第4話 人形が嗤った
「大和兄さん!! 天草さんが!」
体育館前、出入り口は完全に、超常的な力で捩られたように塞がれていて、最早その機能は停止、否、破壊されていた。ざっと見た感じだが、他の出入り口も皆同じ。これは女生徒の言っていた化物とやらの仕業なのか。
こちらに向かって走ってくる姿を雪乃だと確認して、とりあえずは安堵する。
「雪乃! 無事で良かった……何があった?」
「それが……いきなり体育館に変な、大きい怪物が現れて、しばらくは動かなかったんですけど、人を呼ぼうとしたら急に動き出して、暴れ始めたんです!」
先の女生徒と言っていることは同じ。しかしその化物、いや怪物というものが気に掛かる。呼び方はもうどちらでも構わない。
「出入り口があんなことになっているが」
「それは、さっき、私が外に出た時にあの怪物がやったみたいで……そうじゃないんです大和兄さん! じゃなかった……大和先輩! 天草さんが大変なんです!」
「天草……ああ、アイツか! 逃げ遅れたのか?」
「いえ、私が逃げ遅れて、それで私を庇って逃がしてくれたんです。そうしたら扉があんな風に……まるで、天草さんだけ逃がさないようにしているような……」
「じゃあ、あの中には天草とその怪物だけってことか!?」
「だと、思います……大和先輩! お願いです。天草さんを助けてあげてください!」
雪乃も“神開一新流”のことについては少しなら知っているし、俺がそういう戦闘術を身に付けていることも知っている。
ただし、その怪物とやらはどんな形状をしているのか。あくまで対人特化の戦闘術であるし、それこそファンタジーのようなドラゴンといった人型でない相手に対しては無謀過ぎる。
「天草が得意の剣術で返り討ちにしてくれれば、凄く助かるんだが……」
またしても、酷い炸裂音が轟いた。恐らくはその怪物が放った音に違いない。
天草という美少女がミンチにでもなってなければ良いのだが……しかし、まだ小さい、小競り合いのような音が時たま聞こえるので、まだ生きているかもしれない。
「助けに行くのは勿論だが……どう入ればいいんだ」
見た通り、出入り口は完全に塞がれている。流石に破壊できないし、教職員の“血戦武装”で破壊してもらい、通用可能にして貰うのは時間が掛かる。そもそもこの捩れ方はとても普通ではない。“血戦武装”でも何とかならない可能性だってある。
考えろ。このままでは彼女が死んでしまう。怪物という極めて不合理な暴力で、1人の女性の命が奪われてしまう。それを看過できるほど、新開 大和は鬼畜外道ではない。
どうにかして体育館の中に入り、どうにかして怪物とやらを打倒して、どうにかして天草を救出する。できる筈だ。やるしかない。漫画や映画の主人公やヒーローはこの程度のことを簡単にやってのける。今こそ、自分はその主人公とやらにならなければならない時だ。
ふと見上げると、光明のような、もしかしたら、という希望が確かに見えた。少なくとも、この閃きは主人公気取りに相応しい。
● ●
繰り出される一撃の数々は、こと殺し合いに関しては全くの処女である天草 桜花の目で見ても、非常に致命的なモノであると判断できた。
人は最早、外傷で死亡することが少なくなってきた。それは“血戦武装”の獲得による、自身の為の個人装甲が付与されるからである。その武装を得れば、自身の身体能力は跳ね上がるし、とにかく頑丈になる。日本はこの特徴を真っ先に研究し、想定される武装間抗争における死亡を予防してきた。現時点では、武装保持者が武装保持者を殺せる、ということは、余程の力の差が無い限りは少なくなってきている。
では、武装していない年齢の子供達はどうなのか――今は医療技術も進歩して、極端ではないにしろ、やはり脆弱。当然、死にやすい。
“血戦武装”は魂と血で繋がった武装兵器――その武装本体は有り得ないが、その他の特徴は遺伝する傾向にある。近年では遺伝子研究も取り組みが進められ、生まれながら軽い装甲が付与されており、身体能力が高い、風邪などの免疫もある丈夫さを持った子供が多い。しかしそれは、勿論本物の武装による装甲には及ばず、また成長させることもできない為、残念ながら、今の現代においては子供の装甲の強化は不可能である。
つまり、天草 桜花も同じ――身体能力は高く、現にこうして未だに殺されていないことから、彼女は非常に優秀で、将来有望な少女であることがわかる。
その軽い装甲を身に纏っていると言える彼女でさえ、この怪物の攻撃は危険であると脳内で警告を鳴らしている。
「ッ……!」
軽く呼吸を整えて、横に飛び退いた。長く伸びる、その腕から繰り出される縦割りの攻撃を避ける為である。見事、今回も躱してみせ、その手に彼女の肉を掴むことを許さなかった。
「女性の扱い方ってものを、知らないんでしょうね……!」
ああ、今日は特に酷い厄日だ。
よくわからない、思い出すことは叶わない夢を見て、他校の変な男子生徒とおかしなことになったりして、極めつけにはこんな怪物と対峙する羽目となってしまった。
最初から勝てるとは思っていない。先程から隙だらけのこの怪物に、竹刀で何度か叩いてみた。しかし結果は、その外見からでも諦めていたが、全く効果が無かった。
金属の人形――小さくて、可愛いらしい服装をしたドールならばまだ良かったものの、残念ながらこの怪物、もとい人形はとにかく大きい。先に観客席にいた男子生徒よりも、ずっと大きい。目算して、およそ3メートル程度か。
「こんなわけのわからない状況で、アンタみたいなおかしな人形に、殺されて堪るもんですか……ッ!」
竹刀を握り締め、身を少しばかり屈めて、敵の攻撃に備える。
動きは単調。大振りな攻撃の後は大きな隙ができることも確認済み。武装が無い以上、こんな相手に攻撃手段は存在しないけど……このまま躱し続けられるとは思えない。
こちらは生身に対し、相手はどう見ても無機物で機械的である。原動力は何にせよ、持久戦は不利なことには違いないだろう。
故にこのまま回避行動ばかりではいずれ捕まり殺される。ならば少しでも、それこそ全くのダメージを与えられなくても攻撃しなくては、反撃を試みなければ、全てを諦めたことになる。生きることから、逃げてはいけない。
それに背負っているのは自分の命だけではないのだということを桜花はよく思い知る。
もし自分が殺された場合、その後はどうなる? そのまま人形は消えるかもしれない。突然現れてくれたのだから、そんな芸当ができたっておかしくない。しかしそれは、この人形が大人しくしてくれた際の妄想であり、きっとこの人形は、自分を殺した後にこの体育館からどうにかして出るだろう。
つまり、ここで食い止めることで、自らがこの人形を引き付けている間は外の安全が保障される。この人形の脅威に怯えなくて済む。
外に逃げた人達なら、きっと助けを呼んでくれる……それまでは、何としてでも、耐えなくちゃならない!
覚悟を決め、しっかり、悍ましい敵を見据える。不釣り合いに長い腕と脚。肉を引き裂く鋭利な爪。異常に細い胴体。そして最も目立つ、人形の魂とも言える部分――頭部は、まさかの顏無し。ただ金属の楕円球が頭部として備え付けられており、まるでこれから作られていく、人形の素体のような風貌をしていた。
傍から見れば、塗装されていない金属の塊。それが、原因不明の長い硬直を解き、その暴力を遺憾無く発揮した。
空気を切る音がしたと思えば、今度は横薙ぎに右腕を振り払ってきた。それを見切り、後ろに跳んで躱してみせる桜花。最初に回避できた奇跡は、数を重ねることで確実に実力による結果へと変えていった。
腕の長さ、リーチの間隔はおおよそ掴めた。その間合いを確認して、一定の距離を保つことがこの戦闘における鍵である、と桜花は考えた。
相手の攻撃は素早い。合間に見せる攻撃後の隙はあれども、そう何度も突っ込んで打突を叩き込めるとは限らない。捕まれば終わりで、掠っても大打撃を受けるだろうと予想することは容易。故に慎重に見極めなければならない。彼女にとって人生初の人外相手。加えて繰り出される殺人攻撃も、人生初だ。
その処女に対して、無声の金属は容赦なく突き破ってくる。酷く理不尽に、徹底的に。
そして、決する攻撃が放たれた。先程と同じ横薙ぎの一撃、しかし違いと言えば手の甲を逆にした、切断目的ではなく殴打での攻撃であることと、速度は段違いであり、腕も伸び切っていること。
速度が上がったとはいえ、やはり単調な攻撃は最早達人の足運びの域に達する桜花に躱せないはずが無い。同様に後ろに跳び、そして好機を見出した。
「そこッ!」
かつてないほどの隙が生まれたのを、彼女は見逃さない。反動を利用して一気に人形の懐に潜り込み、裏返っている右腕の肘部分に向けて、渾身の振り下しを叩き込んだ。
剣道では有効打ではない。しかし常人ならば痛みでのたうち回ってもおかしくない一撃である。
が、金属人形には効かず。良い音が響いたが、何一つ、この人形は動いていない。竹刀の攻撃力は、この怪物に対しては通用しなさ過ぎるのか。
しかしこれぐらいの最悪は想定済みである。ここから真っ先に行わなければならないのは、次の攻撃までに十分な距離を取らなければならない。まずはこの近過ぎる距離を離そうと足に力を入れる。
途端に、その供給が塞き止められたことに気付いたのは、視界が回転している最中の一瞬であった。
桜花自身は何をされたかはわからない。簡単なことに、ただその人形は初めて彼女の前で脚を用いただけ。彼女の足を蹴り飛ばしただけ。今まで腕しか使わなかったことによる、『腕の攻撃しか来ない』という彼女の、無意識な思い込みで、彼女は全く理解できなかったと言える。
人形は決して狙ったわけではない。そもそも、そんな知能は持っていない――そう、今はまだ。
単純な話だ。人形は興味を持ったというだけのこと。足を武器に自分の攻撃を躱し続ける彼女を見て、その身体部分が自分にも有ることに気付いただけのこと。
せっかくだから使ってみよう――この金属に感情というものがあるならば、そう考えての攻撃に違いない。
天草 桜花はまだ知らなかった。この人形が、産まれたての赤子同然であることを。今、まさしく絶賛成長中であることを。
体育館の壁に叩きつけられ、ようやく自分の位置が、状況が飲み込めてきた。
左太腿を中心に、鈍痛が全身を走る。これは折れているのか、とにかく今までで感じたことの無い痛みだった。
意識も朦朧とする。視界もぼやけてきた。微かに、あの人形がこっちに向かって動いてくることがわかる。
あれだけ勇んで、覚悟を決めて、何ともあっけない終わりだと思う。せめて、一撃で死なせてはくれないか。痛みの無い安楽死は流石に求めない。痛くても、どうか一回で済ませて欲しい。
そうして、徐々に、世界は、上下からゆっくりと迫る黒で、塗り潰されていった。
音がした。何か、薄い物質が勢い良く割れたような、そんな音で、世界は再び色を取り戻す。
ああ、死ぬ音はこんなつまらない音なのか。もっと痛い、それこそ柔らかい物を切り裂いていくような、スムーズなものかと。
あれ? まだ、生きている? どうして? あの人形の動きも止まっている。一体何が――。
そして落下音が、極めて閉鎖的であった体育館を反響した。目の前に映るのは、無機質な銀色の塊ではない。白いカッターシャツを身に着けた、少年の背中。
展開は、終息に向けて加速を始める。
● ●
体育館の窓から侵入する案は、我ながら良かったと思う。窓も通れないようにされていたら詰んでいたが、何とも都合良く壊して登場することができた。
さて、目の前にあるのは、成程確かに化物で怪物だ。とりあえず、見たままの姿を言葉とするならば、人形だ。今まで実際に見てきた中で、最も身長の高い人間は真田 善吉。次いで白石 志月と新開 玄一郎である。が、それはあくまで人間サイズでの話。
この人形の長さには恐れ入る。体長だけ比べるならば、大熊にも勝るだろう。その高さをより際立たせる為に、腕や脚や胴体は最低限に細くしてある。
随分と、悪趣味な風貌だ。別に容姿についてあれこれと言うつもりも無いし、そんな立場ではないが、このデザイン、というか何もかもが気に入らない。見ているだけで、相対しているこちらが不安になってしまいそうだ。
ともあれ、状況の把握は簡単だ。自分の進入が遅かったせいで、背後にいる女性が傷付いている。そう、今、自分は女に背を向けて、敵である人形と向かい合っている。ならば、為すべきことは唯一つ――自らの、男の矜持に従い、女を守れ。
初撃一蹴。ゆっくりと向かってきた人形に対し、こちらは全速で距離を詰め、渾身の蹴りを叩き込んでその金属を後ろに飛ばす。
接した脚部に痛みが走る。生身で硬い物質を叩くのだから覚悟はしていたが、予想以上に痛みが長引きそうである。
敵は吹っ飛んだ。しかも行動が遅く、まだ立ち上がろうとしていない。もしくは、立ち上がるのに時間が掛かるのか。どちらにせよ、今の内に会話を行うしかない。
「天草! 無事……じゃなさそうだな。悪い、遅れて」
敵を気にしつつ、大和は桜花の方に振り返った。
「新開 大和……!? どうして……?」
「細かい話は後だ。とりあえず、今はコイツを倒す」
その少年は、自分でさえ考えなかった――正確には考えたが実行できなかったことを行うと明言した。
「むっ、無理よ! 貴方、武装化してるの? してないでしょ? 素手であんなの倒せるわけが……!」
「蹴り飛ばせたぞ?」
「それはたまたまに決まってるじゃない! とにかく逃げなさいよ! このままじゃ殺されちゃうわよ!」
半分自棄になりつつある女性の必死の訴えを、大和は全く聞き入れない。
大和には理解できない。彼女の言っていることが。
「流石にもう逃げられんだろうし、何より俺がいなくなったら、お前が危ないだろ」
「だから、貴方が死んでも私は危ないのよ!」
「何で俺が死ぬ前提なんだ?」
「えっ?」
だってそれは、あんな化物相手に、私達子供が、武装化していない間が敵うとは到底思えないから。それはいくら何でも、この男だって理解しているはず。
そう、流石に大和も理解している。こんな見るからに人外の相手は、そして全身凶器とも言えるその金属は、決して生身で戦うべきではないと直感が告げている。
しかし、それは甘えだ。自分は生身だから、自分は武装化していないから、相手が自分を殺そうとしているから、相手が怖いから――そんなくだらない理由で、この女性を見捨てろと?
ああ、これだから女というものは男をわかっていない。いや、永久にわからないのかもしれない。生来、男とは“そういう生き物”なのだから。女には理解不能な生き物なのだから。
だから格好付けさせろ。別に心を奪いたいとか、好きになって貰いたいとか、そんな下心は特に無い。
「若い歳からそういう最悪の未来を想定するのは止めとけ。せっかくの美人が台無しだ」
そうして、俺はようやく立ち上がった人形の方に向き直る。その動きは緩慢で、もう一度倒れてもおかしくないくらいにフラフラとしている。
それが初期微動だと、気付いたのは目の前に鉛色が飛んできてからである。
「速いなッ!」
先程までのゆったりとした動きは演技だったのか――あるいは今覚えたのか――打って変わった速度で距離を縮めてきた。その長い腕は、逆襲だと言わんばかりの勢いがある。
その縦割りの攻撃は、確かに恐ろしいものであった。先端に有る鉤爪状の手は殺傷能力に秀でていることがわかる。しかし、これに似たものを、大和は先に経験していた。
そのことを、この金属人形は当然知らない。
身体を僅かに捻り、振り下されている、異常な細さの腕を今度は掴み、思い切り引く。すると人形はバランスを崩し、前のめりに倒れそうになるところを――。
「ッセァア!!」
他のパーツより少し太く、大きい胸部目掛けて、拳打を炸裂させた。引き寄せた勢いとこちらの攻撃の衝撃が重なり、典型的なカウンターがこの怪物相手でも決まった。
“神開一新流”は様々な格闘戦闘術を好いとこ取りした混合戦闘術である。中でも特に中国武術の内家拳の良特性を活かした技術が多い。
内家拳とは太極拳や八卦掌など、呼吸法や精神面、心や身体の内面を鍛える柔の武術である。最大の特徴はやはり、身体を巡る血流や経絡を磨き上げて制御して“氣”を理解・駆使できることだろう。氣功法を武術に応用することで、筋肉量が足りない攻撃でも十分な威力を発揮する。
その神髄は発勁――経絡を通して“氣”を練り上げ、発生させた運動量――練氣――を攻撃に乗せて対象に叩き込む技術。巧みな重心移動、その運動工程で発生する力を利用した、いわゆる“流れの一撃”。“神開一新流”でも当然この発勁が組み込まれ、繰り出す諸々の攻撃はその実、工程を経た上での氣功撃である。すなわち、人体にとって“神開一新流”の攻撃は内部に強い損傷を与えるという反則染みたモノということである。
どれだけ滅茶苦茶な動きでも瞬時に発勁を行う――混合された戦闘術である“神開一新流”にとって一つの流れの締めに相応しく、必要不可欠な技術なのだ。
混ぜ合った結果が型要らず――すなわち予測難解に加え一撃が痛い。これほど厄介な戦闘術は既存では無いだろう。
内家拳は人体の外側を鍛え上げる剛の武術である外家拳と違い、鍛錬の成果はそうそう目に見えず、またその道も長く険しい。そもそも、内面の向上に終点は無く、決して完結し得ない武術であると言っても過言ではないだろう。強くなるのに時間が掛かり、かつ人を選ぶ――これが内家拳の欠点だろうか。
しかしその欠点を、無限の可能性として玄一郎は着眼した。際限無しに鍛えれば鍛えるほど強くなれる……それはすなわち、強くなり続けることができるということに他ならない。すなわち玄一郎にとって、そして大和にとって内家拳の欠点は欠点などではなく――非常に都合の良い特性であったのだ。
これこそ“神開一新流”が一子相伝である所以。新開家の特殊な血脈と経絡、そして何より常軌を逸した渇望を抱いているからこそ成立し習得できる戦闘術。
「……浅いか」
そして、新開 大和は童貞ではない。ここでは男女間の、という意味ではなく――そういう意味では彼は童貞だ――殺し合いの経験、という意味である。毎朝の鍛錬は、常人からしてみれば殺し合いを演じている以外に思えない程の苛烈さを孕んでいるからだ。
だからこそはっきりと言える。この人形はただひたすらに硬く、痛いだけ。一撃の殺傷度が高かろうが、当たらなければ意味は無く、それ以外は新開 玄一郎の足元にも及ばない。自分の、人間である祖父の方がよっぽど化物だ。あちらは勝ち目など見えない。
自分の早期退場は有り得ないだろう。しかし問題は相手の硬度。人間相手では全く心配の要らない要素が、今にとって最重要の事実である。如何に氣功術での内部破壊を試みても、先の一撃でただの金属ではないということがよく理解できた。自分が知っている金属とは段違いに硬い。
発勁は自らを強化しているわけではなく、単純に力を加えているだけである。互いが接して、かつ自身の肉体が鋼でない以上、先に悲鳴を上げて壊れるのは生身の人間だ。
攻撃は必須。しかし攻撃する度に自分は傷付き、体力が消耗する。かといって時間稼ぎ目的で戦えるほどの余裕は無い。
ならば、と血が滲む拳を強く握り締める。より強く、金属の装甲をブチ抜けるだけの威力を持った猛攻を叩き込むしか突破口は無い。人力でそれが可能か? という疑問は決して拭えない。氣とはつまるところは流れの力。自らの拳の耐久力が振り切らないように、そして金属を破壊するだけの力を乗せて叩き込めば光明は見えるだろうが、実践したことは一度も無い。
だが、迷っている暇は無いし、何より大和は“神開一新流”と、それを持つ自分を信じている。その気になれば噛み付いてでも壊して再起不能にしてやろう。それだけの覚悟は、もう固めた。
「図体はどうあれ、人の形をしていてくれて助かったよ」
おかげで動きやすく、人体の動きにも限界はある。相手が人形である以上は人間以上の行動はできるだろうが、結局はその域を超えないことが唯一の救いか。
しかし、そう簡単に上手く事は運ばない。
現実は非情だよ、と。その救いとやらを塗り潰したい、と。そう言いたげな異変が起こる。
それは突然のこと。いきなり過ぎて、2人は呆気に取られる。人の形の域を超えない、なんてことを考えていたのがいけなかったのか、立ち上がった人形はある変化を示した。
震え、頭部を大きな鉤爪の両手で押さえて悶え出す。酷く混乱しているようで、落ち着かない動きを何度も繰り返していた。まるで狂ったように、苦しむように。
「な、何だ……?」
それは誰の目から見ても異常。今まで見せなかった奇行。それだけで、視覚的に与える不安は増大する。
次の瞬間、痛い音が耳に突き刺さった。金属と金属が擦れる、嫌な音。人形を見れば自身の爪を頭部に当てて自傷行為をしているではないか。
何が起こっているのか、2人には全く理解できていない。大和は迷う。今すぐ、嫌な予感しかしないこの奇行を止めさせるべく、攻撃を行うか。それとも警戒して、何かしらの変化に備えて天草を移動させて距離を取るか。もしくは、このまま様子を見るか。どの選択肢も良い方向に転びそうになさそうで、それ故に迷っていた。
優柔不断だ、と自らを叱責し、とにかく様子見を選択する。下手に刺激させず、事の成り行きを見てみることも重要である。
それにしても、耳がおかしくなりそうだ……!
いつまでこの音は続くのか、と愚痴の1つも天草に呟こうかと思った矢先、上手い具合に鳴り止んだ。人形は頭部を手で隠し、沈黙している。
そのまま隠したままでいてくれれば、何て幸せだったろうか。
背筋が凍るとは、まさにこのことを言うのか。言葉を失い、思考も停止する。目に映るものから目を逸らしたくて堪らないのに、それができない。
怖いもの見たさ? 違う、これは目が引き付けられて離せないからだ。有り得なさ過ぎて、信じられなくて、この目に映っている現実が虚構であると、思い込みたくて。
それは口だった。人間の頭部を表した、何も無い楕円球の金属だったはずなのに、今では唇と歯が付け加えられたように存在している。先の音は、これを頭部に掘り込む為の音だったのである。
しかし、恐怖したのはそこではない。掘り込み具合がまた稚拙であれば、可愛らしげもあったものを、この人形は無駄な職人芸を発揮して、本当に人間の口のように仕立て上げてしまった。
それだけでは終わらない。その口はあろうことか、動いている。動作確認のように、パクパクと咀嚼の真似事をしているのだ。
大和は知らず知らずの内に、直感的に理解していた。人形の素体のようであったこの怪物は、恐るべき速度で、人間に近付いてきている――と。まるで、自分達を観察して。
口元が歪み、白い歯がむき出しとなった。口以外、何も掘り込まれていない頭部は微かに震えて、喜びを表現しているかのようだ。
瞬間、血が飛び散った。反射でガードするように前に出した両腕は爪によって引き裂かれ、鈍い鉛色は血を浴びている。
近付いてきたことはわかった。攻撃を受けた原因は、その飛躍的に上昇した速度に対抗する為に、咄嗟に防御行動を起こしてしまったことにある。激痛を感じ、後ろに飛び退こうとする大和を、人形は逃さないと叫んでいるように口を開けてもう片腕の攻撃を繰り出す。
迫り来る爪を避け、比較的安全な腕部分に自らの腕を当てて防御する。その勢いは大和の腕に、骨に多大なダメージを与えた。
痛みに耐え、そのまま腕と金属の腕を滑らすように――丁度流れ出た血で潤滑になっていて――人形の眼前にまで進む。
「ッラァア!!」
そのムカつく面を、スッ飛ばす!
渾身の力と練氣を込めて、未だニヤつく頭部に目掛けて叩き放った。返ってくる反応は鈍い音。ダメージはそれほど負っていないだろう。だからこそ、こちらも逃すつもりが無い。
更に細い首を掴み、人形を自分とすれ違うように引き寄せる。
軽い……しかしそれはある意味好都合。
バランスを崩した人形は倒れる――ことは許されなかった。そう、ただでは。
背中を始め、関節部分などの人形の至る背面部分を拳打と蹴撃の連続攻撃で吹き飛ばす。磨き上げられた徒手格闘による猛撃は遂に、ようやく金属の形を凹ませることを成功した。そのダメージの代償としては釣り合わない、自身の壊れぶりには流石に無視することはできず――。
「……ッ!」
――乱れ飛んだ人形が落下して、それを視認して崩れるように床に足を付けた。足の感覚は感じず、手も赤黒く染まっている。
「しっ、新開 大和!? 大丈夫!?」
後ろから桜花が足を引き摺りながら、大和の元に寄って来る。
「大丈夫……それより動くなよ。まだ、終わってない……!」
流石に疲れている。人体を攻撃するのと、硬い金属を攻撃するのとでは精神力の磨り減りも、体力の消耗もまるで違う。
本音はもう動きたくない。そのまま倒れていて欲しい。しかし、そんな弱音を吐くことは許されないし許さない。何故ならその時点で、自分が弱いということを認めてしまうからだ。
足を震わせながら、床を踏み締めて立ち上がる。この人形の意外な反撃に苦戦したが、それでもやはり新開 玄一郎よりかは弱い。まだそんな減らず口を叩けるほどには、大和は余裕があった。激痛で苦しくても、精神力を奮い立たせてその限界を突破する。
この程度の化物を打倒できなくて何が強い男か。破壊できなくて何が“新開一新流”か。撃破できなくて何が新開 大和か。
人形は立ち上がり、また向かってくる。ゆっくりとしていた当初の人形の姿は最早そこには無く、素早く、確実に殺戮を繰り返す戦闘機械と化していた。
繰り出される攻撃。しかし今度は爪を一点に集めた突き。それを大和は間一髪に、身体を対角線上になるよう、横にずらしてそれを逃れる。頬に掠り、血が流れるが気にも止めず、その伸ばされた金属を自らの腕を折り曲げて挟み込む。
「ッ!」
挟み、引き抜くことができなくなった代わりに、こちらも動きが制限されたことになる。当然、それを見逃す人形ではなくなっており、自由である片腕が振られ、爪が脇腹に食い込んだ。痛みで離してしまいそうになるのを我慢して、更に力を込める。
そんなリスクを背負ってでも、攻撃の要となっている腕を破壊するしかないと判断した。
「オォォ!」
関節部分――人体において肘に当たる部分に、その一撃を叩き込んだ。金属といえども曲がる以上、その部分に逆方向の力を加えれば――。
「ッ! おいおい……!」
素手の限界が見えた。装甲はおろか、武装化すらしていない少年の限界が、見えた。如何に優れた戦闘術を持っていても、圧倒的な防御力の前には小手先にしか過ぎない。
その無情な、当たり前だった現実を突き付けられながらも繰り出される蹴りに反応し、応戦するように同じ蹴りで相殺する。しかし相手の猛襲は止まらない。むしろ今まででここまでの連撃が無かったことの方が驚きだろう。
人形なのだから、疲れなど無い。痛みなど無い。怯みもしないし狼狽えたりもしない。人間に近い形であっても、人間らしさを、弱さを感じさせる要素は一切合切存在しないのだ。
まだ、生身で大熊を撃退する方が成功率は高いだろう。あちらは生きているのだから。まだ、柔らかいのだから。
連撃の合間を縫って随時反撃を行うも、何もかもが無駄でしかなく、徐々に追い詰められては生傷が増えていく。白いカッターシャツは血で汚れ、爪によって所々切り裂かれていく。流石にこれほどの出血は経験が無く、目も霞みつつあった。
しかし、大和は下がらない。後ろに、守るべき女性がいるのだから。
俺が死ねば今度は天草が標的になる――ああ、それは確かにそうだろうよ。だから、俺が死ななければ天草に狙いが移ることもないだろうし、移ったとしてもそんな蛮行を俺は見逃さない。
少し前に初めて出会った女性。不本意とはいえ剣道の試合で剣を重ねた相手でもある。そんな相手に、ここまで命懸けで守るものなのか。
「まだまだァ!!」
答えは間違いなく、そしていつまでもYES――絶対に守ってみせるという確固たる信念で、理不尽な暴力から少女を救う為に彼は凌ぎ続ける。
その純粋な――見様によっては狂気的な――少年の必死の抵抗を嘲笑うかの如く、人形は人型戦闘の域をあっけなく超えてしまった。それはつまり、もう生身の人間である大和では、絶対に勝てない次元の化物に進化してしまったということである。
貫いたのは、その爪ではなく、そもそも金属ではなかった。服を焦がし、肉を焼いて穴を空けたのは、光線。最初は肩。次いで右腕、右太腿を撃ち抜かれ、最後にトドメと言いたげに、大和の腹を熱光は通過した。
「がっ……はっ!」
それでも体勢を崩さず、大和は思い切り人形の体躯を蹴り飛ばした。相手が飛び道具、しかも光線を用いてきたとなると、距離を離すことは失策である。しかし近距離から撃たれた、無意識の恐怖がその反撃行動に繋がった。
「し……新開?」
「来るなァッ!!」
再度寄って来ようとしている桜花を、激昂の言葉で止める。標的を彼女に変えられてしまうと、いかに大和でも光線は防げない。身体を張って桜花を庇っても、その肉壁を貫いて彼女を襲うだろう。少しでも自分に注意を引きつけて、巻き込まない為にはこれが最善の策なのだ。そう、思い込むしかなかった。
相手の力量を測り損ねた……あるいは、自分と“神開一新流”を過信して、やはり増長していたか。完全に失敗した……。
心中、自らの行動や考えを悔やみ、反省する。したからといってこの状況がどうにかなるわけではないが、それでも、どうしても脳裏に浮かぶ。
実際、相手が悪かったと言わざるを得ない。これがもし、先に例を挙げた大熊が相手であったならば、苦戦はすれども勝てていただろう。しかし軟な金属で構成されていない人形は、成長していた。むしろ新開 大和はよく善戦した方である。曲がりなりにもこの人形をここまで――人外の進化をせざるを得なかったほどに――追い詰めたのだから。
人形の頭部に発生する赤紫の光球。光が集まり徐々に大きさを増していく。おそらくすぐに発射されるだろう。大和の背には桜花がいる。決して、大和はその場を離れず、回避も行わないに違いない。
その努力を、その実力を、その意志を、彼女はちゃんと、余すことなく理解した。
● ●
発射された光線は、突如出現した青い魔法陣によって完璧に防がれた。円状の、よくわからない文字と図形で埋め尽くされて、大和と桜花を守るように展開されたそれは、次々と放たれる光線群を遮断している。
「流石は“神開一新流”……流石は新開 玄一郎の孫。いいえ、もうこんな呼び方は止めましょう。流石は新開 大和。よくぞ手弱女を守り通した、真の益荒男よ」
破壊音と共に、通行可能となった出入り口から姿を現し、やや芝居がかった台詞を臆面もせず言い切ったのは、仙道 喜美だった。
「それとも、日本男児の方が好み?」
冗談交じりにこちらに笑いかける彼女に対して、どちらでもいいとツッコミを入れる気すら起きない。
それどころか妙に気が抜け、緊張が解けた。床に膝を付け、傍観に徹する羽目になる。
「さて。妙な反応を見つけたものだから急いで来てみたはいいけれど、こんなものが日本に在るなんて」
喜美はゆっくりと歩き、人形に近付いていく。それを人形が反応しないわけがなく、今度は喜美に向かって光線を発射した。
「残念ね。そして幸運だわ。生まれて間もないようだし」
いとも簡単に、大和と桜花を守った魔法陣と比べて少し小さめなものを自らの目の前に展開させ、防御する。
「どこの誰の傀儡かは知らないけれど、私の学園の、将来の生徒候補になんて非道いことをしてくれたのかしらね」
何かとんでもないことを口走った気もするが、しかしこの、第三者である自分にでも伝わってくる威圧感は本物。あの新開 玄一郎を呼び捨てにするだけのことはある。
「随分と幼気な子供達を痛め付けたようだから、私も幼気なお人形さんに容赦はしてあげないわ」
喜美の横に筒状に連なった三重の魔法陣が出現する。
まるで大砲のようだ――そんな心中の感想に応えるかの如く、その魔法陣から極太の、人形のそれとは比べ物にならない大きさの光線を叩き放った。
青色をした光の奔流に、為す術も無く飲み込まれた人形。姿を現した時には、鈍く光っていた金属の身体は焼け焦げて、大部分が黒く変色していた。
「意外と頑丈に作られているのね。じゃあもう一度」
これが、これらの魔法陣が彼女の武装によるものなのだろうか。最早個人武装、自衛目的の域を軽く突破している威力を発揮している。
複雑なのは、自分があれだけ苦戦して、揚句には殺されそうになっていた人形を相手にここまで圧倒的で一方的な展開を広げられる仙道 喜美の存在。そして武装化の強力さ。
これは嫉妬ではない。今、自分はどうしようもなく守られているという、自分の惨めさ、非力さが許せなくて堪らないのだ。自分を殺したいほどに――弱さを憎む。
再度放たれる光。完全に人形を捉えていたその攻撃は、しかし喜美には空振りだと把握した。
「転移されたか……流石に粉微塵に消滅させられるのは嫌みたいね」
見れば、人形の姿は何処にも無い。突然の退却で、実にあっけない幕引きとなった。
「2人共、待ってて。今治療してあげるから」
2人にそれぞれ、頭上と足下に魔法陣が出現し、その外周から発せられる光の膜で包み込まれた。
不思議と痛みが薄れていく感覚が生まれる。
「た……助かった?」
余りの展開の速さに、ようやく口を開いた桜花。それに対して何か気の利いたことでも言おうかと思案していると、視界がぐるりと90度回転した。
「え、ちょ、ちょっと! 新開 大和!?」
天草の声が聞こえる。どうやら倒れ込んだようだ。ああ、彼女が無事だったことは良しとして、とてもみっともない醜態を晒してしまった。不安にさせてしまったかもしれない。謝るべきだろう……弱くてごめん、と。
意識が薄く、弱くなっていく。温かい布団に包まれたような心地良さを少しばかり感じたところで、俺の意識はそこで途絶えた。