珊瑚と誓いのあと──南の島で拾った婚約指輪
空港を出た瞬間、潮の香りが頬を撫でた。
美月は目を細めて、久しぶりの南国の日差しを受け止めた。東京のビル群に囲まれた毎日から、まるで別の惑星に降り立ったような気がした。
スマートフォンには、もう三日も前から未読のメッセージが溜まっている。友人からの気遣いのメッセージも、元婚約者からの謝罪も、全てに目を通す気力が湧かなかった。
「美月ちゃん!」
空港の出口で待っていた祖母の声が、遠くから聞こえた。七十を過ぎてなお背筋の伸びた祖母・千鶴は、日焼けした顔に深い皺を刻みながらも、優しい笑みを浮かべていた。
「おばあちゃん……」
美月は小さく手を振った。久しぶりに見る祖母の顔が、不思議と涙を誘った。
「よく来たね。さあ、家に行こう。海が見える部屋、準備しておいたから」
祖母は何も聞かなかった。美月が何を抱えてここに来たのか、電話で聞いていたはずなのに、一言も触れなかった。その配慮が、かえって美月の胸を締めつけた。
祖母の家は、島の東側の高台にあった。白い壁と赤い瓦屋根の平屋で、窓からは青い海が一望できた。
荷物を置いて、美月は縁側に腰を下ろした。目の前に広がる海は、東京湾のそれとはまるで違う。透明度の高い水面が、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
「海、綺麗だね」
祖母が麦茶を持ってきて、隣に座った。
「そうだね。この海を見てると、人間の悩みなんて小さく思えてくるよ」
美月は苦笑した。
「そう思えたらいいんだけど」
「無理に思わなくていいのよ。ただ、ここにいればいい」
祖母の言葉は優しかった。美月は麦茶を一口飲んで、また海を見つめた。
婚約破棄を告げられたのは、二週間前だった。結婚式の招待状も発送し、新居の契約も済ませた矢先のことだった。理由は曖昧だった。「価値観の違い」「タイミングが合わなかった」――彼が口にした言葉は、どれも美月の心を傷つけるばかりで、納得には程遠かった。
両親は諦観の表情を浮かべ、友人たちは慰めの言葉をかけてくれた。でも、美月自身の心は、どこにも行き場を失っていた。
だから、逃げた。
誰も知らない場所で、しばらく一人になりたかった。
翌朝、美月は早起きして海辺を歩いた。
島の東側の海岸は、観光客も少なく、静かだった。波が寄せては返す音だけが、耳に心地よく響いた。
裸足で砂浜を歩きながら、美月は何も考えないようにした。ただ、足裏に感じる砂の感触と、波の冷たさだけを意識した。
ふと、足元で何かが光った。
美月は立ち止まって、しゃがみ込んだ。波打ち際に、珊瑚の欠片が絡まっていた。そして、その中心に――古びた指輪が埋まっていた。
「これ……」
美月は指輪を拾い上げた。銀色の金属が、長い間海水に浸かっていたのか、少し変色していた。でも、内側には文字が刻まれていた。
『To M. Forever yours, S.』
美月は指輪を掌に乗せて、じっと見つめた。誰かの婚約指輪だろうか。それとも、結婚指輪だろうか。どうしてこんな場所に落ちていたのだろう。
波音が、まるで何かを語りかけるように聞こえた。
その日の午後、美月は祖母と一緒に島の集落を歩いた。
島には、小さな商店と郵便局、診療所があるだけだった。人口も二百人ほどで、皆が顔見知りのような雰囲気だった。
「美月ちゃん、久しぶりだね」
商店の店主が声をかけてきた。
「お久しぶりです」
美月は笑顔を作った。子供の頃、夏休みに何度か訪れたことがある。店主の顔にも、見覚えがあった。
「東京から来たの? 仕事は?」
「ちょっと休暇で……」
美月は曖昧に答えた。祖母が助け舟を出してくれた。
「しばらくうちに泊まるのよ。ゆっくりしてもらおうと思って」
「そうかい。それはいい。島の空気は、疲れた心に効くからね」
店主は笑って、美月に冷たい飲み物を渡してくれた。
夕方、美月は再び海辺を訪れた。
夕焼けが海を染めていた。オレンジ色の光が水面に反射して、まるで海全体が燃えているようだった。
美月はポケットから指輪を取り出して、夕日に透かしてみた。刻印の文字が、光の中で浮かび上がった。
「これ、誰の指輪なんだろう」
美月は独り言のように呟いた。
「それ、どこで拾ったんですか?」
突然、背後から声がした。
美月は驚いて振り返った。そこには、二十代後半くらいの男性が立っていた。日焼けした肌に、短く切った黒髪。Tシャツにジーンズという気取らない格好だったが、どこか都会的な雰囲気を纏っていた。
「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいましたか」
男性は軽く頭を下げた。
「いえ……これ、海辺で拾ったんです」
美月は指輪を見せた。男性の表情が、一瞬強張った。
「それ……もしかして」
男性は指輪に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「知ってるんですか?」
「ええ。それ、僕が――いや、僕の知人が探していたものかもしれません」
男性は複雑な表情を浮かべた。
「僕、颯太といいます。この島に、ちょっと前から滞在してるんです」
颯太は、島の西側にある小さな民宿に泊まっているという。東京から来たという点では、美月と同じだった。
「その指輪のこと、詳しく教えてもらえますか?」
颯太の声には、何か切実なものが含まれていた。
美月は頷いて、拾った場所と時間を説明した。颯太は真剣な表情で聞いていた。
「やっぱり……それ、僕が探していたものです」
「颯太さんの?」
「いえ、正確には――僕の兄のものです」
颯太は目を伏せた。
「兄は三年前、この島で事故に遭って亡くなりました。その時、婚約者と一緒に旅行に来ていたんです」
美月は息を呑んだ。
「婚約者……」
「ええ。兄の婚約者の名前は、真帆さん。Mのイニシャルです。そして、兄の名前は翔。Sです」
颯太の声は、静かだった。
「二人は、結婚式の一週間前に、この島を訪れました。でも、海で事故に遭って――兄だけが、戻ってこなかった」
美月は言葉を失った。
「真帆さんは、兄の死後、姿を消しました。連絡も取れなくなって。僕は、兄が最期に何を思っていたのか、真帆さんに何を伝えたかったのか、ずっと知りたくて――それで、この島に来たんです」
その夜、美月は祖母に颯太の話を聞かせた。
祖母は静かに聞いていたが、最後に一言だけ呟いた。
「あの事故のことは、島の人も覚えているよ。若いカップルが海で遊んでいて、男性が流されたって。女性は無事だったけど、ひどく取り乱していたって聞いた」
「颯太さん、真帆さんを探してるみたい」
「そうか……」
祖母は遠くを見つめた。
「でも、美月ちゃん。人の心の傷は、簡単には癒えないものだよ。もしかしたら、その真帆さんも、まだ痛みを抱えているのかもしれない」
美月は頷いた。自分自身の傷も、まだ生々しかった。
翌日、美月は颯太と再び会った。
二人は海辺のカフェで話をした。観光客向けの小さな店で、テラス席からは海が一望できた。
「指輪、返します」
美月は指輪を差し出した。でも、颯太は首を横に振った。
「いえ、受け取れません。それは、兄と真帆さんのものです。僕が持つべきものじゃない」
「でも……」
「それに」
颯太は小さく笑った。
「あなたが拾ったのは、何か意味があるのかもしれません」
美月は戸惑った。
「意味?」
「僕、ずっと考えてたんです。兄が何を残したかったのか、真帆さんに何を伝えたかったのか。でも、答えは出なかった。それで、この島に来て、兄が最期に見た景色を見て――それでも、わからなかった」
颯太は海を見つめた。
「でも、あなたがその指輪を拾った。それは偶然じゃないような気がするんです」
美月は指輪を見つめた。小さな金属の輪が、不思議な重みを持っているように感じられた。
その後、美月と颯太は何度か会うようになった。
二人は島を歩き、兄が訪れた場所を巡った。小さな神社、崖の上の展望台、夕日が綺麗に見える岬――どれも、颯太が兄の写真を頼りに探し当てた場所だった。
「兄は、写真が好きだったんです」
颯太は懐かしそうに言った。
「いつもカメラを持ち歩いて、色んな景色を撮ってました。この島に来たときも、たくさん写真を撮ったみたいで――遺品の中に、SDカードが残ってたんです」
颯太はスマートフォンを取り出して、写真を見せてくれた。美しい海、夕焼け、そして笑顔の女性――真帆さんだろう。
「綺麗な人ですね」
美月は素直に言った。
「ええ。兄は、本当に真帆さんを愛していました」
颯太の声は、少し震えていた。
「だから、僕は――兄が最期に何を思ったのか、知りたくて」
ある日の夕方、美月と颯太は岬の展望台に座っていた。
夕日が水平線に沈もうとしていた。空はオレンジから紫へとグラデーションを描き、海はその色を映していた。
「美月さん」
颯太が静かに口を開いた。
「あなたも、何か抱えてここに来たんですよね」
美月は驚いて颯太を見た。
「どうして……」
「なんとなく、わかるんです。同じような目をしてるから」
颯太は優しく笑った。
美月は少し迷ってから、口を開いた。
「私……婚約破棄されたんです。二週間前に」
颯太は静かに聞いていた。
「結婚式も決まってて、新居も決まってて――全部準備ができてたのに。彼が突然、やっぱり無理だって」
美月の声が震えた。
「理由も、よくわからなくて。ただ、私が何か間違ってたのかなって。私が、足りなかったのかなって」
涙が溢れそうになった。でも、美月は必死に堪えた。
「だから、逃げたんです。誰も知らない場所に」
颯太は何も言わずに、ただ隣にいた。
しばらく沈黙が続いた。波の音だけが、二人の間を満たしていた。
「美月さん」
颯太がゆっくりと言った。
「あなたは、何も間違ってないと思います」
「でも……」
「人の心は、時に理不尽です。どんなに愛していても、どんなに準備が整っていても――何かが噛み合わないことがある。それは、誰のせいでもない」
颯太の言葉は、優しかった。
「僕の兄も、真帆さんを愛していました。でも、運命は二人を引き裂いた。それは、誰のせいでもない。ただ、そういうことが起きただけ」
美月は颯太を見つめた。
「颯太さんは……辛くないんですか?」
「辛いですよ」
颯太は素直に答えた。
「でも、辛いままじゃいけないとも思ってます。兄は、きっと僕に前を向いてほしいと思ってる」
その夜、美月は一人で海辺を歩いた。
月明かりが海を照らしていた。波が静かに寄せては返し、砂浜に白い泡を残していた。
美月はポケットから指輪を取り出した。月の光に透かすと、刻印の文字がはっきりと見えた。
『To M. Forever yours, S.』
永遠にあなたのもの――そう刻まれた指輪が、なぜ海に沈んでいたのだろう。
美月は目を閉じて、想像してみた。
三年前、この島を訪れた若いカップル。結婚式を一週間後に控えて、最後の思い出作りに来た二人。海で遊んでいて、突然の事故。男性は流され、女性は助かった。
真帆さんは、どんな気持ちでこの島を去ったのだろう。
愛する人を失い、指輪だけが残された。
もしかしたら、真帆さんは指輪を海に投げたのかもしれない。あまりにも辛くて、持ち続けることができなくて。
でも、海は指輪を受け取らなかった。
三年の時を経て、珊瑚に絡まりながら――再び浜辺に戻ってきた。
まるで、何かを伝えるために。
翌朝、美月は祖母に尋ねた。
「おばあちゃん、三年前の事故のこと、もっと詳しく教えて」
祖母は麦茶を注ぎながら答えた。
「あれは、確か八月の終わりだったね。若いカップルが、東側の海岸で遊んでいて――男性が沖に流されたんだ」
「女性は?」
「女性は、必死に助けようとしたらしい。でも、波が強くて――結局、男性は見つからなかった」
祖母は悲しそうな顔をした。
「女性は、ずっと泣いていたって聞いた。島の人たちが慰めても、何も食べずに――三日後、島を去ったって」
「その後は?」
「わからないね。連絡先も聞けなかったし」
美月は考え込んだ。
「おばあちゃん、もし――もし、その女性が今も苦しんでいたら、どうすればいいと思う?」
祖母は美月を見つめた。
「それは、本人が決めることだよ。でも、もし誰かが手を差し伸べてくれたら――少しは楽になるかもしれないね」
その日の午後、美月は颯太に電話をした。
「颯太さん、お願いがあるんです」
「何ですか?」
「真帆さんを、一緒に探しませんか」
電話の向こうで、颯太が息を呑む音がした。
「でも、どうやって……」
「わかりません。でも、何かできることがあるかもしれない」
美月の声は、いつになく力強かった。
「この指輪、きっと意味があると思うんです。私たちが出会ったのも、偶然じゃないような気がして」
颯太は少し黙ってから、答えた。
「わかりました。一緒に探しましょう」
二人は、まず島の人たちに話を聞いて回った。
事故のことを覚えている人は何人かいたが、真帆さんのその後を知る人はいなかった。
「でも」
商店の店主が言った。
「確か、あの女性、東京の病院で働いてるって言ってたような気がする」
「病院?」
「ええ。看護師さんだったかな」
わずかな手がかりだったが、二人は希望を持った。
颯太は東京に戻ってから、病院を片っ端から調べた。看護師で、真帆という名前の女性を探した。
そして、一週間後――颯太から美月に連絡が来た。
「見つかりました」
颯太の声は震えていた。
「真帆さん、都内の総合病院で働いてます。明日、会いに行きます」
「私も行きます」
美月は即座に答えた。
「え、でも……」
「お願いします。この指輪、私が返したいんです」
翌日、美月は東京行きの飛行機に乗った。
空港で颯太と合流し、二人は病院へ向かった。
真帆は、小児科の病棟で働いていた。颯太が受付で名前を告げると、しばらくして白衣を着た女性が現れた。
写真で見たよりも痩せて、疲れた表情をしていたが、間違いなく真帆さんだった。
「颯太……さん?」
真帆は驚いた顔をした。
「お久しぶりです」
颯太は深く頭を下げた。
「突然すみません。でも、どうしてもお会いしたくて」
真帆は戸惑った様子だったが、休憩室に案内してくれた。
三人は、誰もいない休憩室で向かい合って座った。
真帆は俯いたまま、何も言わなかった。
「真帆さん」
颯太が静かに口を開いた。
「兄のこと――翔のこと、今でも覚えていますか」
真帆の肩が震えた。
「忘れるわけ、ないじゃないですか……」
小さな声だった。
「毎日、思い出してます。あの日のこと、翔さんのこと――全部」
涙が、真帆の頬を伝った。
「私のせいなんです。私が、海で遊ぼうって言ったから。私が――」
「違います」
颯太は首を横に振った。
「誰のせいでもありません。事故だったんです」
「でも……」
「真帆さん」
今度は美月が口を開いた。
「これ、受け取ってもらえませんか」
美月は指輪を差し出した。
真帆は目を見開いた。
「これ……翔さんの……」
「南の島の海辺で、拾いました。珊瑚に絡まって、浜辺に戻ってきてたんです」
美月は優しく言った。
「海は、この指輪を受け取らなかったんです。きっと、あなたの元に返したかったんだと思います」
真帆は震える手で指輪を受け取った。
「翔さん……」
涙が止まらなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「謝らないでください」
颯太は真帆の肩に手を置いた。
「兄は、あなたを責めていません。きっと、あなたに幸せになってほしいと思ってます」
「でも、私……私……」
「真帆さん」
美月は真帆の手を握った。
「私も、最近辛いことがあって。大切な人を失って――自分を責めて。でも、この島で、颯太さんと出会って、この指輪を拾って――少しずつ、前を向けるようになったんです」
美月は真帆を見つめた。
「だから、真帆さんも――少しずつでいいから、前を向いてほしいんです。翔さんも、きっとそう願ってると思います」
真帆は長い間泣いていた。
颯太と美月は、ただ静かに寄り添っていた。
やがて、真帆は顔を上げた。
「ありがとうございます」
小さな声だったが、そこには少しだけ温かさが戻っていた。
「この指輪――大切にします。そして、翔さんが望んでいた通り、前を向きます」
真帆は指輪を胸に抱きしめた。
「時間はかかるかもしれないけど――少しずつ」
美月が島に戻ったのは、その三日後だった。
空港で祖母が迎えてくれた。
「お帰り、美月ちゃん」
「ただいま、おばあちゃん」
美月は笑顔で答えた。
祖母は美月の顔を見て、微笑んだ。
「いい顔になったね」
「そうかな」
「ええ。もう、逃げてる顔じゃない」
その夜、美月は海辺に立っていた。
波音が、優しく響いていた。月明かりが海を照らし、星が空に輝いていた。
美月はポケットから、小さな貝殻を取り出した。島で拾ったものだった。
「ありがとう」
美月は海に向かって呟いた。
「この島に来て、颯太さんに会えて――指輪を拾えて。全部、意味があったんだね」
波が答えるように、静かに寄せてきた。
美月は深呼吸をした。
東京に戻ったら、新しい生活が待っている。婚約破棄の痛みは、まだ完全には消えていない。でも、もう逃げない。
前を向いて、もう一度――自分の人生を選ぶ勇気を持とう。
指輪が教えてくれた。
壊れた誓いの先にも、新しい始まりがあることを。
失った愛の痛みを抱えながらも、人は再び立ち上がれることを。
翌朝、美月は祖母と朝食を食べながら言った。
「おばあちゃん、あと三日で東京に戻るね」
「そう。もう大丈夫なの?」
「うん。まだ完璧じゃないけど――でも、もう逃げない」
祖母は優しく笑った。
「それでいい。人生は、逃げるためにあるんじゃない。選ぶためにあるんだから」
美月は頷いた。
窓の外では、朝日が海を照らしていた。新しい一日が始まる。
美月は、その光を見つめながら思った。
この島で過ごした時間は、きっと一生忘れない。
波音も、夕焼けも、珊瑚も――そして、颯太さんとの出会いも。
全てが、美月に教えてくれた。
人は何度でも、立ち上がれる。
壊れた誓いの先にも、新しい物語が待っている。
東京に戻る日、颯太から連絡が来た。
「美月さん、真帆さんから連絡がありました」
「本当?」
「ええ。少しずつだけど、前を向き始めてるって。それに――兄のお墓参りに行くって言ってました」
美月は微笑んだ。
「良かった」
「美月さんのおかげです。ありがとうございました」
「私こそ、颯太さんに感謝してます。颯太さんと出会えて――私も、変われたから」
電話の向こうで、颯太が笑う声がした。
「美月さん、また島に来ますか?」
「うん。きっと」
「その時は、また会いましょう」
「はい。きっと」
飛行機の窓から、島が小さくなっていくのが見えた。
美月は目を細めて、その景色を心に焼きつけた。
青い海、白い砂浜、緑の木々――全てが、美月の宝物だった。
そして、ポケットの中には、小さな貝殻が入っていた。
島の思い出と、新しい勇気を胸に――美月は、東京へと帰っていった。
それから半年が過ぎた。
美月は、新しい職場で働き始めていた。前の会社は辞めて、以前から興味があったデザイン事務所に転職した。給料は下がったが、やりがいがあった。
婚約破棄の傷は、完全には癒えていなかった。でも、もう立ち止まることはなかった。
ある日、美月のスマートフォンに颯太から連絡が来た。
「美月さん、今度の週末、時間ありますか?」
「どうしたんですか?」
「実は――真帆さんが、島に行くって。兄のために、海に花を手向けたいって」
美月は少し考えてから答えた。
「私も、行きたいです」
「本当ですか?」
「はい。真帆さんに、会いたいです」
週末、美月は再び南の島を訪れた。
空港には、颯太と真帆が待っていた。真帆は以前よりも明るい表情をしていた。
「美月さん、お久しぶりです」
真帆は微笑んで手を振った。
「真帆さん、お元気そうで」
「ええ。少しずつですけど――前を向けるようになりました」
三人は、祖母の家に向かった。祖母は温かく迎えてくれた。
「いらっしゃい。よく来たわね」
「おばあちゃん、ただいま」
美月は祖母を抱きしめた。
その日の夕方、三人は海辺に立っていた。
颯太が持ってきた白い花を、真帆が海に手向けた。
「翔さん、来ました」
真帆は静かに語りかけた。
「あなたが愛してくれた海に、もう一度来ることができました」
波が静かに寄せては返した。
「ごめんなさい。こんなに時間がかかって。でも――やっと、前を向けるようになりました」
真帆の声は、もう震えていなかった。
「あなたが望んでいた通り、私、もう一度生きていきます。あなたの分まで――幸せになります」
颯太は静かに見守っていた。美月も、ただ寄り添っていた。
花が波に運ばれて、ゆっくりと沖へ流れていった。
夕日が海を染めて、空がオレンジ色に輝いた。
「翔さん」
真帆は最後にもう一度呼びかけた。
「愛してます。ずっと――永遠に」
波音が、優しく答えるように響いた。
その夜、三人は祖母の家で夕食を囲んだ。
祖母が作った島料理が、テーブルに並んでいた。魚の煮付け、ゴーヤチャンプルー、もずく酢――どれも優しい味だった。
「美味しい」
真帆は笑顔で言った。
「翔さんも、きっとこういう料理、好きだったと思います」
「兄は、何でも美味しそうに食べてましたからね」
颯太も笑った。
美月は二人を見ながら、温かい気持ちになった。
半年前、あの指輪を拾ったときには想像もしなかった。こうして三人で、笑い合える日が来るなんて。
「美月ちゃん」
祖母が声をかけた。
「あなたも、いい顔になったわね」
「おばあちゃんのおかげだよ」
「いいえ。あなた自身の力よ」
祖母は優しく笑った。
「人は、自分で立ち上がるしかない。でも、誰かが隣にいてくれれば――それだけで、立ち上がる勇気が湧いてくるものなのよ」
食事の後、美月は一人で海辺を歩いた。
月明かりが海を照らしていた。波が静かに寄せては返し、砂浜に白い泡を残していた。
美月は立ち止まって、海を見つめた。
この半年、色々なことがあった。
辛いことも、悲しいことも、たくさんあった。
でも、その全てが――今の自分を作ってくれた。
「ありがとう」
美月は海に向かって呟いた。
「この島に来て、本当に良かった」
波が答えるように、優しく寄せてきた。
美月は深呼吸をした。
明日からまた、東京での生活が始まる。
でも、もう怖くない。
どんな困難が待っていても、きっと乗り越えられる。
この島が教えてくれた――人は何度でも、立ち上がれるということを。
翌朝、空港で三人は別れた。
「美月さん、本当にありがとうございました」
真帆は深く頭を下げた。
「私、これからも頑張ります。翔さんの分まで――ちゃんと生きていきます」
「真帆さんなら、大丈夫です」
美月は真帆の手を握った。
「いつか、また会いましょう」
「はい。きっと」
真帆は笑顔で答えた。
颯太は、美月を見送りながら言った。
「美月さん、また島に来てくださいね」
「はい。きっと」
美月は笑顔で答えた。
「颯太さんも、お元気で」
「ええ。美月さんも」
二人は握手を交わした。
そして、美月は搭乗ゲートへと向かった。
飛行機が離陸する瞬間、美月は窓の外を見た。
青い海、白い砂浜、緑の木々――島の景色が、どんどん小さくなっていった。
美月は目を閉じた。
心の中に、波音が響いていた。
優しく、温かく――まるで、誰かが語りかけてくるように。
『大丈夫。あなたは、もう一人じゃない』
美月は微笑んだ。
そうだ。もう一人じゃない。
颯太さんも、真帆さんも、祖母も――みんな、どこかで繋がっている。
そして、あの指輪が教えてくれた。
壊れた誓いの先にも、新しい物語が待っているということを。
人は何度でも、愛することができる。
何度でも、立ち上がることができる。
何度でも――選ぶことができる。
東京に着いたとき、美月のスマートフォンに一通のメッセージが届いていた。
颯太からだった。
『美月さん、無事に着きましたか? 真帆さんが、お礼を言いたいって。今度、三人で食事でもしましょう』
美月は笑顔で返信した。
『着きました。食事、楽しみにしてます』
そして、もう一通、メッセージを送った。
『颯太さん、本当にありがとうございました。颯太さんと出会えて――私、変われました』
しばらくして、返信が来た。
『こちらこそ。美月さんと出会えて、僕も救われました。これからも、前を向いていきましょう』
美月はスマートフォンを胸に抱きしめた。
温かい気持ちが、胸いっぱいに広がった。
それから一年が過ぎた。
美月は、デザイン事務所で順調に仕事を続けていた。新しいプロジェクトも任されるようになり、充実した日々を送っていた。
真帆とは、時々連絡を取り合っていた。真帆は病院で子供たちの笑顔に囲まれながら、少しずつ自分の人生を取り戻していた。
颯太は、東京で新しい仕事を始めた。兄の遺志を継いで、写真を撮る仕事に就いたという。
ある日、美月は颯太から電話をもらった。
「美月さん、来月、島で写真展を開くんです」
「写真展?」
「ええ。兄が撮った写真と、僕が撮った写真を一緒に展示するんです。テーマは『繋がる想い』」
美月は微笑んだ。
「素敵ですね」
「ぜひ、来てください。美月さんにも、見てほしいんです」
「わかりました。絶対に行きます」
一ヶ月後、美月は再び南の島を訪れた。
島の小さなギャラリーで、颯太の写真展が開かれていた。
会場には、兄・翔が撮った美しい海の写真と、颯太が撮った島の人々の笑顔の写真が並んでいた。
そして、中央には――一枚の特別な写真が飾られていた。
珊瑚に絡まった指輪の写真だった。
美月は息を呑んだ。
「これ……」
「美月さんが拾った指輪です」
颯太が隣に立った。
「あの日、美月さんが指輪を見せてくれたとき、僕は写真を撮っておいたんです」
美月は写真を見つめた。
月明かりの中で、指輪が静かに輝いていた。珊瑚の赤と、銀色の指輪が、美しいコントラストを描いていた。
「タイトルは『繋がる誓い』」
颯太は静かに言った。
「壊れた誓いも、失われた愛も――決して消えることはない。形を変えて、誰かの心に繋がっていく。そういう想いを込めました」
美月は涙が溢れそうになった。
「素敵です」
「美月さん」
颯太は真剣な表情で美月を見つめた。
「僕、ずっと伝えたかったことがあるんです」
「何ですか?」
「美月さんと出会えて――僕は救われました。兄を失った悲しみに囚われていた僕を、美月さんは前に進ませてくれた」
颯太の声は温かかった。
「だから――ありがとうございます」
美月は微笑んだ。
「私こそ、颯太さんに救われました。逃げることしか考えていなかった私に、もう一度立ち上がる勇気をくれました」
二人は見つめ合った。
会場の窓からは、青い海が見えた。波が静かに寄せては返し、太陽の光を反射して輝いていた。
「美月さん」
颯太がもう一度口を開いた。
「これから――一緒に、前を向いていきませんか」
美月は颯太の目を見つめた。
そこには、優しさと、強さと――そして、新しい希望が込められていた。
「はい」
美月は笑顔で答えた。
「一緒に――前を向いていきましょう」
その夜、祖母の家で小さなパーティーが開かれた。
颯太、美月、真帆、そして島の人々が集まって、写真展の成功を祝った。
「乾杯!」
みんなのグラスが、カチンと音を立てた。
祖母は嬉しそうに笑っていた。
「美月ちゃん、本当に良かったわね」
「うん。おばあちゃんのおかげだよ」
「いいえ。あなた自身の力よ。そして――出会いの力ね」
祖母は颯太を見て、優しく微笑んだ。
パーティーが終わった後、美月と颯太は二人で海辺を歩いた。
月明かりが海を照らし、波が静かに寄せては返していた。
「美月さん」
颯太が立ち止まった。
「はい」
「僕、まだ完璧じゃないです。兄を失った悲しみも、まだ消えていない。でも――」
颯太は美月の手を取った。
「美月さんと一緒なら、きっと前に進めると思うんです」
美月は颯太の手を握り返した。
「私も同じです。まだ、傷は残ってる。でも、颯太さんと一緒なら――乗り越えられる気がします」
二人は見つめ合った。
波音が、優しく二人を包んでいた。
「美月さん」
「はい」
「愛してます」
颯太の言葉は、静かだったが、真っ直ぐだった。
美月は涙が溢れそうになった。
「私も――愛してます」
二人は抱き合った。
月明かりの中で、波が祝福するように静かに寄せていた。
翌朝、美月は祖母に報告した。
「おばあちゃん、私――颯太さんと、お付き合いすることになったの」
祖母は嬉しそうに笑った。
「そう。良かったわね」
「うん。まだ、ゆっくりだけど――少しずつ、前に進んでいきたいって」
「それでいいのよ。焦る必要はない。大切なのは、お互いを思いやる気持ちだから」
祖母は美月の手を取った。
「美月ちゃん、あなたは強い子だったのよ。ただ、それに気づいていなかっただけ」
「おばあちゃん……」
「この島に来て、色んな人と出会って――あなたは自分の強さを取り戻した。それは、誰にも奪えない宝物よ」
美月は涙を流した。
「ありがとう、おばあちゃん」
「いいえ。お礼を言うのは私の方よ。あなたが元気になってくれて、私も嬉しいから」
美月が東京に戻る日、颯太が空港まで送ってくれた。
「また、来てくださいね」
「はい。今度は――もっと早く来ます」
美月は笑顔で答えた。
「僕も、東京に行きますから」
「楽しみにしてます」
二人は抱き合った。
そして、美月は搭乗ゲートへと向かった。
飛行機の窓から、島が見えた。
青い海、白い砂浜、緑の木々――全てが、美月の宝物だった。
美月は心の中で呟いた。
『ありがとう、この島。ありがとう、あの指輪』
そして――
『ありがとう、颯太さん』
波音が、心の中で響いていた。
優しく、温かく――まるで、祝福するように。
珊瑚と誓いのあと。
壊れた誓いは、新しい物語の始まりだった。
失われた愛は、新しい愛へと繋がっていった。
人は何度でも、立ち上がることができる。
何度でも、愛することができる。
何度でも――選ぶことができる。
南の島が教えてくれた、その真実を胸に――美月は、新しい明日へと向かっていった。
(完)




