あの日の水と今日の水
息を吐けば、ポコポコと気持ちのいい音を立てて空気の泡が昇っていく。目を閉じて、息が苦しくなるまで続けているとあの日のことを思い出す。
「―――華蓮――! お昼だからそろそろ上がっておいでー!」
「はーい!」
視線は今よりもだいぶ低く、見えるのは左右に広がっている海と、その向こうに続く砂浜。そして、自分を呼ぶ今より若い母親。
あの日の記憶は“音”と共に焼き付いて消えようとしない・肺が新鮮な空気を求めるのに応じて立つと、プール独特の薬品と水のにおいが混ざった空気を胸いっぱいに吸い込む。息が落ち着くのを待って時計を見ると、約束までにはまだ一時間以上ある。後三十分は泳いでも大丈夫だろう。
青みがかったゴーグルで目の前に広がるプールの水面をじっくり十秒は眺めて、私は水中に少し潜ると壁を蹴りスタートを切った。
(今日のお昼はサンドイッチー♪ ツナサンドとハムサンドー。…お姉ちゃんたちに取られる前に戻らなきゃ!)
脇の下に浮き輪を入れて浮かびながらゆっくり砂浜に向かっていた私は、そこまで思うと前傾姿勢になり、足をバタつかせてスピードを付けた。
ゆっくりと大きなストロークで水を切りながら進む。あっという間に二十mを泳ぎ、二十五mの壁をクイックターンで折り返す。腕と足が水面を出入りすることで作り出す音に耳を傾けつつ、心はあの日へと飛ぶ。
足が砂にあたり始めところで減速し、波の流れに乗りながら砂浜に近づいていく。
波が大きく引いていき、普通に立って歩くことができるようになると、だるさを感じる体で歩きながら浮き輪をとって脇に抱えた。
「華蓮ッ!!」
「え?」
悲鳴に近い声で名前を呼ばれ、声がしたほうを眺めた時だった。
ゴオォォ…という音と共に視界は暗転し、足が地面を離れた。
スタート地点に戻ってきて、再びクイックターン。水中で勢いをつけて早いストロークで反対を目指す。
『波の音が見が聞こえない』
そう思ったとき、幼い頭ながら、自分が今波に流されているのだと理解した。
ゴーグルを外していた眼はちらちらと太陽を映すも、水の中からだからか、ぼやけ、目もそう長く開けていることはできない。身体はグルグルと縦や横に回転し自由が利かず、自分が今どこにいるのかもわからない。思わぬ出来事に大量に呑み込んでしまった海水は喉を焼き、意志とは関係なく回転させられたことで鼻の奥がツンと痛む。
そして何より、肺は空気を求めて暴れだしていた。
反対側の壁を再びクイックターンで折り返し、スタート地点へはゆっくりと流れるように泳ぐ。あっという間にスタート地点に戻ってきて、立ち止まると呼吸を整え、寒くもないのに無意識に両腕の肌をさすった。
(苦しい……痛い! 誰か……助けてッ!!)
海水に交じる砂と貝の死骸であるカラから身を守るのに必死で、ギュッと身体に力を入れ身を丸めながらも、心の中で「助けてッ!」と必死に叫んでいた。
身体は波が引くのと同時に沖へと流されたのか、身体が地面に触れることはない。波の流れがだんだんとゆっくりになったのを肌で感じて手足を伸ばすと、足が水しか掴まず、軽いパニックに襲われた。
(苦しいっ! 足がつかないっ! 上はどっち!? お母さん!!)
「は~……」
《ここは温かい屋内の温水プールだ》と、自分に言い聞かせるように再認識させて、肩までプールに浸かった。
落ち着いたところで潜るために少し強く息を吸って頭を沈めると、水中で壁を蹴り、潜水を始めた。
ゆっくりとドルフィンキックを繰り返し反対側の壁を目指す。頭は両腕に挟まれて視線は常に下を向いていたが、プール底の薄くグラデーションのかかったタイルを眺めながら気を紛らわす。明るい水中は、揺れる水面から届く光をいろんな形にして底に映し出していた。
水中で自分を呼ぶ声はしないかと耳をそばだてるも、空気のボコボコとした音しか聞こえない。流されていた間にゴーグルなしで目を開いていたため、痛みで目は開けられず、どこから太陽の光が入っているのか見ることもできない。肺は限界に来ていた。
(お母…さん…助けて……。苦しい……怖い…)
身体が寒いと感じはじめ、再び身体を丸めようとした時だった。背中にフゥ―――っと冷たい風が当たった。
新たな感覚にブルッと身体を震わせるのと同時に、私は無意識に頭を上げた。
潜水で二十五mを泳ぎきり、静かにタッチターンをして折り返す。さすがに息が苦しくなってきたが、浮き上がろうとするのを我慢して潜水を続ける。
「―――はぁっ! はぁ―――ッ!!」
肺に新鮮な空気を取り込んで安心する間もなく、のどに焼け付くような痛みが襲った。
「ゴホッゴホッ…ヒューゴホッ……」
その時だった。
「君、大丈夫か!? 慌てなくていいから、ゆっくり呼吸しなさい」
男性の少しだけ慌てたような、でも何故か安心する声で呼びかけられ、身体が支えられるのを感じた。
痛みで涙があふれる目で何度も何度も瞬きをして、自分を支える人の姿をとらえると、言われた通り喉の痛みがひどくならない範囲で呼吸した。
「そうだ。……落ち着いたか?」
話すには喉が痛かったためうなずくと、その人は「フゥー…よかった」と小さな声で言った。
「君、しゃべれるかい?」
顔をこすってようやく落ち着き始めた目でその人の顔を見ると、その人は心配そうな顔で見返してきた。私はその問いに対し、顔をしかめて首を横に振った。
「分かった。じゃぁ首を振って答えてくれ。どこか痛いところはあるか? 足は? 手は?」
部位ごとに聞かれるそれにすべて首を横に振って答えると、その人は私を支え直していった。
「もう少しでレスキューの人が来てくれるからな。もう少しの我慢だぞ」
素直に「うん」とうなずき返すと、その人は「えらいぞ」と言って笑いながら、大きな手で頭を撫でてくれた。
その後、すぐにレスキュー隊の人が浮き輪を持って駆け付け、救出されると救急車で病院へと運ばれた。
壁まであともう少しだ。そう思って最後のキックをしようとした瞬間、足首を誰かに掴まれ、驚いて振り向いた。するとそこには、ゴーグルをしたままでもわかる、いたずら顔をした男性がいた。
「勇輝!」
「よっ!」
慌てて立ち上がると、父親とそっくりな笑顔を見せた彼は、「おはよ」と言っておでこにキスをした。
「おはよ。早いね、約束までにはまだ……三十分以上はあるのに」
「華蓮が泳ぎに来てる気がしたから来たんだけど、ビンゴだったみたいだ」
「そう? 迎えに来てくれてありがと」
微笑み返して言って、彼に頬にキスをし返すと、彼は少しだけ照れたように笑った。
「もう少し泳ぐ?」
「せっかく着替えてきた勇輝には悪いけど、もう上がるよ。時間に遅れたくはないからね。それに、向こうに行けばまた泳ぐことになるし」
「了―解」
彼はそう言って先にプールサイドに上がると、振り返って続いて上がろうとしていた私に手を差し出した。
「どうぞ、俺のお姫様」
「……よくそんな恥かしい言葉がスラッと出てくるね」
その手をつかんで上がりながら軽くにらみつけると、まったく気にして無いようで、「華蓮のその顔が見たいからね」と言って笑った。
「むー…じゃぁお返しだっ!」
少しだけ背伸びして勇輝の唇にキスすると、さっと身をひるがえして荷物をとって更衣室に向かった。
チラッと振り向いて様子を見ると、彼は驚きと嬉しさが混ざったような顔で立ち尽くしていた。
「フフッ」
私は彼のめったに見れないその表情に満足すると、足取り軽く更衣室に消えた。
あの事件の後私を助けてくれた人は病院までお見舞いに来てくれて、私を自分のやっている水泳教室に誘ってくれた。そして、その人の息子である勇輝と仲良くなり、今に至るまでの話はまた別の物語。
「華蓮―――!! ちびっ子たちが俺らが早く来ないかって催促してるから早く来てくれ、だって!」
あの事件以降、海に対する恐怖心が心をくすぶっている。それはあれから何十年経った今でも消えてはいない。
「はーい! すぐ行きますって返しといて!」
「はいよー」
けど隣に勇輝がいてくれるなら、私はその恐怖心を抑えて海に入ることもできるだろう。
私は彼の返事を聞きながら、キスをした後の彼の表情を思い出して笑った。
『もうすぐ結婚するだろう』
そんな予感がして、報告を聞いた命の恩人である彼の父親が、満面の笑みを浮かべてくれる気がした。
久しぶりの短編でしたw
この物語は自分の体験談と嗜好をもとに書いてみました。
あぁ、また私もプールで思いっきり泳ぎたいなぁー!そう思いながら、『投稿』ボタンをクリックです(笑)
最後まで読んでいただきありがとうございました<m(__)m>