いずみ荘
―ガラガラ
「ただいまー」
「おー、りゅう。おかえり!」
帰宅してリビングに入ると、コタツに入ってテレビを見ている源ちゃんが俺を迎えてくれる。
源ちゃんの本名は大津源太。このアパート”いずみ荘”に一番長く住んでいて、みんなの兄貴のような存在。たまに心配になるほどガリガリで、いつも料理を作ってくれる手はそこら辺の女の子よりも細い。自分の生活だって厳しいのに、いつも俺たちの心配をしてくれる、心優しい28歳の小説家の卵だ。
「りゅう、今日食べたいものあるか?」
「うーん、鍋食いたいな。」
「鍋、いいな。そうしよう。
これから材料買ってくるから、帰ってきたら作るの手伝って!」
「うん。ありがとう。」
俺は安藤隆平。26歳のフリーター。昼間は小さな劇団で劇団員として売れない俳優をやっていて、夜は源ちゃんに紹介してもらったコンビニで一緒にバイトをしている。高校を卒業してから上京してこのいずみ荘に住んでいるから、かれこれここに来て8年ぐらい経つのか…。
源ちゃんが買い物に出かけるのを玄関で見送って、俺は2階の自分の部屋へ行った。いずみ荘は、1階にリビングがあり、2階に5畳ほどの各自の部屋がある構造になっている。現在、男女6人が住んでおり、それぞれなかなか面倒くさい性格をしている。まぁ、それは追々紹介しよう。
「はぁ……」
俺は部屋に入ると布団に仰向けになりため息をついた。
彼女の顔が忘れられなかった。
あの後、彼女はどうなったのだろう?彼女はどこに住んでいて、何をしている人で、どういう人生を歩んできたのだろう?気になって仕方ない。そして、彼女ともしもう一度会えるのなら、俺は彼女のあの微笑みをもう一度見たい。きっと、世間ではこれを恋と呼ぶのだろう。
俺だって人並みの人生を送ってきて、彼女がいたこともある。高校生の時に、大して好きでもない女の子に告白して付き合った。その子の事は、嫌いでもなかったけど別段好きなわけでもなかった。ダラダラ付き合って、卒業と同時に別れた。その人のことを知りたい、もっと一緒にいたい、自分のものにしたい。そう思うことが恋だと言うのなら、これが俺の初恋なのかもしれない。
気が付くと俺はそのまま眠ってしまっていた。夢も見ないほど深い眠りだった。
「りゅう、鍋できたぞ。」
優しい笑顔の源ちゃんが俺を起こしに来てくれた。
「あれ?俺、寝ちゃってた?」
「ぐっすり眠ってたよ。最近、忙しかったから疲れてるんだろ。」
「ごめん。もう鍋作っちゃった?」
「大丈夫。エマが手伝ってくれたから。
さあ、冷めないうちに食おう。」
源ちゃんはどこまでも優しい。たまに、自分の醜さが際立て苛立つほどだ。こんなに優しい源ちゃんには、絶対に売れっ子の小説家になってほしいと心から思っている。
リビングに行くと、湯気がもくもく出た鍋を囲って源ちゃんとエマとピー太が座っている。
「りゅう、おそいよ。」
「ごめん、ごめん。」
「りゅうおきないから、エマがなべつくっただよ!」
「うん、ごめん。ありがとね、エマ。」
エマはイギリスから留学に来ている大学生。日本語も上手だし、日本の文化にも詳しい。長いブロンドの髪と透き通った青い瞳は、いつ見ても見惚れてしまう美しさだ。
「………。」
無言で鍋を突いている中年の太ったこの男はピー太こと松崎浩太。30歳にもなって仕事をしないニート。いつも部屋にこもってアニメとゲームに明け暮れてる。厳格な父親に家を追い出されてここに来たが、母親の仕送りで生活しており、働く気は無いようだ。ちなみに”ピー太”という名前は、いつまでたっても大人になれないから”ピーターパン”からとったものだ。まぁ、ピーターパンなんて可愛いものじゃないが。
「さ、りゅうも鍋食べな。」
「うん、いただきます。」
俺は、テーブルの中央に置かれた鍋から白菜やつくねなどを適当に小皿にとった。一口食べると、体の中がホッとして温まる。さすが、源ちゃんの味付け。濃すぎず薄すぎず絶妙なバランスだ。
「うまい!」
「そっか、良かった。いっぱい食いな。」
エマも、熱い豆腐をフーフーしながらおいしそうに食べている。
「そういえば、明日から新しい人が引っ越してくるんですよね?」
今日、初めてピー太が口を開いた。
「え?そうなの?
俺、聞いてないよ。」
「あぁ、りゅうにはまだ言ってなかったっけ?」
源ちゃんはご飯を口いっぱいに頬張りながらそう言った。
「おんなのこくるんだよ。」
「女の子?」
「うん。俺も詳しいことはよく聞いてないんだけど、俺とかりゅうと同じくらいの年の女の子が明日引っ越してくるって大家さんに言われた。」
「へぇー。」
「エマのこうはいができるの!」
「後輩?」
「今のいずみ荘の中では、エマが一番新入りだろ?
だから、新しい子が来るのが楽しみなんだって。」
「エマ、たのしみ!」
エマは嬉しそうに笑うと、また豆腐をフーフーし始めた。そんなに冷まさなくたって食えるだろ。
その日の夜は、うるさい2人が仕事で不在だったから、平和でほのぼのとした夕食の時間となった。
夕飯の準備をしなかった俺は、食器洗いを引き受けた。ピー太だって準備していないのに、鍋をたらふく食べると何食わぬ顔で自分の部屋へと戻っていった。まぁ、もう慣れてしまったから何も言わないが。
その日の夜は、なかなか寝付けなかった。そりゃそうか。夕飯前にあれだけ寝たんだから。また、頭の中で彼女の顔を思い浮かべた。
明日もまた、あの時間あの場所に行ってみようかな…。
もしかしたら、もう一度会えるかもしれない。
うん、そうしよう。
期待に膨らむ気持ちを抑えながら、俺はその日も眠りについた。