ホラー育ちの霊「ムラ」
一人の女子学生が、濃霧の中を歩きながらひとり歌っている。
「カントリーロード、この道~ずっと~。ゆけばーーー。あーの街ーにーーつづいてーるーー気がするーーーカントリーロード~」
カントリーロードを巻き舌でするのは、小学生からの英語教育の賜物だ。だが英語圏の原曲ではなく、日本語訳を歌うのはまだ彼女に知識が足りないからである。巻き舌は、彼女の精一杯の背伸びだ。大人よりも知識も経験も持ち合わせないが、田舎ではきちんと巻き舌で英語を発音できる大人はどれだけいることだろう、いやいない!祖父母にだってその点は勝てると女子学生は思っている。
歌いながらひらりと飛んで、線路の重い鉄を踏みつけた。だが思いの外滑って女子学生はあっと声をあげそうになる。だが今は早朝、おまけに濃霧だ。ここで叫んだら何故か大人達がいっせいに駆け出して、いっせいに心配されてしまう。転ぶ怪我よりもその晒し者のような空気の方が、想像だけでも耐えられなくて少女は口をつぐんだまま、その場で咄嗟に踏ん張った。転ばなかった。大丈夫。ヒヤリとはしたが体は無事だ。まだ若いので、そのからだに変な方向から力が加わって筋肉のバランスが崩れようがまだ若いので、気にならない。もう歌う気は失せてしまったがじゃあ口笛に挑戦しようとして、ぴゅうう、ぷゆうという変な音がとっても恥ずかしくなって思わずマフラーの下に口を隠した。
だが誰も女子学生を見ている者はいない。そういう時間帯だからである。毛糸の手編みのマフラーは祖母のお手製で、祖母からする匂いが糸に染み着いて少女はあまり好きではないが、それでも暖かさに負けて冬になると毎日首に巻いている。洗濯すれば柔軟剤のかおりがするようになって、お気に入りになった。母親にはこの寒いのに・・・手洗いしたのよ!と怒られたけれど。この世のお洋服はすべて、洗濯機になんでも入るんじゃなかったのか。そういえば制服はクリーニングだ。でも普段着なんか洗濯機にぽいぽい放り込めば、あっという間に洗ってくれると彼女は未だに思っている。陰で母親が手洗いをしているという発想はまだ育まれない年頃だ。少々の傲慢さが目立って、住んでる土地を小馬鹿にする、田舎で背伸びをする少女の典型的な姿だった。
あまりに寒いから、先ほどローソンで買ったあったか~いお茶のペットボトルと、一緒に買った小分けのお菓子を取り出す。ペットボトルの中身を一気に飲み干すと、熱いものが胃に流れ込んでかっかとした。そしてお菓子の袋を開ける。無印良品のラズベリーのホワイトチョコを掛けたもの。ごろっとした白に覆われた赤い実をひとつ摘むと、ぱくんと口に運んだ。甘酸っぱさとあまいミルクチョコレートが、ハーモニーを奏でる、なんて批評家めいたことを思ったりする。それをお茶で口を洗い流すので、取り合わせなどの考えはまだ女子学生にはない。
彼女が歩く廃線路は、彼女の家族がここに移住した時から廃線であった。移住者の娘なので、ひどく祖父母や周囲の老人から可愛がられ、また移住者も何組か既にいたので若い友達も出来て寂しくはない。ことさら、女子学生がお気に入りの少女がいた。彼女は移住者ではなくてこの村で生まれ育ったという。いつもおどおどとして、若者や老年者にまでからからかわれていた。だが彼女の顔立ちが美しいのは、何故か女子学生は知っている。いつも長い前髪を垂らして陰鬱の固まりのような少女、仮に光が髪を暑そうに夏場にかき上げたとき、ふと見えたその白く細いうなじに、顔立ちが日本人形のようだと女子学生だけが気付いた。いや他にも気付いた者がいたかもしれないが、まず光に近付いてイメチェンを迫ったのはこの女子学生が最初である。
彼女が髪を切った時、今度はからかわれる対象から好奇のねっとりとした視線の対象となってしまった。掃き溜めの鶴にはあまりに注目を集め、異端だとされてしまったようである。だから光は髪を元通り伸びるまで登校しなかったことがあった。
女子学生は残念に思った。再登校した光に謝ったけれど、その顔は不服のままだった。光は優しい子だったので、ごめんねと何度も女子学生に謝ってくれた。そしてある休日には、お詫びの品だと母親に連れられて来たのだ。その母親も長い前髪をしていた。二人は並ぶと、身長も年齢も違うのに、まるで生き写しのように見えた。だから母親もきっと美しいに違いない、と女子学生はそう思うとその晩は眠れなかった。この田舎を出て、二人で東京に行こう。もし可能ならあのお母さんも連れて、そしたら彼女たちは秘密のヴェールのような髪を捨てて美しい顔で太陽の下を歩けるんだ。そんな妄想に耽っていたら、空が白々と赤らんでいた。もう寝ないとやばいと女子学生は目をきつく瞑った。そしていつの間にか眠っていたらしい。気付くと何故か、頭は祖母の膝の上だった。
「起きたかい?」
祖母の問いに女子学生は頷く。今までは自室の布団の中だったはずなのに、どうして祖母の膝でこどもみたいに眠っているんだろう。疑問はわいたが、それを尋ねるよりも先に女子学生は飛び起きた。手紙を書いてみようと思ったのである。だから祖母が控えめに声を掛けても、その足音で掻き消えてまるで聞こえないでいた。彼女は彼女の夢を見つけた気がしたのだ。この田舎に不満はあれども、脱出するほどの不満はない。移住してきた両親のことを思うと、物心つく前なので覚えてはいないが都会に戻りたいと言えるはずもない。だから手紙を書いて、少しでもこの夢による興奮を静めるしかなかった。娘の足音に、母親は眉を顰める。
「あの子ったら。寝ぼけておばあちゃんの膝に寝てたのに、いきなり起きあがったりして。もうちょっと女らしくなってもらわないと・・・」
「いいじゃないか、元気が一番だよ」
都会の生活に疲れたらしい夫が、血色の悪い顔でほほえむ。
「そうは言ったって、ねえ」
母親は祖母に同意をも止めようとした。祖母は何時間も膝にこどもの頭を乗せていながら、嫌な顔一つせずに笑って頷く。
「ほら、おかあさんだってこう言うんだから。もう少ししたら落ち着くと思うけど、あの子はね・・・」
母親の愚痴は止まらなかったので、父親はちいさく困ったように笑った。夫婦としてはエネルギーに溢れているのは母親で、いつも夫は後からついて回るような存在だ。だが夫を立てない訳ではない。いい夫婦だと祖母は思っている。人間の道理は分からないけれど、本当は血の繋がった彼らの実両親は都会にいるはずなのだけれど、どうしてだから彼らは、目の前の祖母や庭仕事をしている祖父を実両親だと思い込んでいる。だが夫婦がそれに気付くことはない。
そして女子学生は手紙を書いて、その翌日に登校してきた光に渡した。光は少しだけ首を傾げ、ぱっと顔を明るくする。
「いいの?もらっても」
「もちろん!お返事ちょうだいね」
光ははにかんだ。
友人からの手紙とは、古今東西喜ばしいものだ。光は大事なものを仕舞うように鞄に入れて帰るのを見送って、女子学生は満足げだった。
そしてその翌日に、光からこう呼び出されたのである。早朝にはずれにある廃線路の先にあるトンネル前に来てくれないかと。そこは日中不気味であったが、女子学生は秘密の会合のようで少し興奮していたので了承した。朝は濃霧であり、女子学生は一人である。だが不思議と何も怖くなくて、彼女はずんずんとトンネルまでやってきた。トンネルの前に、光が立っている。女子学生は手をぶんぶんと振った。
「おまたせ!待った?」
「う、うん。ちょっとだけだよ」
「そーだ、これ。これあげる!おいしいよ、あ、でも一粒だけね!」
「ありがと・・・」
光は遠慮がちにホワイトチョコに包まれた実を取り出し。口に運んだ。
「おいしい」
「でしょ?あーこういうのよりも美味しいものが、都会にはいっぱいあるんだろーなー。あたし、行きたい。んで、それなら光も、光のお母さんも一緒に」
「ごめん」
光は謝ってきた。東京に行くという内容への拒絶である。女子学生は途端に虚をつかれ、固まったがすぐに光が泣き出したのではっとした。
「なんで泣くの? あたしだって、光がもっと可愛い顔をさ」
「ごめん、ごめんね」
「謝んないでって!いいって!ね?光は笑った方が可愛いんだから・・・」
「ごめん。この村から離れたいなんて考える人はね、矯正されちゃうんだ・・・」
「え?」
何を言っているか分からなかった。だが次の瞬間、女子学生の視界は引き倒されたように地面を這うと、曖昧になった。戦闘機のような物の爆撃が見えて、村の年寄りの男達が歯をむき出しにしているのが見えて、服が脱がされたのか自分の肌が見えて、泣き叫ぶ母親の顔が見えて、それで。それから光が目の前に立っていた。あの廃トンネルの前で、にっこり笑っている。女子学生の体は、家を出た時と何も変わっていない。髪を留めるゴムの位置も、ペットボトルのお茶が再度ポケットから飛び出している鞄も、ルーズソックスの位置も、何もかも。光がにっこりと笑って手紙を差し出す。
「これ、お返しのお手紙。いろいろ褒めてくれてありがとうね」
「あ、うん・・・」
「私はまだ髪を切らないけど・・・」
「そのままでいいよ」
女子学生の声は、本人の声音であったが言わされたように違和感があった。だが女子学生は続ける。
「光は、そのままでいい」
「それが、聞きたかったよ」
光は泣き出した。そのため、何もかもが本当の出来事である気がして、女子学生は呆然と立ち尽くすのだった。
原典:一行作家(凍えるほど寒い日に・木の実を・廃墟跡で・手紙とともに渡されました。)