#08:Boy Meets Girl
――4回目のトレーニング
「Woo-hoo! Good Vibes! Yeah!」
パァーンという音がトレーニングルームに小気味よく響く。王谷翔偉は、自分の左手を叩くテノエの力がいつもより強いと感じた。
「テノエ、今日はテンション高くない?」
王谷は美しいトレーニングパートナーの腰をポンと叩きながら言った。
「そうかな?」
彼女は口元に笑みを浮かべながら、王谷の顔を見上げた。
「ああ、まるで試合前日って感じだけど、当たってる?」
王谷の質問には答えないまま、彼女は笑っていたが、彼の指摘は当たっていた。
2日前に発報した黒警報は移動と停止を繰り返しながら、東京に近づいていた。このペースだと明日か明後日には着くだろう。
そして、今度こそ彼女は勝つつもりでいた、それも一方的に。
だが、テノエは賢明だ。私怨混じりの気持ちで立ち向かったら、足元をすくわれることもわかっていた。
だから、はやる気持ちを抑えてトレーニングを行っていたのだが、プロアスリートであるショウには隠し切れなかったようだ。
「テノエ、急な話だけど、この後、食事でも行かないか?」
王谷は久しぶりに誰かを食事に誘った。でも、これはデートの誘いではない。
彼には女性にうつつを抜かしている暇などない。でも、彼はテノエとより深いコミュニケーションをとる必要を感じていた。
それは彼が彼女をトレーニングパートナーに指名した理由にある。
初めて彼女を見たときのことを、彼は一生忘れないだろう。
― * ― * ― * ―
――2週間前
彼はオフシーズンに練習できるジムの下見に、マネージャーと2人でこのジムを訪れていた。細かい話はマネージャーに任せ、彼は自分が使うであろうVIP専用トレーニングルームを覗いてみることにした。
最初、そのトレーニングルームは入りにくい雰囲気に包まれていたが、あまり気にせず入ってみた。室内を見回すと、ジムの店長が自慢するだけあって、器具は新しく、巨大なタイヤまで置かれていた。雰囲気も良い。なかなか良さげな施設だと感心していると、部屋の奥で、誰かがベンチプレスをしていることに気づいた。
彼の目にはそこだけスポットライトでもあたっているかのように明るくみえた。
名のある選手でも練習しているのかと思って、目を凝らしたが、それが若いモデルのような感じの女性だったので、彼は落胆した。
VIP専用と聞いて期待したのだが、アスリート専用ではないようだ。ボディメーク目的の筋トレを悪く言うつもりはないが、そういう業界の若い女が出入りするジムは、一部の女性が雰囲気を乱すので、練習に集中できない。
(ここはナシかな……)
見切りをつけて部屋を出ようとしたが、ベンチプレスのウェイトを見て足を止めた。
(160kg!?)
トレーニング器具の陰に身を隠し、彼は再度プレートの枚数を数えた。20kgのプレートが左右に4枚ずつある。160kgで間違いない。
(補助もいない。よほど自信があるんだな)
彼は女から目が離せなくなった。
(どんな練習をするんだ?)
ベンチプレスが終わり、女がベンチから身体を起こすと、王谷は女の美しさに目を奪われた。それは端麗と形容すべき姿であり、とてもあれだけのウェイトを上げるようには見えない。女は後ろでまとめた美しい長い髪を揺らしながら、バーベルにプレートを1枚ずつ追加した。
(200kgかよ)
女はバーベルを肩に担ぐと、スクワットとバックランジをそれぞれ素早く5回行った。そして大きく息を吐くと、すぐに巨大なタイヤの方へと移動した。向こうはこちらに気づいていないようだ。
(やっぱり、細いよな)
大きめのウェアを着ているので断言はできないが、王谷が見る限り、女の体型はアスリートというよりも、ファッションモデルだ。
どうして、あの体であのウェイトがこなせるのだろう?
そんなことを考えているうちに、女は床に倒してあるタイヤの前に立つと、腰を下ろして、両手をタイヤの下に添えた。
(タイヤフリップか)
タイヤフリップとは床に倒した巨大なタイヤをひっくり返すことで全身を鍛えるトレーニングだ。そして、彼の予想とおり、女はタイヤを持ち上げ、垂直に立てた。
タイヤには赤い文字で120kgと記載されている。
(すげえな、この女)
次に女はタイヤを倒した。だが、倒す方向が違った。
タイヤを自分のいる方向に倒したのである。当然、女はタイヤの下敷きになった。
(やばい!)
事故だと思って、彼が飛び出そうとする直前、タイヤの下から気合の入った声が響くと、タイヤは勢いよく跳ね上がり、反対側に倒れた。
(なんだって!?)
彼は自分の目で見たことながら、女のやったことが信じられなかった。
120kgもあるタイヤの下敷きになった状態から、タイヤを反対側にひっくり返したのだ。
(あれが自分にできるだろうか?)
声を殺して、女を見ていると、女は足をふらつかせながらも、急いで器具を片付けはじめた。1つ1つの器具を元の場所へ返していく。
(この女、何者だ?)
これだけできるということは、絶対有名なアスリートに違いないはずだが、彼には女の顔に見覚えはなかった。でも、これだけ綺麗な顔なら1度でも見ていれば、絶対に覚えているはずだ。
そんなことを考えていると、女は彼に気づいたのか、こちらを振り向いた。
王谷と女の目が合った。
女はそこに王谷がいることに驚いているようだ。どうしようかと考えるよりも早く、王谷は女に歩み寄り話しかけていた。
― * ― * ― * ―
「今日? ずいぶん急な話ね」
そう言ってテノエはめずらしく渋面になった。
「やっぱ、嫌か?」
自分の誘いが断られるとは思っていなかったので、ショウは戸惑った。
「嫌じゃなくて、今日はちょっと都合が悪いの。次回でもいい?」
「そうか、それなら次回で」
「うん、でも、私、ショウの口に合うようなお店なんて知らないけど……」
時々、テノエは見当外れなことをいう、とショウは苦笑した。
「僕はちゃんとした大人で、結構稼いでいるんだよ。だから、そんなこと気にしなくていい。店は僕が決めるよ。テノエはダメってものとかある?」
(ちゃんとした大人は他人の背中に“実は美女”なんて付箋なんか貼らないけど)
テノエはそう思いながらも、それは口にせず、苦手な食べ物のことを言った。
「特にないけど……昆虫食はちょっと苦手」
やはりテノエの言うことは、少し外れている、とショウは改めて思った。
※次の更新は2023年10月22日 12時です。