#13:天啓
――午後6時、VIP用トレーニングルーム
倒れたテノエを抱き起こそうとして、王谷翔偉は体勢を崩しそうになった。テノエの身体が思ったよりも軽かったからだ。そのとき、つい彼女の胸に右手が触れてしまった。
(うわっ!)
見た目以上に弾力のある感触に彼は驚き、硬直した。
わざと触ったわけではない。体勢を崩しかけたとき、彼女を落とすまいと抱えなおしたので、こうなってしまったのだ。これはアクシデントだ。
でも、そんな言い訳とは裏腹に彼の鼓動は激しくなった。口の中も乾いてくる。そして、もう一度さっきの弾力を確かめてみたい、そんな衝動が腹の奥から湧き上がってくる。
『そんなん、触るに決まっとるやろ、むしろガッツリ揉むで』
『目をつぶって動かんってことは、カモォォンってことや』
不意に日本でのチームメートとの会話を思い出した。細かい内容は覚えていないが、無抵抗の女が横たわっていたらどうする? という宴席での雑談だった。
その時はそんなことするわけないと思っていたが、いざ、文字通りの場面に直面すると、事態はそう簡単ではないと実感した。
(誘っているわけ……じゃないよな?)
自分の腕の中にいるテノエを改めて見つめる。気を失ってはいるが、病院に運ぶ状態でもなさそうだ。さっきの影響だろうか。
いったい彼女は何をしたのだろう?
彼は自分の右肘を見た。さっきまでの痛みや違和感は全くない。それどころか以前の手術痕すら消えていた。まるで右腕が一から再生されたようだ。これをテノエがやったことに疑いの余地はない。普通の美人ではないと思っていたが、まさかこんなすごい能力を持っているとは思わなかった。
(神霊治療家ってやつか?)
米国でそういう人物がいると噂に聞いたことはある。
だが、それは言葉巧みに選手に近づいて、法外な料金を要求する詐欺まがいのものであり、チームや代理人からそういう人物とは絶対関わらないように、と1年目のシーズン前から強く注意されていた。
だが、テノエは本物だ。
誰が何と言おうと断言できる。この右腕が動かぬ証拠だ。この力があれば、もう怪我を恐れることはない。
(この女だ! テノエだったんだ!)
彼は落雷のような衝撃に撃たれた。
これを天啓というのだろうか。おぼろげな理想像が今はっきりと形を成した。テノエは自分の人生において必要不可欠な存在であると、彼は悟った。
(よくぞ、自分の前に現れてくれた!)
運命の人が現れたことを悟り、彼は歓喜のあまり身震いした。しかも、その女は自分の腕の中にいる。
今度は彼女を落とさないように抱き上げ、ベンチへ寝かせた。
時刻を見ると、6時になったところだ。予約時間はあと30分ある。彼は横たわるテノエを見下ろした。魅力的な女性の肢体が無防備で目の前に横たわっている。
『運命の相手なら、今ここでモノにしろよ』
『女なんて1度やってしまえば、おとなしくなるって』
昔のチームメートが煽ってくる。
ここはVIP用トレーニングルームだ。
予約時間中には誰も入って来ないし、遮音性も高い。仮にこの場でテノエを犯しても邪魔は入らない。そんな想像が頭に飛び込んできた。
情けない話だが、若い男性である以上、一瞬、魔が刺すことはある。そして、それは大した問題ではない。それを行動に移すかどうかが問題だ。
(これが本能に負けるってことか……)
彼は瀬戸際にいた。そして、瀬戸際にいる自分をどこか他人事のように見ていた。何者かに体を乗っ取られたように、妄想が実行動へと変わっていく。テノエのトレーニングウェアを脱がすことは造作もない。
だが、彼は超一流のアスリートだった。一時の性欲に流されることはない。だからこそ、彼はこのポジションにまで登りつめた。
しかし、何事にも例外はある。
テノエは信頼できる女性だ。他の女であれば、自分と定期的に顔を合わせるような間柄になると、すぐにSNSに自分との関係を匂わせるような投稿をするのだが、テノエには全くそういうことがなかった。
(モテる女の余裕なんだろうな)
彼はそう感じていた。テノエが数多くの男に言い寄られていることくらい容易に想像できる。自分より親しい男も複数いるだろう。現に彼女の話にも少しだが『男友達』との話が出てきた。
彼は急に怖くなった。
それは『テノエが誰かにとられるかもしれない』という不安だ。彼女との関係はトレーニングパートナーだが、彼の中では、たった今、彼女は自分の人生における不可欠なピースの1つになったところだ。
それを失うことは自分の身体の一部を失うことに等しい。
(テノエは絶対誰にも渡さない)
彼は強く決心した。
その為に今はどうするべきなのか……彼は行動に移すことも早かった。
※次の更新は2023年10月22日 20時頃の予定です。