6.
セレーナが産気づいてから、五時間が経過していた。
「ん……はぁ、はぁ……」
長時間、辛く苦しい痛みに耐えながら、セレーナはお産と闘っていた。
(彼がここにいてくれたら……)
何度もいない人のことを考えてしまうのは、あまりにもお産が辛いからだろう。
それから、未だアーサーの容体が不明で、頭の片隅でずっと心配してしまっているからだ。それ以外に意味なんてない。
前回エリオットを産んだときも、彼は戦地に赴いていて立ち会っていなかった。
むしろ、シュトラウス伯爵邸で孤独の中出産した前回より、実家で両親たちが近くにいる今回の方が精神的にはよほど有難いはずなのだ。
なのにどうしてか……心細い。
「だん、な……さま…………」
セレーナは、消えそうな声で彼を呼んだ。
離婚を決めてからずっと、わざと「伯爵」と呼んでいた彼。わざとそう呼んでいたのは、きちんと線引きをして、彼と距離を取るためだ。けれど今はそんなことを考える余裕もなく、セレーナの口は無意識に「旦那様」と呟いていた。
するとそこで、部屋の外から声が聞こえてきた。
「セレーナ! セレーナは無事なんですか!?」
微かに聞こえたその声はアーサーのものだ。普段声を荒げることのない彼が、扉を通しても聞こえてくるくらい大きな声でセレーナを呼んでいる。
「落ち着いてください。セレーナは今この中で頑張っておりますから」
そんな彼を、セレーナの父親が宥めに入ったようだ。外はしん、と静まった。
「……なん、で、旦那様がここに……?」
怪我をして意識不明だと聞いていたアーサーがここにいることが簡単には信じられず、セレーナの意識は扉の向こうへ持っていかれる。
「おや、父親が来てくれたのかね?」
「中にお通ししましょうか?」
助産師から声を掛けられ、セレーナは言葉なくただこく、と頷いた。セレーナの了承を得た助産師は扉を開けて、アーサーを部屋に入れた。
「セレーナ!」
「……」
部屋に入ってきたアーサーに名前を呼ばれるも、再び陣痛に襲われたセレーナは返事ができない。
「セレーナ、痛むのか? 何か私にできることはないか?」
意識が朦朧とする中、細めた目で見るアーサーは辛そうな顔をしている。それに、頭部と右腕に包帯を巻いている姿が見えた。
(怪我を……したのですか? 痛みますか……?)
痛々しい包帯姿を見て、大丈夫かと聞きたいセレーナだったが、お腹の痛みが最高潮に達し、言葉を発することもできなくなる。
「ぅう……」
「セレーナ!」
思わず呻き声をあげたセレーナの左手を、アーサーはぎゅっと強く握りしめた。
「……よし、次で出そうだね」
「もう一踏ん張りですよ、奥様!」
「伯爵様はそのまま奥様の手を握っていてあげて。さあ奥様。大きく息を吸ってー…………はい、いきんで!」
「んんぅーー!!」
――――助産師の掛け声に合わせて力一杯いきんだセレーナは、無事にエリオットを出産した。
エリオットは、おぎゃあ、おぎゃあと元気な産声をあげている。
「元気な男の子ですね」
「びっくりするくらい伯爵様にそっくりな子だね」
お産を助けてくれた助産師二人から声を掛けられ、セレーナとアーサーは二人で、おくるみに包まったエリオットの顔を覗く。
予定より一ヶ月早く生まれてきたものの、目の前にいるのは間違いなく愛しい息子、エリオットだ。
二度目の人生でも再び会えたことに、セレーナは心の底から感激し、涙をこぼした。
その涙を、アーサーが右手で掬い、セレーナに優しく声を掛けた。
「ありがとうセレーナ。……頑張ってくれて、ありがとう」
「旦那様……」
「こんなに可愛い息子が生まれて、私は幸せ者だ」
アーサーから出産に対しての感謝の言葉は、初めて聞いたかもしれない。セレーナは心の中でそんなことを思い、彼の言葉を感慨深く思う。
「そうだ。この子に名前を付けてやらないとな」
「あ、名前は――」
「『エリオット』というのはどうだ?」
「!」
セレーナの中ではこの子は『エリオット』以外にあり得ない。今回ももちろんその名前が良いと思っていた。
でもそれは、前回の記憶があるからに他ならない。
前回エリオットと名付けたのはセレーナだった。
何せ、戦地に行ったアーサーはいつ帰ってくるかも分からず、手紙で『君の好きに付けて良い』と書かれていたからやむを得ず、セレーナが考えて付けた名前が『エリオット』なのだ。
だから、二度目のこの人生で、アーサーの口から『エリオット』という名前が出てくるのは予想外だった。
「な……んで、その名前を……?」
セレーナは大きく見開いた目でアーサーを見上げる。
「ああそれは……っと、すまない。君たち二人は外に出ていてくれるか?」
なぜエリオットという名前を出したのかを話そうとしたアーサーだったが、まだ部屋の中に助産師の二人がいたことを思い出して部屋から出るように言い、セレーナと二人きりで話せるようにした。
それから改めて、アーサーは口を開く。
「それでだな。『エリオット』と言う名前を付けたい理由なんだが……」
「……はい」
「…………私も、回帰したんだ」
「……え?」
少し申し訳なさそうに、アーサーは衝撃の事実を話し始めた。