冷蔵庫が開けられない長瀬君
最近、ご近所に越してきた長瀬君は、無気力な三十代。TOKIOの長瀬君に似たイケメンだからそう呼んでいる。しかし、いつ会ってもテンションが異様に低い。
長瀬君が働くのは、年に一回。郵便局で年賀状の仕分けのバイトをするときだけ。
あとは、叔母さん所有の駐車場の管理人をやってるということになってるけど、機械式なので仕事はほとんどない。
一族みんな某有名国立大学卒だというけど、学校が嫌いで、自分だけ高校も行ってないのがコンプレックスだという。
忍者のように人の気配に敏感で、シャワーの水流の微妙な違いを察して、同じ家に住んでるお母さんが皿洗いしてるとか、トイレに入ってるとか、感知しては緊張感をみなぎらせるので、とうとう、ていよく追い出されたという。
家を追い出されても、叔母さん所有のマンションの一室に住み、悠々自適なはずなのに、なぜかいつも浮かない顔をしてる。
「僕は、冷蔵庫が開けられないんだ。」
と、ため息をつく。
「へえ~。なんで?」
半地下のタリーズは、大雨がふると雨水が流れ込んで大変なことになってたけど、今日は快晴 。そのちょっとだけ道路より低いスペースで、お茶してる長瀬君を見つけて合流したのだ。
ここは犬連れが多くて、長瀬君はそこが気に入ってると言う。龍君も犬好きだから、キララはよくここに龍君を連れてきて、それで長瀬君と知り合いになったけど、冷蔵庫が開けられないというのは、初耳だ。
「いつもお母さんにああしろ、こうしろって言われてたから、その指示がないから冷蔵庫、開けていいのかなって、自信がないんだよね。一人暮しっていっても、隣の人の気配を読み取っちゃうから、リラックスできないし、実家にいたときとあまり変わらないんだ。」
「ふうん。」
キララは、ノミの話を思い出した。ガラス瓶に入れられたノミは、最初は全力でジャンプしては天井にぶつかって、たたきおとされてる。
でも、だんだん天井の一歩手前の高さまでしかジャンプしなくなり、そして、ガラス瓶を出されても、けして、今まであった天井より高くはジャンプしないようになるらしい。
天井がなくなっても、ノミはマボロシの天井に怯え続けて一生高くはジャンプしないのかな。それとも、少しの間だけなのかな?
長瀬君もそんなマボロシの天井に怯えてるのかもしれない。
それにしても、長瀬君はいつも変わったTシャツとかトレーナー着てて目立つ。今時、赤いトレーナーにポパイのアップリケってどうよ?しかも、白いジーンズはいてるし、黄色と緑のカラフルなスニーカーは一体どこのメーカーなの?せっかくのイケメンがだいなしだ。
でも、キララは何も言わない。そういうとっぴなTシャツやトレーナー は、お母さんの趣味ではなく、長瀬君がそこだけは自分の趣味を貫いてるところだから。
でも、そんなとこで自分を貫くより、冷蔵庫開けれた方が何倍もいいのにねって、キララは思ってた。
……*……*……*
その後、長瀬君はモデルにスカウトされてメンズ雑誌の片隅を彩るようになったけど、すぐやめた。トレーナーの趣味が悪いと業界の人に嘲笑されたらしい。
しかし、「そのトレーナー、イケテル!」って言ってきた業界人もいて、手相をマジックで書いて運勢を変えよう!とか、トイレを掃除して運気をあげよう!とかなんだかマニアックな企画ばっかやってる雑誌のモデルを、今はやっている。
少しずつ冷蔵庫 も開けられるようになってはいる長瀬君だけど、今度はいったん入れた物が捨てられない。
腐ってるかどうか怖くて見れないって言ってるから、バイト代もらって、腐った物を全部捨ててやることにした。
もちろん、缶詰以外みんな悪くなってた。 もう、冷蔵庫撤去しろよ……。
世話のやける友達だ。でも、とってもいいところがある。
長瀬君は、会社が新宿のへんぴなところにあるので、駅から少し歩くらしい。 その途中に犬を飼ってる家があって、そこの犬が皮膚病でひどい状態だった。
餌はもらってるみたいだけど、放置されてるみたいで、皮膚病でフケだらけで汚らしい。犬も全然可愛げがなく、人が通るとうなったり吠えたりしていた。
長瀬君は毎日、その犬に話しかけて、柵の間から手を入れて、とうとう頭を撫でることに 成功したらしい。その犬は、頭を撫でられて目を細めていたんだって。なんか心が通じあったって気がしたと言っていた。
そして、なんとそのフケだらけの犬をもらってきてしまった。
お母さんの指示がなくては、冷蔵庫が開けられない長瀬君だけど、吠える犬を手なずけるのも長瀬君。 そして、犬を引き取り、病院に連れて行く長瀬君は、もうマボロシの天井に怯えるノミじゃないよね。指示がなくても、自分で考えてやってんじゃん。
フケが落ち着いたら、タリーズに連れて来るって言ってたから、楽しみだ。龍君もきっと喜ぶだろうな。