すれ違い-1
海と隆羅が一緒に暮らし始めてしばらくしてから問題が出てきた。
教師と生徒の恋愛がこんなに難しいなのだと思い知らされた。
それは学校で如月の数学の授業中に起きた。
「ええ、ここの公式と数式はテストに必ず出すからキチンと憶えておくように。それと次のページの……おーい、水無月、聞いているのか?」
海は隆羅の事を考えていて授業そっちのけで上の空だった。
それは仕方の無い事なのかもしれないが……
「水無月?」
「水無月! 先生の授業が気に入らないなら帰れ!」
如月の怒鳴り声が響き渡り、教室の中が水を打ったようになった。
そこで、チャイムが鳴った。
「はい、今日の授業はここまで」
不機嫌な顔をしたまま如月が教室を出て行った。
「水無月さん、どうしたの駄目だよ授業ちゃんと聞いてないと。如月先生の授業は人気あるけれど授業態度が悪いと凄く怖いんだからネ」
「私も、久しぶりに驚いちゃった。如月先生って格好いいけれど真面目だからね。怒らせちゃ駄目だよ海ちゃん」
友達に散々言われたが、それよりもこんなに遠くに隆羅を感じる事が辛かった。
また、別の日の放課後。
誰も居ない廊下でのこと。
「ねぇ、隆羅、隆羅ってば」
「おい、水無月。ここは学校だ、けじめはちゃんと付けろ。ここで隆羅呼ばわりされる覚えは無い。用が無いのなら、早く帰りなさい」
「でも、誰も居ないじゃない!」
「ここは、校内だ。いい加減にしろ」
如月が立ち去ると海は立ち尽くし、とても辛くそして切なくなり止めども無く涙が出てきた。
しばらくすると学校では知る人の居ない人気者の如月の事だ、生徒や職員の間でも話題に上るようになった。
「如月先生、最近は少し厳し過ぎやしませんか? あの水無月は両親が失踪してしまって大変なのだからもう少し配慮を」
「お言葉ですが、授業態度の悪い者に厳しくするのは当然かと思いますが。何か私の方針にご不満でも」
「いや、そういう訳じゃ無いのですが」
「では、問題ないですね」
「はぁ~、確かに」
「しかし、如月先生は真面目ですからな。しょうがないかもしれませんな」
先生方でさえこの有様だった、ましてや生徒の間では。
「最近、如月先生って怖いよね」
「でも、水無月さんも可哀そうだよね」
「そうそう、だってお父さんもお母さんも蒸発しちゃたんでしょ」
「ええ、嘘。それ本当なの?」
「そこに、あの如月先生の厳しい態度。私、少し先生の事が嫌いになったかも。先生だって担任なんだから事情は知っているはずなのに」
「私、クラスメートとして先生に抗議してくる」
「嘘、本当に行くの? じゃ私も一緒に行く」
そして、海のクラスメート数人が職員室に向う。
その頃、如月は職員室の自分の机で書類を書いていた。
「失礼します。如月先生、お話があります」
「どうしたんだ?」
如月が手を止めて女生徒の方に椅子を回して向き合い手を膝の上に置いた。
「水無月さんの事なんですけれど、もう少し考えてあげて貰えませんか?」
「あまりにも、最近の水無月さんに対して酷すぎます」
女生徒達が矢継ぎ早に言った。
「先生は、誰か1人に対して厳しくするとか、贔屓するとかはしていないつもりだが」
「でも、水無月さんは最近ご両親の事とかで大変なんだし」
「じゃ、お前たちは先生にどうして欲しいんだ?」
「もう少し、水無月さんに優しくしてあげて下さい」
「それは、贔屓に当たるんじゃないのか。もし、先生が優しくして周りから不満や水無月に対して嫌がらせなどが起きた場合、誰が責任を取るんだ」
どう答えて良いのか判らず。女生徒達は顔を見合わせる。
「それは、どうすれば良いか分かりません。でも、私達は決してそんな事しません」
「それに、最近の水無月さんを見ていられないんです」
「それは、水無月の事を思っての事なんだな」
「はい」
数人の女生徒が頷き声が揃った。
「分かった、考慮してみるから。教室に戻りなさい、これからも水無月の事宜しくな」
「はい、先生。ありがとうございます」
女子生徒が嬉しそうに職員室を後にすると如月は少し苦笑いをした。
「やれやれ、少しきつ過ぎたかな」
隆羅の部屋では2人の間にすれ違いが多くなってきた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
「ご飯どうする?」
「悪い、今日はもうシャワー浴びて寝かせてくれ。会議が長くてな、教頭のバカが永遠としゃべりやがって、悪いな海。この埋め合わせは必ずするから」
「うん、分かった。おやすみ」
週末頃になると、会話も殆ど無くなり海は隆羅と目も合わせなくなっていた。
「海、海? 聞いているのか」
「はい、聞いています」
「最近、学校でも同じような態度だな」
「それは、隆羅……」
「俺がどうしたって?」
「何でも、ありません。今日はもう寝ます。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「こりゃ、重症だな」
海が虚ろな顔で寝室に歩いていく。
海が寝室に入るのを見届けて隆羅がため息を吐くと、携帯が鳴った。
携帯を見るとルコからだった。
「もしもし、ルコか?」
「パパの馬鹿! クズ! 人でなし!」
「その声はルコちゃんですか?」
「何が! ルコちゃんですかだぁ! こらぁ隆羅!」
「なぁ、ルコ。もう少しだけで良いから待っていてくれないか」
「えっ、何を。どうして?」
隆羅のあまりにも真剣な声にルコが戸惑う。
「お前の時もそうだったが、今を乗り越えないとこれ以上先には進めないんだ。最初から学校で優しくしてしまったら辛い思いをするのはアイツなんだ。周りから必ず目の敵にされる。俺は自分の立場などクソ喰らえと思っているから優しくするのは簡単だ。しかし今、友達まで失くす訳には行かないんだ。その為ならいくらでも俺は悪者になってやる。俺が周りから何を言われようが構わない。だけど今が一番大事な時なんだ。一時の感情に流されてしまったら失う物が大き過ぎるんだ」
「でも、パパ。海がもし分かってくれなかった時はどうするの?」
「いった筈だ。いくらでも悪者になると」
「それじゃ、パパが……」
「俺は良いんだよ。今まで周りの人間からいろんな物を奪って来たのだから。今は分からなくても、きっと分かってくれる時が来るさ」
「パパはそれで良いの?」
「ああ、これが俺の覚悟だ」
「パパ、ゴメン。切るね」
ルコは胸が押し潰されそうでこれ以上、隆羅と話をする事が出来なかった。
「ああ、またな」
ルコは電話を切り泣いていた。
自分の知らない隆羅の辛い思いを感じていた。
そこに「ルコ、ただいま」と沙羅が仕事から帰ってきた。
「ママ! パパが、パパが……」
ルコが泣きながら沙羅に抱きついた。
「どうしたの? 帰って来るなりいきなり泣き出したりして」
「パパが可哀そうだよ、あんまりだよ」
「海ちゃんの事ね。しょうがないわね、本当に不器用なんだから」
沙羅がルコの肩を抱きリビングに連れて行きソファーに座らせて沙羅もルコの横に腰掛け、優しくルコの肩を抱き寄せた。
「人からいろんな物を奪ってきたって」
「そう、そんな事を。ルコ、自分の時の事を思い出して御覧なさい、もし最初から隆羅があなたに優しくしていたら周りの子はどう思うかしら。いい気分はしないと思うけれど」
「そうか、私はパパの娘だから特別なんだって妬まれて虐められていたかも」
「そうでしょ、隆羅だって四六時中は見ていられない。虐められていると知れば気に掛ける、気に掛ければ掛けるほど泥沼にはまって行くわ。そして、一番辛い思いをするのは誰かしら?」
「私だ……」
「そう、今で言えば海ちゃんよ」
「だから、私にも最初あんなに厳しくしたんだ」
「海ちゃんに厳しく接すれば皆の目は隆羅に厳しく、海ちゃんには優しくなる」
「でも、それで海が、もし」
「それが、『俺の覚悟だ』なんて言っていたでしょ。隆羅は」
「うん」
「そういうヤツなのあの男は。誰からも何も奪ってはいない、私は素敵な10年をあいつに貰ったわ」
「素敵な10年?」
「ええ、たとえ形だけとは言え。ただそれだけで10年も一緒にいる訳無いじゃない、辛い事もあったけれど、それ以上に楽しくて素敵だった」
「じゃ、何で」
「それは、言わない約束でしょ」
「そうだったね」
「今は海ちゃん以上に、辛いのはアイツなの。誰からも良い目では見てもらえない、そして海ちゃんからもね。だから応援してあげましょう。そして私達に出来る事をする事、良いわね」
「うん、そうする」
隆羅達の部屋では。
隆羅が寝室に入ってくると海が先にベッドで横になっていた。
ベッドの横に腰を下ろす。
「海、もう寝たのか?」
「ううん、何?」
「あのな、話が……」
「もう、あんまり優しくしないで」
海のその一言で隆羅の言葉が切り捨てられ、隆羅の瞳に影が差した。
「そうか、分かった。今度の日曜、外で話がしたい。予定を空けておいてくれないか」
「う、うん。分かった」
隆羅が寝室を出て行き、そしてリビングのソファーで横になる。
海にはもう耐える自信が無かったのだ、これ以上優しくされれば辛くなるだけだと。
独りになるとどうしたら良いのか判らず涙が溢れてきた。




