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珊瑚と誓いのあと──南の島で拾った婚約指輪

作者:
掲載日:2025/11/18

 空港を出た瞬間、潮の香りが頬を撫でた。

 美月みづきは目を細めて、久しぶりの南国の日差しを受け止めた。東京のビル群に囲まれた毎日から、まるで別の惑星に降り立ったような気がした。

 スマートフォンには、もう三日も前から未読のメッセージが溜まっている。友人からの気遣いのメッセージも、元婚約者からの謝罪も、全てに目を通す気力が湧かなかった。

「美月ちゃん!」

 空港の出口で待っていた祖母の声が、遠くから聞こえた。七十を過ぎてなお背筋の伸びた祖母・千鶴ちづるは、日焼けした顔に深い皺を刻みながらも、優しい笑みを浮かべていた。

「おばあちゃん……」

 美月は小さく手を振った。久しぶりに見る祖母の顔が、不思議と涙を誘った。

「よく来たね。さあ、家に行こう。海が見える部屋、準備しておいたから」

 祖母は何も聞かなかった。美月が何を抱えてここに来たのか、電話で聞いていたはずなのに、一言も触れなかった。その配慮が、かえって美月の胸を締めつけた。

 祖母の家は、島の東側の高台にあった。白い壁と赤い瓦屋根の平屋で、窓からは青い海が一望できた。

 荷物を置いて、美月は縁側に腰を下ろした。目の前に広がる海は、東京湾のそれとはまるで違う。透明度の高い水面が、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。

「海、綺麗だね」

 祖母が麦茶を持ってきて、隣に座った。

「そうだね。この海を見てると、人間の悩みなんて小さく思えてくるよ」

 美月は苦笑した。

「そう思えたらいいんだけど」

「無理に思わなくていいのよ。ただ、ここにいればいい」

 祖母の言葉は優しかった。美月は麦茶を一口飲んで、また海を見つめた。

 婚約破棄を告げられたのは、二週間前だった。結婚式の招待状も発送し、新居の契約も済ませた矢先のことだった。理由は曖昧だった。「価値観の違い」「タイミングが合わなかった」――彼が口にした言葉は、どれも美月の心を傷つけるばかりで、納得には程遠かった。

 両親は諦観の表情を浮かべ、友人たちは慰めの言葉をかけてくれた。でも、美月自身の心は、どこにも行き場を失っていた。

 だから、逃げた。

 誰も知らない場所で、しばらく一人になりたかった。

 翌朝、美月は早起きして海辺を歩いた。

 島の東側の海岸は、観光客も少なく、静かだった。波が寄せては返す音だけが、耳に心地よく響いた。

 裸足で砂浜を歩きながら、美月は何も考えないようにした。ただ、足裏に感じる砂の感触と、波の冷たさだけを意識した。

 ふと、足元で何かが光った。

 美月は立ち止まって、しゃがみ込んだ。波打ち際に、珊瑚さんごの欠片が絡まっていた。そして、その中心に――古びた指輪が埋まっていた。

「これ……」

 美月は指輪を拾い上げた。銀色の金属が、長い間海水に浸かっていたのか、少し変色していた。でも、内側には文字が刻まれていた。

『To M. Forever yours, S.』

 美月は指輪をてのひらに乗せて、じっと見つめた。誰かの婚約指輪だろうか。それとも、結婚指輪だろうか。どうしてこんな場所に落ちていたのだろう。

 波音が、まるで何かを語りかけるように聞こえた。

 その日の午後、美月は祖母と一緒に島の集落を歩いた。

 島には、小さな商店と郵便局、診療所があるだけだった。人口も二百人ほどで、皆が顔見知りのような雰囲気だった。

「美月ちゃん、久しぶりだね」

 商店の店主が声をかけてきた。

「お久しぶりです」

 美月は笑顔を作った。子供の頃、夏休みに何度か訪れたことがある。店主の顔にも、見覚えがあった。

「東京から来たの? 仕事は?」

「ちょっと休暇で……」

 美月は曖昧に答えた。祖母が助け舟を出してくれた。

「しばらくうちに泊まるのよ。ゆっくりしてもらおうと思って」

「そうかい。それはいい。島の空気は、疲れた心に効くからね」

 店主は笑って、美月に冷たい飲み物を渡してくれた。

 夕方、美月は再び海辺を訪れた。

 夕焼けが海を染めていた。オレンジ色の光が水面に反射して、まるで海全体が燃えているようだった。

 美月はポケットから指輪を取り出して、夕日に透かしてみた。刻印の文字が、光の中で浮かび上がった。

「これ、誰の指輪なんだろう」

 美月は独り言のように呟いた。

「それ、どこで拾ったんですか?」

 突然、背後から声がした。

 美月は驚いて振り返った。そこには、二十代後半くらいの男性が立っていた。日焼けした肌に、短く切った黒髪。Tシャツにジーンズという気取らない格好だったが、どこか都会的な雰囲気をまとっていた。

「あ、ごめんなさい。驚かせちゃいましたか」

 男性は軽く頭を下げた。

「いえ……これ、海辺で拾ったんです」

 美月は指輪を見せた。男性の表情が、一瞬強張こわばった。

「それ……もしかして」

 男性は指輪に手を伸ばしかけて、途中で止めた。

「知ってるんですか?」

「ええ。それ、僕が――いや、僕の知人が探していたものかもしれません」

 男性は複雑な表情を浮かべた。

「僕、颯太そうたといいます。この島に、ちょっと前から滞在してるんです」

 颯太は、島の西側にある小さな民宿に泊まっているという。東京から来たという点では、美月と同じだった。

「その指輪のこと、詳しく教えてもらえますか?」

 颯太の声には、何か切実なものが含まれていた。

 美月は頷いて、拾った場所と時間を説明した。颯太は真剣な表情で聞いていた。

「やっぱり……それ、僕が探していたものです」

「颯太さんの?」

「いえ、正確には――僕の兄のものです」

 颯太は目を伏せた。

「兄は三年前、この島で事故に遭って亡くなりました。その時、婚約者と一緒に旅行に来ていたんです」

 美月は息を呑んだ。

「婚約者……」

「ええ。兄の婚約者の名前は、真帆まほさん。Mのイニシャルです。そして、兄の名前はしょう。Sです」

 颯太の声は、静かだった。

「二人は、結婚式の一週間前に、この島を訪れました。でも、海で事故に遭って――兄だけが、戻ってこなかった」

 美月は言葉を失った。

「真帆さんは、兄の死後、姿を消しました。連絡も取れなくなって。僕は、兄が最期に何を思っていたのか、真帆さんに何を伝えたかったのか、ずっと知りたくて――それで、この島に来たんです」

 その夜、美月は祖母に颯太の話を聞かせた。

 祖母は静かに聞いていたが、最後に一言だけ呟いた。

「あの事故のことは、島の人も覚えているよ。若いカップルが海で遊んでいて、男性が流されたって。女性は無事だったけど、ひどく取り乱していたって聞いた」

「颯太さん、真帆さんを探してるみたい」

「そうか……」

 祖母は遠くを見つめた。

「でも、美月ちゃん。人の心の傷は、簡単には癒えないものだよ。もしかしたら、その真帆さんも、まだ痛みを抱えているのかもしれない」

 美月は頷いた。自分自身の傷も、まだ生々しかった。

 翌日、美月は颯太と再び会った。

 二人は海辺のカフェで話をした。観光客向けの小さな店で、テラス席からは海が一望できた。

「指輪、返します」

 美月は指輪を差し出した。でも、颯太は首を横に振った。

「いえ、受け取れません。それは、兄と真帆さんのものです。僕が持つべきものじゃない」

「でも……」

「それに」

 颯太は小さく笑った。

「あなたが拾ったのは、何か意味があるのかもしれません」

 美月は戸惑った。

「意味?」

「僕、ずっと考えてたんです。兄が何を残したかったのか、真帆さんに何を伝えたかったのか。でも、答えは出なかった。それで、この島に来て、兄が最期に見た景色を見て――それでも、わからなかった」

 颯太は海を見つめた。

「でも、あなたがその指輪を拾った。それは偶然じゃないような気がするんです」

 美月は指輪を見つめた。小さな金属の輪が、不思議な重みを持っているように感じられた。

 その後、美月と颯太は何度か会うようになった。

 二人は島を歩き、兄が訪れた場所を巡った。小さな神社、崖の上の展望台、夕日が綺麗に見える岬――どれも、颯太が兄の写真を頼りに探し当てた場所だった。

「兄は、写真が好きだったんです」

 颯太は懐かしそうに言った。

「いつもカメラを持ち歩いて、色んな景色を撮ってました。この島に来たときも、たくさん写真を撮ったみたいで――遺品の中に、SDカードが残ってたんです」

 颯太はスマートフォンを取り出して、写真を見せてくれた。美しい海、夕焼け、そして笑顔の女性――真帆さんだろう。

「綺麗な人ですね」

 美月は素直に言った。

「ええ。兄は、本当に真帆さんを愛していました」

 颯太の声は、少し震えていた。

「だから、僕は――兄が最期に何を思ったのか、知りたくて」

 ある日の夕方、美月と颯太は岬の展望台に座っていた。

 夕日が水平線に沈もうとしていた。空はオレンジから紫へとグラデーションを描き、海はその色を映していた。

「美月さん」

 颯太が静かに口を開いた。

「あなたも、何か抱えてここに来たんですよね」

 美月は驚いて颯太を見た。

「どうして……」

「なんとなく、わかるんです。同じような目をしてるから」

 颯太は優しく笑った。

 美月は少し迷ってから、口を開いた。

「私……婚約破棄されたんです。二週間前に」

 颯太は静かに聞いていた。

「結婚式も決まってて、新居も決まってて――全部準備ができてたのに。彼が突然、やっぱり無理だって」

 美月の声が震えた。

「理由も、よくわからなくて。ただ、私が何か間違ってたのかなって。私が、足りなかったのかなって」

 涙が溢れそうになった。でも、美月は必死にこらえた。

「だから、逃げたんです。誰も知らない場所に」

 颯太は何も言わずに、ただ隣にいた。

 しばらく沈黙が続いた。波の音だけが、二人の間を満たしていた。

「美月さん」

 颯太がゆっくりと言った。

「あなたは、何も間違ってないと思います」

「でも……」

「人の心は、時に理不尽です。どんなに愛していても、どんなに準備が整っていても――何かが噛み合わないことがある。それは、誰のせいでもない」

 颯太の言葉は、優しかった。

「僕の兄も、真帆さんを愛していました。でも、運命は二人を引き裂いた。それは、誰のせいでもない。ただ、そういうことが起きただけ」

 美月は颯太を見つめた。

「颯太さんは……辛くないんですか?」

「辛いですよ」

 颯太は素直に答えた。

「でも、辛いままじゃいけないとも思ってます。兄は、きっと僕に前を向いてほしいと思ってる」

 その夜、美月は一人で海辺を歩いた。

 月明かりが海を照らしていた。波が静かに寄せては返し、砂浜に白い泡を残していた。

 美月はポケットから指輪を取り出した。月の光に透かすと、刻印の文字がはっきりと見えた。

『To M. Forever yours, S.』

 永遠にあなたのもの――そう刻まれた指輪が、なぜ海に沈んでいたのだろう。

 美月は目を閉じて、想像してみた。

 三年前、この島を訪れた若いカップル。結婚式を一週間後に控えて、最後の思い出作りに来た二人。海で遊んでいて、突然の事故。男性は流され、女性は助かった。

 真帆さんは、どんな気持ちでこの島を去ったのだろう。

 愛する人を失い、指輪だけが残された。

 もしかしたら、真帆さんは指輪を海に投げたのかもしれない。あまりにも辛くて、持ち続けることができなくて。

 でも、海は指輪を受け取らなかった。

 三年の時を経て、珊瑚に絡まりながら――再び浜辺に戻ってきた。

 まるで、何かを伝えるために。

 翌朝、美月は祖母に尋ねた。

「おばあちゃん、三年前の事故のこと、もっと詳しく教えて」

 祖母は麦茶を注ぎながら答えた。

「あれは、確か八月の終わりだったね。若いカップルが、東側の海岸で遊んでいて――男性が沖に流されたんだ」

「女性は?」

「女性は、必死に助けようとしたらしい。でも、波が強くて――結局、男性は見つからなかった」

 祖母は悲しそうな顔をした。

「女性は、ずっと泣いていたって聞いた。島の人たちが慰めても、何も食べずに――三日後、島を去ったって」

「その後は?」

「わからないね。連絡先も聞けなかったし」

 美月は考え込んだ。

「おばあちゃん、もし――もし、その女性が今も苦しんでいたら、どうすればいいと思う?」

 祖母は美月を見つめた。

「それは、本人が決めることだよ。でも、もし誰かが手を差し伸べてくれたら――少しは楽になるかもしれないね」

 その日の午後、美月は颯太に電話をした。

「颯太さん、お願いがあるんです」

「何ですか?」

「真帆さんを、一緒に探しませんか」

 電話の向こうで、颯太が息を呑む音がした。

「でも、どうやって……」

「わかりません。でも、何かできることがあるかもしれない」

 美月の声は、いつになく力強かった。

「この指輪、きっと意味があると思うんです。私たちが出会ったのも、偶然じゃないような気がして」

 颯太は少し黙ってから、答えた。

「わかりました。一緒に探しましょう」

 二人は、まず島の人たちに話を聞いて回った。

 事故のことを覚えている人は何人かいたが、真帆さんのその後を知る人はいなかった。

「でも」

 商店の店主が言った。

「確か、あの女性、東京の病院で働いてるって言ってたような気がする」

「病院?」

「ええ。看護師さんだったかな」

 わずかな手がかりだったが、二人は希望を持った。

 颯太は東京に戻ってから、病院を片っ端から調べた。看護師で、真帆という名前の女性を探した。

 そして、一週間後――颯太から美月に連絡が来た。

「見つかりました」

 颯太の声は震えていた。

「真帆さん、都内の総合病院で働いてます。明日、会いに行きます」

「私も行きます」

 美月は即座に答えた。

「え、でも……」

「お願いします。この指輪、私が返したいんです」

 翌日、美月は東京行きの飛行機に乗った。

 空港で颯太と合流し、二人は病院へ向かった。

 真帆は、小児科の病棟で働いていた。颯太が受付で名前を告げると、しばらくして白衣を着た女性が現れた。

 写真で見たよりも痩せて、疲れた表情をしていたが、間違いなく真帆さんだった。

「颯太……さん?」

 真帆は驚いた顔をした。

「お久しぶりです」

 颯太は深く頭を下げた。

「突然すみません。でも、どうしてもお会いしたくて」

 真帆は戸惑った様子だったが、休憩室に案内してくれた。

 三人は、誰もいない休憩室で向かい合って座った。

 真帆はうつむいたまま、何も言わなかった。

「真帆さん」

 颯太が静かに口を開いた。

「兄のこと――翔のこと、今でも覚えていますか」

 真帆の肩が震えた。

「忘れるわけ、ないじゃないですか……」

 小さな声だった。

「毎日、思い出してます。あの日のこと、翔さんのこと――全部」

 涙が、真帆の頬を伝った。

「私のせいなんです。私が、海で遊ぼうって言ったから。私が――」

「違います」

 颯太は首を横に振った。

「誰のせいでもありません。事故だったんです」

「でも……」

「真帆さん」

 今度は美月が口を開いた。

「これ、受け取ってもらえませんか」

 美月は指輪を差し出した。

 真帆は目を見開いた。

「これ……翔さんの……」

「南の島の海辺で、拾いました。珊瑚に絡まって、浜辺に戻ってきてたんです」

 美月は優しく言った。

「海は、この指輪を受け取らなかったんです。きっと、あなたの元に返したかったんだと思います」

 真帆は震える手で指輪を受け取った。

「翔さん……」

 涙が止まらなかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい……」

「謝らないでください」

 颯太は真帆の肩に手を置いた。

「兄は、あなたを責めていません。きっと、あなたに幸せになってほしいと思ってます」

「でも、私……私……」

「真帆さん」

 美月は真帆の手を握った。

「私も、最近辛いことがあって。大切な人を失って――自分を責めて。でも、この島で、颯太さんと出会って、この指輪を拾って――少しずつ、前を向けるようになったんです」

 美月は真帆を見つめた。

「だから、真帆さんも――少しずつでいいから、前を向いてほしいんです。翔さんも、きっとそう願ってると思います」

 真帆は長い間泣いていた。

 颯太と美月は、ただ静かに寄り添っていた。

 やがて、真帆は顔を上げた。

「ありがとうございます」

 小さな声だったが、そこには少しだけ温かさが戻っていた。

「この指輪――大切にします。そして、翔さんが望んでいた通り、前を向きます」

 真帆は指輪を胸に抱きしめた。

「時間はかかるかもしれないけど――少しずつ」

 美月が島に戻ったのは、その三日後だった。

 空港で祖母が迎えてくれた。

「お帰り、美月ちゃん」

「ただいま、おばあちゃん」

 美月は笑顔で答えた。

 祖母は美月の顔を見て、微笑んだ。

「いい顔になったね」

「そうかな」

「ええ。もう、逃げてる顔じゃない」

 その夜、美月は海辺に立っていた。

 波音が、優しく響いていた。月明かりが海を照らし、星が空に輝いていた。

 美月はポケットから、小さな貝殻を取り出した。島で拾ったものだった。

「ありがとう」

 美月は海に向かって呟いた。

「この島に来て、颯太さんに会えて――指輪を拾えて。全部、意味があったんだね」

 波が答えるように、静かに寄せてきた。

 美月は深呼吸をした。

 東京に戻ったら、新しい生活が待っている。婚約破棄の痛みは、まだ完全には消えていない。でも、もう逃げない。

 前を向いて、もう一度――自分の人生を選ぶ勇気を持とう。

 指輪が教えてくれた。

 壊れた誓いの先にも、新しい始まりがあることを。

 失った愛の痛みを抱えながらも、人は再び立ち上がれることを。

 翌朝、美月は祖母と朝食を食べながら言った。

「おばあちゃん、あと三日で東京に戻るね」

「そう。もう大丈夫なの?」

「うん。まだ完璧じゃないけど――でも、もう逃げない」

 祖母は優しく笑った。

「それでいい。人生は、逃げるためにあるんじゃない。選ぶためにあるんだから」

 美月は頷いた。

 窓の外では、朝日が海を照らしていた。新しい一日が始まる。

 美月は、その光を見つめながら思った。

 この島で過ごした時間は、きっと一生忘れない。

 波音も、夕焼けも、珊瑚も――そして、颯太さんとの出会いも。

 全てが、美月に教えてくれた。

 人は何度でも、立ち上がれる。

 壊れた誓いの先にも、新しい物語が待っている。

 東京に戻る日、颯太から連絡が来た。

「美月さん、真帆さんから連絡がありました」

「本当?」

「ええ。少しずつだけど、前を向き始めてるって。それに――兄のお墓参りに行くって言ってました」

 美月は微笑んだ。

「良かった」

「美月さんのおかげです。ありがとうございました」

「私こそ、颯太さんに感謝してます。颯太さんと出会えて――私も、変われたから」

 電話の向こうで、颯太が笑う声がした。

「美月さん、また島に来ますか?」

「うん。きっと」

「その時は、また会いましょう」

「はい。きっと」

 飛行機の窓から、島が小さくなっていくのが見えた。

 美月は目を細めて、その景色を心に焼きつけた。

 青い海、白い砂浜、緑の木々――全てが、美月の宝物だった。

 そして、ポケットの中には、小さな貝殻が入っていた。

 島の思い出と、新しい勇気を胸に――美月は、東京へと帰っていった。


 それから半年が過ぎた。

 美月は、新しい職場で働き始めていた。前の会社は辞めて、以前から興味があったデザイン事務所に転職した。給料は下がったが、やりがいがあった。

 婚約破棄の傷は、完全には癒えていなかった。でも、もう立ち止まることはなかった。

 ある日、美月のスマートフォンに颯太から連絡が来た。

「美月さん、今度の週末、時間ありますか?」

「どうしたんですか?」

「実は――真帆さんが、島に行くって。兄のために、海に花を手向けたいって」

 美月は少し考えてから答えた。

「私も、行きたいです」

「本当ですか?」

「はい。真帆さんに、会いたいです」

 週末、美月は再び南の島を訪れた。

 空港には、颯太と真帆が待っていた。真帆は以前よりも明るい表情をしていた。

「美月さん、お久しぶりです」

 真帆は微笑んで手を振った。

「真帆さん、お元気そうで」

「ええ。少しずつですけど――前を向けるようになりました」

 三人は、祖母の家に向かった。祖母は温かく迎えてくれた。

「いらっしゃい。よく来たわね」

「おばあちゃん、ただいま」

 美月は祖母を抱きしめた。

 その日の夕方、三人は海辺に立っていた。

 颯太が持ってきた白い花を、真帆が海に手向けた。

「翔さん、来ました」

 真帆は静かに語りかけた。

「あなたが愛してくれた海に、もう一度来ることができました」

 波が静かに寄せては返した。

「ごめんなさい。こんなに時間がかかって。でも――やっと、前を向けるようになりました」

 真帆の声は、もう震えていなかった。

「あなたが望んでいた通り、私、もう一度生きていきます。あなたの分まで――幸せになります」

 颯太は静かに見守っていた。美月も、ただ寄り添っていた。

 花が波に運ばれて、ゆっくりと沖へ流れていった。

 夕日が海を染めて、空がオレンジ色に輝いた。

「翔さん」

 真帆は最後にもう一度呼びかけた。

「愛してます。ずっと――永遠に」

 波音が、優しく答えるように響いた。

 その夜、三人は祖母の家で夕食を囲んだ。

 祖母が作った島料理が、テーブルに並んでいた。魚の煮付け、ゴーヤチャンプルー、もずく酢――どれも優しい味だった。

「美味しい」

 真帆は笑顔で言った。

「翔さんも、きっとこういう料理、好きだったと思います」

「兄は、何でも美味しそうに食べてましたからね」

 颯太も笑った。

 美月は二人を見ながら、温かい気持ちになった。

 半年前、あの指輪を拾ったときには想像もしなかった。こうして三人で、笑い合える日が来るなんて。

「美月ちゃん」

 祖母が声をかけた。

「あなたも、いい顔になったわね」

「おばあちゃんのおかげだよ」

「いいえ。あなた自身の力よ」

 祖母は優しく笑った。

「人は、自分で立ち上がるしかない。でも、誰かが隣にいてくれれば――それだけで、立ち上がる勇気が湧いてくるものなのよ」

 食事の後、美月は一人で海辺を歩いた。

 月明かりが海を照らしていた。波が静かに寄せては返し、砂浜に白い泡を残していた。

 美月は立ち止まって、海を見つめた。

 この半年、色々なことがあった。

 辛いことも、悲しいことも、たくさんあった。

 でも、その全てが――今の自分を作ってくれた。

「ありがとう」

 美月は海に向かって呟いた。

「この島に来て、本当に良かった」

 波が答えるように、優しく寄せてきた。

 美月は深呼吸をした。

 明日からまた、東京での生活が始まる。

 でも、もう怖くない。

 どんな困難が待っていても、きっと乗り越えられる。

 この島が教えてくれた――人は何度でも、立ち上がれるということを。

 翌朝、空港で三人は別れた。

「美月さん、本当にありがとうございました」

 真帆は深く頭を下げた。

「私、これからも頑張ります。翔さんの分まで――ちゃんと生きていきます」

「真帆さんなら、大丈夫です」

 美月は真帆の手を握った。

「いつか、また会いましょう」

「はい。きっと」

 真帆は笑顔で答えた。

 颯太は、美月を見送りながら言った。

「美月さん、また島に来てくださいね」

「はい。きっと」

 美月は笑顔で答えた。

「颯太さんも、お元気で」

「ええ。美月さんも」

 二人は握手を交わした。

 そして、美月は搭乗ゲートへと向かった。

 飛行機が離陸する瞬間、美月は窓の外を見た。

 青い海、白い砂浜、緑の木々――島の景色が、どんどん小さくなっていった。

 美月は目を閉じた。

 心の中に、波音が響いていた。

 優しく、温かく――まるで、誰かが語りかけてくるように。

『大丈夫。あなたは、もう一人じゃない』

 美月は微笑んだ。

 そうだ。もう一人じゃない。

 颯太さんも、真帆さんも、祖母も――みんな、どこかで繋がっている。

 そして、あの指輪が教えてくれた。

 壊れた誓いの先にも、新しい物語が待っているということを。

 人は何度でも、愛することができる。

 何度でも、立ち上がることができる。

 何度でも――選ぶことができる。

 東京に着いたとき、美月のスマートフォンに一通のメッセージが届いていた。

 颯太からだった。

『美月さん、無事に着きましたか? 真帆さんが、お礼を言いたいって。今度、三人で食事でもしましょう』

 美月は笑顔で返信した。

『着きました。食事、楽しみにしてます』

 そして、もう一通、メッセージを送った。

『颯太さん、本当にありがとうございました。颯太さんと出会えて――私、変われました』

 しばらくして、返信が来た。

『こちらこそ。美月さんと出会えて、僕も救われました。これからも、前を向いていきましょう』

 美月はスマートフォンを胸に抱きしめた。

 温かい気持ちが、胸いっぱいに広がった。


 それから一年が過ぎた。

 美月は、デザイン事務所で順調に仕事を続けていた。新しいプロジェクトも任されるようになり、充実した日々を送っていた。

 真帆とは、時々連絡を取り合っていた。真帆は病院で子供たちの笑顔に囲まれながら、少しずつ自分の人生を取り戻していた。

 颯太は、東京で新しい仕事を始めた。兄の遺志を継いで、写真を撮る仕事に就いたという。

 ある日、美月は颯太から電話をもらった。

「美月さん、来月、島で写真展を開くんです」

「写真展?」

「ええ。兄が撮った写真と、僕が撮った写真を一緒に展示するんです。テーマは『繋がる想い』」

 美月は微笑んだ。

「素敵ですね」

「ぜひ、来てください。美月さんにも、見てほしいんです」

「わかりました。絶対に行きます」

 一ヶ月後、美月は再び南の島を訪れた。

 島の小さなギャラリーで、颯太の写真展が開かれていた。

 会場には、兄・翔が撮った美しい海の写真と、颯太が撮った島の人々の笑顔の写真が並んでいた。

 そして、中央には――一枚の特別な写真が飾られていた。

 珊瑚に絡まった指輪の写真だった。

 美月は息を呑んだ。

「これ……」

「美月さんが拾った指輪です」

 颯太が隣に立った。

「あの日、美月さんが指輪を見せてくれたとき、僕は写真を撮っておいたんです」

 美月は写真を見つめた。

 月明かりの中で、指輪が静かに輝いていた。珊瑚の赤と、銀色の指輪が、美しいコントラストを描いていた。

「タイトルは『繋がる誓い』」

 颯太は静かに言った。

「壊れた誓いも、失われた愛も――決して消えることはない。形を変えて、誰かの心に繋がっていく。そういう想いを込めました」

 美月は涙が溢れそうになった。

「素敵です」

「美月さん」

 颯太は真剣な表情で美月を見つめた。

「僕、ずっと伝えたかったことがあるんです」

「何ですか?」

「美月さんと出会えて――僕は救われました。兄を失った悲しみに囚われていた僕を、美月さんは前に進ませてくれた」

 颯太の声は温かかった。

「だから――ありがとうございます」

 美月は微笑んだ。

「私こそ、颯太さんに救われました。逃げることしか考えていなかった私に、もう一度立ち上がる勇気をくれました」

 二人は見つめ合った。

 会場の窓からは、青い海が見えた。波が静かに寄せては返し、太陽の光を反射して輝いていた。

「美月さん」

 颯太がもう一度口を開いた。

「これから――一緒に、前を向いていきませんか」

 美月は颯太の目を見つめた。

 そこには、優しさと、強さと――そして、新しい希望が込められていた。

「はい」

 美月は笑顔で答えた。

「一緒に――前を向いていきましょう」

 その夜、祖母の家で小さなパーティーが開かれた。

 颯太、美月、真帆、そして島の人々が集まって、写真展の成功を祝った。

「乾杯!」

 みんなのグラスが、カチンと音を立てた。

 祖母は嬉しそうに笑っていた。

「美月ちゃん、本当に良かったわね」

「うん。おばあちゃんのおかげだよ」

「いいえ。あなた自身の力よ。そして――出会いの力ね」

 祖母は颯太を見て、優しく微笑んだ。

 パーティーが終わった後、美月と颯太は二人で海辺を歩いた。

 月明かりが海を照らし、波が静かに寄せては返していた。

「美月さん」

 颯太が立ち止まった。

「はい」

「僕、まだ完璧じゃないです。兄を失った悲しみも、まだ消えていない。でも――」

 颯太は美月の手を取った。

「美月さんと一緒なら、きっと前に進めると思うんです」

 美月は颯太の手を握り返した。

「私も同じです。まだ、傷は残ってる。でも、颯太さんと一緒なら――乗り越えられる気がします」

 二人は見つめ合った。

 波音が、優しく二人を包んでいた。

「美月さん」

「はい」

「愛してます」

 颯太の言葉は、静かだったが、真っ直ぐだった。

 美月は涙が溢れそうになった。

「私も――愛してます」

 二人は抱き合った。

 月明かりの中で、波が祝福するように静かに寄せていた。

 翌朝、美月は祖母に報告した。

「おばあちゃん、私――颯太さんと、お付き合いすることになったの」

 祖母は嬉しそうに笑った。

「そう。良かったわね」

「うん。まだ、ゆっくりだけど――少しずつ、前に進んでいきたいって」

「それでいいのよ。焦る必要はない。大切なのは、お互いを思いやる気持ちだから」

 祖母は美月の手を取った。

「美月ちゃん、あなたは強い子だったのよ。ただ、それに気づいていなかっただけ」

「おばあちゃん……」

「この島に来て、色んな人と出会って――あなたは自分の強さを取り戻した。それは、誰にも奪えない宝物よ」

 美月は涙を流した。

「ありがとう、おばあちゃん」

「いいえ。お礼を言うのは私の方よ。あなたが元気になってくれて、私も嬉しいから」

 美月が東京に戻る日、颯太が空港まで送ってくれた。

「また、来てくださいね」

「はい。今度は――もっと早く来ます」

 美月は笑顔で答えた。

「僕も、東京に行きますから」

「楽しみにしてます」

 二人は抱き合った。

 そして、美月は搭乗ゲートへと向かった。

 飛行機の窓から、島が見えた。

 青い海、白い砂浜、緑の木々――全てが、美月の宝物だった。

 美月は心の中で呟いた。

『ありがとう、この島。ありがとう、あの指輪』

 そして――

『ありがとう、颯太さん』

 波音が、心の中で響いていた。

 優しく、温かく――まるで、祝福するように。

 珊瑚と誓いのあと。

 壊れた誓いは、新しい物語の始まりだった。

 失われた愛は、新しい愛へと繋がっていった。

 人は何度でも、立ち上がることができる。

 何度でも、愛することができる。

 何度でも――選ぶことができる。

 南の島が教えてくれた、その真実を胸に――美月は、新しい明日へと向かっていった。


(完)

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