カリブのバズーカ砲 17連続KO防衛 ウィルフレド・ゴメス(1956~)
52勝無敗(51KO)のサラテ対25勝無敗(25KO)1分のゴメスの対戦は、まさしく夢のカードで、今後もこれだけの強打者同士の対戦は絶対実現することがないだろう。話題性もパッキャオ対メイウェザー戦どころではなかった。パワーだけでなく巧さを併せ持ったKOキングにして、ともに防御も一流だったからだ。惜しむらくはサラテが全盛を過ぎ、減量に失敗してリングに上がったことだが、ファン待望のビッグカードが出し惜しみされることなく次々と実現していた'70~'80年代のリングが懐かしい。
一九七〇年代後半の軽量級スターウォーズの主役として数々のKO記録を打ち立てた正真正銘のKOキングである。好戦的なファイターが多い中南米には、二十何連続KO勝ちなどというツワモノもゴロゴロいるが、大半は前座時代を含めてのものであって、世界ランカー相手となると十連続KOさえ滅多にいるものではない。
ところがウィルフレド・ゴメスに至っては、世界挑戦までに十五連続KO、その後チャンピオンになってからもノンタイトル戦を含めて連続KO記録を世界歴代三位の三十二にまで伸ばしているのだから他とは質が違う。四十四連続KO勝利という歴代一位の記録を持つラマー・クラークにしかり、四十三連続KOでそれに続くビリー・フォックスにしかり、数字だけは立派な記録を持ちながら、世界チャンピオンにすら届かなかったのだ。
ちなみにクラークはメインエベンターに成りたての若きカシアス・クレイに軽くKOされた二線級のヘビー級ボクサーであり、一度はミドル級世界王座に挑戦したフォックスも、ギャングによる八百長のお膳立てあっての作られた記録に過ぎないことを考えれば、ゴメスこそ史上最高のナックアウトアーティストと言っても過言ではない。
プエルトリコの首都サンファンの貧民地区に生まれたゴメスは、後に「戦うために生まれた」と語っているように、周囲がいじめっ子だらけという劣悪な環境の中で育ち、いやおうなしに喧嘩の腕を磨いていった。タクシー運転手の父と専業主婦の母という家庭では生計は苦しく、少年時代のゴメスは自転車での配達業やキャンデー売りで小遣いを稼いでいたという。
一九七二年のミュンヘンオリンピック代表になったのは十五歳の時だった。この時はフライ級一回戦でエジプト選手に判定負けして姿を消しているが、二年後にキューバのハバナで行われた第一回アマチュア世界選手権ではバンタム級で優勝。全四試合オールKOで、来るべきモントリオールオリンピックの有力なメダル候補と目されるようになった。
ところがゴメスの家庭は貧しく、このままあと二年間アマチュアボクシングに専念する余裕がなかったため、同年暮れ、九十六勝三敗という素晴らしいアマ成績を引っ下げ、プロのリングに立つことになった。
パナマシティでのデビュー戦は六ラウンド引き分けと冴えなかったが、コスタリカ、ニカラグアと近隣諸国を転戦しているうちに倒すコツを覚えていった。タイミングよくJ・フェザー級が新設されたことも、バンタム級では減量が厳しいゴメスに幸いした。
J・フェザー級は日本タイトルや東洋タイトルは古くから存在したが、一九七六年四月三日、リゴベルト・リアスコ(パナマ)対ワルインゲ中山によるWBA世界J・フェザー級王座決定戦が行われ、勝者リアスコが正式な初代世界王者に認定された。
当時のバンタム級にはカルロス・サラテ、アルフォンソ・サモラの「Zボーイズ」、フェザー級もアレクシス・アルゲリョ、ダニー・ロペスといずれも稀代のハードパンチャーが君臨しており、そこに割って入るのは並大抵のことではなかった。「KO仕掛人」の異名を取ったロイヤル小林も、フェザー級ではアルゲリョに一蹴されたが、ジュニア階級新設のおかげでリアスコをKOして世界チャンピオンになれたように、バンタムでは重すぎて減量がきつく、フェザーでは軽すぎて力負けするタイプのボクサーにとってJ・フェザーは自分の力を最大限に発揮出来る階級だった。また認知度の低さゆえに層が薄いというのも魅力だった。
ゴメスに世界戦のチャンスが巡ってきたのは階級新設から一年後のことである。概して試合数が多い中南米のボクシング界においてキャリア十六戦のゴメスが世界に挑戦出来たのは、まだ国際的な認識が薄いマイナー階級だったからであろう。ゴメスはここまで十五連続KO中だったが、怪物揃いの中南米ではそのくらいの選手は珍しくはなかった。ロペスもサラテもサモラも二十連続KO勝ちのハードルをクリアしてからようやく世界に挑戦出来たのだ。
一九七七年五月二十一日、プエルトリコのロベルト・クレメンテ・コロシアムでWBA世界J・フェザー級チャンピオン廉東均(韓国)と激突したゴメスは、緊張からか動きが堅く、初回に不覚のダウンを喫したものの、後半になるにつれて身体がほぐれ、十二ラウンドに王者を滅多打ちしてナックアウト勝利。二十歳の若さで世界の頂点に立った。
ゴメス二度目の防衛戦は福岡県北九州市で行われた。対戦相手は元同級王者のロイヤル小林。ゴメスには及ばないが十一連続KOを記録したこともある当時の日本では最高のハードパンチャーで、ミュンヘンオリンピックではゴメスより上のベスト8に進出している。まだゴメスの評価が定まっていない時期だったこともあり、キャリアに勝る小林の強打を持ってすれば十分勝機もあると見られていたが、小林が互角に戦えたのは二ラウンドまでだった。
序盤は左のジャブとアッパーで小林がプレッシャーをかけてゆく展開だったが、ゴメスは防御勘が良く、至近距離で放たれる小林のパンチをダッキングとスウェーですいすいかわし、全く付け入る隙を与えない。
そして三ラウンド半ば、小林がゴメスをコーナーポストに追い詰めようとした刹那、後退していたゴメスの左がカウンターとなって顎に入り、小林はそのまま前のめりに崩れ落ちていった。ゴメスのパンチは大振りの強打よりも、顎の先端をかすめるショートの方が怖い。人体の構造上、顎に直線的にクリーンヒットしたパンチの衝撃は首の筋肉である程度緩和出来るが、顎の先端を左右に振られると、梃子の原理で首の筋肉を捻るような大きな衝撃となるのだ。全盛期のゴメスは、顎の先端を擦るような軽いパンチでいとも簡単にナックダウンを奪っていた。
ここは何とか立ち上がって持ちこたえた小林だったが、足元がおぼつかないままゴメスの右で二度のダウンを追加され試合終了。破壊力抜群の強打はいつしか「バズーカ砲」の尊称が与えられた。
ゴメス六度目の防衛戦の相手はパウンド・フォー・パウンド最強の声も高いカルロス・サラテだった。これまで五度の防衛戦をいずれもKOで片付け、二十一連続KOと快進撃を続けるゴメスといえども、WBCバンタム級王座を八連続KOで防衛し、ここまで二十九連続KO中のサラテの前では影が薄い。五十二戦全勝(五十一KO)という凄まじいKO率もさることながら、層の厚いバンタムだけに対戦相手のクオリティも高かった。
ゴメスは統一王者ではないのに対し、サラテは二十九戦全勝オールKO勝ちのWBA王者サモラをノンタイトル戦で一方的なKOで下しており、ピンポイントを外さないブローの正確さは他の追従を許さないものがあった。
一九七八年十月二十八日、「負ける姿の想像がつかない」と言われた怪物同士が、ゴメスのホームグラウンド、ロベルト・クレメンテ・コロシアムで激突した。減量苦のためJ・フェザー進出を目論んだサラテだったが、この階級でも減量が厳しく公式計量では二度もオーバーしており、コンディションは最悪だった。
長丁場は不利と見たサラテはいつもの冷静さは影を潜め、開始早々ビッグパンチを振るって一気に倒しにかかるが、動体視力に優れたゴメスを捉えることは出来ない。四ラウンド中盤までは、サラテが攻め、ゴメスは至近距離からの左右のカウンターで迎え撃つ展開だったが、ラウンド後半、焦るサラテのパンチがラフになったのにつけこみ、右の“バズーカ砲”を炸裂させると、サラテはロープ際まで吹っ飛んでダウン。倒れる瞬間のサラテの顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
リングキャリア初のダウンを喫したサラテは完全に動揺していた。立ち上がった後も逃げ腰になったところに連打を浴び二度目のダウン。これで決着はついたようなものだった。五ラウンドに三度目のダウンを追加されたところでレフェリーは試合をストップ。戦前、不利を予想されていたゴメスが無敵サラテをかくも鮮やかなKOに仕留めた事実は、世界中のボクシングファンを驚愕させるとともにJ・フェザー級に対する認識を改めさせる契機となった。
さらにKO防衛を重ねたゴメスは、一九八〇年二月にルーベン・バルデスを六ラウンドKOで下した時点で、パナマの英雄ロベルト・デュランが持つ十連続KO防衛の世界記録を更新した。
未曾有のKO記録を次々と打ち立ててゆく「カリブのバズーカ砲」にも減量という内なる敵がいた。一九八〇年十二月から一年以上防衛戦の間隔が空いたのも、減量が厳しくフェザー級転向を模索していた時期があったからだ。
当初のターゲットはWBCフェザー級チャンピオン、ダニー・ロペスだった。KO率が九割を超え、八度の防衛戦のうち反則勝ちを除く七度をKOで終わらせているロペスは「リトルレッド」の愛称で親しまれる人気王者だったが、条件面での交渉でもめているうちに九度目の防衛戦でサルバドール・サンチェスに敗れたため、急遽対戦相手の変更を余儀なくされた。
サンチェスはアマで十四戦全KOのキャリアを持ち、プロでも四十勝一敗(三十KO)一引分けという好成績を収めているが、ゴメスのような豪快なKOアーティストではなく、冷静かつ緻密なボクシングを身上とする技巧派である。過去五度の防衛戦のうちKO防衛は二度だけでいずれも終盤に仕留めているように、スロースターターで無理にKOを狙うタイプでもないので、ゴメスサイドも前半勝負なら十分に勝ち目があると見ていた。サンチェスが前哨戦で判定までもつれこんだニッキー・ペレスにゴメスはKO勝ちしていることも好材料だった。
下馬評は七対五でゴメス有利。スパーリングでも絶好調ぶりをアピールしたゴメスは記者会見でも快気炎を上げていたのに対し、あくまでもクールなサンチェスは「ゴメスの強さは知っているが、彼はクラスが下のボクサーじゃないか」と完全に見下していたのが妙に不気味だった。
一九八一年十八月二十一日、ラスベガスのシーザーズパレスでファン待望の夢の対決が実現した。互いに強打を警戒してか静かな滑り出しだったが、一分過ぎ、右が浅くヒットしたのをきっかけにゴメスがスパート。王者をロープに詰めて渾身の左フックを叩き込むが、ロープにもたれかかるようにしてこれをかわしたサンチェスの左フックがカウンターで顎に入り、バランスを崩したゴメスはマットに横転。
出会い頭の一発でダメージは大したことはなかったが、しきりに首をひねりながらコーナーに向かったゴメスには「こんなはずでは」という表情がありありと伺えた。
初の世界戦でも一ラウンドでダウンを奪われてはいるが、当時のゴメスは荒削りなところがあり、まだ進化の最中だった。しかし、以後鉄壁のディフェンス技術を身につけ、サラテのパンチさえもクリーンヒットさせなかったゴメスの自信はこの一撃で大きく揺らいだ。
一方、これで精神的に有利に立ったサンチェスはジャブと右ストレートをびしびし決めてゴメスを追い回した。パンチの見切りには定評があるゴメスがこれほど無造作にパンチを浴びる姿は見たことがない。いつもはスウェーで軽くかわしていたジャブもほとんどよけきれないばかりか、大振りの左フックさえ全く軌道が見切れていない。逆にゴメス得意の左フックはサンチェスに軽々とかわされ最初のダウンと同じような左ショートのカウンターを浴びる始末だった。距離感が全くつかめないままゴメスの右顔面は早くも一ラウンドから腫れ上がっていた。
二ラウンド以降のゴメスはロングレンジではリーチに勝るサンチェスのパンチをかわしきれないと悟ったのか、自慢のバズーカ砲をフル稼働して接近戦を挑む。絶品の防御勘を誇る両者だけにロープ際での打ち合いは圧巻だった。これだけ接近していながら両者のパンチはほとんど空を切り、ボディブローさえも肘でブロックされて互いに決定打を与えられない。まるでショートレンジでのディフェンスの模範演技をしているかのようだった。
特にロープを背負った時のサンチェスの懐の深さはゴメスの想像以上だったに違いない。スウェーとダッキングで正面からのパンチをしのぐ一方、フックは上体をローリングしてかわしながら体を入れ替えるように左を叩き込んでくるのだ。
直線的に攻めるゴメスに対し、上体を振りながら遠心力を加えたサンチェスのパンチの方が明らかに威力は上だった。ゴメスのショートを単発で浴びてもサンチェスはけろりとして打ち返してくるのに対し、サンチェスのパンチを浴びるたびにゴメスは一瞬動きが止まっていた。
六ラウンドまでに両目がほとんど塞がったゴメスは、七ラウンドに捨て身の玉砕戦法に出てサンチェスを再三ロープに追い込むが、これで力を使い果たしたか、続く八ラウンドにはロープ際で連打を浴び、前のめりに崩れ落ちた。何とか立ち上がってファイティングポーズを取ろうとしたが、すでに目は虚ろで勝負はついていた。
三十二連続KO勝ちという未だに破られない歴代王者中の最高記録を誇るゴメスがサンチェス相手にかくも無残に完敗するとはいったい誰が予想しえたであろうか。
かつてゴメスがサラテをKOした時も、業界に大きな衝撃が走ったが、サラテがすでに下降線で減量にも失敗していたことを考慮すれば、やむをえない部分もある。
しかしその後も後に同級王者となるファン・キッド・メサや、サラテからタイトルを奪い八度の防衛を果たした「アステカの星」ルペ・ピントール(メキシコ)らをKOで撃退し、十七連続KO防衛というアンタッチャブルレコードを樹立したゴメスは、サンチェス戦当時二十四歳の若さであり、凋落の傾向など微塵も伺わせないほどのコンディションだっただけに、この敗北は青天の霹靂だった。
「サンチェスは強かった。最初のダウンでおかしくなった。もう一度チャンスをもらったら今度は勝ってみせる」
屈辱的な敗戦の後も強気な姿勢を崩さなかったゴメスだが、両者のリターンマッチはついに実現しなかった。
一九八二年八月十二日、八度目の防衛に成功して間もないサンチェスが高速道路で運転を誤り事故死したからである。フェザー級では無敵で将来は三冠も視野に入れていた二十三歳のホープの夢は鋼鉄の棺桶の中に永久に封印された。
減量苦のゴメスは十七回の防衛記録(当時は史上第四位)を置き土産にフェザー級転向を表明し、一九八四年三月三十一日、同国人であるファン・ラポルテの持つWBCフェザー級王座にアタックする。
かつてサンチェスに敗れたラポルテはタフさだけは相当なものだったが、ゴメスのバズーカ砲の前にはなすすべもなく判定で敗れ去った。これが初めての判定勝利となったゴメスは悠々と二冠を制覇したが、J・フェザー級では天下一品の強打もフェザー級では並の強打者程度の威力しか発揮出来ないことを実感させる一戦でもあった。
これはゴメスのパワー不足という以前に、あまりにも簡単に相手を片付けていたことでボクシングが大味になり、小林戦やサラテ戦の時のような緻密さが無くなったことにも起因している。
一説によれば、ラテン系の特徴と言うべきか、大金と名声に溺れて遊びが過ぎたためスタミナ面に不安が生じ、勝ち急ぎの傾向が見られるようになったとも言われる。
思えばJ・フェザー級時代がゴメスのピークで、その後のキャリアは彼の輝かしいボクシング人生の中では余興のようなものだったのかもしれない。ピークを過ぎた兆候が明らかに伺えたのはフェザー級の初防衛戦となるアズマー・ネルソン(ガーナ)戦からであった。
サンチェスにとって最後の相手でもあった(結果は十五ラウンドTKO負け)ネルソンは、タフでクレバーで名王者サンチェスが最も苦戦を強いられた挑戦者である。早いフットワークを活かしロングレンジからでも左右フックをビュンビュンと振り回して前に出てくる粗っぽいボクシングスタイルは、ディフェンスが良く左カウンターの名手であるゴメスにとって組みやすい相手と思われていたが、異常なまでのタフネスは計算外だった。
サンチェスがネルソンに勝てたのは、インターバルの四十秒で平常の心拍数に戻る特異体質のサンチェスが、スタミナ面で挑戦者を上回っていたからで、十五ラウンドフルに打ち合えるネルソンも新しいラウンドになるたびに息切れ一つ見られず平然とした顔で向かってくるサンチェスにはお手上げだった。
地元での初防衛戦、十ラウンドまでは左のリードもよく伸び主導権を握っていたゴメスは残り二ラウンドをイーブンでしのげば勝てる展開だった。ところが十一ラウンド中盤からネルソンが猛烈なラッシュをかける。
終盤までダッキングで猛攻をしのいでいたゴメスも残り三十秒でオーバーハンドライトをよけ損ねてバランスを崩し、回り込もうとした際に足がもつれるようにダウン。
クリーンヒットという感じではなかったので、素早く立ち上がったゴメスはレフェリーの前で両手を広げてスリップを主張しているかのように見えたが、実は足にきていた。
ファイト再開後、ネルソンの左右フックを立ち尽くしたまま浴びると、しゃがみこむようにその場に崩れ二度目のダウン。足が引きつったようにもがいているところで、レフェリーからストップされ、初防衛に失敗した。
ネルソンはゴメスから奪ったWBCフェザー級王座を六度防衛した後、J・ライト級に転向し、このタイトルも十三度防衛する名王者となるが、ライト級王者パーネル・ウイッテカーには敗れ三冠は成らなかった。それでも一九八四年十二月から一九八七年三月まで十二年間も王座に君臨したネルソンは、ピークを過ぎたKOキングには手強すぎる挑戦者だった。
この試合、ゴメスはスピードもありパンチもよく当たっていたが、ネルソンはたじろぐこともなく平然と打ち返していたのが印象的だった。やはりフェザー級ではゴメスのパンチでダウンを奪うことは難しいのか。そのうち二十八歳のゴメスの動きが鈍り、中盤までは見切っていたネルソンの大振りのパンチに対する反応が遅れ始めたのが勝敗の分かれ目だった。
それでも己のパンチ力を過信するゴメスは、翌年五月十九日、ロッキー・ロックリッジの持つWBC・J・ライト級王座に挑戦し、僅差の判定で念願の三冠を達成する。勝つには勝ったが判定は二対〇と際どく、この試合を観ていた関係者の中にはロックリッジの勝利を支持する声も少なくなかった。
ここいらが潮時だったのかもしれない。一年後のJ・ライト級王座の初防衛戦では、明らかに格下のアルフレッド・ライネを七ラウンドまで圧倒しながら、八ラウンドと九ラウンドにダウンを奪われてストップされた。この試合のゴメスは何でもないジャブやストレートを不用意に浴びるシーンが多く、動体視力の低下は一目瞭然だった。
ゴメスは引退後ドラッグ中毒に陥り一時期入院していたが、ボクサー時代の仲間の支援によって立ち直った。しかし、放蕩癖が災いして財産も家族も失ったため、少年時代の貧困生活に戻ったようだ。
中南米出身のボクサーは金遣いが荒く、引退後はすってんてんになってしまう元チャンピオンが多い。逆に言えば、それほど全てを捧げてボクシングと向かい合ってきたからこそ、モンスターのようなボクサーが次々と生まれたのかもしれない。そしてリングで燃焼しきったからこそ、余生は抜け殻同然になったのだろう。それでもクールに人生設計しながら安全運転のボクシングを続ける計算高いチャンピオンより、目の前にぶら下がった現ナマと美女のために命をかけて殴り合うラテンの戦士に乾杯のエールを送りたい。




