#14:君子豹変
(あれっ? ここって……)
見覚えのあるスチール書庫と会議テーブル、私の高校時代においてとても大切な場所。懐かしんで室内を見回していると、不意にドアが開いた。
「大江さん、引き継ぎ資料の件だけど、ちょっと見てもらえるかな?」
眼鏡をかけた男子生徒はそう言うと、書類の束を押しつけてきた。彼は生徒会長の済美君だ。制服を微妙に着崩しているところ(本人談)が実に彼らしい。
「えっ、でもこれって、済美君が書いたものでしょ。私が見なくても大丈夫だと思うけど」
私はあの時と同じように答えていた。
「内容には自信があるけど、知らない人が見て分かりにくくなってないか見てもらいたいんだ」
真面目な彼の言葉に、私は頬を緩ませていた。
(そうそう、済美君って、こんな子だった。完璧主義で頑張り屋さんだったな)
高校時代、私は生徒会に所属していた。
済美君が生徒会長で、私は副会長だった。その1年はかなり長く一緒に仕事をしていた。済美君は正論重視で少し融通のきかないところがあり、時には激しく意見を戦わせたこともあったが、私の高校時代を象徴する良き友人だった。あの日までは。
3年の学祭が終わり、生徒会を引退して、卒業まで残り1ヶ月となったある日、大学入試の合間の出校日、確か木曜日だった。
偶然、済美君と廊下で会って、ちょっと話をしたとき、生徒会室に行ってみないかと誘われ、私も懐かしくなって、彼についていった。だが、この日はあいにく現役の生徒会メンバーは皆出払っていて不在だった。
「大江さん!」
急に済美君に両肩を掴まれ、私は壁に押しつけられた。
これまでみたことのない、思い詰めるような彼の表情に私は絶句した。良き友人が飢えた牡に豹変していた。
「Gnf&+kbst@rgq@)<,q@to&+k&yuidw7>!」
何と言っているかよく分からなかったが告白のようだ。彼は早口で言い終わると、無言で顔を近づけ、キスを迫ってきた。彼の手を振りほどいて逃げようとしたが、私を会議テーブルに押し倒そうとした。
「済美君、落ち着いてよ! どうしたの!」
私は叫んだ。本当に人が変わってしまったみたいだ。
でも、これは予め計画されていたことかもしれない。考えてみれば、どうして彼は引退時に返却したはずの生徒会室の鍵を持っているのだろう。どうして誰もいない時をねらって生徒会室に誘ったのだろう。
「バカっ!」
身の危険を感じ、とっさに衝撃魔法を放つと、彼は壊れた人形のように腰砕けになり床に膝をついた。
その隙に生徒会室を飛び出すと、人目も構わず私は廊下を走っていた。
(どうして、どうして、どうして、どうして……)
― * ― * ― * ―
目を開けると、私はベッドに横たわっていた。
(夢か……)
指で目尻の涙をぬぐった。
今でもあのことを思い出すと泣きそうになる。あの頃、彼とは生涯付き合っていける友人だと本気で信じていた。だから、とても残念だった。彼はどうしてあんなことをしたのだろう。
次の日、済美君から謝罪のメッセージが送られてきたが、酷く裏切られた気持ちになっていた私は返事をする気になれなかった。そして、そのまま顔を合わせることもなく私たちは卒業した。
(でも、ここはどこ?)
夢の中の生徒会室ではなく、今度は現実の見知らぬ部屋だ。壁に見知らぬ時計がかけてある。時刻は21時だ。身体を起こそうとしたが、うまく力が入らない。かけてある毛布すら重く感じる。
(そうか、魔力枯渇を起こして……)
「大丈夫?」
不意に横から声がかかった。誰かが私を覗き込む。
「ショウ!?」
私は飛び起きた。そして、状況を把握しようと周囲を見回す。家具の少ないさっぱりとした部屋には何故か安心したが、それどころではない。
同じベッドにショウがいた。
そして、自分の首元に目をやる。
(バスローブ?)
私はバスローブを着ていた。でもお風呂に入った覚えはない。
「ショウ、あなた、まさか」
私の声は震えていた。ショウは少し困ったように笑った。
(まさか、彼も……)
そう思った瞬間、目の前が真っ暗になった。
どうしようもない絶望感と共に、私は左手を彼の頬に振り抜いた。
パシッ、と力の無い乾いた音がした。
とにかくベッドから出たい。だが、身体がまともに動かず、なんとももどかしい。魔力も体力も無い自分が情けなく恨めしかった。
「テノエ、ちょっと待って」
スウェット姿のショウが先回りするが、私はこれまでにない怒りの眼差しを彼に向けていた。状況からして彼が私に何をしたのか想像に難く無い。
だが、私にとって、貞操を守ること、そのこと自体はそれほど重要ではない。なぜなら処女であることにそれほどの価値があるとは思っていないからだ。
しかし、処女を喪失することで、万一魔法が使えなくなってしまったら、私は天命を果たせなくなる。それは決して許されない事だった。
ショウは日本にとっては宝かも知れないが、こんなことをするなら私にとっては下賤な敵だ。守護者を呼び出して、この場で制裁しなければ気が済まない。そう決意すると彼は慌てたように言った。
「ごめん、テノエ、びっくりさせてすまない。でも誤解だから。僕は何もしてないから」
「本当に?」
足元がおぼつかないまま、ショウに貫くような視線を向ける。
「ほ、本当だって」
ショウは口籠もりながら答えた。
半信半疑ではあるが、この場は一旦彼の言葉を信じることにした。彼の言っていることが本当かどうかは、ン・メノトリーでメディカルチェックをすればわかる。
「そう……わかった。じゃあ、どうして私はこんなところで寝かされていたの?」
自らを落ち着かせ、どういうつもりでこんなことをしたのか、彼に聞いてみる。無抵抗の女を自分のベッドに連れ込んだ時点でアウトだと思うが、もしかしたら彼なりの理由があるのかも知れない。むしろ正当な理由があって欲しいと願った。
「ここは僕ん家で、タワマンの49階」
彼は短く答えたが、私の質問の答えになっていない。彼もそれに気づいたのか、少し間をおいて話し始めた。
「急にテノエが倒れて、どうしようかと思ったんだ。けれども、あんな奇跡を見せられたばかりだ。だから君を病院へ運ぶのは何か違うと思った。でも、あのままにはできないから、家に連れてきた」
私は小さくうなずいた。その判断に間違いはない。魔力枯渇はカロインを摂取するか、自然回復を待つしか無い。現代日本の病院で治せるものではない。
「そう……それで?」
また、足がふらついた。怒りの勢いで立っているものの、それにも限界がある。
ショウは素早く優しく私を抱きとめた。まるで彼の腕の中に飛び込んでいくようなかたちになったが、不思議と安心感を覚えた。それと同時に、何もしていない、という彼の言葉は本当だと直感した。
「ありがと」
私はそう言って彼から離れようとした。だが、彼はそうさせてくれなかった。彼は太い両腕で作った輪の中から、私を出してくれなかった。
「ちょっと、ショウ」
何の冗談のつもり、といいかけたが、彼はそのまま両腕の輪を縮めてきた。抱きしめられるようなかたちになる。怖くはなかったが、反射的に身がこわばった。
ハオや彩ちゃんもこんなふうに過剰なスキンシップを取ってくることがある。
けれども、あの2人は特別だ。私のために命をかけてくれるのだから、少しくらいのことなら大目に見るし、2人とも私がどこまでなら許すのか、その加減も分かっているので笑っていられるのだが、ショウはそういう相手ではない。
「テノエ……」
もう、トレーニングパートナーの近さではない。彼は私の耳元で言った。
「……好きだ。俺と付き合ってくれ」
その言葉に胸がギュッと締め付けられた気になった。これが「キュン」という感覚だろうか? これまでにも告白は何度もされたが、こんな気持ちになるのは初めてだ。
私も彼のことが好きなのだろう。
「ショウ、今そういう冗談は……」
息苦しさを感じながら言葉を絞り出した。
「本気だよ。本気で言っているんだ。結婚を前提に付き合ってくれ」
その言葉には真摯な響きがあった。太い両腕の輪が遠慮がちに狭くなっていく。そして、彼からなんとなく野性的な、言い換えれば、獣のような匂いがした。
(あのときと同じだ)
済美君よりはずっと紳士的な態度だが、それだけに強い意志を感じた。
時刻は午後9時、場所は彼の部屋。
あまり考えたくはないが、彼は私をどうするつもりなのだろう?
「テノエ、君を誰にも渡したくない」
ありがたい言葉であるが、それは今欲しい言葉ではない。
今の私には魔力がない。つまり、このような場面においても絶対的に対処してきた魔法が使えない。当然、身体強化魔法も使えないから、腕力でも敵わない。
この場の主導権は全て彼にあった。
※次の更新は2023年10月22日 21時となります。