前
あぁ。ついに私も耄碌したものだ。彼においていかれるのがこれほどつらいと感じるときがこようとは。
「マリア。どうかした」
出会ったときは私と同じくらいの身長であったのに、とうに身長など追い越し、今では外見の年齢さえ追い越され、歳の離れた兄妹くらいに見える。まだ、親子ほど離れていないのがせめてもの救いだろうか。しかし、これからどんどんその差は開いていき、いつか祖父と孫にしか見えないようになり、彼は死んでいくのだろうか。
「何でもないよ」
自分の中でいまだ整理できない気持ちを彼に話すこともできずに、ごまかすようなことしか言えない。
「なら、いいよ」
優しく頭を撫でられ、泣きそうになる。
彼が死んだ後も、彼を好きという気持ちを一生抱えて生きなければならないのかというと切なさで苦しくなる。
「何が欲しい。また都に行ってくるから欲しいものを買ってきてあげるよ」
椅子に座って、後ろから抱えるようにされ頭を撫で続けられる。
「魔術書をお願い」
「マリアはいつもそれだな。女の子らしい物は欲しくないの」
「この外見に似合わず、中身は年寄なんだ。今更、そういった物で自分を可愛く見せようとする努力も虚しいし、沸き立つ心もない。それなら、役に立つ物のほうが欲しいのは当たり前だよ」
「そんなことはない。マリアは可愛いよ」
目尻を下げ、親愛のキスを彼は頭上に落とした。
「ありがとう」
私が彼の母のような気持ちで接していたのが、いつのまにか逆転し、彼が私の兄や父といったような態度で接している。身内の世辞というのだろうか。彼は私にとても甘い。
「じゃあ、挨拶も済んだし、行ってくるよ」
彼は私を立たせ、椅子から立ち上がる。
「いってらっしゃい。無事に帰ってきて」
私は慌てて、戸棚に仕舞った森の恵みを取り出す。少しの魔術をかけ、旅の安全を祈ったものだ。
「いつもありがとう」
彼にはただの干し果物やナッツにしか見えていないもので、ただの自己満足かもしれないが、ここを遠く離れるときは必ず渡している。遠出から帰ってくるときに必ず手土産を携えてくるお礼もかねているのを彼は知っているのだろう。
この時のいつものお願いが私たちの未来に大きな影響を与えるなんて思いもしなかった。
「ただいま」
数か月がたち彼が帰ってきた。
「お帰り」
私のもとに訪れる人はいないため、毎日が単調な暮らしで、彼がいなければ時間の経過も分からない。気づけば、歳をとることをやめてしまった肉体も、時間の経過を私に自覚させず、日付感覚の無さに拍車をかける。
自然と口角が上がり、笑みを形作り、彼を抱きしめる。暖かなぬくもりは人との交流を直接に体に刺激を与え、ほっとできる。彼が優しく、荷物を片手に腕をまわしてくれるのに、また一心地つき、私もまだ人らしい感情があるのだと安心する。
「魔術書買ってきたよ」
「ありがとう」
三冊の魔術書を手渡される。魔術書はたいてい分厚く、一冊でもずいぶん重い。手渡された三冊の魔術書は、非力なこの体では負荷が大きすぎ、落としてしまう。
「ごめん。うっかりしてた」
軽々と魔術書を持てる彼の姿に大人になってしまったのだと、一層悲しさが積もる。置いていかれたとの思いだけが残る。彼の成長をただ喜ぶ優しさを私は持てなかった。
「気をつけて。この身体は可愛いだけが取柄で、力がないのだから」
苦笑して、自嘲する。
「そうだね」
笑みを浮かべて、彼は嬉しそうに微笑む。
「そんなマリアにもう一つお土産」
彼がとりだしたのは動物の耳であった。ヘアピンがついているらしく、黒い毛が生えていた。
「これは何」
「今、都で流行っているんだよ。着用者の感情のままに、動く耳だって。可愛いでしょ」
「まぁ、愛らしいな。それで、着けたところを見せてくれるの」
思わず苦笑する。彼は、動物好きで、小さなものは放っておけない気質だ。だから、思わずそういう呪具を買ってしまうことに納得する。
「まさか。マリアの黒髪に合わせて黒毛のを買ってきたんだから、マリアが着けるに決まっているだろ」
椅子を引いて、座るように促される。彼が、ポンポンと叩いた椅子の場所あたりに座る。彼も私の横にこちらを向いて座る。髪を人撫でされて、嬉々とした様子で、早速耳をつけられる。
「やっぱり。似合うと思った」
「似合わないだろう」
人間に動物の耳は必要がないだろう。人型に近い獣人には、時折耳やしっぽ、手足の先だけが毛におおわれている個体もいるが、私は、もとから人だ。たとえ、膨大な魔力を宿していても、もとからついている人型の耳があるのだから、獣の耳が似合うわけはない。
「耳がへこたれてる」
半笑いになって、装着された耳と一緒に頭を撫でられる。
「驚いた!耳の感覚も付与されるのか」
「今度は耳がピンと立ったよ」
堪えきれないといったように彼は笑った。
「ほんとに感情のままに動くのだな」
「そのままネコごっこをして」
「いいよ。1時間だけだよ。皆が待っているんだから、家に帰るんだ」
それから、彼の膝に頭を乗せて会話を続けたり、耳をかまれたりしながら1時間を過ごした。耳を噛むのは実際に私の者ではなくてもやりすぎだと思う。好きすぎると、おかしな行動になってしまうのは少し哀れだというのが率直な感想だ。
「気を付けて」
「また来るよ」
彼の姿が消えるまで眺めておく。ぽっかりと彼の存在が開くと、ふいに禍々しい感情が湧きあがる。思わず、「おいていかないで。ここにいて」なんて叫んで、追いかけたくなる。彼には彼の生活があるのに、不思議なほど一人にする寂しさの責任を彼へ転嫁してしまう。
私に付き合わされる彼が、ただでさえかわいそうなのに。幼い時に出会ってしまって、毒にも薬にもならず、ただの浪費にしかならない私との関係は彼への負担になっているだろう。
気持ちを切り替えて、彼の土産を読む。もちろん、もう一つの土産は無下にもできず、大切に引き出しの中にしまっておく。引き出しの中には、花の簪や、小鳥のブローチ、月の指輪など小さなものがこまごまと入っている。
普段から、何か彼にもらったものをせっかくもらったのだから、生活の彩にするためと、突然の彼の訪問の際に彼を喜ばせようと活用しているが、この耳の活用は請われない限りないだろう。
『ヘレンは悩んでいた。彼女のみには大きすぎる魔術について。彼女はその強大な魔術のおかげで、死ぬことも、生きることも選ぶことができなかった。ただ、その身が朽ちるときを待っていた。
(中略)
「愛している、ヘレン。ずっと君のそばにいるよ」
「その思いは偽り」
ヘレンは彼に忘却の魔法をかけた。
(中略)
彼女はついに決意した。彼女の力、もしくは呪いを次の人間に譲り渡すことを決めてしまった。彼女はいたずらに長い人生に疲れてしまっていたため、呪いを人に与える悪を許さないことを選択できなかった。たとえ、誰に恨まれようとも。
(中略)
「僕が君を忘れるとでも思っていたのかい。永遠の愛を君に誓うよ」
(中略)
方法は至って明確だ。その大きすぎる魔力を弱くすればいいのだ。だが、歴代の彼女たちの魔力は大きすぎたのだ。それでも簡単な方法が一つあった。それは彼女たちが母体になればいいのだ。次の忌子を孕んでしまえばいいのだ。子どもは母体よりも弱い力しか持ちえない。子どもを守るために、母体は魔力を一時的に失う。その時に死を選べばいいのだ
(中略)
そして、彼女は幸せに死んでいった』
魔術で書かれた物語。魔語を習っていても、この物語はありがちな恋愛小説にしか、普通の魔術師は認識できないようになっている。膨大な魔力によって、へレンと同じ苦しみを持つものにだけ、反応できる仕掛けがあり、魔力に応じて開かれるようになっていた。
その魔術書には虚実織り交ぜて、死へのプロセスを指示していた。ところどころ発光する文字を追い求めれば、つまりはこの物語は真実ということを指示していた。
愛する人の子供を授かり、いくつかの劇薬を足すことによって、長すぎる生を終焉と向かわせる道が指し示されていた。
「やっと終れる」
久しぶりに充実した日を送れたと、自殺の方法を見つけたという仄暗い喜びを抱えてベッドに入った。