敵を知り、己を知ればなんとやら
「――姉さん、ただいま戻りました。桃子、三日ぶり」
マリースさん――“お姉さん”と言ったら、他人行儀で嫌だと怒られた――に書斎で文字を教わっているところへ、アーティがひょっこり現れた。
私の世界とこの世界は、言葉はほぼ一緒だが文字は大分違った。アーティが稔くんにメッセージを送る時は、私の世界の文字だったので、ここに来て本を読もうとするまで文字の違いに気づかなかったのだ。他にもいろいろと教わりつつ、レイノルド家で待機中のこの三日で、ようやくお手本を見ずに自分の名前を書けるようになったところだった。
「おかえり、アティールくん」
「ただいま……あれ?桃子、お勉強?」
アーティは私が広げたノートに目をやる。頑張って書いているが、お世辞にも綺麗とは言えない文字が並ぶそれに、私は慌てて覆い被さる。
「見ないでくださいよ!勉強中なんですから!」
「字の練習か……桃子って適応力高いよね」
アーティは感心したように言って、 部屋を出て行く。彼の姿が見えなくなって、勉強を再開しようと起き上がったところへ、再びアーティがやって来る。私は瞬時に反応し、体を伏せる。
「はい」
アーティが手に持っていた小箱を差し出す。
「……何ですか?」
「これを使ってごらん。読めるようになるから」
私は少し考えた後、さっと起き上がってノートを閉じ、アーティから箱を受け取った。
「トーコちゃん、そこまでしなくても……」
マリースさんが苦笑しながら言うが、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。元の世界では字が綺麗だと褒められるので、余計に思う。
それはさておき、私は箱を開けてみる。中には青みがかった透明レンズの眼鏡が入っていた。縁は銀色で、私の世界にもあるスタンダードな形だ。
「かけて、ここを見てみて」
言われるがまま眼鏡をかけ、私はアーティが指差す本の表紙に目をやる。すると……。
「“サザール国の最恐女王さまの伝説”……なんですか、この本!?」
タイトルはともかく、そこに書かれた文字が日本語に見えて、読むことができた。
「桃子の世界と交流するために作った翻訳機だよ。別世界の文字が、自分が使う文字に見えるようにね。僕はもう桃子の世界の文字を覚えたから、持ってていいよ」
「こんなものまで作れるんだ……ありがとうございます」
考えてみれば、アーティは野性動物を一人で追い払えるくらい強く、異世界から人を召喚できるくらい魔法に長けて、別世界と交流できるくらい賢い。加えて、貴族で美少年だ。本当にすごい人だとは思うが、惜しむらくは、中身が残念なことだ。
「名付けて、“色メガネ”」
「なんか違う意味に取れますよ!?」
本当に、残念だ。眼鏡は有り難く使わせてもらうが、その名前は使いたくない。マリースさんまで呆れた様子で、苦笑しながら弟に歩み寄る。
「アティールくん、ほんとにセンスないんだから……」
「姉さんはセンスありますよね。桃子の格好、ばっちりで……す?」
マリースさんは、アーティの頭を軽く叩いた。
「トーコちゃんを困らせちゃダメでしょ?ちゃんとお家に帰してあげるんだよ?」
まるで子どもに言い聞かせるように、お姉さんは優しく諭す。すると、アーティは眉尻を下げてしゅんっと項垂れた。
「はい……ごめんなさい」
――アーティが謝罪した?しかも、殊勝な態度で?
私は衝撃のあまり、椅子からずり落ちた。
間違えてこの世界に連れてこられた時、一応謝罪の言葉はあったものの、反省した様子のない軽いもので、無断で家出して帰った後の王子への謝罪なんて一切なかった。ところが、マリースさんは、叩いたと言ってもほぼ手を置いただけで、声を荒げることなく優しく言っただけなのに……王子が雷を落とそうと、私が声を張り上げようと飄々としたままだったアーティが、明らかに反省した様子で謝罪した。
「どうしたの、桃子?」
素直に謝罪したためか、マリースさんに「いい子、いい子」と頭を撫でられながら、アーティが声をかける。その顔は、いつもの飄々としたものに戻っているのに、なんだか嬉しそうに見えた。
「……いえ、何でもないです」
怒られても、雷に打たれても平気なアーティが姉に弱い……どうやら、アーティはシスコンらしい。
その後、アーティもマリースさんと一緒に勉強を見てくれて、休憩しようとマリースさんがお茶を用意しに部屋を出た時だった。
「レイノルド!いつまで待たせるつもりだ!?」
ヨシュアさんがドアを蹴破る勢い開け放つ。真っ赤になってお怒りだ。
「あ、忘れてた」
「トーコさんを迎えに来ただけなのに、何故目的を忘れる!?」
一方の指名されたアーティは涼しい顔をしている。
「三十分は待ったぞ!何故お前の家は使用人すら出てこないんだ!?」
レイノルド家はその大きさにしては使用人が少ない。自分でできることは自分でやるという家訓があるそうだ。私的な客人の対応も本人達が行うので、使用人はほぼほったらかしだ。アーティと一緒に来て、同僚の中でもアーティと親しい間柄のヨシュアさんは、私的な客人と判断され、待たされているのを知ってか知らずか、使用人にも放置されていたようだ。
「そういうわけで、桃子。セイヤ様の所に行くよ」
「どういうわけで?」
「それすら言ってないのか?」
アーティの説明不足にヨシュアさんは溜め息を吐く。今、これ以上叱ることは諦めたようだ。
マリースさんに聞いた話だが、アーティとヨシュアさんは士官学校で出会い、三年程の付き合いになる。学校は貴族も平民も関係なく全寮制で、授業のペアが同室になる。運悪くアーティとペアを組まされたヨシュアさんは、アーティの自由奔放ぶりに振り回され、いつも引っ張って授業に連れていき、時には逃げられたりしながら、無事に卒業することができた。やっとアーティから解放されると思いきや、配属先が同じセイヤ王子直属部隊で、今もこうして苦労させられているのだ。
いつも律儀に説教をして、決して自分を見捨てないヨシュアさんのことを、アーティは親友だと言ってマリースさんに紹介したそうだ。
アーティの性格はよくわかっているはずなのに、注意せずにはいられない、損な性分なんだな、とヨシュアさんを見ていてしみじみ思う。
「言っとくけど、桃子もヨシュアと同じ人種だよ」
「……え!?私、声に出てました!?」
「“アーティの性格は”辺りからね。ヨシュアと桃子はよく似てる。僕は君たちみたいなタイプ、好きだよ」
「いじり甲斐があるからだろう?」
「好き勝手しやすいからでしょう?」
アーティがけろりと恥ずかしいことを言うが、私とヨシュアさんはばっさり切り捨てた。短い付き合いだが、彼のあしらい方に慣れてきてしまった。
「馬鹿は放っておいて、桃子さん。お仕事の準備ができましたので、セイヤ王子の元へご同行ください」
お仕事、つまり偽勇者として魔物を倒すふりをするのだ。もう覚悟は決まっている。早く終わらせて、帰してもらおう。
私はすぐに準備を済ませ、王宮へ向かった。
セイヤ王子は、眩しいくらいのいい笑顔で私を迎え、早速仕事の説明をしてきた。
「舞台はアーティの隠れ家がある森です」
今回の件で居場所を大捜索されて、アーティの家出用のロッジは把握されてしまったらしい。隣でアーティが舌打ちしていた。
「そこには元々、三つの頭を持つ猫のような生物がいます。ちょうど周辺の村にイタズラをしているようなので、凶悪な魔物にでっち上げ、退治していただきます」
「でっち上げてって……イタズラをしてても、その生物はそこまで悪いものじゃないんですよね?なのに、凶悪な魔物にして退治してしまうなんて……」
「殺す必要はありません。要は人々に“勇者様の御力で、魔物が悪さをしなくなった”と思わせればいいのです」
権力者の嫌な面を見てしまった気がする。いや、勇者をでっち上げる時点でそうだったが……。
「アーティ、タイラー、ティボルトが同行します。この三人がどうにかしますので、あなたは彼らの言う通りに動いてください」
まるで人形扱いだ。たしかに、私がまともにできることなんて何もないが、まるで人格を否定されているようで悲しくなる。
しかし、引き受けてしまったのは自分だ。やるべきことはやろう。ただし――
「王子様、勇者のふりをして魔物を倒したら、元の世界に帰してくださる約束ですよね?」
「ええ、もちろん」
「言っておきますが、私が勇者のふりをするのは、この一度きりです」
私がきっぱり断ると、一瞬、王子の笑みが消えた。
「私は巻き込まれた平凡な中学生です。家族も心配しますので、早く帰してもらいます」
マリースさんから王子について教えてもらった。王子は利用価値があるものをとことん使役する。しっかりとした意思を伝えなければ、無理を押しきられてしまう。王子は人を自分のペースに巻き込むのが上手いのだ。
きっと倒す魔物は一匹ではなく、全ての国民が私を勇者と認識するまで、何度も同じことをさせるつもりだろう。だから、私はこの一度きりだと約束させなければ、いつまでたっても帰れなくなってしまう。
「……先の魔物を倒した後、次は北の山で……」
「“イーサさん”に言いますよ」
再び笑顔で押しきるつもりの王子に、私は教えてもらった弱点を告げる。王子の顔が強張る。
「嫌がる私を無理矢理使って、家に帰してくれない……そう“イーサさん”に言います」
「……どこでイーサのことを?」
「約束してくださるんですか?」
憎々しげに睨む王子とは対照的に、私はにっこりと笑みを浮かべて言った。その様子を、王子の後ろに控えたヨシュアさんとミリアさんははらはらと、アーティは無表情でじっと見守っている。
「……そのやり方はマリースだな。余計なことを……。お前もなかなかいい性格をしているな」
「こんな見知らぬ世界に連れてこられて、なりふり構ってられないと悟りました」
そうは言っても、内心はらはらだ。こんな、自分から喧嘩を売るようなことを、しかも王子にするようなことになるなんて……私の性格上、あり得ないことだった。これで本当に帰してもらえなかったらどうしようと思う自分を必死に押さえつけて、怖い顔で睨む王子に対して笑顔を作り続ける。
しばらくすると王子が視線を反らし、溜め息を吐いて項垂れた。
「ただの気の弱い少女かと思いきや、意外な度胸を見せる……気に入った」
王子はニヤリと笑みをを浮かべて顔を上げた。
「約束しよう。この一匹を倒したら、アーティと魔法研究所が総力を上げて、お前をすぐに元の世界へ帰す、と――」
「本当ですね?」
「セイヤ様は気に入った相手との約束は必ず守るよ」
内心怖々と確認する私に、アーティが応える。彼はぽんっと私の頭に手を置いて、優しく撫でてきた。
「頑張ったね、桃子。本当は研究もできるし、このまま勇者を続けてくれたらいいなとも思ったけど……ちゃんと帰す方法見つけるね」
「……あなた、またそんなこと考えてたんですか?」
「てへっ」と首を傾げるアーティに、私はスカートの下から取り出したハリセンを叩きつけた。




