#12:結婚相手に求める条件
「今日はやけに上機嫌だね」
王谷翔偉は、テノエがベンチプレスを終えたところで声をかけた。
「そう? いつもと同じだけど……何かおかしい?」
彼女は上体をベンチから起こす。まさか酒を飲んできたことがバレたのかと気になったが、涼しい顔で答えた。
「うん、試合に勝ったとか、何かを成し遂げたって顔に見える」
王谷はテノエの様子がいつもと違うことに最初から気づいていた。普段のテノエは朗らかで落ち着いているが、今日はどことなく興奮しているように見えた。
「ふうん、ショウにはそう見えるのね」
本当のことは言えないので、テノエは何気なく話を流したが、彼は食い下がってきた。
「それで何があったの?」
「想像にお任せします」
テノエは意味ありげに微笑んだ。つまり何かあったと王谷は確信したが、それ以上聞くことは諦めた。
数時間前、テノエはEを倒した。これによって数か月に亘る屈辱を晴らし、彼女はこれまでになく高揚していた。そして、勝因はまぎれもなくこのトレーニングにある。だから今日は一段と気合が入っていた。
世間一般に魔族の存在は知られていない。
だから、王谷もテノエが魔族を倒したことなど、露ほども想像しなかったが、テノエに特別良いことがあったことには気づいていた。
そして、それとは別に、彼はテノエと知り合ってから、もう1つ重要なことに気づいた。
彼は世界的な人気選手であり、日本円で120億円という高額年収を得ている独身男性だ。
となれば、耳目を惹きたいマスコミやネット上で「王谷翔偉の結婚相手に求める条件」について、様々な憶測記事が書かれるのも当然だった。
彼自身、その内容はなんとなく目にしていたが、これまでは自分に関係無い話として、気にも留めなかったのだが、先日、はっきりと気づいた。
――その条件の多くをテノエは満たしている
容姿端麗、スタイルも完璧。さらに姿勢や立ち振る舞い、身のこなしは特別な訓練でも受けたような優雅さや淑やかさがあった。
学歴も東山大の学生だから誰も文句はつけないだろう。言葉も代理人と英語で契約の話をし、冗談も言って談笑していたくらいだから、米国での暮らしも問題なさそうだ。
そして、何よりもすごいのは体力だ。自分と同じレベルで一緒にトレーニングができる。そんな女性に彼は今まで出会ったことがなかった。
けれども、彼には女性と付き合うことについて、ジレンマがあった。
彼の目標は世界一の競技者だ。だから、彼は多くの時間をトレーニングやコンディショニングに費やさなければならない。そのため、彼は女性との時間など全く捻出できなかった。
けれども、彼は健康な男性である。
恋人は欲しいし、結婚願望もある。でも、そうなれば、パートナーのためにより多くの時間を割かなくてはならない。けれども彼には目標がある。それはパートナーよりも優先させなくてはならないものだった。
だから、女性との付き合いは半ば断念していた。
けれども、テノエは違う。
彼女とならトレーニングをしながら一緒の時間を過ごすことができる。しかも、競い合うことすらできる。それはとても刺激的で楽しいことだった。
ぼんやりとだが、彼はテノエを結婚相手として意識するようになっていた。
赤の他人が勝手に決めた条件で、自分の結婚相手を決めるのはおかしな話だが、相手がテノエだったら誰にも文句はつけられないと彼は考えた。
そして肝心な自分の気持ちについて考える。
もちろんテノエに魅かれるところはたくさんある。だが、強く感情を動かされるほどではなかった。
その原因はテノエの態度にあった、とはいっても彼女の態度が悪いわけではない。
友好的だし、冗談も通じる。時折、委員長っぽい言動をするところは少し苦手だが、それは自分に欠けているところであり、彼女ならそこを補ってくれる気もする。
そして、トレーニングについては、いつも前向きに取り組んでいて、プロアスリートである自分に敬意を払ってくれているのも感じる。
だが、それだけでは決め手に欠けた。
彼女に今一歩踏み込めない「何か」があるようにも感じていた。
テノエはこれまで彼が出会った女性の中では群を抜いているが、言葉を返せばそれだけだった。もう一つ、この女性しかいない、と思わせる決め手に欠けていた。
彼女の態度はあくまでも友人に対するものであり、1人の男として彼女が自分をどう見ているのか、全くわからなかった。
極めて客観的に自分を眺めてみる。自分は25歳の独身男性で、高額年俸のプロアスリートだ。記事や投稿を読む限り、外見も悪くないようだ。
控えめに言って、自分は言い寄ってくる女性を選べる立場であり、現にアプローチしてくる女性も後を絶たない。偉そうに聞こえるかも知れないが、これは事実だ。
一方、テノエも相当モテるに違いない。
あの容姿であの能力なら、恋愛に限らず仕事でも周囲の男が放っておかないだろう。現にスコッティは自身の事務所にテノエをスカウトしても良いか聞いてきた。
思い返せば、彼女は自分に対して気後れする様子はなかった。憧れる様子もなければ、逆に関心のない素振りをして気を引こうともしなかった。
つまり彼女は自分に対して普通に接している。それは、彼自身が望んだことでもあるのだが、もしかしたら、テノエが男の扱いに慣れており、自分も数多くいる男の1人なのだろうかと考えた。
テノエもまた男を選べる立場であることは間違いない。
雰囲気からすると、特定の恋人はいないような気もするが、直接本人に聞いたわけではない。だったら聞いてみればいいのはわかっているのだが、彼はその踏ん切りがつかないでいた。
(こっちから行ったほうがいいのかな?)
彼はそんなことも考えた。
だが、テノエとのトレーニングはこれまでになく充実し、かつ楽しいものになっている。その関係を壊すかもしれないことに躊躇があった。
そんなことを考えながら、彼は久しぶりに悪戯をした。彼女のバーベルの片方にこっそりと10キロのプレートを追加する。これは以前にもやったことがある。そのときは後でばれてテノエに怒られたが、その場限りで、後に尾をひくこともなかった。
「よしっ!」
そんなこととは知らず、テノエは軽く気合を入れて、シャフトを僧帽筋に乗せ、身体強化魔法をかけながら、スクワットを始めた。そのとき、急に彼女の身体から力が抜けた。
(えっ!……)
身体強化魔法が途切れた。
(……どうして?)
数時間前の戦闘でテノエは魔力をかなり消耗していた。しかし、因縁の相手に勝利した高揚感のせいか、自分の魔力が残り少ないことに気づいていなかった。
それでも、普通の練習なら問題はなかったが、ウェイトのバランスがとれていなかったため、彼女の体勢は大きく崩れた。
「あああっ!」
テノエはバーベルを支えきれず、小さな悲鳴を上げた。200kgのバーベルが彼女を押しつぶしにかかる。それは彼女の骨と重要な神経に損傷を与えるには十分過ぎる重量だ。
「逃げろ!」
その瞬間、王谷は右手を伸ばしてバーベルを掴んだ。
プツッ、という異音。そして、一拍おいてからバーベルが床に落ち、ズシンとトレーニングルームを揺らす音が響いた。テノエは間一髪バーベルから逃れて無傷だったが、彼女が目にしたものは自分がバーベルの下敷きになったほうがマシだと思う光景だった。
「ショウ!」
王谷の右腕が変形していた。
あってはならない光景を前にテノエは叫んでいた。いくら王谷でも片手で支えられる重さではない。彼はその場に膝をついてうずくまった。
(私を庇って……なんてこと)
ショウの選手生命にかかわる事態が起こってしまった。それを悟るとさっきまでの高揚感は一瞬で消し飛んだ。
「テノエ……君のせい……じゃない」
王谷は痛みに耐えながら声を絞り出した。余計な悪戯をした報いだ。なんであんなことをしてしまったのだろう。目の前で起こっている事態はとても受け入れられないが、神経はいやおうなしに右腕に起こった事実を伝えてくる。
「テノエ、そこのスマホを取ってくれ」
とにかくマネージャーに連絡しなければ。
「待って」
しかし、テノエは膝を着き、彼の負傷した右腕に手を添えていた。
「それより連絡を」
「いいから! おとなしくして!」
テノエは王谷を一喝すると両手に魔力を集めた。王谷は初めて見るテノエの剣幕にたじろいだ。
「一体何を?」
テノエは王谷の問いに答えなかった。既に治癒魔法に全神経を集中させていた。
本来なら魔族が絡まないことで、魔法を使うべきではない。
でも、彼は特別なプレイヤーである。日本の宝といってもいい。こんな怪我で潰すわけにはいかなかった。
(必ず治す)
強い決意とともに、テノエの両手が仄かに輝くと、治癒魔法が彼の右腕に浸透していった。
(一体、何が起こっているんだ?)
王谷には一体何が起こっているのかわからなかった。
だが、怪我をしたはずの右腕から魔法のように痛みが引いていく。テノエの両手から何かが腕に流れ込んでくることが理屈抜きでわかる。
そして、彼女はこれまでになく真剣な表情をしていた。その凛とした姿に彼は見惚れていた。
(よし、これで大丈夫)
数分後、治癒魔法が完全に効いたのを確信すると、テノエは手を離した。
「テノエ?……」
王谷は何かを問いかけているようだが、彼女にはよく聞き取れなかった。
「これで大丈夫、でも、念のためドクターに見てもらっ……」
そこまで言って、テノエは全く動けなくなってしまった。身体に力が全く入らない。
(魔力枯渇……)
完全に魔力を使い切ったことによる影響だ。こうなった魔法士は少なくとも数時間から数日、身体の自由が利かなくなる。それはテノエも例外ではない。当然、彼女はそのまま床に崩れ落ちる。しかし、その直前、王谷がテノエを抱き止めた。
「テノエ、大丈夫か?」
王谷が心配そうに覗き込む。テノエは軽く頷いて見せるのがやっとだった。
「立てるか?」
テノエは首をわずかに横に振ると目を閉じた。意識を失ったようだ。
「そうか、わかった」
王谷は静かにテノエを抱き上げた。
※次の更新は2023年10月22日 18時です。