4.
「離婚したくない? ……私とですか?」
愚問である。
アーサーと結婚しているのはセレーナなのだから、セレーナ以外とはあり得ない。
だが、それほどに予想外の発言だった。
「……そうだ」
(なぜ? シェイさんとのことがなくても、冷え切った夫婦関係を続ける理由なんて……あ)
「この子を後継にしたいからですか?」
セレーナはふっくら出たお腹に手を添えて、そこにいるアーサーとの子を示す。
シェイがアーサーの子を妊娠していないのであれば確かに、セレーナとの結婚は継続するのが賢明だ。
……そう思ったのに。
「違う」
アーサーは小さな声で答える。
「違うんだ。いや、子は確かに後継にしたいが、そうじゃなくて、だな……」
「?」
「離婚したくないのは、私が…………」
次の言葉を、アーサーはグッと意気込んで口に出す。
「私が、君を愛しているからだ」
……一瞬、時が止まった。
部屋の中は静まり返り、セレーナは呆然とする。
(いま、なんて……?)
あり得ない。
アーサーの口から出るはずのない単語だ。
これまでの彼の言動から、セレーナのことを『愛してる』だなんて絶対にない。
でも、冗談を言っているようにも見えない。
……そもそも『白銀の氷騎士』の名の通り、彼は冗談を言う性格ではないのだ。
だとしたら何の間違いか。
「……伯爵様。今のは……?」
「愛しているんだ、セレーナ」
二度目の愛のセリフは、先ほどよりもすんなりと出てきた。
だが、二度も告白を受けたことで、ふとセレーナはある事に気づいた。
「伯爵様?」
「何だ」
「…………表情筋はどちらに置いてこられたので?」
二人の間にある空気に、ピシッと亀裂が入った。
愛の告白をした結果、まさかそんな返答が来るとは思ってもみなかったアーサー。
しかし、彼は自分で分かっているだろうか?
これまでずっと、彼の顔の筋肉が全くと言っていいほど稼動していないことに。
告白をする際に、顔を綻ばせることも、恥じらうことも、なんなら好きという気持ちが溢れることすらないとは。セレーナは驚きを通り越して呆れてしまう。
(さすが『白銀の氷騎士』ね)
「そんな真顔で言われましても、信じられるわけがありませんわ」
「……こういう顔なのだ」
「今までもそんな素振りは皆無だったと思いますが」
「……それは、思ったことを顔や言葉に出さないよう教育されてきたから……」
厳しいと噂の先代から、そういう教育を受けたのだろう。
「だから、私の顔が真顔だとしても気持ちは本物だ」
「ですが伯爵様は、私が妊娠を告げたときも喜ぶどころかこちらの浮気を疑ったではないですか。それで本物だと言われましても」
「あれは……嬉しさのあまり動揺してあんなことを言ってしまっただけだ」
「はい?」
「嬉しいに決まってる。君との子供だぞ?」
(……と、真顔で言われましても)
アーサーの顔に嬉しさなんて微塵も見えないのに、どう受け止めれば良いのか。
その上“動揺して”「私の子か?」という言葉が出てくるなんて。一体どれだけ動揺したらその言葉が出てくるのだろうか。
妻から妊娠報告を受けた夫の第一声として、間違いなく残念な言葉だったと思う。
「……では聞きますが、いつから私を?」
「いつから……」
一旦、表情筋の話を置いておくとして、ならばいつからアーサーは自分のことを好きだったのか?
セレーナが聞いてみたところ、アーサーは長考した。
彼が考えている間、部屋の中には静寂が訪れる。
(そんなに難しい質問ではないと思ったけれど)
そう思いつつも、セレーナはじっと、アーサーの答えを待つ。
それから数分後、彼はようやく答えが出せたようで、口を開いた。
「……大きなきっかけは、多分なかったと思う。ただ君と生活していく中で……想いが募ったんだ」
「それは家族の情ではなく?」
「違う。……君を見ると心臓が高鳴る。笑った顔や仕草が美しくて目が離せないし…………その、引かれるかもしれないが、君の匂いも好きだ。君の首筋に噛みつきたいと思ったことも……ある。これは単なる家族に対しての情ではない、と思う」
「…………………は?」
家族に対しての情と勘違いしているのではないかとセレーナが指摘したところ、アーサーは首を横に振り、予想外の想いを述べた。
(匂い!? それに噛みつき……って…!?)
突然そんな言葉を吐かれ、一拍置いて言葉の意味を理解したセレーナは、驚きながら顔を赤く染める。
アーサーからそんな風に言われるのは初めてだ。
好きという想いに限らず、美しいという褒め言葉も、初めて言われた。
「どうしたら、信じてもらえるだろうか?」
アーサーは眉間に皺を深く刻みながら、じっとセレーナを見つめる。きっとこれが、彼なりの懇願の顔なのだろう。
信じて欲しいと懇願されつつ尋ねられたセレーナは、考えた末に一つ、案を投げてみた。
「例えば……これから毎日、私に会いに来て会話をするというのはいかがでしょう? 一ヶ月くらいの期間を設けて」
「一ヶ月、毎日……?」
「はい」
(分かってるわ。忙しいあなたにはそんな無駄な時間を割く暇はないってことくらい)
セレーナはあえて無理難題を投げたのだ。
そうすれば、アーサーは断ざるを得ず、それ即ち、離婚に同意するしかないということになる。
「そうか……」
(きっと一ヶ月どころか、三日だって無理でしょう? あなたは毎日毎日仕事に明け暮れていたんだもの。そうまでして私を引き留めたい訳でもないでしょうから、早く離婚に同意を――)
「分かった」
「そうですよね。分かっ……え!? 分かった!?」
無理だ、という返事を予想していたセレーナは、驚いて声をあげてしまった。
「何故そんなに驚く? 君が言った条件だろう」
「言いましたけど……。でも忙しいのでは……」
「仕事より、君との関係回復の方を優先するべきだと判断した」
(うそ……)
目の前にいるのは、セレーナの知るアーサーとは別人なのかもしれない。仕事人間の彼が、そんなことを言うなんて。
ぽかんと口を開けたセレーナに、アーサーは言った。
「では明日から一ヶ月ということで。君の信頼を得るために頑張ろう」
そう言ったアーサーの口角は、セレーナには見えない角度で、微かに上がって見えたのだった。