弥助は、両手を地べたに付き、激しく嗚咽していた。「ひとりで死ぬなんて、そんなもの策であるものか。間違っとる」
「そう言うな。それが士道というものなんだろうよ」
「おかしい。間違っとる。寅吉も見たろう。岸様は立派な方だった」
「ああ、立派な方だった。だから、士道通りの、立派なご最期をとげられた」
「それがおかしいのじゃ。あのような立派な方を、犬死させるような士道の方が、間違っとる」
弥助の嗚咽は、しばらく止まなかった。
数馬も不満を抱えていた。守備の方策を具申しておいたのに、どう活かされたのかさっぱり判らない。前日に関所が破られているのだから、奇襲ではない。にもかかわらず、益田川を障壁として戦った様子はない。川を防衛線に利用するのは、西洋であろうが和漢の兵学であろうが常識である。それをなぜやらぬのか。数馬の耳に、あの北条新太郎の言葉がよみがえった。
「西洋嫌いに限って、和漢の兵法書もろくに読んでおらん」
二百年以上も実戦が無かったために、一般の武士の戦術能力は絶望的に低くなっているのではないか。だとすれば、大村の様な百姓医者あがりに、有能だという理由で指揮権を与えている長州には、勝てないかもしれない。
「勝てなければ、徳川家は危うい」
無意識に呟いていた。
紀州藩と浜田藩は、浜田と益田の間の周布や大麻山に陣を敷いた。鳥取藩と松江藩からも援兵が到着した。松江兵は蒸気船に乗ってきたというから、それなりの近代装備であったろう。が、この後しばらく目立った動きはない。これは、芸州口と共同するため、長州側が仕掛けてこなかったためである。石州口の参謀井上聞多は、打合せのため山口まで戻っている。
数馬は、敵が動かぬのは兵糧弾薬の輜重に難ある証拠、と進撃を主張したが、敗兵からミネー銃の威力を聞いてしまった各藩の首脳には聞き入れられなかった。
しかも七月に入るといやな噂が広島から聞こえてきた。老中本庄伯耆守が独断で長州側と和議を試みた事が発覚、これに反発した紀州中納言が総督の辞表を提出したという。こうなると、紀州家附家老の安藤飛騨守は、もうやる気がない。総督のこの気分は、敏感に他家にも伝染した。
まだ戦争が終わった訳ではないのに、この気分は危険だ、と数馬は思っていた。
七月十五日、思った通り長州側から仕掛けてきた。大麻山に籠る浜田藩兵や日本海側の村々に陣を敷いた紀州藩兵との間に、激戦が繰り広げられた。
長州側は、大村益次郎が叩き込んだ散兵戦術で戦っている。編成の最小単位は、約三十名の「伍」である。その伍がまた五、六人の小グループに分かれていた。こんにちの歩兵小隊が三十人前後、歩兵分隊が十人前後であることを考えると、大村の戦術思想は大変進んでいたことが伺える。
長州兵は、一発撃つとすぐ移動した。黒色火薬はご存知のように盛大に煙を吐出すので、すぐ移動しなければ集中射撃を受ける危険があった。無煙火薬はまだ研究中で、実用化されたのはこの当時から二十年程のちのことである。
しかも、長州は専門の狙撃兵まで養成していた。銅銭を吊り下げてくるくる回転させ、数十間(二、三百メートルか)の距離から撃ち抜いた者だけを選抜したという。話半分としても恐るべき腕である。前述の三枝刑部を射殺したのも、彼らかもしれない。
この様に見てくると、大村益次郎はゲリラ戦向きの準備をしていたと思われる。幕府側との兵数差を考えれば当然であろう。中国地方の山が海に迫る地形を考えれば、大軍向かいあっての会戦は考えにくい。むしろそうなっては、兵数に劣る長州側が不利である。地形を利用してのゲリラ戦で、幕府側に出血を強いる方が利口だ。狙撃によって、元々少ない士官適格者を射殺していけば、一層効果的である。
たとえ幕府側優勢の戦況になったとしても、この悪魔的な戦法を採りつつゆっくりと後退してゆけば、厭戦気分が広がるに違いない。勝機は、そこにしかない。
大村益次郎は医者上りであるが、兵を率いる以上、鬼になった。
一方、幕府側には鬼が居なかった。最初の日は持ち堪えたが、翌十六日の戦闘では、紀州兵が総督の手勢なのに士気が挫けて真っ先に壊走した。もしこの時、彼らの家老である安藤飛騨守が前線で一喝すれば、戦線は維持できたかも知れない。が、このお殿様は浜田城に居座るだけだった。そればかりか、自分の手勢が浜田城下まで敗走し、そこで止まらずにさらに東へ逃げて行くのを見て心細くなり、その日のうちに勝手に退却してしまった。
数馬は、浜田市民を蹴散らし、城下を破壊しながら洪水のように逃走して行く紀州兵の痴態を城から眺めていた。戦線に穴があいては、他家の兵も撤退せざるを得ないだろう。こうなると、浜田城の防衛すら難しい。
「今しかないな」
数馬は、意を決した。軍議の場へ行く。浜田藩主松平右近将監を上座に、鳥取、松江、福山藩の代表が憔悴しきった表情で座っていた。もはや打つ手はない。誰もが逃出したいのだが、城を捨てるとは体面上言いにくい。
「策がございます」
部屋に入ると、数馬は単刀直入に言った。
「ほう、申してみよ」右近将監が眉を動かす。
「長州勢の優位は、ひとえにミネー銃の性能によります。ここは同じミネー銃を備える、われら西丸下三番小隊が、敵の本陣へ夜討ちをかけ、あわよくば参謀大村益次郎の寝首をかきまする」
「何、そなたの隊だけでか。健脚とは聞いているが」
三番小隊は浜田でもランニングを欠かさず、噂は右近将監の耳にも届いていた。
「少人数ゆえ、夜討ちに向きます。大人数ではばらけてしまいます」
「恐れながら」福山藩家老内藤角衛門が口を挟んだ。「夜討ちにより長州勢の指揮が混乱すれば、奥方様等をお落とし申上げる一助となるでございましょう」勝敗が明らかになった今、内藤の関心は藩兵を無事国許へ撤収させる事でしかない。妻子にくっついて藩主自身も逃げてくれれば、福山藩撤退の絶好の口実になる。
「しかし、御公儀の歩兵組を、余が妻子の藩屏として使うような事は」
この期に及んで、まだ体面を取繕っている。
「恐れながら申し上げます」数馬は顔を上げ、右近将監の目を見据えた。「不肖ながらこの佐藤数馬、三河以来の直参旗本のはしくれでございます。一戦もせず負けいくさと相成っては、大坂におわす公方様に面目が立ちません」
数馬の毅然とした言葉に、一同はしんとなった。
「そこまで申すのなら良かろう」右近将監が無気力に言う。「だが、敵の本陣がどこにあるか判らぬではないか」
「それにつきましては、ご家中の方を五、六人お貸しください。ただ、本陣は十中八九、大麻山に敷いておりましょう」
なるほど大麻山か、と他の者も口々に言った。今日、浜田藩兵が激戦の末奪われた大麻山は、この浜田城からもよく見える。逆に向こうからもよく見えるであろう。攻城戦の指揮を執るとしたら、絶好の場所である。
それを確認するため、百姓の姿に身をやつした浜田藩の若侍六人が、その夜のうちに城外へ出た。
寅吉が、板の上に何枚ものハトロン紙を広げ、薬包を包み直していた。距離によって火薬の量を変えるのである。この様な「名人芸」は、三番小隊でも寅吉にしかできない。それを見ながら、数馬が声を掛けた。
「大村は、陣羽織を着てはおらぬぞ」
「何故でございます」
紀州勢が逃走してしまったので、三番小隊は城内の空いた部屋に収容されていた。皆、周囲で聞き耳を立てている。
「戻った者の話を聞くと、陣羽織や紋付の陣笠など目立つ身なりをした者が狙い撃ちにされているらしい。どの隊の者もそう言っている。おそらく、大村の下知であろう」
「なるほど。自分で下知した以上、相手も同じ事をやってくると考えるのは、当然ですな」
「そうだ。おそらく大村は、兵とも下男とも見分けの付かぬなりをしている筈だ」
「そうなると、遠くから狙うのは難しい」
「その通り。夜だしな。お前には狙撃に専念してもらうとして、策を講じる」
「どうするのでございます」
「上杉謙信公のキツツキをやってみようと思っている」
「キツツキでございますか?」寅吉は怪訝な顔をしたが、甚平が知っていた。
「川中島の講釈に出てくる、あれでございますか」
「そう、まさしくそれだ。兵を配置につけているので、敵の本陣は手薄であろう。そこへ夜討ちをかける」
「なるほど。夜討ちを受ければ、慌てて逃出しますな。そこを寅吉が待ち伏せするのでございますな」
「その通りだ。皆、仕事が無い者は寝ておれ。それから、冬服を出しておくのを忘れるな」
「すでに用意しております。浜田の方々が、『狙い撃ちに会うから、白はいけぬぞ』と口々に申しておりましたゆえ。それなら紺の冬服を着ていくしかないなと申合せました」甚平が答える。
「お前たちも、いくさ慣れしてきたな」
「死にたくない一心でございますよ。私の様な所帯持ちは、年季が明けて家に戻ることだけを考えております」
天狗党との戦いの死傷者は三人だった。が、今日の出撃ではそうはいくまい。自分が刺違えても大村を倒さねば徳川家は危うい、と数馬は覚悟を固めていた。
「末の娘が、今年十になりましてな」
何を思ったか、甚平がぽつりと言った。
道案内に着いたのは、二十歳そこそこの下級武士ふたりだった。袖を絞った稽古着、股引姿でゲベールを担いでいる。親からは「武士が大工の様ななりをして」と怒られたそうだが、益田でミネー銃の洗礼を浴びたふたりには迷いはなかった。
「小銃で散兵戦を行うのに、便利な服装をしているだけです」と言い切った。
日が暮れてから出発。すでに銃には弾込めしてある。街道を避け、畑や林の間を縫って進む。下級武士だけあって、そんな道をよく知っていた。この辺の山で合戦の真似ごとをしてよく遊んだのだという。
「あの辺の丘を、千早城に見立てましてな」などと楽しそうに言った。
途中から牛谷川沿いに南下し、米ヶ辻山の南を回って進む。道らしきものが上り坂にかかるあたりで、「大麻山のふもとです」と浜田の若侍が言った。数馬が懐中時計を見ると、もう夜半に架かっている。一時間の大休止を命じる。歩兵たちは駄荷袋から握り飯を取出して頬張った。食べ終わると、寝転がっていびきを掻く者もいる。
大麻山の山頂にほのかに明かりが見える。
「あそこの神社に、長州は本陣を張っています」
と若侍が指差す。
数馬も横になったが、眠れない。若侍のもたらした情報は、前日の昼ごろ前の物だ。本陣を張っているのは間違いないとして、大村益次郎の顔を知っている訳ではない。人数も下男を含めて十人程度とのことだが、この半日の間に増えたかもしれない。いずれにせよ現場を見て、計画を修正しなるまい。
やがて時間になる。小声で招集をかけ、点呼を取り、着剣させる。
ここからは、山道を避け林の中を進む。大岩がそこここにあり、歩きにくい。若侍が、昼間残してきたという目印を頼りに進んだ。そうでもしなければ、夜の山林は地元の人間でも迷う。
やがて山道にでる。大麻山神社のやしろから少し下った場所だ。そこに三番小隊を潜ませて、数馬は林の中を若侍と共に斥候に出た。
神社の境内は静まり返っている。見事な枯山水の庭が有るが、見たところ人気はない。さらに登ると、山頂の平地に陣幕が張ってあった。四方を囲んでいる。紋所は、一に三つ星。毛利家だ。中でかがり火を赤々と焚いている。陣幕内部の面積からして、十人程度というのはほぼ正確だろう。近づこうとしたが、歩哨が回ってくるのが見え、草むらから出られない。
こなくそ、と思っていると陣幕の中で声がした。
「大村様、お目覚めでしたか」
これに答える声は良く聞き取れなかったが、大村本人が居ることもまず間違いない。
歩哨をやり過ごすと、三番小隊の元まで戻る。数馬は計画を小声で説明した。
小隊を二十人ずつに分け、数馬、弥助の指揮する半隊は陣幕を二方向から包囲し、銃撃後突入する。数馬が歩哨を狙撃する銃声が合図である。白兵戦になったら、二人ひと組で相手を倒す。山道を下って逃げる敵には、神社を少しのぼった付近の道の両側に潜んだ清八、寅吉の半隊が十字砲火を浴びせる。
「間もなく夜が明ける。この道は山の東側にあるから、早く日が当るはずだ。討ち漏らすなよ」
大村益次郎は、地図に木筆(鉛筆)で敵の配置を書き込んでいた。前日の十七日に鳥取、松江勢に陣払いの動きがあるとの情報を得ていたので、これは消す。残るは、福山勢と地元浜田の兵のみ。
「この調子なら、城攻めをせずに済むかもしれんな。南の方を開けておいて、ゆさぶりをかけてみるか」
広島へ通じる街道を開けておけば、福山兵は本能的にそちらに逃げるであろう。敵を追詰めるな。この後もそうだが、大村はこの兵法の基本に忠実であった。
ふと、良い香りがして床几から立ちあがる。東の千メートル級の山々の稜線から、朝日がこぼれ落ちていた。気持ちの良い朝だ。ふと、故郷の鋳銭司村を想う。朝はいつも、妻の琴が台所でコトコトと菜を刻んでいる。そのうち、食欲をそそる香りがしてくるのだ。
大村が見回すと、年配の下男が応急の炉の上で鍋をかき回している。一人の兵士が寄って来て、横に立つ。
「味噌汁か、旨そうだな」
「はい、冷えた握り飯ばかりでございますので、せめて熱い汁でもと」
「そうか、一杯貰おう」
と、大村は下男の隣に腰を下ろした。
下男が椀を手に持った。
その時、バーンと銃声がした。顔を上げる間も無く、周囲で大音響が轟き、下男の持った椀に鮮血がほとばしった。立っていた兵がドサリと倒れた。西と北の陣幕が引き倒され、歩兵が突入してきた。先頭に立つのは知った顔だ。幕府陸軍でも、できる奴だった。
「こちらでござる」
いつの間にか、槍を持った士分が大村の襟を掴んでいた。敵のいない方へ走る。下男ほか数人の兵が後に続く。立ったまま銃剣で刺殺されている幾人かの兵の姿が、目に入った。
敵のいない方向は都合の良いことに神社へ続く道、社務所にまでたどり着けば、三十人の伍がいる。いや、待てよ。
「その道には伏兵が居る。林の中を抜けよう」大村は方向を変え、急斜面を降りようとする。
士分が立ち止り、振向きざま槍を繰出す。大村が振返ると、追いかけてきた幕府歩兵がひとり、槍に掛けられていた。後の者は勢いを殺がれて立止まる。
「弾込め!」と、幕府の士官が叫ぶ声が聞こえた。これで、西洋時で二十秒、時間が稼げる。それにしてもあの士官、わざと逃げ道を作って追いたてるとは。そう、思い出した、佐藤数馬、西丸下三番小隊の隊長だ。
山道の南側に清八たち十人、北側に寅吉たち十人が待機していた。十字砲火の用意だ。
そこへ山頂の方で銃声が轟く。
「始まったな」清八が呟く。しばし待つが、いっこうに山道を駆け降りてくる者はいない。
「おい清八」定吉が袖をつつく。
「なんだ、うるせえな」
「後ろの方で物音がすべえ」
「なに」
草むらを這ってゆくと、枯山水の庭を、数十人の長州兵が走り回っているのが見えた。今まで見えなかったが、社務所に泊っていたのだろう。さらに見ていると、林を突っ切って山頂へ向かう様子である。
「気付かれたか、それなら挟み撃ちだ」
百姓の俺だって、それくらいの兵法は知っている。清八は、人数を呼び寄せるため定吉をさがらせた。
弥助は、倒れた歩兵の傷を見ていた。
「どうだ」数馬が来て聞く。
「駄目です。心臓を一突きでございます」歩兵の髷を切りながら、答えた。
「そうか」浜田の若侍が近寄ってきて、数馬に装填済みのエンピールを手渡す。「皆、弾込めは終わったか、大村を追うぞ」
彼らは斜面の林に分け入って行った。
大村らは、斜面の林を社務所に向けて必死に進んでいた。岩だらけの急勾配だから歩きにくい。バン、と音がして護衛の兵が一人倒れる。
「伏せるのだ」
樹木の間から様子を覗うと、幕府歩兵が五十歩ほどまで迫っていた。
「それがしが防ぎますゆえ、ピストルをお貸しください」槍の士分が冷静に言った。無理だと思ったが、今はそれしか手が無い。大村は懐中からリボルバーを取出した。
医者あがりの自分には、戦闘員としての能力は無い。彼には、悲しいほどそれが判っていた。
数馬にも、四人ほどが斜面に伏せているのが見えた。
「弥助、十人ほど連れて右の方から回り込んで囲め」大村が立って走れば、エンピールの餌食にできる。これで袋の鼠だ。
しかし、甚平が叫ぶ声が聞こえた。
「伏せろ。敵だ」
慌てて身を隠す歩兵たちの周辺に、銃弾が弾けた。銃声は左手の斜面の上の方。二十人ほどいる。こちらも応射するが、動けない。
「くそ、あ奴らはどこから出てきた」毒づきながらも、数馬には判っていた。おそらく境内の建物の中で、熟睡していたのだろう。もっと斥候に時間をかければ、判った筈だ。自分が甘かっただけの事だ。
さらに十人ほどが数馬たちの後ろに回り込もうとしている。そうなると、袋の鼠はこちらではないか。
しかし、その長州兵の背後から銃声がした。こんどは彼らが身を伏せる。
「おおおい、今のうちに逃げろ」清八の声がした。加勢に駆け付けたのだ。
「確かに今が潮時です」
弥助も言った。数馬は伏せながら大村の方を見た。大岩の陰に逃げ込もうとしている。自分のエンピールで大村を狙う。が、当たらない。
数馬はリボルバーを抜いた。
「私が斬り込む。援護せい」
数馬は立とうとした。
「お止めください」
弥助と甚平が口々に言って、数馬を引倒した。
「ええい離せ、いま大村を討たねば、徳川家は滅びる」
「何故でございます」弥助が抗弁した。「数馬様に討死されたら、我らはどうなります」
「私は武士だ。直参旗本、今こそ徳川家三百年の恩顧に報いる時だ。お前たちは逃げろ」
「だから何故でございます。他の御旗本衆のように、数馬様もお逃げ下さい」
「人は人だ、私は士道を貫く。百姓には判らぬ」
数馬はすばやく立ち上った。弥助の伸ばした手が、空を掴む。が、甚平が組付いた。細い木の陰に引張り込み、立ったまま数馬を抑えつけ、言った。
「判って居る筈です。さむらいの世の中はもうすぐ終わります。士道などと言わず、今は奥様の元にお帰りになる事だけを、お考えください」
その時、甚平の首を何かが貫通し、血煙りが数馬の顔に掛かった。甚平はゆっくりと斜面に倒れた。頸動脈から、心臓の鼓動に合わせて出血し、意識を失っていった。弥助が診たが、首の骨が砕かれていた。髷を切り取った。
数馬は涙でぼやける目で、大村の姿を探した。が、もう見えなかった。敵将を討ち漏らした上、自分のせいで兵が死んだ。そう、自分のせい。
甚平は、来年には五年の年季が明ける筈だった。そういえば、ここにいるほとんどの歩兵がそうだ。数馬は周りを見回した。みな、適切な場所に隠れ、四方の敵に向かって発砲している。これまでの調練に、良く付いて来てくれた。無事、連れ帰らなくては。
「みんな聞け、引揚げるぞ」
そして後退戦の手順を説明し始めた。
大村益次郎は警固の伍に収容され、大麻山神社の社務所で一息付いた。
「不覚であった。浜田に幕府歩兵が居るとは聞いていたが、百姓を集めた歩兵に、まさか本陣に夜討ちを掛けてくるつわものが居ろうとは。侮っておった」大村自身も、百姓を集めた部隊も率いている。精鋭と言って良い。長州藩にできた事が、幕府にできない訳がない。
「斥候によりますと、山の麓に日の丸を立て、三番小隊集合と呼ばわっている様でございます」伍長が報告した。「追い討ちを掛けますか」
「止めておけ。幕府歩兵組の小隊は四十人、われらの伍の三十人よりも多い。援軍が来るまで、じっとしていよう。奴らも援軍を恐れて、引く筈だ」
「援軍が来る前に、討ち掛けて参りましたらどうしましょう、その三番小隊が」
「あの隊長には、江戸で散兵を教えた事がある。無理に討ち掛けては来ぬよ」
それから、味方の損害を聞く。九人、この程度の戦いでは大損害だ。敵の死体は二つ。
「なかでも、万吉がやられていたのが心配です。猟師を探し出して討ちとるとは、敵も猟師かと」
「だとすると、今まで歩兵組が出てこなくて、幸いだったな。出てこないうちに、石州口は決着が付いた」
あとは、東進して幕府直轄地の石見銀山を接収できれば、上々である。産出量は激減しているが、少しは戦費の足しになるかも知れない。
「甚平をやった奴は、猟師だな」
と寅吉が、弥助と清八に言った。前夜大休止を掛けた大麻山の登り口で、三番小隊はまた一休みしていた。
「あの隠れ方は猟師だ。しかも、自分より下の方にいた甚平に、見事に当てとる」
「狙われたのは、数馬様の方だろう」弥助が応じた。「その弾が、少し横に逸れただけだ」
「お可哀そうに」清八の視線の先に、数馬がいた。「すっかりしょげ返ってる。ご自分のせいだと思っとるんだ」
「そりゃそうだろう」弥助はいつになく冷淡だった。「タクテキを見れば、兵を引くのは当たり前だった。数馬様が、士道がどうの言い出さなければ、甚平は死なずに済んだ」
「さむらいの世の中はもうすぐ終わります、か。今のいくさは猟師の俺の方が役に立つと思っていたが、甚平はそんなことまで考えてたんだな」寅吉が言うと、
「考えてもみなよ」と清八が声をひそめた。「武士は家来を連れていくさに馳せ参じる為に禄を貰ってるが、西洋式の陸軍ではお上の用意した兵を指揮するだけだ。そのうち俸禄は廃止になって、役料だけを給金で貰う様になるだろうよ。しかも俺たち歩兵の中から、『品によりお取立て』になって士官になる奴が出てくりゃ、身分の区別はつかなくならあ」
「百姓が士官になるのか」寅吉は驚いていた。
「天狗党や長州とのいくさを見てみい。不様なさむらいの多いこと。俺たち三人みたいのを、士官に取立てなきゃしかたあるめえ」
「そうかも知れんが、俺はただの鉄砲ぶちの方が気が楽でいい」
「野心のねえ奴だな。俺はその為に、もう一度読書きそろばんを習い直そうと思ってる。ここに良い先生もいるしな」
そう言って、弥助の肩をポンと叩いた。
「お前、そんなことを考えてたのか」弥助は苦笑いした。歩兵組でもそんな夢を見ることができるとは、今まで気付かなかった。
「十分経った。そろそろ出発だな」懐中時計を見て清八が、歩兵達に号令をかけた。いちいち数馬の指図が無くとも、三番小隊は動くようになっていた。
三番小隊が浜田城に帰着したのは九時頃だった。城がなんとなく慌しい。出された朝食を摂っていると、内藤角衛門がやってきた。
「そうか、大村を討ち損じたのは残念じゃ。
ところで、我が福山勢も国許へ退去することにした。そなた達も一緒に参れ。広島へ戻るなら、途中まで道は同じじゃ」
「右近将監様は?」
「既に昨夜、蒸気船で松江勢と共に落延びられた」
「浜田のご家中の方々は?」
「城を焼くと申して居る」
道理で献立が豪勢な訳だ。煮物には鶏肉まで入っている。
「浜田藩は作州の鶴田とか云う所に飛び地があるそうで、ひとまずそこに落延びるそうじゃ」
総崩れである。
「では、帰路はご当家に加えて頂きます」
「その方が安全じゃ」
兵二人を死なせ、得た戦果は雑兵を何人か討ち取っただけだった。自分の判断で行った作戦だけに、その責任は数馬の心に重くのしかかっていた。
慶應二年十一月二十五日‐芝増上寺
「大隊、ささげーっ、銃!」
士官の号令で、弥助たちは三拍子で小銃を捧げた。ここは江戸と品川宿の間にある将軍家の菩提寺、増上寺である。道の両側には、江戸近郊の幕府陸軍のほぼ全部隊が整列していた。兵は、萌黄色の細袴を履き白鉢巻きをしていた。その間を、十六人の歩兵が巨大な位牌を担いで進む。位牌の表には「長防戦役戦死霊位」と、裏にはその幕府陸軍戦死者五十三名の名が記されていた。
あれから、十日ほどかけて広島にたどり着いた弥助達を待っていたのは、将軍家茂薨去の噂だった。
さらに、宿舎で久方ぶりに西丸下屯所の仲間と再会すると、恥ずべき話を聞かされた。歩兵奉行河野伊予守、歩兵頭戸田肥後守に率いられた西の丸屯所の二個大隊は、去る六月十一日に周防大島に上陸したのだが、さしたる守備兵力のないこの島で暴れ回り、略奪、強姦などの戦争犯罪を働いた。鶏、牛まで殺して食い、鍋かぶりの千人隊と恐れられた。が、長州正規軍が反攻に出、島民も火縄銃を持ちだしてゲリラ戦を始めると、情けないことに撤退せざるを得なかったという。
その撤退した二個大隊は芸州口に投入され、七月末まで小競合いを繰返していた。
弥助たちも芸州口に投入されものと思っていたが、そのうち小倉城自焼の報が伝わって来た。浜田城同様幕府軍に見捨てられたのである。
やがて家茂薨去が公表されると、追いかけるようにして長州征討中止の勅命が下されたとかで、幕府軍は撤退を開始した。
万事、うやむやなまま歩兵達は江戸へ連れ戻されたのである。
唯一つ、誰の目にも確かなのは、幕府が負けたという事であった。
増上寺の本堂に、位牌が安置された。高僧の読経する中を、陸軍奉行並竹中丹後守を筆頭に、上級士官が焼香する。続いて、戦死者の関係者の焼香が続く。戦死者の家族は身分に係わりなく、この日ばかりは本堂に登ることが許された。
弥助は、前を通り過ぎる遺族達を懸命に見つめていた。やがて、数馬の妻に先導された十人ほどの集団がやってきた。三番小隊戦死者の遺族だ。あの女の子が、甚平の十になる娘だろうか。
底冷えのする沿道で、兵士たちはいつまでも立ち尽くしていた。
年が明け、慶応三年になった。文久三年に採用された歩兵達の年季が、二月に開ける。正月には、優秀な歩兵に対してそのまま年季を更新する意思があるか、打診があった。
三番小隊は全員がその対象だった。しかも、弥助、清八、寅吉は、士分に取立てるとの内示があった。
それを受ける前に、弥助は思う所が有って数日の暇を取った。
まず、主家筋の天野家に挨拶に行く。
すでに隠居している喜太郎は、話を聞いて上機嫌だったが、大奥様が話が有るということで別室に呼ばれた。
大奥様は茶を点てていた。
「そなたに聞きたい事とは他でも有りません」
大奥様は、茶を弥助に勧めながら聞いた。士分の予定者になると、随分扱いが違うものだと思った。
「武士の世は、このまま続くと思いますか」
大奥様は爆弾を落とすような事を聞いた。
「これは驚きました。大奥様は、かつて私に物を考えてはならぬと申付けられました」
「その非礼は詫びましょう。存じておると思うが、昨年、御公儀の命で組合銃隊と言う物を作りました。三千石以上の旗本が対象だったので当家は免れましたがね。石高に応じ屋敷に銃卒を雇入れ、その家の主人が指図役となって銃卒を指揮します。調練の時だけ、それぞれの屋敷から一箇所に集まって稽古致しました。ですが、数か月でお取り止めになってしまいました」
「組合銃隊の話を聞いた時、上手く行くまいと思いました。歩兵には仲間意識が必要ですが、それは屯所にまとまって生活しているからこそ育まれる物です」
「やはりそうか。大身の旗本なら自前で一小隊できるが、大抵は二家分の人数を組合わせて小隊を組まねばなりません。その上、家によって銃卒の質もまちまちでな、全員が士分の所が有り、在所の百姓の所も有り、それならまだいいが博打打ちや人足のたぐいを口入屋から雇入れて差出した所も有ったと聞きます。これを一隊にまとめて、いくさができると思いますか」
「修羅場をくぐった指図役ならば、できると思いますが、残念ながら太平に慣れたお旗本衆には荷が重いと存じます」
「正直に申したな。そのうち三千石以下の家にも組合銃隊の御沙汰が有るものと思い、我が殿などは洋式兵学を良く知らぬので、兵に侮られるのではないかと内心心配しておりました。組合銃隊がお取止めになった時は、心底ほっとしましたよ」
お取止めになった結果、数千人の銃卒が失業し、暴動に近い騒ぎを起こしたのだが、そこまで心配する責任は彼女にはない。
「そこで考えたのです。今、皇国の軍備は、将軍家を始めそれぞれの大名家が自前で作ることになっている。もし、外国といくさをすることになると、組合銃隊と同じ問題が、この国全体で起きるのではないか、と」
「これは参りました」弥助はしばらく考えてから言った。「つまり、何大隊も用意できる大大名と、数小隊しか差しだせぬ小大名が、肩を並べて戦争する事は出来ぬと言う事ですな。私もそれには気付きませんでした。その通りだと存じます」
「我ら武家は、主君の禄を食み、さらにそれを家来に与えていくさに馳せ参じます。しかし、洋式兵学では、少数の士官と大勢の百姓兵がいれば、軍は成り立ちます」
「大奥様は、洋式兵学はお嫌いでは」
「洋式兵学は武家の仕組みとは両立しませんから、今でも嫌いです。でも、夷国の領地になりたくなければ、対等に戦える軍事が必要です。この流れは、止めようが有りますまい。
しかも長州での話を聞くと、一番勇敢に戦ったのはそなた達百姓兵らしい。これでは、ますます武士の居所は有りません」
ただの守旧派だと思っていた大奥様が、こんな視点を持っていたとは、大いに驚いた。夫よりも優秀ではないか。
「勇敢に戦ったお武家様もおいでになります」
「それはそうでしょう。ですが、今の旗本御家人がどんな塩梅かは、良く知っております」
彼女は茶をすすった。
「問題はそこではありません。今の天野家の当主は伊織ですが、今は陸軍の騎兵組に居ります。旗本だから馬に乗っていますが、やっている事はそなた達銃卒と大して変わりません。馬術ができるだけの銃卒に、千三百石は多すぎます。いずれ、召し上げられるでしょう。そうしなければ、そなたのような新たに召抱えた士分に蔵米を出すこともできますまい」
弥助には、この話がどこに行きつくのか判らなくなった。
「平次郎と用人の佐々木は、いま横浜で仏蘭西人から士官の伝習を受けています。この二人は陸軍の士官となって、禄を食めるでしょう」
「佐々木様のお姿が見えないのは、そのせいですか」
「そうです。ふたりとも、もうすぐ大坂へ出張して、第十二連隊の編成とやらに当たるそうです。
ところで、当家に仕える者は、士分から下女まで含めると十五人になります。伊織の禄が召上げられれば、この者どもを養うことはできません。士分は五人おりますが、それぞれ家族が居ることも忘れてはなりません。
その時は、ただ暇を出せば良いのかも知れませんが、当家はいやしくも三河以来の直参旗本、意地が有ります。そのような身勝手はしたくありません」
「いや、これはますます驚きました」
なかなか気骨のある女性ではないか。
「それで相談なのじゃが、当家は三河の頃は戦陣において賄方を勤めていたらしいのですが、こたびその手引書が見つかりました。それで、町方に陣中食を供する料理屋を出そうと思うのですが」
「なるほど」弥助は腕組みした。「三河武士の陣中食ですか。良いお考えとは存じます。ただ、失礼を覚悟で申しあげれば、お旗本が商売とは」
大奥様は、にっこり笑った。
「もちろん、私どもに商売ができる筈が有りません。元手を出して町人にやらせるのです。心当たりの者が何人かあるのですが、誰が信用の置ける者か調べる手立てが無くて、困っております。わが殿はあの通りの人なので、町奉行所に知人もいないのですよ」
今度は、弥助がにっこり笑う番だった。
「かしこまりました。それしきの事なら、私の方に伝手がございます」
「そう言ってくれると思いました。頼みますよ」
弥助は藤岡屋に立寄ると、大奥様からの調査依頼を伝えた。藤岡屋は、そう言う事は不得手だが知合いに当ってみよう、と約束してくれた。もちろん有料だが、大奥様の気風の良さに敬意を表し、弥助は自腹で払う事にした。
翌日には多摩へ出発した。五年ぶりの帰郷であった。
両親が大喜びしたのはもちろんである。兄は、弥助の大坂滞陣中に結婚したので、兄嫁とその赤子とも初対面であった。
聞けば、兄も御料兵の徴発に応じ、伊豆代官江川太郎左衛門配下の歩兵として訓練を受けているという。
「御料兵の陸軍での評判はどうじゃ」
と兄が聞くので、
「強くはないが身持ちが良いのであてになる兵だ、との評判じゃ」と正直に答えた。
「そうか、強くはないか」と言って大笑いした。
「ところで、お父と兄いに相談が有る」
「何だ、改まって」父が座り直した。
「わしは、西洋の軍からこの国を守るために、歩兵になった。お役目に励んだお陰で、年季を続けるなら士分に取立てて、指図役の端くれにしてくれるそうじゃ」
「お前がさむらいになるじゃと」
「そこで、迷うとる。今のままだと、西洋ではなく、薩摩や長州と戦争する事になる。同じ日本人と戦争するのは、気が進まん」
「西洋が攻めてくることは有るのか」
「幕府と薩長が戦争になったら、それに付け込んで来るかもしれん。今までは、欧羅巴の国は清国で戦争していたし、亜米利加は国が南北真っ二つに分れて、双方六十万も討死にしたという大戦争をしていたから、この国まで手が回らなったと思う。けどそれも和議が成った様だ」藤岡屋が上海の新聞なども時々手に入れていたので、この程度の国際情勢は知ることができた。
「すると、西洋が攻めてくる事は、まだ有りそうなのじゃな」
「うん、有ると思う」
「兵賦の年季が明けたら村に戻るものと思っていたが、そうなると話が違ってくる」父は言った。「今言ったように、お前はこの日本国を西洋から守ると言って歩兵になった。まだ道半ばじゃないのか」
「そうかもしれん」
「しかもお前は、百姓から士官になる最初の人間かも知れん。さむらいの世は、多分もうすぐ終わる」お父までが、そう考えていた。「代りにこの国を守るのは、西洋式の百姓兵じゃ。そうなると百姓の気持ちが判る士官が要る。最後まで、やり遂げろ」
翌日、父に連れられ菩提寺へ出向く。和尚に何かを渡されると、それは過去帳だった。
「徳川の世になって、百姓は名字を名乗ってはいけないことになったが、名字が消えてなくなった訳ではない。お上への届には書けなくなっただけだ。当家の名字が、この二百年前の過去帳に記されとる」
「田畑、たばた、か」
「そう田畑じゃ。士分に取立てられたら、田畑弥助と名乗るのだぞ」
「いかにも百姓らしい名字じゃの」
「我が田畑家は、何百年も百姓だ。文句はあるまい」
翌日、不満そうな母を後にして、弥助は江戸に戻った。
そして、年季の更新を申し出、歩兵指図役下役(曹長相当)に取立てられた。
この頃から、西の丸屯所の列獅綿多は、第一連隊と呼ばれるようになっていた。さらに、羅紗製でボタン止めの洋服が戎服として支給され始めた。フランスから輸入されたランドセルやブランケツトが、歩兵にもゆき渡る。小銃もミネー銃で統一された。屯所の入り口では、士官が通ると当番兵が捧げ銃で迎えるなど、西洋式軍隊らしくなってきた。ただ、履物だけはわらじだった。
フランスからは教官もやってきて、「伝習隊」と言うのを調練し始めた。伝習隊の素材は、江戸の労働市場で集めた駕篭かきや火消し、博打打ちなどであったため、歩兵組よりもさらにガラが悪かったが、あるいはそれ故か急速に錬度を高め、幕府陸軍のエリート部隊となりつつあった。フランス軍にはその頃すでに外人部隊があったので、「言葉も通じない荒くれ者」を手懐けるノウハウを持っていたのかも知れない。
ところで、弥助と同様に清八と寅吉も歩兵指図役下役になった。寅吉は、帯刀姿の戎服で秩父へ里帰りして錦を飾り、ついでに嫁まで貰って来たのだが、清八はその様な事をしなかった。そう言えば、清八の郷里の話を詳しく聞いた者が居なかった。仲良しの定吉でさえ、相州(神奈川県)のどこかとしか知らなかった。
そうしたある日、清八に面会人が有った。取次いだ者によると、在所の村役人で、清八が名字帯刀を許された事を伝え聞いて祝いに来たのだという。帰り際、屯所の門で、「では、立身出世料五両、よろしくお願い申す」と村役人を返し、弥助たちを驚かせた。
「おい、立身出世料とはなんだ。そんな金を・・・」
「お袋の墓に墓石を立てるんだ。生きているときは奴ら何もしてくれなかったんだから、それくらい良いだろ。村八分だからと言って、病気の年寄りを放っておいたんだ」清八が暗い顔で言ったので、それ以上の事情は訊けなくなってしまった。
慶応三年は慌しく過ぎて行った。世紀末の不安故か、八月頃から「ええじゃないか」踊りが流行し始める。
九月には旗本に「金納令」が布告された。すなわち、歩兵はすべて幕府の直接雇用とする。その支給調達のため、旗本の軍役はこれより「金納」とするので、今後十年間知行を半分召上げる、と言うのだ。旗本は戦争に出なくて良いかわりに、その金で兵を雇うのだ。
ついに、幕府自身が武士階級を否定したのである。ついに来るべき時が来た。弥助はそう思ったし、天野の大奥様もそう思ったに違いない。藤岡屋の推薦を受けた町人に出資して神田に出店した天野家の料亭は、この頃軌道に乗り始めていた。
その様な準備をしていない旗本社会に、パニックと不安が広まったのは言うまでもないが、それも束の間。
十月十四日、大政奉還。
十七日にそれが江戸に伝わったとき、これで政情は落ち着き、慶喜を中心とする諸侯会議でこの国は動いて行くだろう、と弥助は思った。
が、西郷らの反徳川の意思は強固だった。京都での政治工作は勿論、関東各地で放火などの破壊活動を行った。容疑者を幕府の捕吏が追跡すると、これ見よがしにえどの薩摩藩邸に逃げ込んで行く。こんなえげつない挑発行為は、歴史上珍しい。
幕府側が、たまりかねて武力行使に出れば、戦争でこれを潰す。長州戦争を見て、今なら幕府の軍事力は恐るに足りないと判断していたのである。
西郷らが何故武力討幕にこだわったのかは判らない。幕府の近代化のテンポを見て、早急な近代化は無理と判断したのかもしれない。あるいは、西郷、大久保らの出世欲がそうさせたのか。実際、薩摩・長州藩内でも、幕府と戦争して勝てると思っている者は少なく、西郷らは孤立していたともいう。
いずれにせよ、十二月九日、王政復古の大号令と共に、朝廷は薩摩・広島藩兵らで固められ、慶喜派の上級公家は御所から締めだされてしまった。
そのため、弥助たち第一連隊は、急遽幕府海軍の蒸気船で大坂城へ向かう。大坂城は、幕府陸軍を始め、会津、桑名など各藩の兵で溢れんばかりだった。
その兵力に恐れをなした朝廷と、慶喜を王政復古政府のメンバーとして受容れる交渉が進んでいたのだが、十二月二十八日、主戦派西郷の努力が実を結ぶ。度重なる徴発についに堪忍袋の緒を切った庄内藩らが、江戸薩摩藩邸を焼き打ちした。徳川家と島津家が戦闘状態に入った事を示すこの知らせは、それぞれの蒸気船に乗って、京都と大坂にもたらされた。
そして、運命の日がやってくる。
慶應四年正月三日‐鳥羽街道
「ううい、寒い。何時までつったってれば良いのかね」
体をもじもじさせているのは、平太だけではない。すでに半日、立ったまま待機していた。薄明が近付いている。冬服なので、印度木綿の白襦袢(洋風のシャツか)の上に白フラネルの腹巻をし紺木綿のチョッキを着て、黒羅紗の胴服(詰襟の上着)を身につけている。が、足袋とわらじしか履いていない足から、冷気が浸み込んで来る。
「まあ待て、まだ動きはない」弥助は、冠物の庇に手をかざして前方の様子を伺った。冠物は、外人部隊映画でお馴染のケピ帽に酷似している。髷を結っていると被りにくく、三番小隊などは全員が断髪してしまった。
「ブランケツトを被りたいね」平太はそう言って、フランス式ランドセルに巻きつけた毛布を指差した。
「我慢しろ」そう言う弥助も、肩に食い込む革バンドに辟易していた。「それより数馬様、薩州勢が左右に散開しているのが気に入らないのですが。我らだけでも弾込めしましょうか」
鳥羽街道上に行軍隊形で待機する第一連隊の前には、見廻組が居た。その先頭では大目付滝川播磨守が薩摩藩士と口論していた。滝川は、薩摩と開戦する大義名分を得るための「討薩表」を朝廷に提出しにここまでやってきたが、当の薩摩藩小銃隊に道を塞がれたのである。応対の薩摩藩士は、「朝廷の許可を得ていないので通せない」の一点張りで埒が明かない。滝川が懐に何を忍ばせているかは見当が付くから、これも当然であろう。にもかかわらず滝川は、「朝廷の御許可は得られたか」などと馬鹿正直に待っていたのである。何とも鈍いと言わざるを得ない。
「うむ、この様子は我らに十文字に砲火を浴びせるつもりであろう。大坂から押出せば、数に劣る薩長は戦わずして引下る筈だったが、やはり甘かったな」数馬も答える。
「このままでは的になるだけです。散開しましょう」
「うむ。進言してくる」と言って、数馬は隊列を離れ、歩兵頭(大佐相当:連隊長)の徳山出羽守の所へ向かった。
その時、
「進め!」
という命令が前から送られてきた。見ると、滝川が馬に乗り、薩摩小銃隊に向けて一鞭くれた。
あっ、と弥助は思った。大目付の滝川には、薩摩小銃隊の布陣の意味が判っていないらしい。西洋式の戦術を知らないのだろう。このまま強行突破する気だ。無知ほど恐ろしい物はない。
馬上の滝川が薩兵陣地に向かって進む。あぶない、と弥助が思った刹那、薩摩の大砲が火を吹いた。
「伏せろ」
弥助の一声で、三番小隊は這いつくばった。バンバンと大音響がして、薩摩小銃隊が発砲した。前方の見廻り組で隊士が倒れるのが見えた。
その時喇叭が鳴った。「側面縦隊で右へ進め」である。第一連隊は、一番小隊を先頭に駆足で鳥羽街道を右に逸れ、東に向かって薩兵陣地と平行に展開していった。
西の桂川から東の西高瀬川に挟まれた一キロほどの狭い地域に、両軍合わせて千五百程の兵力が向かい会った。
薩兵陣地でも砲弾が炸裂する。弥助は、街道沿いで桑名藩砲兵が四斤砲を展開していたのを思い出した。薩兵の射撃が一時止んだ。
わぁー、と鬨の声がしたので見ると、見廻組が抜刀して斬り込んでいた。京都のテロ対策部隊としては新撰組に後れを取ったが、この日の見廻組は勇敢だった。薩兵の一斉射撃にバタバタと隊士が倒れた。が、彼らが血を持って薩兵の火力を吸収している間に、第一連隊は横隊を整えた。後方からは伝習隊半大隊が進出してきて、左翼を埋める。
そこへ、馬が乱入してきた。どうどう、と馬上の主人が宥めるのも効かず、歩兵達の間を通り抜けて行った。
「滝川播磨守様が、あれではな」いつの間にか戻っていた数馬が言った。「ご自分の馬も意のままにできん御仁が、大目付だったとは」
弾込め、の喇叭が鳴った。敵陣との間は四百メートル。左翼の伝習兵は、早くも射撃を開始している。彼らの装備するフランス製シャスポー銃は、当時世界でも最新鋭の後装銃(こんにちのように銃身の後ろから弾を込める)で、弥助たちや薩兵が持つ前装式ミネー銃に比べて装填速度が格段に速かった。
次に着剣の喇叭が鳴る。斉射のあと、全軍で突撃するのだ。
がその時、旧幕軍の隊列数か所で、砲弾が炸裂した。着発信管の榴弾であった。
弥助の近くでは五番小隊のあたりに着弾した。皆、反射的に身を伏せる。
「うわー、き、肝がおらの手に」
四番小隊の新兵がやおら絶叫して立ち上がる。人間の内臓が千切れて飛んできたのだ。古参の兵が押さえつけて宥める声が聞こえる。天狗党や長州藩と戦ってきた兵は、この程度の事ではたじろがなくなっていた。
再び二列横隊の喇叭。横隊になると、そのまま前進する。急ごしらえの薩兵の胸壁陣地に近づいて行く。しだいに間隔が詰まる。
全体止まれ、の喇叭が鳴った瞬間、薩兵の小銃が火を噴いた。
弥助たちは一斉に伏せた。
「誰がやられた」
弥助が怒鳴った。何人かの仲間が動かない。
「おい弥助」伊兵衛が肩を叩いた。「数馬様、戦傷」
「なに」
振返ると、数馬が脚から血を流してうずくまっていた。
また、薩兵の一斉射撃。
負けじと突貫の喇叭が鳴るが、途中で途切れてしまった。「喇叭がやられた」一番小隊の誰かの言葉が、リレー式に横隊の末端まで伝えられた。
喇叭は特殊技能で若い方が覚えが良く、彼らの喇叭手は、まだ頬っぺの赤い少年だった。「喇叭」と呼ばれて、連隊の皆から可愛がられていた。
喇叭が途絶えた時、敵の籠る陣地までのわずかな距離が、途方もなく遠く見えた。
何人かが、ゆらゆらと立ち上がると、後方へ向かって駆け出した。それに引きずられるように、また何人かが逃出す。
壊走が始まった。
「三番小隊集まれ」弥助は、自分の小隊だけでも、守らねばならないと思った。
「あの二人はだめだ」負傷者を調べていた清八が報告する。「けが人は五人、数馬様で六人だな」
「よし、清八の半隊が、けが人を運べ」弥助が命じる。
「おい弥助」数馬に呼ばれる。すでに止血はしてあったが、歩けそうにない。「敵の射撃の合間に、少しずつ下がるのだぞ」
「わかっております」
「あそこの竹藪にしよう」後方を指差す。
「ひとまず、あそこまで下がります」
寅吉の半隊が、応射しながら、少しずつ後退する。
「俺も連れて行ってくれ」と他の小隊の兵がすがりついてきたが、助からない傷なのでそのまま残す。
竹藪に入る頃には、日もとっぷりと暮れていた。そこには、わずかな数だが伝習兵や見廻組の隊士が踏ん張っていた。
「おめえら、小隊ごと引揚げるとは、なかなかやるな」
「左様、仲間を見捨てぬとは立派だ」
口々にほめてくれるが、見捨てた兵を想うとあまり好い気もちはしない。
「見ろ、薩州の奴らが出てきたぞ」
薩兵は陣地を出て、二列横隊で前進を始めた。伝習兵が射撃を始める。見廻組も、戦場で拾ったシャスポー銃でそれに加わる。
「おい弾が出んぞ」見廻組の一人が言う。
「そらあ不発ですな。弾をお取替えなさい」横の伝習兵が、シャスポーの実包を見せながら教える。「シャスポーの弾は、火薬の後ろに爆粉が糊で貼付けてあるだけです。それを針で突いて発火させるので、不発が多いんですわ」
シャスポーは、弾と黒色火薬を紙でくるんだ実包を使用していた。発火用の雷酸水銀は、銅のキャップに入れて実包底部の厚紙に貼付けて有るだけである。貼付け方が悪いと、当然不発になる。
「ほう、新鋭の利器にも意外と不便なところがあるな」
初期の後装銃には、まだ改良点が山ほどあったのである。
寅吉の半隊にも応戦を命じ、清八の半隊から負傷者一人に着き二人の付添を選んで後送する事にして、定吉に指揮を取らせる事にした。
「お前たちも下がれ」と数馬が言うので、
「薩州の奴らが前進してきます。しばらく足止めしてから、下がります」と答えた。
「うむ、これを渡しておこう」数馬が望遠鏡とリボルバーを差出すので、それを腰の雑嚢にしまう。
見廻組の佐々木と名乗る人物の頼みで、負傷はしているが歩ける隊士も一緒に連れて行くことになった。
「街道から離れて行け」街道沿いの民家は薩摩藩砲兵に焼夷弾を撃ち込まれ、松明替りに赤々と燃えていた。「俺たちも、すぐ行く」定吉に、そう指示を与えて送り出した。これで三番小隊は、半分の二十人程の人数になってしまった。
竹藪からの射撃で薩兵は前進を止められ、しばらく膠着する。
見ると南東の方角の空が明るくなっていた。伏見奉行所が燃えていたのである。
ここで、ひとつの珍事とも言える事実が有る。会津藩砲兵の白井五朗太夫隊は、竹田街道を前進するように命じられた。竹田街道とは、伏見の薩摩藩邸の当りから北進し、京都に至る道である。今弥助たちが戦っている戦場の東側を流れる西高瀬川を渡った所にある道だ。
白井隊は伏見の町はずれて、土佐藩兵の検問に引っかかるが、
「我らの見えない所なら、どこを通ってもよい」
と言われ、畦道を迂回して竹田街道に戻り、そのまま京都の入口まで進出してしまった。おそらく、弥助たちの戦う銃声も聞こえたであろう。通行人を掴まえると、京都の入口はどこかの兵が封鎖していると言うので、二時間ほど後続を待ったらしい。砲兵だけで戦争する訳にはいかないから、歩兵が後続すると思うのは無理もない。が、やってこなかったので、来た道を引返して撤退した。
全体の指揮を執っていた竹中丹後守が、何故こんな中途半端な兵力で進軍させたのか、理解に苦しむ。砲兵だけだから、まさか威力偵察ではあるまい。単に、隷下部隊を掌握していなかっただけかもしれない。
実際にはこの時、薩長の戦闘部隊はほとんど京都市内から出払い、がら空きであった。いや、がら空きと言うのは不正確で、先の土佐藩兵の様に、どちらとも態度を決めかねていた諸藩兵がかなりいた。旧幕軍が姿を現わせば、御所を占拠するのに訳は無かったのである。
部隊に報告させるのは、指揮官の義務でもある。白井隊に、騎兵を数騎付けていればこの京都の入口まで進出できると言う情報は、竹中に伝わったであろう。そして後続部隊を送り、力づくで突破すればよい。
竹中は、竹中半兵衛の子孫なのに、洋式兵法はおろか戦国時代の戦争のやり方も判っていなかったと思うしかない。
いったん後退した伝習兵が、夜陰に紛れて前進してきた。が、街道筋で燃える民家に照らし出され、狙い撃たれる。竹藪の手前で停止してしまった。
「こらあ、そろそろ潮時だな」竹藪の中で、頭立つ伝習兵が見廻組に言う。「佐々木様、あの連中と一緒に下がりましょう」
「うむ、一度退いて立て直すとしよう」
「おめえさん方はどうする」
弥助に聞くので、
「大勢で動くと目立つから、先に下がってくれ。俺たちは、いったん伏見の方に引いてから鳥羽街道に戻る」と答えた。
「そうさな、兵を散らした方が良さそうだ。そいじゃ、お先に行くぜ」
伝習兵たちは、フランス仕込みの身のこなしで遮蔽物の間を走りながら、暗闇に消えていった。見廻組が、その後をあたふたと追う。
三番小隊は散発的に射撃しながら注意を引き付けた。そして、竹藪から東南の方向に脱出した。
薩兵は追撃して来なかった。夜なので無理押ししてこなかったのだろう。
三番小隊は、伏見の火災に引きつけられるように、畦道の中をとぼとぼと歩いた。しばらくして止まる。
「この道を右に折れれば、鳥羽街道に戻るはずだ」
弥助が行こうとすると、清八が、
「一休みしようぜ。みんな疲れとる」
「そうだな、あそこにしよう」弥助は、枯れ草で覆われた場所を指して言った。座れば外からは見えない。交代で歩哨を立て、二時間ほど休憩する事にした。兵たちは、腹が減ったなどど文句を言いながら、それでもランドセルから外したブランケツトにくるまって、仮眠を取った。
弥助、清八、寅吉が食料の調達で話し合っていた時のことである。
「誰か来るぞ」
と歩哨の一人が言った。
ひとりだ、と言うので数人で取り囲んだ。
「ま、待ってつかあさい」
その兵は両手を挙げた。関東の訛だった。清八が進み出て検める。
「葵の徽章だぜ」
徳川家の兵だ。
「そうじゃ。第七連隊の平蔵だ」
「よし、引け」弥助が命じる。バチバチと打金を戻す音が聞こえる。「第七連隊は、伏見に詰めていた筈だが」
「それがのう、大変ないくさで」
ま、こっちで休め、と言って草むらに車座になる。平蔵は伏見の戦況を物語った。伏見では、奉行所と街路を挟んで対峙した薩兵とで、鳥羽街道からの砲声を合図に、いきなり壮絶な市街戦になったらしい。旧幕軍は、剣士で編成した遊撃隊、新撰組、会津藩別撰組が居り、なまじ至近距離なので最初から白兵戦を挑んだのだ。第七連隊も援護射撃をしたが、援護の効果が出ないうちに斬り込むので損害が増えた。
「そのうち、薩摩の奴らは大砲をうまく使って突貫してくるので、俺らは散り散りよ。奉行所は大砲で燃え上がるし。俺らの指図役が、変な所で下がれと言ったから、もう、あとさき見ずにみんな逃出しおった」
「それで、新撰組はどうなった」
弥助は胴乱の残弾を数えていた。十二発、多いとはいえない。
「奉行所が焼かれちまったんで、退却しただよ。まったく、薩摩の銃隊にまともに斬込むもんじゃから、いくつ命があっても足りはせん」
「新撰組も、小銃を持っとったはずだが」
「あの様子では、銃隊の調練はしてないの。手慣れた斬合いに持込もうとして、ばたばたやられとった」水筒を口に含みながら答えた。彼も、給食にはありついていない。「元々はわしらと同じ百姓だに、なまじ剣術が出来たもんだから侍になるのを夢見て新撰組になって、ご直参になったのは良いけれど、鉄砲の世の中になってしもうて、戦争では百姓の銃隊の方が役に立つようになってしもうた。思えば、哀れなもんよのう」
その時、背後から大声がした。
「うぬら、武士を侮辱するか!!」
その声で、三番小隊の兵たちは弾けるように散開し、声の方向だけでなく四方に小銃を向けた。
「あそこの茂みに誰かいるわ」
「平太、ちゃんと見張ってたのか」
「今見つけたとこだわ。暗がりを伝って這って来たんで、わからんわ」
平太の指す暗がりに、いくつかの人影が見える。若い声が、いらだたしそうにまた叫んだ。
「うぬら、士分に鉄砲を向ける気か。手討ちにしてくれる」
弥助が立ちあがった。
「徳川家陸軍第一連隊、歩兵指図役下役、田畑弥助と申します。無礼はお許しください」
すると、暗がりからひとりの武士が進み出てきた。聞き覚えのある声だった。
「おお、君は弥助か。何年ぶりかのう」
「これは」弥助は目を丸くした。「土方さんじゃないですか」今、消息を知りたいと思っていた人が、目の前に現れた。
「副長」先ほどの若い隊士が、抜刀したまま進み出てきた。「ご存じ寄りの者ですか」
「江戸で道場をやっていた時の、門弟だよ。しかし歩兵になっていたとはな」
「自分から兵賦を申出ました」弥助が答えた。
「それは、君らしい」土方は若い隊士を見た。「刀を引け、同じく徳川家に仕える身だぞ」
「しかし、こ奴ら武士より百姓の方が強いなどど」
「鉄砲を持った人間の方が強いと言っただけだ。君も今日は骨身に滲みたろう」
「けっ」隊士はそう言うと、刀を鞘におさめた。弥助は、この若者の気持ちが良く判った。なまじ剣術の才能があったら、彼も近藤らに従って新撰組に入り、今日の伏見街道で戦死していたかも知れないのだ。
「みんな銃を引け」弥助が命じると、またエンピールの打ち金を戻す音がした。
それを見て、暗がりからまた三人の隊士が出てきた。
「ところで君たち、士官はどうした」土方が訊いた。
「今日の戦いで戦傷したので、今は私が小隊の指図役を務めております」弥助が答えた。「第一連隊は、今日の緒戦で百人以上の兵を失ったと思います。我三番小隊からも戦死者が出ました。その後、伝習隊や見廻組などと共に戦いましたが、胸壁陣地に籠る薩州勢を押返すことができず、伝習隊とも別れ、こちらに退いて参りました。」
「と言うことは逃げ来てたのであろう」若い隊士は敵意を隠しもしなかった。
「そうではあるまい。逃げたのなら、今頃大坂まで落ち延びている筈だ。こんな所にはおるまい」土方が宥めた。「弥助、相談なのだがな、ここから三町ばかり離れた橋のたもと長州勢が陣を張っておる。おそらく、明日の戦いの足がかりにするつもりだろうが、三十人ばかりが小銃を持っているので、われらでは手が出せん」
「副長自ら斥候にお出ましでしたか」弥助は顔をほころばせた。この人は変わっていない。「夜明けまで、ひといくさするくらいの間はありますな」
弥助が一声かけると、百姓兵たちはきびきびと整列した。
第七連隊の兵も、何気なく末席に混じっている。ついさっき会ったばかりの弥助の指揮でも、違和感なく戦うであろう。
「我ら三番小隊は、」弥助が訓示している。「新撰組と協力して長州の哨所を襲う。皆、腹が減っていると思うが、もうひと踏ん張りしてくれ」
三番小隊と聞いて、土方もある噂を思い出した。
(そうか、石州で大村益次郎の本陣に夜討ちを掛けたのは、この隊だったのか。それにしても、この男にこんな器量があるとは思わなかったな)
土方は、すっかりふてぶてしい指図役顔になった弥助を眺めていた。
三番小隊が土方に付いて行くと、二十人程の新撰組がいた。物陰で火を起こし、暖を取っていた。
「源さん、お客を連れて来たよ」
「ほう、歩兵ですか」なつかしい暖かい声がして、井上源三郎が立ち上がった。
「お久しぶりです」
「なんだ、弥助じゃないか!」
「最後に稽古を付けて頂いてから、五年になりますか」
今度は、弥助の横にいた清八が驚いた。
「え、おめえ、新撰組に剣術を習ってたのか」
「そうだ」
「それでも、あんなもんか。おめえ、歩兵になって良かったなあ」
しばし旧交を温めると、土方が地図を出し、軍議を始めた。
ここは、旧幕軍の陣地のある下鳥羽村と、伏見の中間当たりの、上三栖という場所らしい。近くを南北に流れる用水路に架かる橋を、長州兵が占拠している。土方が言う。
「弥助の話では、鳥羽街道のこの赤池と言う場所の北に薩兵が陣を敷いている。と言う事は、赤池の陣地を迂回して横から攻めるのにせよ、西高瀬川を渡って、伏見の背後に出るにせよ、この橋は必要じゃないか」
「そうですね。明日の戦いには有利になるでしょう」弥助が訊く。「この橋の守備の様子は」
「橋の両側に俵を積んで道を塞いでいる」
「敵に見付らずに、どこまで近づけますかね」
話の合間に、若い隊士が三番小隊に焼餅を配ってゆく。付近の農家に有った鏡餅だと言う。住民は既に逃出して空き家だった。そんな空き巣のような真似をして、空腹を満たすしかなかった。
一時間後、問題の用水路に直角に交わる畔道の方角から三番小隊は接近していった。五十メートルほどで長州の歩哨に見つかる。
「散開」
三番小隊は左右に散り、長州兵より先に射撃を始める。
長州兵も応射するが、左右の暗闇から接近する新撰組には気が付かない。間隔を詰めると、弾込めの合間を狙って突貫する。三番小隊が着剣する頃には、かたが付いていた。長州兵は、刀の間合いになる前に逃げ去った。
長州奇兵隊は身分に関係なく部隊を作った。だから、散兵戦には強くとも、白兵戦は苦手だ。薩摩藩は武士を小銃で武装する事に成功していた。従って薩摩藩小銃隊は白兵戦にも強く、戊辰戦争の中核となった。
橋はそのまま三番小隊が確保し、日の丸を立てた。長州戦争の折、支給されたあの日の丸である。なぜか回収されなかったので、そのまま平太に持たせていたのだった。
土方達は、連絡のため伏見へ戻った。
朝が来た。ひどく冷え込んだ。俵の陰にじっとしている三番小隊は凍えた。明るくなってきたし霧が出てきたので、弥助は火を起こすよう命じた。ブランケツトに身を包んで、交代で寝た。
そのうち、北風が吹き出した。目を開けていられないほどの強風だった。旧幕軍には不利な風だ。
しばらくすると、後方から歩兵の隊列がやってきた。旗印で、大坂で新編された第十二連隊だとわかった。先頭の馬上の武士に、弥助は進み出た。
「第一連隊三番小隊、田畑弥助と申します」
「窪田備前守である。新撰組の連絡でやってきた。今までよく踏ん張ってくれた」
隊に付いてきた人足から、三番小隊は握飯、水、弾薬などを受取る。義務を果たすと、人足は一目散に後方へ駆けて行った。
その時、斥候が戻ってきた。
「薩州がやってきたぞ」
見ると、三百メートルばかり先で、横隊を組みつつある。直線ではなく、円弧状に配置されているが、数は多くなさそうだ。
「よし、参るぞ。奈破崙の戦法を試す」
高らかに喇叭が鳴り、隊列を行軍隊形から攻撃縦隊に組み換える。
「前進」
一番小隊から橋を渡って前進を始めた。窪田は相変わらず馬上のまま、橋のたもとにいる。弥助が、狙撃されますと注意しようとすると、後ろから声が掛った。
「おい、弥助」
「これは平次郎様」天野家の次男であった。
五番小隊の横を歩いている所を見ると、この小隊の指図役であろう。
「佐々木君もいるぞ」
後ろを指すので見ると、天野家の元用人が手を振っていた。六番小隊の指図役であった。陪臣の身から士官に登用されたとは、優秀だったのだろう。同時にいかに人材不足だったかも窺われた。
平次郎が通り過ぎ、佐々木が近付いてきた。懐かしい笑顔だ。
「行って参る」
だが、五番小隊が橋を渡り終えたとき、薩兵が火蓋を切った。
第十二連隊の隊列でバタバタと兵が倒れた。前進が止まった。
「ひるむな、攻撃縦隊を崩すな。前進!」窪田が馬に一鞭くれ、橋を渡って隊列の先頭に向かった。
佐々木も、六番小隊の横を前後しながら、隊列を崩すなと叫んでいる。
その前方を弥助が見ると、平次郎が居ない。いや、今むっくりと起き上ったのが、平次郎だ。頬から血が噴き出している。急にむせって、何か赤いものを吐出した。
望遠鏡で見ると、頬を射抜かれていた。致命傷ではないが、早く手当てせねば、と思う。が、先頭の方で突貫の喇叭が鳴った。一番小隊から北風に向かって早掛けで突入してゆく。土埃が舞いあがる。平次郎も刀を抜いて、進め、進めと声をからして前進し、視界から消える。
また敵の一斉射撃。兵がバタバタと倒れる。佐々木もひるまず兵を叱咤し、突進していった。見えなくなった。また一斉射撃。
弥助は射撃の間隔が短い事に気が付いた。
「薩州は四列だぞ」目の良い寅吉が言った。「後ろの奴が弾込めしているようだ」
数が少なく見えたのはそのせいか。
「三番小隊撃て撃て、味方を助けろ」
薩摩藩はイギリスと友好関係にあり、軍事援助を受けている。このとき使ったのはイギリス陸軍の騎兵防御戦術であった。すなわち、四列横隊を組み、第一列は発砲後、膝をついて銃剣の槍襖を作る。第二列は発砲すると小銃を第三列に渡し、同時に装填済みの銃を第三列から受取る。第三列は、発砲済みの銃を第四列に渡すと同時に装填済みの銃を受取る。第四列は、発砲済みの銃を受取るや直ちに装填する。こうして間断無く射撃できる。
弥助たちの援護射撃も空しく、第十二連隊は前進を阻止され、兵たちはまた橋を逆戻りして敗走してきた。
やがて、虫の息の佐々木が、配下の兵に運ばれてきた。平次郎も運ばれてきたが生死は良く分からない。そして、窪田備前守までが運ばれてきた。
「伊兵衛、橋を焼け」
弥助が、煤けた顔でそう命じた。北風で銃の煙がまともに顔に吹き付けるのだ。発砲するたび、目が痛かった。やはり煤けた顔の伊兵衛が、橋の下に仕込んだ枯草に火を付ける。
焼け落ちるまで待ちたいが、薩兵が前進してきていた。後退しながら、距離を取って振返ると、薩兵が厳寒の小川に飛び込んで桶で水を掛けている。消火用具まで用意してきたのだ。
逃げる弥助の脳裏に、天野家の大奥様の顔が浮かんだ。
今日も壊走だ。
どうしてこんな事になったのか。弥助は西洋の軍からこの国を守るために幕府の歩兵になった。なのに、薩摩藩相手にこの有様では、本家の英軍相手に勝てる訳はない。
窪田は、神奈川下番時代に英軍の調練を受けている。展示演習では優秀だったとの評価が、外国人観察者の記録にも残っている。なのに、薩兵の戦術を予想できなかったのか。
「窪田様は、奈破崙の攻撃縦隊を試すとか言ってたな」
「誰だい、そいつは」清八が知る訳がない。
「仏蘭西の大王だ。六十年くらい前に、欧羅巴を平定しようと暴れ回った、いくさの神童だ」
「今の陸軍は仏蘭西仕込みだから、そのやり方を真似したんだろ」
「それにしては、あっけなく負けた。何でだ」
ナポレオンの名前は知らなくとも、清八には下士官として実戦経験があり、自分なりの意見を持っていた。
「俺は、砲兵の到着を待ってから仕掛けた方がいいと思ったね」
その通り。窪田のミスのひとつだ。彼には実戦経験がない。だが弥助は、自分で六十年くらい前と言った事に気が付いた。
「そうか、その頃はまだゲベールだ。ミネー銃は、ここ二十年くらいで欧羅巴に広まってきた。
ひょっとして、仏蘭西はミネー銃を使った大戦争は、まだやってないんじゃないか」
ミネー銃とゲベール銃では、有効射程、命中率とも格段に違う。ゲベール銃では通用した戦術も、ミネー銃には通用しないのではないか。
「なんだ、おい、それは。仏蘭西の兵法がまちがっとるという事か。おおごとだぞ、それは」
実は、アメリカの南北戦争では、双方ミネー銃を持っているのにゲベールの感覚で密集突撃したため、双方に大損害が出た。砲兵の進歩もそれに拍車をかけた。が、その事実は、世界の軍事界ではまだ充分に理解されていなかった。
だから同じ間違いが、日本でも繰返されたのである。
三番小隊がたどり着いたのは、後年酒樽陣地と呼ばれる防衛線であった。つい先刻戦闘が有ったと見えて、旧幕軍の築造兵が、忙しそうに陣地の補修をしている。その一人に声をかけると、「親分」の所へ連れて行かれた。
「第一連隊三番小隊の、田畑弥助です」
「新門辰五郎と申しやす」弥助もその名は知っている、有名な江戸火消の親分である。娘は、慶喜の妾でもある。「お手前は、お武家さまでございますか」指揮官なのに大小を差していないので、困惑気味である。
「私は元々多摩の百姓、大小は邪魔です。歩兵だから小銃で戦います」こちらはすでに士分であるが、相手は江戸の大親分なので、敬語で話した。
「するってえと、小銃は歩兵の魂ってえ事ですか」
「そんなところです」
「第一連隊は淀に下がったと聞いておりやすが」
「本隊とはぐれてしまって、鳥羽口と伏見口の中間当たりで戦っていました。今戻ってきたところです」
聞けば、伝習隊や会津・桑名兵の奮戦で新政府軍を北に押し戻しているのだと言う。
「今が攻め時です。もうすぐ援軍がやってくるでしょうから、それまで休んでなさい。飯もある」
弥助たちは、泥だらけの手で握飯を頬張り、腹が膨れるとブランケツトにくるまり、酒樽の陰で寝た。第七連隊の平蔵とはここで別れ、彼は原隊に帰って行った。
だが、援軍は来なかった。陸軍奉行竹中丹後守から来たのは、攻撃中止の伝令であった。理由は判らない。
単に、闘志不足で有ったとでも想像するしかない。
勝機を自ら捨てた旧幕軍は、三番小隊の居る酒樽陣地より一つ北の、富の森陣地で夜を明かすことになった。戦機は空しく失われた。
「三番小隊は居るか!」
酒樽陣地でまどろんでいた弥助は、目を開けた。日が沈もうとしている。正月四日の夕方だ。それにしても、やけに夕陽が赤い。物理的には黒色火薬の多量の煤が空気中に漂い、波長の短い光を反射したからであるが、弥助には戦死した将兵の血で、空が染まっているように見えた。
和装の武士が弥助の前に立ち、前線に向かう会津藩の伝令だと名乗った。「三番小隊」の名は、ついに会津にまで聞こえたらしい。武士は、強いなまりで言った。
「だいいつ連隊歩兵頭並の徳山出羽守様からの命だ。ただつに淀の本営にまがり越すよに」
淀までは指呼の距離である。一時間後には、本営で待っていた定吉ら十一人と合流した。数馬たち負傷兵を淀の河岸から舟に乗せた後は、ここで待機させられていたらしい。
それよりも、徳山出羽守の言うには、三番小隊を貸してくれと言う会津からのたって願いが有り、伏見方面に向かって欲しいとの事だった。
伏見口の歩兵隊は、本営からの明確な指示が無かったのでそれぞれ勝手に退却してしまった。そこで、三番小隊を増援に要請してきたのだと言う。
「あの土方から援兵に指名されるとは、そちも大したものだな」
と徳山は戎服の詰襟を直しながら言った。お前の指揮がだらしないないからだろう、と弥助は思った。
握飯と香の物を受取ると、伏見口へ向かった。と言っても、防衛線は伏見の町からはるかに後退し、淀に近い千両松と言う場所であった。
着くと、土方がいかにも古武士然とした風貌の武士と話していた。
「会津藩別撰組の頭、佐川官兵衛と申す。」佐川が松平肥後守が家臣、とは名乗らなかった事に気付く。実際この様な言い方だと、どこの藩かわからない事も多い。戦場では不適当だ。
「お手前は士分のようだが、何故大小を差しておらぬ」
「私は百姓出の歩兵でございます。歩兵の魂は小銃でございます。大刀など差していると、散兵戦には不具合でございますよ」
「なるほど」不愉快な顔をするかと思ったが、意外と感心している。「なかなか見事な覚悟じゃ。土方君が推薦するだけのことはある。そこを見込んで相談だが」
佐川が付近の略図を示す。この部分の伏見街道は、宇治川と沼地に挟まれた土手道で、沼地が切れたあたりに千両松が有る。土手道の両側には背の高い葦原が広がっているので、そこに潜んで斬り込みを掛けると言う。
「もちろん、別撰組の方々も、我ら新撰組も、明日は小銃を持って撃ち掛け、敵がひるんだすきに斬り込む積りだ」
土方の説明を聞きながら、弥助はううむと呻っていた。
「今日は酒樽陣地で葦原から槍入れして成功したと聞いていますが、あしたも同じ手を食うとは限りますまい。ここは、土手道の上に囮の陣地をしつらえ、我らが入りますので、それを囲もうと葦原を潜んで迂回して来る敵に突貫した方が効き目が有るでしょう」
なるほど、と佐川も土方も納得した。早速築造兵を呼んで工事を命じると、
「堤を崩すのですか」と抗弁した。堤を掘り下げなければ胸壁陣地はできない。しかし、ここは宇治川の洪水を防ぐための土手である。
だが、
「そうだ、やれ」
と、弥助は命じた。
いくさが終わったら、付近の百姓は懸命に修復するであろう。いくさが正月であったことが、せめてもの慰めだった。
やがて、ろうそくの明かりを頼りに土手道に溝を掘って前方に盛り、その周囲を土を入れた俵や樽を杭で固めた陣地ができた。新撰組の旧式砲もその背後に設置された。
弥助や土方はその作業を監督して回り、明け方近くになってようやく仮眠を取ることができた。
五日の朝が来た。今日も北風が強い。この土手道はほぼ東西に通っているので、旧幕軍の左から右へ北風が吹き抜けることになる。
斥候に出ていた新撰組隊士が戻って来て、長州兵の接近を告げた。
五百メートルぐらいに近づくと、新撰組の旧式砲が撃ち出す。すると、長州兵はばらばらと土手道の両側に降りて、三番小隊の陣地を包囲しようとする。周囲には砲弾も落ち始めた。
弥助も、応射を命じる。一斉に発砲すると、風下の仲間が煙を吸込んで咳込んだ。
「くそ、外した」隊長らしき男を狙撃していた寅吉が言った。「風で弾が流れる」
長州兵が、大きく扇方に展開している。その先、右手の葦原には会津別撰組、左手の竹藪には新撰組が潜んでいる。順調な展開だ。
が、弥助の至近距離で、ドカンと大音響が轟き、俵が吹っ飛んだ。榴弾の直撃だ。
「みんな無事か」
名前を呼び合う声が聞こえる。ふたり戦死らしい。さらに負傷者ひとりの後送を手当てしていると、右手の葦原、次いで左手の竹藪から、耳をつんざく一斉射撃の音がし、別撰組と新撰組が相次いで突貫していった。長州の先鋒は銃剣より長い槍で突き立てられ、後ろを見せて逃出した。しかし長州の第二陣は冷静だった。逃げてくる味方を収容すると、小隊で一斉射撃。別撰組がひるむ間に後退し、別の小隊が前に出て一斉射撃。別撰組が槍の間合いに詰めようとすると、小隊ごと下がり、弾込めした別の小隊が現れまた一斉射撃。
右手の新撰組も同じ様な事をやられていた。長州兵を追う人数がみるみる少なくなってゆく。やられた。昨日の酒樽陣地の戦いを見て、槍入れ対策を申合せてきたに違いない。旧幕軍の大ざっぱな指揮に比べて、なんと芸の細かい事か。
薩摩、長州とも対外戦争をやっている。それが契機となって改革が進んだが、指揮官もふるいにかけられたのだろう。
その時、正面の土手道を新手の小隊が銃剣を付けて突進してきた。あの軍装は薩兵だ。白兵戦になったら敵わない。
「ランドセル担え。清八の半隊は百歩下がって待機。寅吉隊は一斉射撃の用意」
敵と同じことをやってやろうと思った。清八隊はすぐに三十メートルほど下がる。
「撃て」
薩兵がひるむ。
「二百歩後退して、弾込め」
寅吉隊はすばやく陣地を抜け出して、土手道に伏せた清八隊を通り越して下がる。弥助だけが清八隊の横に着く。
「撃て」
そしてまた後退。後ろを見るが、寅吉隊は、まだ弾込めが終わっていない。くそ、間に合うのか、
すると、薩兵の背後に鬨の声が上がり、彼らの前進が止まった。
新撰組だった。天然理心流と薩摩示現流の壮絶な斬り合いとなった。が、損害を避けたのか、薩兵が引いたので、新撰組は戦場を離脱する事が出来た。
こうなっては仕方がない。淀の本営に引揚げだ。
「まだ淀城がある」と土方はつぶやいていた。
淀城は、稲葉美濃守の居城である。京都―大坂間の交通路を厄すこの戦略的要地に譜代大名を置いているのは、まさにこの様な時の為であった。主君は現役老中なのでこの時江戸に居たが、淀の旧幕軍本営は、当然のように淀城に入ろうとした。
ところが、である。
新撰組と三番小隊は、宇治川に架かる淀小橋に達した。ここを渡れば、淀城下である。ところが、橋の手前に旧幕軍の兵が屯して渡ろうとしない。そこここに日の丸が翻って、右往左往している。
土方が顔見知りの士官を見つけて訳を聞くと、とんでもない事になっていた。
「滝川播磨守様が淀城に入ろうとしたら、槍を突き付けられ追い返されたらしい。それで、淀城下は鳥羽口と伏見口から敗走してきた兵でごった返している」
「何と、淀藩が裏切ったのですか」
「左様、官軍にお味方すると言ったらしい。じつは今日、錦旗が戦場をひと巡りしたとの噂もある」
「キンキ?」黙って聞いていた土方が、怪訝な顔をする
「『太平記』に出てくる、あれですか」弥助は、頭の中の国学の知識を検索した。
「それだよ」と士官は答えた。
「つまり、錦の御旗」弥助が、土方に向かって説明する。「天朝様の官軍で有ることを示す旗です。菊の御紋の」
「なんだって。すると、われらは朝廷に歯向かう賊軍になったのか」
「そう言う事になりますね」
「ふむ」さすがの土方もショックを受けて、しばらく言葉が無かった。「とにかく、その官軍とやらが迫っている。淀小橋を焼く用意だけはしておこう」
「そうですね」弥助も気を取り直す。「伊兵衛、橋を焼く準備をしよう。あの辺の枯れた葦なんか、附木に良いんじゃないか」
しばらくすると、旧幕軍総督の松平豊前守が現れ、もっと大坂寄りの橋本関門に陣を敷くとの命令を伝えた。旧幕軍の兵たちは、目標を与えられて移動を始めた。
「我ら、橋の焼け落ちるのを見届けてから下がります」
そう言って、土方だけ三番小隊と共に残った。
「おい、餓鬼がひとり、こっちへ来るぜ」
その声に伏見の方向をみると、土手道を少年武士がとぼとぼと歩いて来るのが見えた。橋を焼く準備は、終わりかけていた。
「あれは泰助じゃないか」土方が言う。「源さんの甥っ子だよ」
弥助と土方が駆け寄って迎えた。泥だらけであった。
「おい無事だったか」
目を真っ赤に泣き腫らしていた。まだ十二である。近藤勇の太刀持ちとして入隊したのに、実戦に巻き込まれてしまった。ひとりで戦場をさまよい、心細かったろう。
「井上様は、どうされました」
「討死にしました」聞けば、本人の遺言で、井上の首をかき、敵に渡らぬよう持帰ろうとしたらしい。しかし子供には重すぎ、止む無く途中に埋めてきたという。
「それで良い。源さんも、君の足手まといになることは望まないよ」土方が、泰助の肩をやさしく抱いた。泰助は泣きじゃくった。
こんな状態で酷だとは思ったが、弥助は新政府軍がどうしていたか聞かねばならなかった。泰助は気丈に答えた。
「進撃しながら、途中の竹藪なんかを虱潰しに検めていました。会津の方々が潜んでいるのを見つけると、何人もで鉄砲を撃ち掛けていました」
「成程、それで手間取っているのですね」
「お陰で橋を焼く用意ができた。会津の方々の犠牲を無駄にしてはいかんな」
事実この苛烈な掃討戦で、会津最精鋭の別撰組はほとんど壊滅していた。
「すぐやりましょう」
三人は淀小橋まで戻った。
「三番小隊、整列。みんないるか」
点呼を取る。
「全員いるぜ」清八が言う。
「こっちもだ」寅吉も応じる。
「よし、伊兵衛、火をつけろ」
伊兵衛は、寅吉から教わった懐炉の様な火種を常に持ち歩いている。大工仕事のできる伊兵衛が、工兵の役目をしているからだが、この戦いでは大変役立った。
薬包から抜いた黒色火薬を助燃剤として利用し、火種を近付けると、バチバチと威勢良く燃え上がった。
淀城下には、もう旧幕兵の姿はまばらであった。もちろん住民は何処かに避難している。だが、弥助たちが歩いて行くと、かなり大きい商家から、もくもくと炊事の煙が立ち上っているのに出くわした。怪訝に思い、その家に入ってゆく。戸をがらりと開けて、驚いた。
飯台の周りでは、二本差しの武士が何人かで握飯を握っている。二つの竈で飯を炊いている人足にも、二本差しが混じっている。
彼らは、坂本柳佐率いる旧幕軍の兵糧方であった。坂本は、この時の土方との会話を後年「史談会速記録」に残しているので、それをほぼそのまま記す。まず土方が口を開いた。
「どうも君たち、ここで兵糧をいじっていたところがいかんじゃないか。もう小橋も破れてしまって、味方が居らん位の話である」
「いや、しかし松平豊前守とも約束して、この地を我が死する処と覚悟したから一歩も動かないつもりだ」
「なに、もはやその松平は八幡の方へ引き上げた」
この会話を見ると、鳥羽伏見では、旧幕軍の上級指揮官が部隊を掌握していなかった事が良く判る。坂本も馬鹿馬鹿しくなって、撤退を決意した。
撤退の前に腹ごしらえだ。三番小隊は、飯台に手を突っ込んで、熱い飯を頬張った。
泰助が手を突っ込んだ後に、赤い筋ができた。人血であるのは明らかだった。
「あ、すみません。」
「構わねえよ。新撰組の隊長の血だ。あやかろうぜ」清八は率先して赤い飯をむしゃむしゃ食ってしまった。
人足も相当数逃げてしまって人手不足であった。兵糧方は、兵糧の他、かなりの現金も持っていたから、三番小隊が人足兼護衛になり、それらを船に積み込んで、淀川を下ることにした。淀城が落ちる以上、大坂で籠城戦となるであろう。米一俵でも貴重である。
土方と泰助は、新撰組を追って、ここで別れた。
淀川を下る船の中で、坂本が話し出した。それによると、兵糧方は旧幕軍総督の松平豊前守より、「兵糧は、戦いの最寄りにおけ」との指示を受けたと言う。
「いくさ場は、その日の勝ち負けで何里も動くのに、どうやったら最寄りに置けるのか、馬鹿馬鹿しい御沙汰だったよ」坂本は、弥助にそう愚痴った。
「今、徳川方が陣を敷いている橋本と言うのは、どの辺でしょうか」
「この当たりだよ。右手が橋本、忙しそうに胸壁を築いてるな。左手が山崎、藤堂家の陣が見えるだろ」
「山崎と言うと、太閤秀吉と明智光秀の」
「そう、三日天下の山崎の合戦場だ。『天王山』という言葉の由来はあの山だが、明日はまさしく天王山だな」
この辺は京都と大坂の間にあり、淀川の両岸に山が迫っている地形だ。攻める方向は秀吉と逆だが、古代から地政学的に決戦場に成りやすい条件を持っている。
「ところで君は、夷国から皇国を守るために兵賦になったと聞いた。その君が、徳川家と島津家の私闘の様なこのいくさを、何で必死に戦ってきたのかね」
「そうですね。大政を朝廷にお返したあとは、上様も含め有力な諸侯の会議でこの国を治めて行くのだと思っておりました。それならば、夷国に対するにも、ひとり徳川家だけでなく、皇国全体の利益の考えてのまつりごとができたでしょう」
繰返すが、この時期の「皇国」とは素朴に「天皇を君主とする国」という程度の意味である。後年の様に手垢にまみれた言葉にはなっていない。
「しかしこの戦争は、徳川家に代って島津家を将軍家に据える戦争に見えます。だから、江戸で御用盗を働くなど強引なやり方で戦争を仕掛けてきたのではないでしょうか。それでは、この国は変わりません」
「成程、そうかも知れんな。百姓でも学問をすると、色々考えるものだな。私は旗本だから、ただ徳川家に忠義を尽くすだけだが」
話し合っているうちに日も暮れてきた。船頭が夜の航行は危険だと主張したこともあり、橋本のすぐ下流の樟葉と言う河岸で、一泊する事にした。
兵糧方が宿賃を出してくれるので、弥助としては皆をまともな宿に宿泊させられ、願ってもないことだった。
ただ、「飯盛女(売春婦)は?」と言う声は、戦闘中なので諦めさせた。
翌日、砲声を背後に聞きながら淀川を下り、半日とかからず大坂城に達した。城内に荷物を収め、昨日の残り物の握飯で空腹を満たす。昨日炊いた冷飯はやたらと豊富にあり、坂本らが台所へ持って行った。
弥助たちは城内の病院を見舞い、後送した仲間がその後死亡した事を知った。ひとりだけ回復に向かっていたが、右足切断で、もはや百姓仕事もままならないだろう。
次いで士官の病室である。弥助が代表して数馬の元へ行く。
「負けいくさ、無念でございます」
「お前たちが奮戦していると、会津の方々から聞いたぞ。良くやってくれた」
「仲間を十人も失いました」
「それは私も無念だが、まだ戦争は終わっておらん。この足ではもはや歩兵士官としては働けぬが、もしこの城で籠城戦となれば、狭間から狙撃するくらいはできる」
「いま、橋本で敵を食い止めております。あの地形なら、そのような事にはなりますまい」
ところが、またもや意外なことが起きた。午後遅く、三番小隊が銃の手入れをしていると、どやどやと歩兵の大群が大坂城に戻ってきた。
様子を見に行くと、
「おい、弥助!戻ってたのか」
と呼ぶ声がする。第一連隊七番小隊の者だった。
「辰蔵、どうした」
「どうもこうもねえよ。俺たち橋本の陣地を守ってた。新撰組から、おめえ達の戦争っぷりを聞いてな、俺たちももうひと働きせねばなんめえと待構えてた。ところがだ、そこへ横っちょからドカンドカンと大砲を撃ち掛けられたと思いねえ」
「横っちょから?」
「そう、慌てて見ると、川の向こう岸の、藤堂様の陣地から撃ってくるじゃねえか」
「なんだって、藤堂様の津藩が裏切ったのか」
「そうとしか思えねえ。そこへ、長州の奴らが前から突っ込んできて、たまらず総崩れよ。会津や見廻組が踏ん張ってたが、どうなったやら」
「おまえら、会津を見捨ててきたのか」
「そう言うけんどよ、昨日は淀城、今日は藤堂様だ。きょうび、誰が裏切るか判ったもんじゃねえ。キンキとかいうやつの御威光でな。後ろから撃たれたら、かなわねえ」
弥助にも、様子が呑み込めた。太平記の遺物と侮っていたが、錦旗は大変な威力を発揮しているらしい。それに押されて、日の丸を掲げた旧幕府軍の部隊が次々と大坂城に逃げ戻って来ていた。事ここに至っては、大坂城に籠城し、是が非でも薩長軍に打撃を与えて徳川家がまだまだ優勢であることを示さねばならない。でないと、全国の大名が薩長にひれ伏してしまう。薩長の幕府ができて、薩長のための政治が行われるだけである。
その夜、慶喜が諸隊長を大広間に集め、「明日は自分が先頭に立つ。大坂を失っても江戸が有る、江戸を失っても水戸が有る」と徹底抗戦の大演説をぶった。
弥助もその話を伝え聞き、いよいよ三番小隊も命の捨て所かと、覚悟した。
しかし、またもや、「ところがである」という事態が起こったのである。
「三番小隊は居るか!」
翌七日朝、ひとりの旗本がやってきた。
「おお、ここにおったか。目付の妻木多宮と申す。こたび、大坂城引渡しの命を受けた。そなた達に手伝って貰いたい」
「お城の引渡し?しかし、今日は上様直々に御出陣と承っておりますが」
「そのブタ一殿は、既に軍艦で江戸に発たれた」
「はあ?」
妻木の言葉に、弥助は二重のショックを受けた。
慶喜は一橋家当主時代から豚肉が好物で、豚食の習慣のある薩摩藩から豚肉を分けて貰って食べていた。ために「豚一様」と呼ばれていたのは弥助も聞いている。が、直参旗本である妻木が、歩兵達の目の前で主君を「ブタ一」呼ばわりするとはどう言う事か。しかも、
「軍艦で江戸に発たれたとは?」
「逃げたのだよ。会津候や桑名候も強引に連れていったらしい」
妻木の言葉を噛み砕くのに、少し時間がかかった。そして目の前が真っ暗になった。
「主君無しでは、どこの家中も戦争になりません」
「そう、だから大坂での戦争はやめだ。この城は朝廷に引渡す」
薩長に引渡すと言わなかったのは、妻木のせめてもの意地であろう。
「それがしが大坂城仮留守監察に任じられ、引渡しの実務を勤める。そこで、そなた達の様な規律のとれた隊に手伝って貰いたいのだ。そなた達の、仲間を見捨てぬ見事な後退戦の話は聞いておる。微妙なお役目なので、粗相が有ってはならぬからな」
妻木は三番小隊を引連れ、上級武士の居る区画に入って行った。そこここで、武士達が殺気立ち、議論している。
第一連隊の士官が駆けてきて、弥助に何か書付を渡し、去って行った。三番小隊の隊長に任じ、歩兵指図役並(少尉相当)に昇進させる辞令だった。
百姓出の弥助が、士官に抜擢されたのだ。
その感慨に浸る暇もなく、奥まった一室に拠点を構え、妻木と三番小隊は引渡しの手順を打ち合わせた。
その日の午後から夜にかけて、旧幕軍は続々と落ちて言った。船には負傷者が優先的に乗せられ、健全な者は陸路を行った。
翌八日になると、城内に人影はまばらになったので、城内を見て回る。
「ここが、ブタ一殿のお部屋だよ」
妻木が言いながら入る。
「何、こんな物がまだあるぞ」
妻木の視線の先には、何やら立派な物が有る。
金の七本骨に日の丸。
「何ですか、これは」
「将軍家の馬印だよ」
そうなると、放ってもおけない。徳川家は、まだ消滅した訳では無いのである。
「こんな目立つものを、どうやって運びましょうか」
「船はもう出てしまったしな」
すると、清八が思い出した。
「築造兵が、まだ残ってましたぜ」
「ほう、それは良い。辰五郎なら、喜んで持って帰るだろう。あの者なら、その辺の直参よりも信用が置ける」
妻木は、ぎょっとするような辛辣な事をさらりと言った。
「がってんです。おい平太、ちょっくら呼んで来い」
こうして新門辰五郎の一行は、将軍の馬印を先頭に、「下に、下に」と呼ばわりながら、東海道を下ったと言う。
平太と入れ替わりに、寅吉がやってくる。
「妻木様、町衆が勝手に城内に入り込んでおります。物まで持出しているようで」
「捨置け。今まで徳川家に尽くしてくれた礼に、町人どもにくれてやるわ。あしたの引渡しに必要な物だけ残っておればよい」
この時、長州兵が城門まで迫っていたが、大坂城のあまりの無防備さに空城の計かと疑い、突入をためらっていた。その目前を、大坂市民が自由に出入りすると言うコミカルな場面が現出していたのである。
それから、新政府軍の使者を応接する部屋を清掃し、台所や弾薬庫を整理した。終わると、妻木は酒樽を出させ、魚の干物や味噌漬けなどを焼かせた。
「もう最後だ。皆食ってしまえ」と妻木は言った。
雑炊や煮しめなども、定吉が采配して調理した。定吉が、料理がこんなに得意だとは誰も今まで知らなかった。
日が落ちると、妻木は酒宴を開いた。もはや身分に係わりなく、妻木は三番小隊全員を同席させた。
「実はな、ブタ一殿は京都に兵を進めるのは気が進まぬようだった」妻木は、誰とは無しに話し始めた。
「すると、どなたが戦争を主導されたのですか」末端の歩兵には、知る由もない話である。
「皆だ。徳川家を朝廷から追い出した薩州のやり方は、聞いておろう。今すぐ押出せば、京都にいる薩州の軍などすぐに蹴散らせる、皆そう思っていた。だがブタ一殿は、煮え切らなかった」
「何故でございます」
「朝廷に、裏から手を回して何かやっていたらしい。おそらく、越前の春嶽公あたりと連絡を取っていたのだろう。だがその辺の事情は、皆には判らない。中には、上様を斬って押出せと言う者までいてな」
ほう、と歩兵達は驚いた。弥助が、代表して聞いた。
「ご先代とは違い、上様が不人気だとは聞いていましたが、そこまでとは」先代とは、十四代将軍家茂のことである。
「左様。ご先代は温かみのある御人柄でな、お若いゆえ頼りない所もあったが、皆で盛り立てて差上げよう、そう思えるお方だった。
だがブタ一殿は、確かに才気走ったお方だが、何か冷たい壁の様な物が有ってな、腹の底が見えなかった。我らの見えぬ所で勝手に何か策している、と言う塩梅だったな」
「そうなのですか」
「うむ。たとえば、労をねぎらって『苦労であった』と言う場合でも、ご先代とは違う。どこか、余所余所しい、ひとごとの様な言い方なのだ」
「つまり、徳川家に忠義はあっても、上様ご自身への忠義は薄いと」
「残念だが、そういう者が多かった。
天狗党の騒動を覚えておろう。今の上様を頼って彼らは越前までやってきた。彼らが降参した時、上様は助命の嘆願すらしなかった。あれで、ひそかに評判を落とした」
「いま思いついたのですが、上様は、そうした配下の方々から逃出したのではないでしょうか。上様を斬っても薩長と戦うと言う・・・」
「ああ、そうか。そうかも知れん。今まで気が付かなんだ」
皆、黙りこくってしまった。旧幕軍は、根っこが腐っていた。その為に、たくさんの仲間が死んだ。
「何だか、湿っぽくなっちまったな」清八は、座を明るくしようとしていた。「今夜は、弥助の出世祝いも兼ねてるんだ。いや、田畑様とお呼びせねばなんねえか」
「よせやい、今まで通り、弥助でいいよ」
「うむ、徳川家は、江戸に戻ってもうひといくさしなくてはならぬ。もはや、武士の武勇は何の役にも立たぬ。そなた達歩兵の時代だ。よろしく頼むぞ」
「任してくんなせい」清八は、腰の雑嚢からリボルバーを出した。「この六連発で、パンパンと撃ってやる」
「どこでそんな物を」士官にしか支給されていない筈である。「おらでさえ、数馬様から貰ったのに」
「最初の日の、上鳥羽の戦場で拾ったんだ」と清八が答えると、
「おらも拾っただ」
「俺も酒樽陣地で」
と言う声が次々と上がり、結局十三丁のリボルバーが三番小隊に有ることが判った。
武士に斬りこまれたら、絶対に弱い。天狗党以来身にしみている。だから、六連発は心強い。
「妻木様、これだけピストルが有れば、あす長州ともめ事になっても、逃げるくらいの事は出来ますよ」
「ははは、心強いことだ。皆、持っていても良いが、暴発には気を付けよ。隠し持っていると、打鉄が衣服に引っかかって、暴発する事があると聞いた」
「千両松で薩州に斬り込まれた時、みんなやけに落ち着いてると思ったら、こういう事だったのか。」弥助も腑に落ちた。
その日は痛飲した。妻木が率先して自棄酒をあおった。酔うと、既に敷いてあった布団にもぐりこみ、正体なく眠りこんだ。弥助も珍しくしたたかに酔ったが、灯火の始末だけはして寝た。
翌日起きると、すでに日が高い。頭が少し痛むが、大急ぎで雑煮を掻き込み、身支度を整える。妻木は和装、三番小隊は、もちろん洋装の戎服。弥助が、懐中時計を見る。
「そろそろ、約束の刻限です」
妻木と弥助が、大手門まで迎えに出る。長州藩の代表が、一個小隊ほどの護衛を引連れ、やってきた。
「大坂城借留守監察、妻木多宮でござる」
「徳川家陸軍歩兵指図役並、田畑弥助です。お役目御苦労でございます」
長州側もそれぞれ名乗る。会見場所まで案内する。要所要所には三番小隊の仲間が立ち、捧げ筒で迎える。会見場に到着すると、茶など出してしばらく歓談。護衛は控の間で、清八がやはり雑談をしながらそれとなく監視する。
護衛に不審な動きが無いとみると、清八は入口に合図する。それを見て、寅吉が会見場へ行く。
「お茶をお持ちしました」
「たのむ」と、妻木が返事すると、定吉が盆を捧げて入り、茶を取替える。
寅吉は、そのまま台所に行き、伊兵衛に言った。
「やれ」
伊兵衛は、土間の三本の火縄に次々と火を付けた。一本でも良いのだが、予備を用意したのである。
火縄は、油を浸み込ませた古俵に燃え移り、炎が壁を伝って燃え上がった。そして、廊下に撒いた油や黒色火薬を伝って、奥へ奥へと拡がって行った。頃あい良し、と見ると、寅吉は会見場へ取って返した。
「台所より失火しました。申し訳ございません」
「なに」慌てたのは長州人である。「早く消火せい」
「それが、火薬倉の方へ火が回っておりまして、危険でございます」
そこへ、長州の護衛兵もやってきた。外から現場を見てきたらしく、大急ぎで報告した。
「火薬倉に火が回ります。早くお立ち退きを」
長州人たちは、慌てて席を立って、出て行った。
見送る妻木の肩を、定吉が叩いた。
「お荷物ですだ」
駄荷袋を肩にかける。定吉は、はやランドセルを背負っていた。戸外に出ると、弥助が三番小隊を点呼していた。煙が漂ってきて、咳込む。
「皆揃ったか。では参る」
大手門を出ると、大坂市民が大勢火事見物に押し掛けていた。先に避難していた長州人が、渋い顔をしている。
「もう、旅支度がすんぢょりましたか。用意の良い事でござる」
「天下の名城を失火で失いました。誠に申し訳ございません」
「やってくれちょりましたな」
「失火でござる」
大音響がして、火薬倉が爆発した。黒い煙が流れてきた。
「しからば、ご免」
「待たれい」と長州人が言うので緊張した。「朝廷の通行手形を持ってゆかねば、道中面倒でござるよ」
「かたじけない」妻木が手形を受取った。一行は日の丸を掲げた平太を先頭に、足早に大坂を後にした。
一行は伊賀路周りで尾張に出ることにした。これは最短距離なのだが、裏切者藤堂家の領地を通るので、旧幕軍が避けたコースである。弥助らは、新政府側の手形を持っているので、気兼ねなく通ることができた。
藩境の関所で手形を見せ、身分を名乗ると、役人が顔色を変えた。しばし待たれよと言われ、待った。慌しく早馬が出て行ったと思うと、通っていいがふたりの武士が付いてくると言う。時が時だけに、徳川家の方に粗相が有ってはならぬからという理由だった。
宿場に着くと、旅籠でいいと言うのに庄屋の屋敷に通され、そこには側用人黒木新兵衛と名乗る老人が待っていた。
徳川家の人間が、なぜ新政府の手形を持っているのか聞かれ、城明け渡しの一件を説明した。
「左様であったか。大坂城は焼け落ちましたか」
すると今度は、なぜ伊賀路を通るか、くどくど聞かれた。どうやら、藤堂家に仕返しするため偵察にきたとでも思ったらしい。
「我が主君、内府は江戸に立ち戻っておりますゆえ、我らとしても江戸に帰るだけです」うんざりしながら、妻木が答えた。内府とは朝廷の内大臣の意味で、慶喜の事である。征夷大将軍は辞職したが、まだ内大臣の官職は保持していた。
「では、当家は当初、徳川家にお味方する積りであったと内府公にお伝えください」
「ほほう、それではなぜ薩長に」
「山崎に退陣していた藤堂采女からの書状によりますと、鳥羽で戦争が始まった時に、徳川方のある御大将が援軍を送ると約束して下さったのだそうです。ところがいくら待っても来ない。約束の刻限を過ぎても来ない。そのうちに、朝廷から勅使が来まして、それもお公家の四条様でございます、旗幟を明らかにせよという。錦旗には逆らえません。京軍に着くと決めた頃、ようやく徳川方の歩兵が参られたそうでございます。当家が徳川方に砲撃を始めたのは、そのすぐ後の事でございます」
「その、京軍とやらに付くのは仕方ないとして、いきなり砲撃とは、いささか合点がゆきませぬ」
「そうですか。書状には、徳川方の歩兵の指図役には、京軍にお味方すると言ったと書いてありますが」
連絡が悪いのはそっちのせいだと言わんばかりである。その指図役が、気の利く人間でこの事を直ちに知らせたとしても、対岸の旧幕軍に到達するまでに西洋時で一時間やそこらはかかるであろう。
「なるほど、ご当家のお立場は良くわかりました。つまり、援軍の約束も守れぬ徳川家は、主家として頼むに足りぬのでしょう。ご藩祖高虎公は、『主人を七度変えねば武士とは言えぬ』と申されたそうですが、そのご薫陶は今でも生きておられる様ですな」
妻木としては、その位の嫌みを言わねば気が済まなかった。
翌日、黒木ら三人が付き添って、昼食抜きで一行は港に直行した。食事は船上でと言われ、直ちに乗船、出航した。ころり(コレラ)患者を隔離するかのような扱いだった。
名古屋に着くと、旧幕軍の敗残兵でごった返していた。船に乗るもの、陸路帰るもの色々だったが、妻木と三番小隊は東海道を行くことにした。少人数なので、道中恙無く江戸に戻る事ができた。
(第3部に続く)