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The Stolen Truth - 1



 そのまま食堂を出て行ったエドモンドは、朝食に手をつけることなく厩舎へ向かった。残されたローナンは、このままオリヴィアのそばにいるべきか、兄を追うべきか迷った。

 しかし、厨房の影から出てきたマギーが、

「ああ、マダム、可哀想に……」

 震えているオリヴィアのそばにやってきて彼女の肩を抱いたので、ローナンは厩舎へ兄を追うことにして、走った。





 いままでだって、ローナンは、エドモンドがとびきり幸せな男であると思ったことはなかった。

 兄は寡黙で堅実な男で、楽しみごとにはほとんど脇目も振らず、まだ少年のうちから荒れ果てた北の領地を守るために働き続けてきた。彼が、貴族の集まりよりも馬の世話を好むのは、そう生まれたからではなく、そう生きざるを得なかったからだ。

 強い信念をもって家族の悲劇を乗り越えた彼が、再び起こる悲劇を恐れているのはよく分かる。

 分かるのだが――。


「兄さん……」

 ローナンが厩舎の入り口に立って中をのぞくと、エドモンドはすでに馬用のブラシを手に持って、バレット家で一番大きな鹿毛馬と向き合っているところだった。

 領主の目はすっかりくぼんでいて、生気がない。馬は人の感情に敏感な生き物だから、主人の傷心を感じ取っているようだった。長い鼻先をエドモンドのほうへ押し付けて、ヒン、ヒンと短く鳴いて同情している。

 しかしエドモンドは、それにさえ気付いていないようすだった。

「兄さん、話があるんだ。こっちを向いてくれないかな」

 しかし、エドモンドは振り向こうとしなかった。

 古い木造の厩舎は背の高い建物で、鉄格子が入った窓が採光のために壁の高い位置に並んでいる。足元には家畜用のわらが散らばっていて、動物の匂いがつんと漂っているこの空間は、確かに、自分と世界とを切り離すのには最適な場所かもしれなかった。

 ローナンは兄がこんな風に落ち込んでいるのを見たことがなかった。



 一番最初に、エドモンドとオリヴィアの結婚の話が出たときのことを、ローナンはよく覚えている。


 てかてかに光る白い紙を、少し悪趣味なくらい大袈裟な赤蝋で封印した手紙がバレット家に届いたあの日――仰々しくも黒のお仕着せを着た使者が手紙と一緒に到着して、リッチモンド家の使いであると述べた。エドモンドは胡散臭がりながらも、使者を屋敷に上げた。

『ジグモンドさまには、5万ポンドの持参金を娘さまに付けられる用意があります』

 使者はそれを伝えるために遣されたらしかった。手紙には書けない内容だからだ。『オリヴィアさまは、もうすぐ20歳になられます。国一の美女として名高いシェリーさまに比べると地味な方ですが、そのぶん気立ての穏かな大人しいお嬢さまでして……』

 しくもバレット家は、ノースウッド・ヴァレーをサウスウッド領から買い戻すための金策に奔走しているところだったから、この数字はとても無視できないものだった。

 この肥沃な渓谷ヴァレーは、美しいだけでなく蓄農業にひじょうに適していて、今年も安全に冬を乗り切りためにはどうしても取り返したいものだった。エドモンドにとっては、少年の頃遊んでいた思い出の場所でもある。


『この結婚は便宜的なものになるだろう』

 エドモンドは言った。『リッチモンド家は貴族との繋がりが欲しい。私は持参金が欲しい……それだけだ』


 しかし、現実はエドモンドの言ったようにはならなかった。

 嫁に来たオリヴィアはエドモンドに恋心を抱き、エドモンドはオリヴィアを深く愛した。便宜的だったはずの結婚は本物になり、形を変えるはずだった。――それも良いほうに。

 そうならないのはすべて、あの、あるのかないのか分からないバレット家の呪いのせいなのだ。


 ローナンは居ずまいを正して小さく咳払いをした。

「これでいいのかい、兄さん? オリヴィアを実家に帰して、これからずっと死人みたいに生きることが兄さんの望みなのかい?」

「私に他の選択肢があるのか」

 弟を振り返らないまま、エドモンドは答えた。「このまま彼女の隣で僧侶のように振舞い続けることはできない。彼女を死なせることもできない。他にどうすればいい?」

 多分、ローナンは生まれて初めてエドモンドから質問を受けた。

 エドモンドの声はしわがれており、そこには弱々しい諦めの響きがあって、まるでエドモンド・バレットではない別の誰かが彼になりすまして話しをしているようだった。昨夜は眠っていないのだろう、彼の肌は疲れに青白くなっていて、ブロンドの髪も艶を失っているように見える。ローナンは唇を結んだ。

「あると思うよ」

 慎重に、言葉を選びながら。

「オリヴィアを信じるっていう選択肢が。彼女の強さを信じることだよ」

 ローナンはそう言って、兄の出方を待った。

 ずいぶん長い間待ったが、エドモンドは答えずにブラシを握ったまま立ち尽くしていた。

 厩舎というのは不思議な場所で、時間の流れを忘れられる。ローナンは黙って入り口から中に入り、腰の高さに巡らせてある太い木枠に手を置くと辛抱強くエドモンドの答えを待った。ローナンよりも先にしびれを切らしたのは馬の方だった。賢い巨体の馬は、ヒーンと鳴くと、エドモンドに大きな身体をすり寄せてブラッシングをねだる。

「分かっているよ……」

 と、エドモンドは答えた。

 馬に対して。

 自分に対してそう答えたわけではないが……ローナンは長い溜息をつくと、頭を振ってエドモンドに背を向け、ゆっくりと外へ歩き出した。


 ――ここから先は、兄の戦いなのだ。

 自分は、助けてやることはできても、かわりに戦ってやることはできない。そのつもりもない。


 厩舎を後にしたローナンは砂利道を歩きながら、目の前にそびえ立つ背の高いバレット邸を強く見すえた。威圧的にたたずむ灰色の壁を前にして、ローナンは今さらながらわずかな畏怖を覚えた。

 ――自分だって、まだ結婚していないではないか。

 本当はきっと心の何処かで恐れているのだ。だからこそ、エドモンドとオリヴィアが幸せになって、呪いなど本当は無いのだということを証明して欲しくて仕方がない。

 そういうことなのだろう……。





「エドの旦那はね、呪いを怖がっているだけなんだよ。あんたが疎ましいなんてきっと嘘だよ、マダム。元気をだしな」

 もとから赤らんだ頬をさらに紅潮させたマギーは、オリヴィアの肩を抱いたり腕をさすったりして、泣き止まない彼女を慰めようとしていた。

「いいえ、マギー」

 オリヴィアは力なく答える。「ノースウッド伯爵は嘘を吐くような方じゃありません。それに……彼の瞳は真剣だったわ」

 そして両手で顔を押さえると、さめざめと泣き出す。

 困惑するマギーの他にも小姓のジョーがその場に出くわして、オリヴィアを慰める集いに参加した。それでもオリヴィアは食堂の椅子に座り込んだままふさいでいた。


(いい気になっていた罰が当たったんだわ……)

 オリヴィアはそう考え、深くうなだれた。

 いつのまにかオリヴィアは、ここにいるのが当たり前のような気分でいたのだ。

 一ヶ月の約束があったことさえ忘れかけていて、夫が自分を受け入れてくれないのはただ、彼が『バレット家の呪い』 を恐れているからなのだと思い始めていた。時間が経てばいつか彼の頑なな心も溶けて、本物の夫婦になれるのだと信じ始めていた。

 いつか、すべては夢に見たとおりになるのだと……。

 信じて……。


 新しい涙を目に溜めだすオリヴィアを抱えたマギーは、途方にくれて、「エドモンド旦那のことは彼が子供の頃からよく知ってるんだ」 と説明し始めた。

「いいかい、マダム。もし本当に旦那がマダムのことが嫌いならね、舞踏会の後でなんて言わずに、すぐにあんたを追い出すはずだよ。あの子はそういう子だよ」

「それは……」

 オリヴィアは顔を上げて涙を呑んだが、前向きな気分にはなれそうもなかった。

 もしそうだとして、なにが変わるというのだろう。

 エドモンドがオリヴィアを帰したいと思っている事実は変わらない。そして、妻というのは、夫の決定に従うしかない生き物なのだ。

 どうせならいっそ、今すぐ追い出してくれた方が楽だったかもしれない!

 舞踏会が行われるまでの5日間はひどく辛い生活になるだろう。オリヴィアは前向きで楽天的な人間であったが、忍耐強いというのとは少し違う。涙をこらえるのは苦手だ。悲しみを隠すことはできない。

 このままでは……


「いい加減にせんか、小娘が。泣くと不細工な顔がますます不細工になるのが分からんのか?」


 しわがれた声が背後から突然聞こえてきて、オリヴィアは振り返った。

 一体誰が背後にいるのかなど、確かめるまでもなかった――老執事ピートが、黒いビロードのゆったりとしたガウンと、ふわふわした白い室内履き姿で食堂の入り口に立ち塞がっていた。肩幅に開かれた両足は、老齢に似合わずがっしりとしていて、ふわふわの室内履きはあまり似合っていなかった。まるでウサギの真似をしようとして、まったく成功していないヒグマのようだ。

「よくもそんなことを!」

 先に声を上げたのはマギーだった。「マダムほど綺麗な方はいないよ! それにね、マダムは今、傷付いてるところなんだ。無神経なことを言うのはよして欲しいね!」

「神経などバレット家の者には贅沢品だな」

「じゃあ、礼儀を持つんだよ」

「ふん、礼儀か。あれは贅沢な暮らしに脳がおかしくなった連中が持つものだ」

「この高慢ちきめ!」

 マギーが憤慨して立ち上がった。

 いきなりのことに驚いたオリヴィアは、なかば条件反射的に、興奮しているマギーをなだめようと立ち上がった。怒りに鼻息を荒くしていたマギーだったが、オリヴィアに腕を撫でられて少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 それでも料理女は怒りに目をぎらつかせていた。

「全部あんたのせいさ!」

 人差し指を老執事に向けたマギーは、震える声で強くピートを非難した。

「あんたが逃げ出したりしたからだよ! 先代の旦那はそりゃあ苦しんだんだ、私は全部見てたよ! そして今はエドの旦那が苦しんでる。分からないのかい!?」


 何――?

 オリヴィアは混乱して老執事の顔をまじまじと見つめた。

 皺だらけの顔が、無表情にマギーを見下ろしている。ピートは背が高く、皺さえなければ精悍な顔立ちをしていた。そして、バレット家の男たちが持つ、独特で素朴な強さを全身から放っていた。

(『バレット家の』……?)

 オリヴィアは、自分が思い至ったことに対して驚きを覚えた。そしてなぜか、エドモンドが語った彼の祖父の話を思い出した。

 "祖父は妻を失ったあとの悲しみで領地から失踪していた――"

 エドモンドは、そう言っていたのではないか? "――残された私の父は幼い頃から領主の荷を背負わされ、とんでもなく頑なな男に成長した。私のように"


 オリヴィアの視線に気が付いた老執事は、短く鼻を鳴らして皮肉っぽく笑った。多分、それが答えだ。オリヴィアは驚きに棒立ちになっていた。

「あなたは……ノースウッド伯爵のおじいさまなのですか……?」





ジグモンドとはジギーのことです。

オリヴィアの父、本名はジグモンド・リッチモンド。あまりにも語呂が良すぎて人々の笑いを誘うので、普段はジギー・リッチモンドと名乗っている模様。

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