第3話 傷の男
エレナと別れた後レオンは森の中を走っていた。
「よし。特に何も問題はなさそうだな。」
意識を森の中に張り巡らしていく。森の中に住んでいるせいか、風や動物の様子などで森に異常があるかどうかある程度分かるようになった。
ん、湖の方がなんか騒がしいな。
レオンは進行方向から左に曲がった。
「なんだあれは?人かな?」
そこには湖に手を伸ばしたまま地面に伏した状態で力尽きている人の姿があった。
よく見るとその周りを心配そうに歩く二匹の猫がいた。俺がこの前助けた猫だ。
「大丈夫ですか。」
おそらく男だろう、体つきががっしりとしている。
ローブだろうか?ところどころ布が擦り切れていたり埃が付いていたりとかなり汚れている。
「ん、よいしょっと。」
仰向けにしてみる。息はしているようだ。やはり男だった。40歳ぐらいだろうか、顔には額から頬にかけて大きな傷がある。
「起きてください。大丈夫ですか?」
少し肩を揺らしながら声をかけてみる。
「うっ……。」
お、気が付いたみたいだ。
「み、水を、くれ……。」
男が水筒を取り出たので俺はすぐに水を注いで飲ましてあげた。猫たちが興味深そうに見ている。
「すまない。何か食べ物をくれないかい?」
「分かりました。少し待っていてください。」
すぐ近くにあった木に登ってリンゴをとる。両手一杯にリンゴを持つと男のそばに置いてあげた。
「どうぞ。いくらでも食べていいですよ。」
「ありがとう。」
そう言うと男はよほど腹が減っていたのだろう、一心不乱にリンゴを食べ始めた。猫たちもじっと見つめている。
なんか俺も腹が減ってきたな。
ふと男の手が止まった。
「どうしたんですか?まさか喉につまっ………。」
すると突然、突風が森の中を吹き抜けた。嫌な風だった。動物たちも蜘蛛の子を散らすように去っていく。
……ケモノだ。
足元にいた猫も森の中に去って行った。
「すみません。少しここで待っていて下さい。」
すると男が森を指して
「あっち、かな。」
驚いた。俺もあっちから何かを感じたからだ。しかし、これは感覚的なもので何処だとは断言しにくく、俺でもかすかにしか感じないものだった。
「早く行った方がいい。」
「はい。それじゃあここでじっとして待っていて下さい!」
俺はそう言うと男の指した方向に向かって走った。
どんどん気配が濃くなっていく。どうやらこっちで間違いはなさそうだ。
「なんだ、これ………。」
明らかに今までのケモノと気配が違う。不吉をはらんだような嫌な気配だ。
「これは、ケモノか?」
森をしばらく進むと木が何本も折られていた。大きな大木が真っ二つにされているのもあり、壮絶さがうかがえる。そこから少し進むと、そこには大きなゴリラが暴れていた。
ケモノじゃない?いや、明らかにケモノの気配がする。この距離で間違えることはない。
だが、ここで一番驚いたことはゴリラの姿だった。
真っ黒な毛が逆立ち、赤い目がギラギラと光り、手が血で濡れたように真っ赤に染まっている。
叫びながら暴れる姿は獰猛さを現わしていた。
ゴリラは辺りを見境なく壊していく。すぐ近くには鳥の巣がある木もあった。
「やめろ!」
ゴリラが鳥の巣のある木を折ろうとしたのを見て、レオンは思わず声を荒げて叫んだ。
「落ち着け。」
レオンがそう声をかけるとゴリラの動きが止まった。
よかった。正気を取り戻したみたいだな。
と安心した束の間、レオンが安堵したと同時にゴリラが振り返った。
「なっ…!」
レオンは思わず驚きの声を上げた。
ゴリラは笑っていたのだ。
辺りに暴力を振るうのを、他の動物が怖がるのを……。
巣を守ろうとしたのだろう、地面には羽が折れてもう空を飛ぶことが出来なくなった鳥が口から内臓を吐き出して横たわっていた。
それでもゴリラは暴力を止めない。鳴く小鳥の巣がある木に獰猛な笑顔を浮かべながら近づいていく。
頭の中が真っ赤に染まった。血が頭に登り怒りに握りしめた拳が振るえる。心の中がどす黒いもので満たされ溢れようとしていた。
ゴリラはそんなこと気にも止めず、楽しそうな様子で鳴く小鳥の恐怖を煽るようにして木を揺らしている。
「てめぇ……!」
レオンは我慢の限界だった。
どんっ、と足元を強く蹴りゴリラに一直線に向かっていく。
ゴリラはそれでも気がつかない。まだ笑っている。
「おらぁああああああああああ!!」
叫びながらゴリラに全力でタックルをした。ゴリラを吹っ飛ばした後、すぐに小鳥の巣を安全な場所に避難させる。
元の場所に戻ると、ゴリラは何が起こったのか分かっていないのだろうキョロキョロと辺りを見回している。
少しのダメージも受けていないようだ。
「舐めやがって……。」
少ししてゴリラは俺を見つけると怒り狂ったように叫んだ。
「ゴアぁぁぁ嗚呼ああアア嗚呼アアあああああ!!!!」
ゴリラは俺を敵と認識したのだろう、息を荒くしながら真っ赤な目でレオンを睨みつけ今にも襲いかかろうとしている。
レオンも集中して臨戦態勢に入る。
よし、先手必勝だ。
「疾っ―――――!!」
森を目にも止まらぬスピードで駆け巡る。ゴリラは目で追う事が出来ず辺りを適当に殴りつけている。
レオンは注意深く観察し弱点を探す。右脇を庇うようにして動いているように見える。
右脇に照準を合わせ隙を窺う。
ゴリラが右手を上げると右脇の傷が露わになった。
腕を上げると同時にレオンが音もなく高速で近づく。ゴリラは気付いていないようだ。
レオンはゴリラに勢いをつけたまま全力で拳を振るう。
「――――――――!」
ドンっと衝撃が空気を揺らした。
よし!決まった!!
確かな手ごたえを感じる。これはゴリラも効いたはずだ。
ゴリラは倒れると思われた。が、その時―――。
ゴッ!!
「なっ!!」
大きな赤い塊が目の前に迫ってくる。なんとゴリラは倒れるどころか反撃してきたのだ。
「クソっ――――――!!」
レオンは反応し回避しようとするも光速で放たれた拳は完全にレオンを捕えていた。
「うぐっ―――――!」
人間離れした反射神経を見せ、なんとか直撃を回避するもガードした腕に掠ってしまった。
レオンの軽い身体は衝撃に耐え切れずバランスを崩して木に激突する。
「――――――!!」
ドンっと鈍い音が森に響き渡る。
「かはっ!」
背骨を強烈に打ちつけられ呼吸がままならない。目の前が揺れる。
「うぅ…………!!ん、ぐあぁぁああああ―――――!!」
一拍置いて次に強烈な痛みがやってきた。左腕が完全に折れている。アバラも何本か折れているがもしかしたら肺に刺さっているかもしれない。掠っただけでこのダメージだ。直撃していたらまず間違いなく命はなかっただろう。
「ごらアぁぁぁ嗚呼嗚呼ああああ!!!!」
なんとか一命を取り留めるも危機が過ぎたわけではない。それどころかもう逃げる体力も残っていないのだ。
レオンの苦痛の叫びをかき消すようにしてゴリラが雄たけびを上げる。
さらなる一撃を与えんとゆっくりとした動きで近づいてくる。
今度こそ絶対絶命の危機だった。
「ちくしょう………!」
激痛と脳の揺れで目の前が霞む。数秒が永遠に感じる。
ゴリラは笑っていた。ここでひとつ疑問が脳裏をよぎる。
なぜだ?完璧に決まったはずだ。
するとゴリラはあざ笑うかのように腕を上げてはしゃいでいる。
揺れる頭を無理やり回転させて考えてみる。不思議と冷静な自分がいることに気付いた。
……!そういうことか!!やられた。
「わざと、弱点のように見せていたのか……。」
ゴリラは俺を捕えることが出来なかったから、俺からくるように仕向けたのだ。
わざと庇っているように見せて俺に攻撃させるように誘ったのだ。それもご丁寧に自分の傷をわざと見せて。
来る場所さえ分かっていれば後はカウンターを合わせるだけだ。
子供でも分かる。単純なことだった。
考えがまとまると同時に意識が遠退いていく。
「「レオーーーン!」」
―――みんな?村のみんなの姿が見える。声が聞こえる。……あぁこれが走馬灯か。
意識の朦朧とするなか今までの思い出が突然脳裏に浮かぶ。
見えるのは村のみんなの笑顔だった。そしてそれは間違いなく自分に向けられた笑顔だ。
「悪い、もう飯食えそうにないわ……。」
レオンは覚悟を決めて目を閉じた。
こつこつこつ……誰だ?頭を突くのは?
温かい日差しを感じる。身体を優しく包む光に全ての感覚を預ける。
草の香りがする。風が優しく頬を撫でていく。すごく気持ちがいい。……あぁそうか俺は死んだのか。
ズキッ
「うっ………。」
痛みを感じる。なぜだ?ここは天国のはずなのに…。天国はすべての苦痛から解放されるとじじ様に聞いたことがある。どうやらあれは間違いだったようだ。
ふふ、じじ様でも間違えることなんてあるんだな。まぁそうか、じじ様死んだことなんかないんだし…。
「気が付いたか?もう大丈夫だぞ。」
声が聞こえる。誰だろう、聞いたことがある。村のみんなではない。
もっと、そう、最近聞いた声だ。確か森の中で倒れていた……。
「うっ……。」
意識が回復していく。光が眩しい。
「左腕は完全に折れていたが粉々にはなっていなかった。肋骨も四本折れていて二本はひびが入っていたが、これまた奇跡的に肺には刺さっていないようだ。」
声は聞こえるが内容が入ってこない。今分かる事は俺は生きているということだけだった。
「だ、だれ?…。」
話せているだろうか?ちゃんと耳が聞こえない。
「頭を強く打ったようだったからね、感覚が完全に戻るまではもう少しかかるかな。」
今度はちゃんと聞こえた。低くて深い声が聞こえる。まるで大木のようにしっかりとした意思の強さと包容力を持った声だった。
「あ、あなたは?」
徐々に感覚が戻ってくる。今度は視界がはっきりとしてきた。
切り傷が見える。額から頬にかけての大きな傷だった。
「あなたは……確か森で倒れていた。」
「ふふ、そうだよ。最も今は君が倒れているんだがね。どうだい?水でも飲むかい?」
そう言われてみればひどく喉が渇いていることに気付いた。水が飲みたい…。
「…はい。」
「ほら、飲みたまえ。」
男の持っている水筒を口に運んでくれた。
「ごくごくっ―――!ごほっ!!」
急に水を飲んでしまい思わずむせてしまった。
「落ち着いて、急がなくて大丈夫だからゆっくり飲みなさい。」
「はい。」
次はゆっくりと口に運ぶ。身体中にしみ込んでいく。…おいしい。水ってこんなに美味しいものだったんだな。
十分に水を補給すると今までぼやけていたものも覚醒していく。……動けそうだな。
「寝たままですみません……うっ、いてててて!」
身体中が軋んで悲鳴を上げている。
「無理して起きなくていいぞ。全治半年ってとこだな。今は指動かすのでも辛いはずだ。」
本当だ。微動だにできない。なぜだ?筋肉痛のような痛みを感じる。
「よほど緊張したんだろうな。無意識のうちに身体に力が入って全身の筋肉が痛んでいる。まぁそれは三日もすれば治るさ。」
「なるほど。」
「こいつも心配してたぞ。」
ん?なんだ?俺の鼻に何が止まっているんだ?なんかモフモフしてる。
ピヨッ!
「お前か!そうかお前心配してくれて、っておい!顔の上を歩きまわるな!そこは鼻だ!」
ぐりっ。
「痛い痛い痛い!鼻に足突っ込むんじゃない!俺の鼻はそんなに大きくないから!」
……。
ん?なんで震えてるんだ?
「…!お前まさか!そこはトイレじゃないからっ!何してんだよ!もうわけ分かんねぇよ!」
「ふふふ。」
「何笑ってるんですか!助けて下さいよ!」
「うむ。了解した。」
そう言うとすぐに小鳥を退けてくれた。あいつ後で覚えてろよ。
「それだけしゃべることが出来れば問題ないな。それと、あいつは心配かけんな、とさ。」
小鳥のことだろう。
「それについては何も言えませんね。」
「ずいぶん無理したようだな。」
「無理したというか、死にかけたというか……。」
ん?そう言えば大事なことを忘れているような……。
「!そう言えば俺はなぜまだ生きているんですか?」
そうだ。あの時俺はあのゴリラに追い詰められて…。
「私が助けたんだよ。遅れてしまって申し訳ない。途中怪我をした動物たちの手当をしていて遅れてしまった。」
「あのゴリラはどうなったんですか?」
「ゴリラ?ゴルンガのことかい?」
「ゴルンガ?」
何だそれは。聞いたことがない。
「これは驚いた。相手の正体も知らずに戦っていたのかい?」
「いつものことですから。それよりゴルンガって?」
ケモノはいつ現れるか分からないので正体など気にしていられない。いかにして大人しくさせるかだけだった。
「………良いだろう。別に隠すことじゃないさ。」
「お願いします。」
「その代わり私も質問させてもらうよ。」
質問とは何だろう?俺に何が聞きたいのだろう?……まぁ得に隠すことはないが。……たぶん。
「はい。」
「よし。いいだろう。ゴルンガとは主に個別で行動する野生のモンスターのことだ。」
「モンスター?」
モンスターだって?そんなもの本でしか読んだことがない。…ケモノはモンスターなのだろうか?
「そう、モンスターだ。この世には人の数以上に存在し、形態も実に多種多様、意思を持ったもの、小型の無害なものから大型の災害レベルのモンスターまでいる。」
「それじゃあ…あのゴリラは……。」
「ゴルンガは確かに凶暴で野蛮だが上級のモンスターではない。」
あれが?―――俺はあれ以上に強い動物に会ったことがない。純粋な力だけでは到底敵わないだろう。
「そんな馬鹿な。」
「本当だ。しかもまだ成体ではない。完全な成体のゴルンガはもっと大きく、凶暴、そして強い。」
…あれ以上なのか。もし成体ならば勝負は一瞬で付いていただろう。もちろん、俺の死という形で…。
「俺は運が良かったのか。」
「そうだ。実に運が良かった。奇跡と言ってもよいだろう。」
「奇跡……。」
「話は変わるが、君はどうやってゴルンガと闘ったんだい?」
そうだ!!俺はどうやってあのモンスターとかいうのから逃れられたのだろう?俺は本来死んでいるはずだった。それがなぜ今、こうやってこの男と話しているんだろう…。
「確か…注意深く見ていたら右脇の方を庇っているよう見えて…実際右脇には傷があって…そこが弱点だと思ったからそこを思いっきりぶん殴ってやったら逆にカウンターをくらって……そこからは覚えていません。」
「ほう、右脇の傷を見つけたのか。」
「はい。まぁ弱点じゃなくて逆にカウンターをくらったんですけどね。」
「違う。」
「えっ…。」
「違うよ。」
何が違うのだろう?俺は事実を述べているはずだ。間違いない。
「何が違うんですか?」
「右脇の傷は弱点だ。」
「そんな。まさか…。」
俺は全力で殴ったはずだ。弱点ならあの大きさのものでも気絶してもおかしくない。
「君の力が弱かった。それだけだよ。事実、私はこいつをその右脇の傷を殴って仕留めた。」
男は後ろに視線を向けながらそう俺に言った。
「なっ!!」
視線を向けるとそこには白目を剥いて口をだらしなく開けているあのモンスターがいた。
「……死んでいる?」
「いや、気絶しているだけだ。」
言葉を失う。あの時の恐怖が脳裏によぎる。
「心配しなくていい。もうしばらくは起きない。」
「なぜ……。」
「なぜ生かしたままにしているか、かい?」
そうだ。なぜあんな凶暴な生物を生かしたままにしているのだろう。
「そうです。あんな危険な動物生かしていては…。」
「それは君のルールだろ?」
たとえ村の人に手を出さなくてもその危険性と酌量の余地がなければ始末しなければならない。それが森の掟であり俺の掟だ。だから森のみんなにも名前は付けない。ケモノになったときに私情をはさまずに始末するためだ。
「そうです。俺の掟です。」
「だが君はその掟を守れなかった。」
そう、俺は本来闘いに敗れこの場にもいないはずだった。
「それは…。」
「だからここは私のルールを使わせてもらおう。」
「あなたの、掟?」
「そう、私の。…あぁ、私のことはアレンと呼んでくれ。」
アレンさんか。どういう意味なんだろう。
「…アレンさん、あなたの掟とは?」
「なに、単純なことだよ。無闇に生き物を殺さない、だ。」
「殺さない?でも、そいつは…」
「危険、かね?」
そう、そいつは危険な生物だ。生かしていたらまた暴れるかもしれない。
「はい。森のためにも生かしておくわけには…。」
「大人しくなって森を守ってくれるといっても、かい?」
「えっ……。」
どういうことなのだろう。この人は一体何を知っているのだろうか。
怪訝に思う俺の前には顔に微笑を浮かべたアレンさんがじっと俺の目を見つめているだけだった。