面白い私じゃなくて、泣いてる私を見てほしかった
「あ」
受付の名簿に自分の名前を書こうとして、隣で同じく名簿に名前を書いている男の指が止まった。
爪の形に見覚えがある。四角くて、深爪気味で、いつも絆創膏が貼ってあった指。
悠介は、ウェルカムボードの前で私の名前を見つけて、露骨に「しまった」という顔をしていた。
その顔を見た瞬間、私は反射的に笑った。
「あ、死んだ魚」
悠介は一秒だけ黙り、それからいつもの低い声で返した。
「元気そうで何よりだよ、毒キノコ」
「誰が毒キノコよ。せめて舞茸にして。火を通せば旨味が出る女だから」
「自分で言うな」
三年ぶりだった。
なのに、会話のテンポだけは昨日の続きみたいだった。
別れた日の沈黙も、未読のまま終わった最後のメッセージも、なかったことにできそうなくらい、くだらなかった。
胸の奥が少し痛んだので、私はすぐに笑顔を足した。
「いやあ、まさか友人代表スピーチの日に元彼と再会するとはね。人生、伏線回収が雑」
「俺は受付頼まれてる」
「うわ、似合う。無言で人を裁く係」
「受付は裁判所じゃない」
「でも今、私に有罪判決出した顔してた」
悠介は返事をしなかった。
その沈黙の形まで覚えている自分が嫌だった。
彼は怒ると声を荒げない。笑わなくなる。少しだけ目を伏せる。そうして、相手が傷つかないように、自分の気持ちを奥へ奥へしまっていく。
私はそれが苦手だった。
怒ってよ、と思う。
責めてよ、と思う。
なのに、いざ責められそうになると、先にふざけて逃げる。
大人になった。
仕事では後輩に「落ち着いてますね」なんて言われる。保険も入った。整体にも通っている。冷蔵庫には賞味期限内の卵がある。
なのに恋だけは、二十代の失敗をずっと引きずっている。
「真琴」
名前を呼ばれて、胸がざわついた。
「なに?」
「今日、無理しなくていいから」
その一言で、私は泣きそうになった。
だから、笑った。
「無理してないって。むしろ絶好調。今日の私、スピーチで三回は笑い取る予定だから」
「そういうところ」
悠介が小さく言った。
「え?」
「いや」
そのとき、会場スタッフが青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「すみません! 新郎新婦へのサプライズムービーのデータが開かなくて……! あと、余興担当の方が渋滞で間に合わないそうです!」
私は悠介を見た。
悠介も私を見た。
昔、私たちはこういうトラブルにやたら強かった。
私が喋って場をつなぎ、悠介が裏で段取りを直す。私が無茶を言い、悠介がため息をつきながら現実にする。
恋人としては下手だったくせに、コンビとしては妙に息が合っていた。
私は口角を上げた。
「元彼、出番です」
悠介は深くため息をついた。
「その呼び方やめろ」
「じゃあ何て呼べば?」
一瞬、悠介の目が揺れた。
私はすぐに後悔した。
冗談のつもりだった。いつもの逃げ道だった。
悠介は受付用のペンを置き、私をまっすぐ見た。
「今は、悠介でいい」
それだけの言葉なのに、胸の奥で何かが崩れた。
三年ぶりに呼んでいい名前。
三年かけても、忘れられなかった声。
私は笑った。
「了解、悠介。じゃあ新郎新婦のために、私たちの破局経験を余興に昇華しますか」
「絶対にするな」
「タイトルは『愛は死んだが段取りは生きている』」
「縁起が悪すぎる」
「じゃあ『元恋人たちの業務提携』」
悠介は呆れた顔をしたあと、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見て、私は思ってしまった。
ああ、まずい。
まだ好きだ。
その瞬間、スタッフがさらに言った。
「それで、お二人にお願いがありまして……新郎新婦からの指名で、急遽ペア余興をお願いできないかと」
私は固まった。
悠介も固まった。
スタッフは申し訳なさそうに、決定打を放った。
「お二人、昔から“夫婦漫才みたいで最高”って聞いてますので!」
私は笑った。
悠介も、なぜか笑った。
笑うしかなかった。
だって本当は、夫婦になるはずだったのだ。
◇
結局、ムービーは開演五分前に奇跡的に復旧して、余興はなくなった。
「安心しろ、『元恋人たちの業務提携』は幻に終わった」
「ちょっと残念だったんだけど」
「残念がるな」
裏で機材と格闘していた悠介の額に汗が光っていた。私はその横で、使えなくなったケーブルを片付けながら、笑いを堪えていた。
三年ぶりに見た、悠介の仕事している顔。
眉間に皺を寄せて、口数が減って、それでも誰にも当たらない顔。この人はいつもそうだった。トラブルの中でも、自分の余裕のなさを人にぶつけない。
「ねえ、悠介」
「なに」
「相変わらずだね」
「なにが」
「そういう、自分だけ我慢するとこ」
悠介は手を止めなかった。ケーブルを丸めながら、ぼそりと言った。
「真琴こそ、相変わらずだろ。しんどい時ほど、ふざける」
図星だった。
図星だったから、私はまた笑った。
「うるさい死んだ魚」
「うるさい毒キノコ」
くだらないやり取りが、三年分の距離をあっという間に埋めていく。埋まっていくのが、少し怖かった。
◇
披露宴が始まって、席に着くと、なぜか新郎新婦側の采配で、私と悠介の席は隣同士だった。
「これ、企画したの誰よ」
「さあ。俺に言われても」
「絶対あの子だ。悪気なく人の古傷えぐるタイプ」
軽口を叩きながら、私は内心で舌打ちしていた。三年経てば少しは老けるとか、太るとか、そういう救いがあってもいいのに、悠介は相変わらず涼しい顔で、相変わらず私より先に椅子を引いてくれた。
「座れば」
「気安く紳士ぶらないでよ。びっくりするから」
「じゃあ立って待ってる?」
「座るわよ」
意地でも先に折れたくなくて、私はさっさと椅子に座った。悠介が小さく笑う気配がした。ああ、この笑い方。何も言わずに笑うところ。これだよ、これが苦手だったんだ、と三年越しに思い出す。
新郎新婦の入場に拍手を送りながら、悠介がグラスにビールを注いでくれた。
「相変わらず気が利くね」
「相変わらず注がれるの待つよな、真琴」
「注がれる女、それが私の生き方」
軽口で返しながら、グラスを傾けるふりをして横目で悠介を見た。三年前と変わったところを探して、結局見つけられなかった自分に少し腹が立った。
新婦のウェディングドレス姿に会場がわっと沸いて、私も拍手をしながら、なぜか喉の奥が変な感じになった。悠介が隣でそっとこちらを見たのがわかった。
「泣いてもいいよ」
「泣いてない。目にゴミ入っただけ」
「毎回それ言うよな」
「毎回言う権利がある」
そう返しながら、私は自分の頬が本当に濡れていることに気づいて、慌ててナプキンで拭いた。悠介は何も言わずに、水のグラスをそっと私の手元に寄せた。何も聞かない。何も茶化さない。ただ、そこにいる。
これだ、と思った。三年前、私が一番怖かったのはこれだった。
◇
別れた夜のことは、正直あまり思い出したくない。
きっかけは些細なことだった。悠介が転職の話をぽつりとしたのに、私が「え、それいいじゃん、新しい名刺センスある?」とふざけて流したこと。
「真琴」
いつもより少し低い声だった。
「今、真面目な話してたんだけど」
「してたよ。だから…」
「なんで」
「なんでって、真面目な話すると疲れるから」
自分でもびっくりするくらい素っ気ない声が出た。悠介はしばらく黙って、それから静かに言った。
「俺、いつも真琴の顔色見てる。今日はどのくらいふざけていいかって。真面目な話すると、真琴が逃げるから」
「逃げてないし」
「逃げてる。いつも」
痛いところを突かれると、私は決まって笑いに逃げる。それがこの人にはとっくにばれていた。
「じゃあ聞くけど、悠介はいつも本音言ってんの? 私にだって我慢してること、いっぱいあるでしょ」
「ある」
即答されて、こっちが黙る番だった。
「本当は、もっと寂しいって言いたい。真琴が忙しくて会えない日、寂しいって。でも言ったら真琴が困る顔するから、言わない」
「困らないよ」
「困るよ。困った顔して、『えー悠介甘えん坊だ』って笑って終わりにする。それが嫌なんだ」
図星すぎて、返す言葉がなかった。
「じゃあ、今言えばいいじゃん。今、寂しいって、行かないでって、言えばいいじゃん」
売り言葉に買い言葉のつもりだった。でも、悠介は黙ったままだった。長い沈黙のあと、彼はゆっくり首を振った。
「言えない。真琴が困る顔するの、見たくない」
「そんなの、私が決めることでしょ」
「うん。だから、俺が我慢する」
その言葉が、優しさなのか、諦めなのか、当時の私にはわからなかった。ただ、これ以上一緒にいたら、お互い何も本音を言わないまま、笑って笑って、ある日ふっと終わる気がした。
「じゃあ、もういいよ」
私が先に言った。悠介は驚いた顔もせず、ただ小さく頷いた。それが一番、こたえた。怒ってくれた方がまだよかった。
◇
披露宴のお色直しの間、二人で会場の外に出た。煙草を吸うわけでもないのに、なんとなく歩いていた。
「あの時さ」
夜風に当たりながら、私は珍しく自分から切り出した。
「私が『もういいよ』って言った時、悠介、全然引き止めなかったよね」
「引き止めたら真琴、困るかなと思って」
「困らないよ、あの時は」
「今わかった。当時はわかんなかった」
情けない声で笑うから、私もつられて笑ってしまった。三年経って、やっとこの人の不器用さがちゃんと見える。
「私もさ、本当はあの時、引き止めてほしかった。行かないでって言われたかった」
「言えばよかった」
「言えるわけないでしょ、そんな面倒くさい女」
「面倒くさい女、好きだったけど」
さらっと言われて、私は前を向いたまま固まった。悠介はいつも通り、こういう時だけ変に率直だ。
「ずるい」
「なにが」
「今更それ言うの、ずるい」
「今しか言えなかったから」
会場から拍手の音が漏れ聞こえてきた。新郎新婦がまた何か始まったらしい。私たちはしばらく黙って、それぞれのシャンパングラスの泡を見ていた。
「私さ、悠介と別れてから、ずっと笑いに逃げてた自分のこと考えてた」
「うん」
「面白い女でいれば、傷つかずに済むと思ってた。でも本当は、面白い私じゃなくて、泣いてる私ごと、誰かに受け止めてほしかったんだと思う」
「わかるよ、それは」
「知ってる。悠介、ずっとそれ待っててくれてたもんね。私が本音言うの」
「待ってた」
短い返事だったけれど、そこに三年分の何かが詰まっている気がした。
◇
披露宴がお開きになって、参列客がぞろぞろと会場を出ていく。私と悠介は自然な流れで、駅までの道を並んで歩いていた。
「今日、良い式だったね」
「うん」
「なんか、私たちもこういうの、いつかやれたのかな」
言ってから、自分でびっくりした。三年前だったら絶対言えなかった台詞だ。悠介も少し驚いた顔をして、それからいつもの困ったような笑みを浮かべた。
「やり直そうって言ってる?」
「言ってない。今すぐには言ってない」
「今すぐじゃなかったら?」
「わかんない。でも、今日会えてよかったとは思ってる」
正直に言うのは、思っていたより怖くなかった。悠介は少し歩調を緩めて、私の顔を覗き込んだ。
「真琴、今、笑ってごまかしてないよな」
「ごまかしてない。ちゃんと言ってる」
「珍しいな」
「うるさい死んだ魚」
「その呼び方まだ続けるのか」
「続けるよ、毒キノコ」
悠介は声を出して笑った。ワンテンポ遅れる、あの遠慮がちな笑い方じゃなかった。ちゃんと今、目の前で笑っていた。
駅前の交差点で、信号が赤に変わった。二人並んで足を止める。
「またご飯行こう」
私は前を向いたまま言った。
「今度は、笑わせるためじゃなくて、ちゃんと話すために」
隣で悠介が息を吸う気配がした。しばらくの沈黙のあと、彼は柔らかく笑った。
「じゃあ俺、泣いても引かない練習して行く」
信号が青に変わった。
悠介が一歩先に踏み出して、私は少し遅れてついていく。
「またね」を言わなかったことに、駅の改札を抜けてから気づいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
何となく、本音を言えない人ってどんな感じなのかと思って書き始めましたが、思ったよりも「本音を言う」って難しいものだなと、書きながら感じました。
書き終えてみて、二人が「今すぐ答えを出さない」選択をしたことに、自分でも少しほっとしています。
もしよろしければ、感想や、いいなと思っていただけたら評価などいただけると、とても励みになります。
また別の物語でお会いできたら嬉しいです。




