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だってもう好きじゃないから

作者: エイ

書きかけのものがあるのに短編なんぞを書いててすみません……。

色々思うところがあり、ワーッと書いてしまいました。このお話はフィクションです。

 


 よし、別れよう。


 そう思ったのは唐突だった。



 今日、彼氏のコースケはサークルの飲み会だと言うから、私は仕事終わりに近くのカフェでなにか食べて帰ろうと思っていた。


 最近見つけたこのカフェは、コーヒーの種類が多く、毎日変わるオリジナルブレンドとワンプレート料理のセットがボリュームもたっぷりなのに安くて美味しいから、かなりの回数通い詰めている。

 コースケはコーヒーが嫌いなのでここに連れてきたことはない。そもそも彼と会うときは私の一人暮らしのアパートに向こうが来るだけで、一緒に出掛けることがほとんどなかった。コーヒー嫌いと聞いてからは、ウチに居る時は私もコーヒーを飲まないので、コースケは私が、超がつくほどのコーヒー好きだと知らないだろう。


 古い家屋を改装したという店の内装は、懐かしの純喫茶を思わせるレトロな作りで、落ち着いた雰囲気が気に入っている。


 私はいつも窓際の席に座り、とろりとしたガラス越しに見える通りを眺めるのが好きだった。


 外は金曜の夜だからか、飲み会帰りの人たちがそぞろ歩いていた。終電まではまだ早いから、人々の歩みは緩やかだった。


 ぼんやりとコーヒーを啜りながら外を眺めていると、大学生くらいの男女の集団が楽し気にじゃれあっているのが目に入った。


 この辺の大学生だと、コースケのいる大学かな、と思っていると、集団の中に本人がいるのが見えた。

 コースケは女の子の肩を抱いて楽しそうに笑っていた。彼が女の子と距離が近いのはいつものことで、私以外にも複数の女の子と関係をもっているのは知っている。というより、最初からそういう人だと分かって、それでもいいと了承したのは私だ。だから彼が私の知らないところで何をしていようとも、特にそれについて言ったりしたことはなかった。

 こうやって彼が誰かと一緒にいるのを見るのも初めてじゃないし、私の前で女の子を口説いていたことすらある。

 だからコースケが女の子と歩いていても、それほど珍しいことじゃない。


 そう思って、その大学生グループを眺めていたが、だいぶ酔っぱらっている様子のコースケが、女の子の肩を抱いた手でその子の胸を揉んでいるのが見えた。彼女のほうは嫌がるそぶりも見せず彼に顔を寄せて何かを囁いている。


 ……いや、肩抱いたついでにおっぱい揉むとか、おっさんかよ……。セクキャバかよ気持ち悪いな……。少なくとも繁華街歩きながらすることじゃないでしょうよ……。


 心の中でツッコミを入れていると、すれ違うサラリーマンみたいな人もそう思っていたようで、苦々しく顔を顰めながら横目で二人を見て足早に過ぎ去っていった。


 まあ、仕事帰りのサラリーマンから見ると、酔っぱらって女子とイチャイチャしながら歩いている学生なんて殺意の対象でしかないだろう。私も仕事でへとへとの時に、酔っ払いの集団に絡まれた時は死ねって思ったし。大学生と社会人じゃ、年齢が一緒でも全然違う世界にいるんだよなあと、私は完全に他人事のように彼らを見ていた。



 周囲の通行人から白い目で見られている二人は、そんなことに気づきもせず、顔を見合わせて何かを囁きあいながら笑っていた。


 ああ、このまま二人で抜けちゃおっかとか、そういう相談かな。

 何気なさを装って胸揉んでるけど、周囲は目をそらしているからバレバレだろうね。

 他の友達らも若干スペースを空けているから、あの二人の仲は周知の事実なのかなー。




 コースケたちの集団が窓から見えないところまで過ぎ去っていったあと、私は冷めたコーヒーを一口で飲み干した。


 そして次の瞬間、「よし、別れよう」と声に出していた。







 ***



 そういえばちょうど住んでいるアパートの更新時期だった。


 入社時は単身者向けの社宅が全部埋まっていて入れなかったけれど、今年移動が多くあったから、今なら空きがあるかもしれない。社宅は入居の規則もあって不自由なところもあるけれど、家賃補助をもらうよりやっぱり金銭的には助かる。


 昨日、コースケと別れると決めた後から、私はこれからのことを仕事のフローチャートのように組み立てて粛々と行動を進めて行った。


 会社に社宅の申請をしたところ、ちょうど空きがあるのですぐに引っ越せるとのことだった。こっちのアパートの契約はまだ残っているが、この際だからさっさと引っ越してしまうことにした。


 この家が無くなれば多分コースケとは縁が切れるだろう。


 もともと彼の大学に近くて便利だから、宿代わりに使いたくて私と付き合ったようなものだった。ここが無くなれば私と付き合うメリットも無くなる。彼との関係も終了だ。




 ***



 コースケとは小さい頃から知り合いだけど、幼馴染というほど付き合いはなかった。小学校から一緒だったが、仲良く遊ぶような間柄じゃなかったし、お互いクラスメイトのひとりといった感じだった。


 高校も一緒のところに進学したけれど、地元の中堅な偏差値高校なので同じ中学の子もたくさん居て、おな中だからって特別絡むこともなかった。そもそもあちらは根っからの陽キャで、私は友達も少ない陰キャタイプだから、付き合う人種が違った。



 そして高校三年生の時、私は進学せず就職する道を選んだ。

 内定が決まった会社は、勤め先は実家からでも通える距離ではあったのだが、家を出たかったので就職を機に一人暮らしを始めた。


 ウチは再婚家庭で、母の連れ子だった私は、別に邪険にされていたわけではないが、二人の間に子どもが生まれてから養父が私の扱いに気を遣っていて、思春期の娘としてはどうにも居心地が悪かった。

 養父に大学費用を出してもらうのも申し訳ないし、進路を決める時、私は就職して自立すべきなんだろうなと自覚していた。

 両親は私が就職して家を出ると言った時に、ホッとしたような顔をしていたから、多分私のその決断は正しかったんだと思う。

 引っ越し先は、社員寮が空いていたらそこに入るつもりだと私が言うと、じゃあ落ち着いたら住所教えてねと言われて家を出たきり、お互い連絡を取っていない。

 だからもう実家に戻ることはないんだろうなと思い、地元の友達ともなんとなく疎遠になってしまっていた。


 コースケは進学コースを選択し、第一志望の大学に受かっていた。

 レベルも高いが学費も高いで有名な私大だったから、クラスのみんなにはいろんな意味で羨望のまなざしを向けられながら、合格おめでとうと祝福の言葉を送られていた。

 普段あまり話すことのない私も、この時は『おめでとう』と言って、二、三言軽く会話を交わした。住む世界が違うなあと思い、小学生の頃から知り合いだけど、もう会うこともないんだろうなと、少しだけ感傷的な気持ちになったのを覚えている。


 元々薄かったコースケとの縁が、ここで切れたとこの時は思っていた。



 でもたまたま彼の大学と私の仕事場が近くにあって、安さ重視で借りたアパートが学生向けの賃貸だったから、大学に近かった。


 その最寄り駅で私とコースケはばったり会ったのだ。


 就職して仕事にも慣れた頃、私はその日定時で上がれたので、夕方の早い時間にスーパーで買い物をしてから家に帰ることにした。


 買い物袋をぶら下げながら家までの道をのんびり歩いていたら、後ろから『あれ?ミコトじゃね?』と名前を呼ばれた。


 驚いて振り向くと、そこには高校時代より髪色が明るくなったコースケが居た。


「おお!やっぱミコトだったわ!お前こんなとこでなにしてんだよー」

「……コースケ?」

「卒業以来じゃーん。お前就職したんだっけ?会社この辺なん?すげー偶然だな」

「そうだね、ビックリしたよ。ああ、うん。ていうか会社はここから二駅向こうなんだけど、家がこのへん」

「マジ?俺大学この駅~!なんだよーこんな近ぇならもっと早く言えよ~だったらちょくちょく会えんじゃん!あ、お前とラインつながってたっけ?」

「んーどうだろ。ないと思うよ。じゃあ交換しとく?」


 小学生の頃は普通に名前で呼び合って気軽に話したりしたけれど、高校では数えるほどしか会話しなかったような関係だったのに、こうして卒業後にばったり会うと、懐かしさも手伝って昔からの友達みたいに会話が弾んだ。


 私が買い物袋を片手に持っているのに気付いたコースケが、『夕飯の買い物?なんかつくんの?』と聞いてきたので、唐揚げだというと『まじかよ食いたい!食わせて!』と頼み込んできた。私は昔馴染みと再会したうれしさもあって、私はいいよと了承した。


 男を一人暮らしの家に呼ぶとか警戒心なさすぎとのちに言われたことがあったが、この時の私は小学校から知っている相手を警戒するという考えがなかった。兄弟とか従弟にご飯を食べさせるみたいな感覚だった。


 唐揚げは多めに作って冷凍しておこうと思っていたから、鶏肉一キロ分もあったのに、揚げてくそばからコースケがうまいうまいと言って食べていくので、大量に作ったのにも関わらず最後ほとんど残らなかった。

 一人暮らしをしてから、誰かとご飯を食べる機会もほとんどなかったから、自分の作った料理をほめちぎりながら食べてもらえることがなんだか妙に嬉しくて、『こんなんで良ければまたいつでもたべさせてあげるよ』と言ってしまった。


 社交辞令みたいな台詞だったのに、この日以降コースケは本当にしょっちゅう連絡してきて、ウチにご飯を食べに来るようになった。

 材料を買って『これ作って』と言ってくる日もあれば、飲み屋の飯が旨くなかったからなんか食わせてくれといきなりやってくる日もあった。

 無理だと断る日もあったが、それでも懲りずにやってくるので、なんとなく私もいつ来てもいいように食材をストックするようになってしまった。



 最初のうちは夕飯を食べてそのあとはちょっとダラダラしても、ちゃんと終電前に帰っていたのだが、ある時、帰るのが面倒だから泊めてくれと言い出した。


 コースケの実家、つまりは私の地元でもあるが、ここからだと電車で一時間くらいなので、帰れなくないが、駅から家まで歩くことも考えると確かに深夜過ぎになる。明日講義が早い時間に入っているし、泊めてくれると助かると言われ、私は深く考えずにじゃあいいよと軽く了承してしまった。


 でも男性を一人暮らしの家に泊めるのって、そういう意味なんじゃないか?と後から気付いて焦ったが、当の本人はいつも通りの雰囲気で、シャワーを浴びた後も一緒に面白い動画を見たりして笑っていたから、本当に友達の家にお泊り感覚なのかなと思っていた。


 けどやっぱりそんなことはなく、そろそろ寝ようと言った私にコースケはごく当たり前みたいにキスをしてきた。



「やめてよ。わたしら付き合ってもないじゃん」

「ん?でも泊まっていいっていうからには、オッケーってことじゃね?」

「コースケはどうだか知らないけど、私は付き合っている人以外とはナシだと思ってる」

「じゃ付き合う?俺はいいよ。ミコト可愛いし」

「……本気?」

「うん。あ、でも俺束縛とかされんの無理なんだけど、それでよければ」

「……」


 私の返事を聞かず、コースケはまた唇を重ねてきた。今度は私も抵抗しなかったので、コースケはそれを答えと思ったようで、そのまま口づけは深くなっていった。



 私はこの時が初めてで、あまり性について知識もなかったから、コースケにされるがままになっていた。正直気持ちがいいとか痛いとか考える余裕もなくて、世の中の男女はこんな恥ずかしいことをみんな普通にしているのかと衝撃を受けたことしか覚えていない。



 こんな風に私たちはいい加減な始まりで付き合い始めたのだった。




 あの日から、コースケは定期的にウチに来るようになったし、来るたびにセックスもした。

 でも、付き合って二年になるが一緒にどこかへ出かけたのは買い物くらいで、映画すら一緒に行ったことはなかった。思い返すと、コースケから『好きだ』と言われたこともなかった。

 そして最初に宣言したとおり、コースケは束縛されたくないとばかりに自由気ままに過ごしていて、私の前でも普通に女の子を口説くような電話をしていたし、実際複数の女の子と付き合いがあった。それについて私は咎めるどころか何かを聞いたりもしなかった。


 一度、コースケが『お前、何にもきかねーよな』と言ったことがあったが、私は『そういう約束だったでしょ?』と返したら、なぜか向こうが不思議そうな顔をしていた。



 コースケはモテるのに、なぜ私との付き合いをやめないのかと不思議に思ったこともあったが、今思い返してみると、これまで私たちの付き合いといえば、ただご飯を食べてセックスをしただけだ。そうか、彼にとって私は単に食事つきの無料の宿だったのだろう。付き合っていると思っていたのは私だけだったのかもしれない。


 家で過ごしている間、なにかしら会話をしていたはずなのだが、不思議なほど思い出せなかった。多分、誰が聞いてもとても付き合っているとは言えない関係だったと思う。


 そんなことをぼんやりと考えながら、私は引っ越し準備を進めた。


 自分の荷物を運び出し、引っ越しを終えた後、私は彼に電話をした。


 数コールのうちに電話に出てくれたが、ざわざわした音が聞こえてきたので、友人たちと一緒にいるようだった。


『あー、ミコト?何?今ちょっとさあ……』

「忙しい?じゃあ詳しいことはラインに入れとくから、簡単に用件だけ伝えるね。私、引っ越すことにしたの。アパートにコースケの荷物段ボールに詰めてあるから、今月中に取りに来てね。鍵はポストに入れておいてくれればいいから。じゃあ、元気でね」

『……はあ?!引っ越し?なんでだよ?急すぎね?』

「いや、コースケと別れようと思って。あ、私たち一応付き合っていたんだよね?勘違いだったらごめん。一応けじめはつけないといけないと思って。とにかく私はもうコースケとは会わないから、今日でお別れね。荷物よろしく」

『は?何言って……ちょ、待てって』


 コースケは何かを言いかけていたが、『ね~誰ぇ~?』と言う女の子の声が割り込んできたので、私は電話を切った。


 荷物といってもコースケが置いていった服とゲームくらいだから、もしかしたら要らないというかもしれない。もし月末まで取りに来なかったら捨ててしまおう。


 便利な宿が無くなってコースケは怒るかな。いきなりだからちょっと文句は言われそうだけど、最悪着拒にすればいい。彼と私のつながりは、この家とスマホしかないのだから。





 案の定、翌日にコースケから電話がかかってきて、電話に出るなり怒鳴られた。


『おい、今家来たんだけどマジでいねえじゃん。どういうことだよコレ。何勝手なことしてんだよ』

「だから引っ越すって言ったじゃない。荷物はちゃんとまとめてあるし、持って行ってね」

『はあ?!ふっざけんなよ。どこ引っ越したんだよ。今日飲み会だから夜泊まるつもりだったんだぞ。新しい住所教えろ』

「いや、もう別れたから泊めないよ。別にウチじゃなくても泊まるトコいっぱいあるでしょ」

『おい……冗談だろ。突然なんなんだよ。なんか怒ってんの?駆け引きのつもりかよ。そういうめんどくさいこと俺嫌いだって知ってるよね?』

「知ってるよ。だから別に言った通りだし、もう私と関わらなくていいから、面倒くさいことなんてないよ。電話もこれで終わりにしよ。じゃね、バイバイ」


 電話を終わらせて、そのまま彼の番号を着拒にした。ついでにラインもブロックしておいた。コースケは勝手だと怒っていたが、これまで便利な宿泊先と食事を無償で提供し続けてきたのだから、責められる謂れはない。対価を受け取っていないのだから、これ以上文句を聞き続けあちらが納得するまで付き合う必要はないだろう。



 ***


 引っ越しをして連絡手段を断つと、コースケとの繋がりは完全に途切れた。

 共通の友人もいないし、コースケは私の個人的なことに興味がなかったから、多分勤めている会社どころか、どんな仕事をしているのかも知らないだろう。

 写真嫌いだとコースケが言うので、スマホにも一枚も写真は残っていない。

 結局期日までに荷物を持って行ってくれなかったので、捨ててしまおうかと思ったのだが、あとからいちゃもんをつけられても嫌なので昔のアドレス帳を引っ張り出してコースケの実家に送っておいた。



 こうして過ぎ去ってしまうと、一緒に過ごした日々が現実味のない幻みたいで、自然と思い出すことも無くなっていった。



 引っ越してから私は以前と変わらず家と会社の往復の日々が続いていた。


 コーヒーの美味しいカフェに行けなくなってしまったことが残念だが、また新しい店を探す楽しみができたと思えばいい。

 私は休みの日は最寄り駅周辺を散策したり、新しい部屋のインテリアをちょっとずつそろえたりして過ごしていた。食事も時間も全て自分のために費やす日々を過ごしていると、ああ、私、疲れていたんだな、と気づけた。


 好きな人のためにお金も労力も時間も費やすのは当然だと思っていたし、それを負担と思ったことはなかったのに、こうしてあの生活から解放されてみると、心も体もとても楽になったと実感した。


 一人の時間を過ごしてみて、私は『別れてよかった』と心から思った。






 そんな風に穏やかな日々を過ごしていたのだけれど、私が全く予想していなかったことが起きた。




 その日、仕事を終えて会社を出たところで、突然誰かに腕をつかまれた。グイッと遠慮のない力で引っ張られたので、驚いて腕を引いて振り返ると、そこにいたのはコースケだった。


「……えっ?コースケ?え、びっくりした、なんでここにいるの」

「なんでじゃねえよ。お前ホントなんなんだよ。いきなり引っ越すとか言って電話もラインも着拒しやがって。まじでふざけんなよ。すげえ探したんだからな。お前の勤め先の名前、ようやく思い出したから、わざわざ出向いてやったんだぞ。すっげえ待ったんだからな」

「そうなの?すごいね、ウチの会社知ってたんだ。ていうかなんでわざわざ?あ、なにか返し忘れたものとかあった?ごめんね、全部詰めたはずなんだけど」

「なにとぼけてんだよ。つか、別れるとかなんなの?俺了承してないんだけど。なんか不満あったなら、こんな嫌がらせみたいな真似しないで直接言えばよかっただろ。……めんどくせーけど、話聞いてやるから。ホラ、帰ろうぜ。お前の新しい家どこよ?こっからちけーの?」

「え?いや、無理だよ。私もうコースケを家に上げるつもりないし。泊まるトコは別に見つけてよ。不満とかそういうんじゃなくて、もう私がコースケと一緒に居たくないと思っただけだから、もう話すことはないよ。あ、ちょっとスーパー行きたいから帰るね。じゃ、バイバイ」

「えっ?はあ?!ちょ、待てって!」


 言い捨ててさっさと小走りで走り出す。後ろから引き留める声が聞こえたが、人ごみに紛れてしまうと追ってくることはなかった。


 まさかコースケがわざわざ会社の前で待っているとは思わなかった。そもそも私の勤め先の名前を覚えていたこと自体が驚きだった。

 こんな労力をかけるよりも、大学の友人とかで新しい宿泊先を探せばいいのにと思ったが、食事つきセックス付きというと案外探すのが難しいのかもしれない。

 少々遠くなろうとも、家はまだ確保しておきたい場所だったのかな。

 粘られたら面倒だなと思ったけれど、でも今度こそはっきりと断ったのだからさすがにもう来ないだろう。




 ……と、高をくくっていたのだが、翌日もまた仕事終わりにコースケが待ち構えていた。今日はちょっと残業になったので、余計に待たされたからか、最初からコースケの機嫌は最悪だった。


「おせえ」

「なんで待ってるの。帰りなよ」

「お前のせいだろーが。話もしねーで逃げるしよ。手間かけさせやがって……っと、いや、ケンカしにきたんじゃねーんだ。……あれだろ?浮気したから怒ってんだろ?悪かったって。お前が嫌だってんならもうしないって。

 もうさあ……気が済んだろ?この俺が、ここまでして迎えに来てやったんだから、いい加減意地張るのやめろよ」

「ううん?怒ってないよ?ただ私がコースケと別れたかっただけだよ。意地とかじゃないって」

「あぁ?!お前……ふざけんなよ。別れるとかお前に決定権あると思ってんの?何様だよ。くそつまんねー地味子のくせに生意気言ってんじゃねーぞ。お前は素直に俺の言うこと聞いてりゃいいんだよ!」

「だからもう付き合ってくれなくていいって言ってるんだよ。ていうか、お互いの同意の元付き合っていたんだから、決定権ていうなら平等に私にもあるよ。コースケだってこんな地味子と付き合い続けるメリット無いでしょ?だったらいいじゃない」

「……おま、マジで俺と別れる気?」

「だからそう言ってるんだけど……」


 そう言った私の顔をコースケは信じられないものを見るような目で見ていた。

 黙ってしまったコースケを置いて、私はその場を離れた。





 今日は残業だったから夕飯もまだ食べていないしお腹が空いている。食べて帰るかとも思ったけれど、なんだか疲れたので、家にあるもので適当に済ませることにした。


 家について、鍵を開けてなかに入った瞬間、後ろから衝撃を受けて私は玄関の床に転んでしまった。


「痛った!」

「あ、わりぃ」


 頭上から声が聞こえてきて驚いて振り返ると、コースケが私を見下ろしていた。ドアの内側に入る時にすぐ後ろについて入ってきたのだ。


「えっ?!なに?!なんでいるの?もしかしてつけてきたの?怖いんだけど」


 こういう侵入方法の犯罪手口を何かでみたことある。自分の迂闊さを呪いながら、どういうつもりなのかと問いただしたが、コースケは私の問いかけに何も答えず、無言のままのしかかってきた。


 上着をまくられた時点で、そういうつもりなのかと気づいて、思わず声を荒らげた。


「ちょっと!ふざけないで!触らないでよ!」

「うるせーよ黙れ。お前、俺にベタ惚れだったくせに、俺から離れられると本気で思ってんの?いつまでもお前の駆け引きに付き合ってらんねーんだよ。マジでイラつくから」

「わけわかんない。ていうかお前お前言うのやめてよ」


 本気で抵抗したが、腕一本で簡単に抑え込まれてしまった。力で男にかなうわけがない。


 私はあきらめて抵抗をやめた。それを同意と受け取ったのか、コースケは少し力を緩めて上着を脱がせにかかった。


「……私たちはもう別れてるんだから、これ以上したら強姦だからね。元恋人だから訴えても無駄かもしれないけど、私は絶対に許さないから。同意のない行為は暴力だから、ずっとずっと、ず~~~っと、恨み続けるからね」


 言ったところで無駄かもしれないが、同意しないということだけは言ってやりたかった。コースケは私の言葉なんて聞きやしないと思ったが、意外なことに動きを止めた。


「マジで言ってる……?じゃあ……俺のことあんなに好き好き言ってたのは嘘だったのかよ」

「え?そこから?私がなんで別れるって言ったと思ってんの?もう好きじゃないからだよ。むしろなんだと思ってたのよ」


 びっくりして答えると、コースケは顔を強張らせて私の上から退いた。


 そしてしばらくお互い黙ったまま見つめあっていた。


「こういうやり方、心底軽蔑する」


 私が睨みながらそう吐き捨てたら、コースケはとまどったように立ち上がって、やがてドアを開けて出て行った。


「……なんだったの本当にもう……」



 私は便利な宿だったかもしれないが、はっきり言ってコースケなら別に私でなくとももっと条件のいい女の子が見つかるだろうから、怒りはしてもここまで粘られるとは思っていなかった。


 まさかコースケは私のことを好きだったのか?と思ったが、過去のことを思い返してみるとやっぱりそんなことはないと言い切れる。コースケは、私のことは嫌いではなかっただろうけど、決して好きではなかった。

 私はいつもコースケに『好きだよ』と事あるごとに言っていたが、いつもその返事は『知ってる』とか『はいはい』と受け流されるだけで一度も言葉を返してくれたことはなかった。




 コースケに『付き合う?』と言われた時は、正直嬉しかった。

 一緒にご飯を食べるようになってから、私がコースケを好きになるのに時間はかからなかった。

 最初はただ、美味しそうにご飯を食べる表情が好きだなと思った。ちゃんとごちそうさまを言ってくれるのも嬉しかったし、気を遣わず同じ話題で笑いあえたのがすごく楽しくて、ああ、もっと一緒に居たいと思った瞬間、胸がキュウっとなったのを覚えている。


 単純だった。自分でもチョロいなと呆れる。でもそれまで誰かを好きになったこともなかった私は、ああ、人を好きになるってこんな気持ちなんだと知って、それだけで浮かれていた。


 でも向こうはモテる人だったし、女性慣れしているから女の子の家に来るのも特別なことじゃないのかなと思っていたから、想いを告げる気はなかったし、友達のままでもよかった。


 付き合う?とコースケが言い出したけれど、別に私が好きだから言っているわけではないとは分かっていた。彼にとって都合のいい相手だっただけだ。


 彼と付き合う条件は『束縛しない』こと。もし私が、他の女の子と二人で会わないでとか言い出したら、すぐに切られていたと思う。

 実際、電話でコースケが女の子と揉めていて、『そーいうめんどくせえこと言うならもう会わない。二度と連絡してくんな』と言っているのを聞いたことがある。


 コースケと付き合い続けるなら、独占することも気持ちを返してもらうことも諦めたほうがいい。それが無理なら別れる。私たちの関係はそういう不文律の上で成り立っていた。


 私はコースケが好きだったから、それでもいいと納得して付き合っていた。最初からの約束だから、違えたことはない。


 でもそれは私が好きだから成り立つ関係だ。

 あの時コースケが酔っ払いのおっさんのように女の子の胸を揉んでいる姿を見たら、自分でも驚くくらいスッと気持ちが冷めた。


 ……いや、違う。たくさんあった『好き』という気持ちはこの二年でどんどん減っていっていたのだ。私の部屋で私の作ったご飯を食べながら、スマホで女の子を口説いているのを見せられた時や、街中で女の子と手をつないで歩いているのを見かけたこととか、話しかけても一度も目が合わなかったときの虚しさとか、ひとつひとつは小さな出来事だけど、そのたびに私の中の『好き』という気持ちはすり減っていった。


 多分あの瞬間に、最後のひとつだけ残っていた『好き』が消え果てたのだ。

 気持ちがゼロになった瞬間、自分でも驚くほど何も感じなくなって、コースケがただ面倒なだけの存在に成り下がってしまった。



 好きという気持ちが無くなってしまった今、コースケと付き合い続ける意味が無い。


 好きじゃなくなった。だから別れた。それだけのことなのに、どうしてコースケはそんな簡単なことが分からなかったのかと不思議でならない。



 ***



 家バレしたので、ひょっとしてまた来たりするんだろうかと思ったが、本当に次の日にまたコースケは現れた。今度はアパートのドアの前で座って待っていた。


 まだ真冬という気温でないが、外で待つには辛い寒さだ。本当に何故ここまでするのか分からない。私の知っているコースケは、こんなことをする人じゃなかった。人が変わったような行動をするコースケに、私はちょっと気味が悪くなってきた。


 高校生の時も彼は連れて歩く女の子がしょっちゅう変わっていて、まさに『来るもの拒まず去る者追わず』の人だった。多分付き合った誰もが、彼の特別になりたいと躍起になっただろうが、コースケの浮気性や気まぐれが変わることはなかった。

 これまでずっと人にも物にも執着をしないタイプだったのに、どうしてしまったんだろう。



 私が帰ってきたのに気付いたコースケは、立ち上がってかすれた声で話し始めた。


「あのさ、昨日は……悪かった。そんでさ……やっぱちゃんと話がしたいんだ。ミコトの気持ちもちゃんと聞くからさ、時間くれよ」


 こんな殊勝な態度のコースケも初めて見る。他の人が見たら、コースケは私になにか弱みでも握られているのかと思うだろう。


「えーっと……別に私からコースケに話したいことは何もないんだけど……別れたんだし」

「だからさあ!別れるとか言い出す前に、不満があんなら話し合えばいいだろ?!言ってくれりゃ俺だって悪いとこ直すくらいするしさあ!浮気が許せねえってんならもうしないって誓うよ。スマホも見ていいし、女の連絡先全部消してほしいって言うならそうするからさ。ミコトがなんも言わねーから、お前はそういうの気にしないタイプなんだと思ってたんだよ……。他の女と会うなって言うならもう二人であったりしねーからさ。な、もういい加減仲直りしよーぜ」


 ここまで来て、ようやくコースケの誤解に気が付いた。

 私が別れると言ったのが、浮気が原因だと思っているんだ。

 別れると言い出したのも、突然引っ越したのも、浮気をした自分への当てつけかと思っているのだ。あれだけ『別れる』とちゃんと告げたのに、コースケはいまだにそれを私が駆け引きしていると判断していたのか。


 根本的な部分が間違っているから、こんなことになったのかとやっと理解した。


「いや……いやいや、違うんだって。ごめんね、ちゃんと言ったつもりだったんだけど、伝わってなかったのかな。だって最初から『束縛しない』約束で付き合ったんだから、浮気を咎めるつもりはないよ。

 だから、別れるって言ったのは、浮気をやめさせるためでも、コースケの気を引くためでもないんだ。ただコースケのことが好きじゃなくなっただけなんだよ。愛情が尽きたから、付き合う理由も意味もなくなったの。だからもう許す許さないとかそういう話じゃないんだって。なんか誤解があったみたいで、私も悪かったね」


 できるだけ分かりやすく丁寧に言ったつもりだったが、私の言葉を聞いたコースケは真っ白な顔色になって、お化けでも見たような顔をしていた。


「いっ……意味わかんねーよ!だから俺が悪かったって言ってんじゃん!謝っただろ?!もうしねーって言ってんのに、お前は少しも譲歩しねえの?!心狭すぎじゃねえ?!……好きじゃなくなったっつったってさあ、そんないきなり手のひら返したみたいに気持ちってゼロになるもんじゃねえだろ?なあ、頼むよ。やり直そうぜ。俺、お前が望むなら生活改めるからさ……お前もちゃんと言ってくれよ。俺にどうして欲しいかとか……」


「ちょっと……玄関前で大声出さないでよ。だからもう謝罪もそっちの譲歩もいらないんだって。何度も言うけど、私はもうコースケが好きじゃないの。好きじゃないから付き合う理由がないの。なんでわかってくれないかなあ……」

「り、理由がないって……じゃあどうすりゃいんだよ。何が気に食わなかったんだよ。二度と浮気しないし、これからはちゃんとお前だけ大事にするよ。約束する……。

 口約束が信じられないってんなら、スマホの連絡先全消去して、GPSアプリ入れるよ。飲みにもいかない。なんなら財布の金もお前が管理していい。な?」


「ええ……?いや、コースケそんな窮屈な生活絶対耐えられないでしょ。一人に縛られるとか無理って人じゃん。すぐにやっぱ無理って言い出すの目に見えているよ。できない約束はただの嘘。そういうのよくない」


「約束するって!嘘じゃねえよ!もうお前以外の女に手を出さないって誓う!じゃ、じゃあお前の名前、俺のちんこに書いていいよ!な?そんでお前専用にする。名前書いてあったらもう浮気できねーだろ?それなら俺の言葉が嘘じゃないって信じられるだろ?」


「ちょ、なに言ってんの、鉛筆じゃないんだからさ……お名前入れサービスみたいに言わないでよ。え?ここ笑うとこ?ホントに何言ってんの」


 なんでコースケがここまで食い下がってくるのか分からない。

 言っていることもちょっとおかしいので、もうこの一連の流れ全部がどっきりか何かなのかと疑ってしまう。


「なに笑ってんだよ!マジで言ってんのにさあ!なんで信じてくんないんだよ!俺本気で言ってんのに!もうどうすりゃいいんだよ!これ以上何を言ったらわかってくれんだよ!どうすりゃ……どうすりゃ……うっ……うえっ……」


 興奮して大声で怒鳴っていたコースケだったが、いきなり吐き気を催したようでしゃがみ込んで少し吐いた。慌てて背中をさすると、体が異様に熱い。おでこに手を当てると、すごい熱だった。


「ちょっと、コースケ熱あるじゃん!いつから?!具合悪いなら早く帰ったほうが……」


 そうは言ったが、見るともう立ち上がるのもしんどそうだった。帰ってほしかったが、追い返して途中で行き倒れても困る。誰かに迎えに来てもらうにしても、ここで待たせるのもな……と、逡巡したが、仕方がないので家に上げてうちのベッドにひとまず寝かせた。



 口を濯がせ、常備薬の熱さましを飲ませてしばらく経つと、少し落ち着いたようだった。

 誰か迎えに来てくれそうな人に連絡してよと言ってみたが、首を振るばかりで枕に顔をうずめたまま返事をしてくれない。


 まいったな……家にあげるべきじゃなかったかもと思ったが、今更どうしようもない。

 しばらくそうして沈黙が続いたが、ふとコースケが口を開いた。


「俺んちの母親のこと、お前知ってる?」


 唐突に言われてちょっと面食らったが、とりあえず質問に答えた。


「……小学校の頃、なんかちょっと騒ぎになったよね。お母さん、弟だけ連れて出ていっちゃったとか?だったっけ?あんまりよく知らないけど」


「そう、俺はいらねーって、弟だけ連れてった。母親が出て行く時さ、俺も連れて行ってと縋り付いたけど、お前はいらないって……突き放された。

 親父は、離婚で一時期荒れてさ、俺の世話とかまで気が回らなくって、先生たちが気付いて動いてくれなきゃマジでやばかった。

 俺さあ……捨てられるまで、母親が俺のことを嫌ってるとか少しも考えたことなかったんだよね。だからなんで弟だけで俺を連れて行かないのか理解できなかったんだよ」


 私も子どもだったから当時のことはあまり覚えていないけれど、コースケの母親が蒸発しただのなんだのと親たちが大騒ぎしているのを聞いた記憶がある。

 その後しばらくコースケは学校を休んだりして、ネグレクトだの虐待だのと先生方も巻き込んでしばらく騒動になっていた。

 その後は、コースケの家に父方の祖父母が同居するようになり、コースケも普通に学校に来るようになった。当時は同じクラスだったけど、久しぶりに学校に来たコースケは以前と変わらない明るさで、友達に囲まれて普通に笑っていた。だからコースケの家庭に何かあったとは聞いていたが、すぐにそんなこと忘れてしまった。それぐらいコースケは普通だった。


 だから過去にそんな話があったことなどすっかり忘れていたので、今突然そんな話をされてもどう返事したらいいか分からない。この話の着地点が見えないので、私は曖昧に相槌を打って話の続きを待った。


「親とかって、子どもを愛してんのが当たり前だと思ってたわけ。でも母親は、ちっさくて素直な弟は好きだけど、生意気で親父にそっくりな俺は嫌いだったんだって。親父もさ、母親が居なくなってから荒れまくってさ、出て行った母親を探すことに夢中で、俺のことはほっときっぱなし。俺が何日も飯食べなくて姿を見なくても気づかないくらいに興味がなくてさ。母親が出て行く前までは、普通に大切にされて愛されていたと思っていたのに、あれは全部嘘だったのかって、すげえショックを受けたんだ。無償の愛なんて無いんだなって思い知らされた。

 だから……お前と付き合ってからも、いくら好きだって言われても、いつかそれも嘘になるのかなって思うと、真面目に向き合うのが怖かった」


「……それを今、私に聞かせてどうするの?」


 コースケは今まで自分の過去を話したことはなかった。束縛されたくないというのも、自分に踏み込んでほしくないと言われているような気がして、私もあえて訊いたりしなかった。

 線引きされているのは分かっていたし、いつか彼の内側に入れてもらえないかと思ったこともあったが、それも付き合っている時の話だ。別れた後にそれを聞かされてもどうしようもない。


「っ……だから!信じるのが怖かったんだよ!いくら好きだって言われたって、それもまたいつか嘘になるんだろって素直に受け入れられなかった。でもお前は、俺がどれだけ酷い扱いしても変わらず好きだって言ってくれたし、ミコトだけはなにもずっと変わらなかった。ミコトだけなんだ。ほかの奴らは、最初見た目のいい俺を連れまわして喜ぶけど、そのうち要求ばかりが増えてそれに応えないと怒りだすんだ。俺が好きだと言ったその口で罵るようになる。

 そんな奴らばっかだったから、ミコトもことも最初は信じていなかったんだ。でもミコトだけは違った。お前はずっと愛情を与えてくれるだけで、俺に何も求めなかった。俺にどうしろとか、どうなれとか、一度も言わなかった。お前は信じられる人間だってとっくの昔に分かってたのに、大事にしてこなかった。さんざん傷つけて、今更なんだよってお前が怒るのは当然なんだけど……俺、お前と別れたくない。ミコトが好きなんだ。今度こそお前を大切にするから、もう一回やり直してほしい」


 コースケが私を『好きだ』と言ったことに、ただ驚くしかなかった。つきあっている時は一度も言われなかったからだ。


 これまでの待ち伏せなどのコースケらしくない行動も、本当に私と別れたくないからだったのかと分かって、ようやく納得がいった。


 言葉の途切れたコースケが、窺うように私を見つめてくる。


 私は何か言わなきゃと言葉を探すが……コースケは執着の無い人なんだと思っていたけど違ったんだなあ……と意外に思うだけで、他に何の感情も湧いてこなかった。


 もし、まだ彼のことが好きだった時に言われたのなら、彼のこの告白は意味があったのかもしれない。かつては彼の内面に触れたいと思っていたし、その時に言われていたら私にできることは何でもしたし、彼の望むことを全て叶えようとしていただろう。


 だが今の私には何もしてやれない。



「もう無理だよ。コースケが変わっても、もう私の中で『好き』って気持ちが尽きちゃったから、今からいくら愛情をくれたとしても、気持ちが戻ることはないの。無償の愛は無限じゃないんだよ。種の無い畑にいくら水や肥料をまいても何も咲かないように、尽きてしまった気持ちが戻ることはないの」




 彼はきっと、親が子に注ぐような『無償の愛』というものを求めていたんだろう。取引でもない、駆け引きでもない、純粋な愛情が欲しかったのだ。図らずも、それに近いものを私は彼に渡していたのだと思う。


 確かに私は、コースケになにか見返りを求めたことはない。

 客観的にみても、私はいわゆる『都合のいい女』というやつだった。いいように利用されて、はたから見たら馬鹿な女だと笑われるだろうなと思っていた。

 それでもいいと思って付き合ってきたのは、ただ、コースケのことが好きだったからだ。



 コースケは、付き合った女の子たちが見返りを求めるのを許せないようだったが、一方的に求めるばかりで何も与えなければ、気持ちが尽きてしまうのは当たり前だ。


 花だって、水も肥料も与えなければいずれ枯れる。気持ちだって同じだ。育てなければいつか果ててしまう。


 愛情は無限にあるわけじゃないということに彼は気付かなかったのだろうか。



「だからってなんでそんなに態度が180度変わるんだよ!わっかんねえよ!このあいだまで好きだった相手をそんな一気に嫌いになれるのか?!そんな手のひら返し、俺に対する裏切りだろ!勝手すぎんだよ!」


「……もういい加減にして。そんなのただのわがままだよ。それだけ騒ぐ体力があるならもう帰って。逆にさ、どうしてそんな愛情が無限にあると思っていたの?自分は与えないくせに、どうして私から与え続けられると思えるの?

 確かに私はコースケのことが好きだったよ。だけど今はもうその気持ちがひとかけらも残っていないの。使い切ったのはコースケ自身なんだよ。どうしてそれが裏切りになるの?全部全部あなたがしてきたことの結果なんだよ」


 この不毛なやりとりにややうんざりしてきた。

 愛情を試したかったとか色々理由があったのだろうが、結局のところコースケの言う無償の愛って、なんでも与えてくれて、でも自分になにも要求しなくて、どんな扱いをしても変わりなく愛し続けてくれるってことなんだろうけど、そんなの実の親だって無理なんじゃないだろうか?

 勝手なことを言っているのはコースケのほうだと思ったが、それを理解してもらうために説得するのも、もう私の役目ではないような気がする。だって私たちはもう恋人同士ではないのだから。


「だ……だから、俺、お前が居なくなるまで気付かなかったんだ。自分のしてきたことの結果だって言うけどさあ、俺だってこうなってみるまで、分かんなかったんだよ。

 お前に別れるって言われた後から、何もかもダメになって、どうしたらいいか分かんねえんだよ。どうやって笑ってたのか、どうやって友達としゃべってたのかって、そんな当たり前のこともできなくなって、飯も食えなくなってもうメチャクチャなんだよ。俺、友達に頭おかしくなったって言われてんだぜ?

 俺だっておかしいことしてる自覚あるけど、どうしようもないんだ。

 なあ?多分このまま放り出されたら俺死ぬよ?それでもお前は俺を追い出すのかよ?」


「ちょっと……死ぬとか言うのやめてよ。脅しだよそれ。もう……私じゃなくて、尽くす系の新しい彼女作ればいいじゃない。コースケならいくらでも見つかるでしょ。私と違ってモテるんだからさ。だから……もう帰って……」


 とっさに脅しかと言ってしまったが、言い終わる前に私は後悔することになる。

 コースケは本当におかしくなっていると私も分かっていた。言動もおかしいけれど、なによりも目が見るからに狂気を孕んでいて、正気じゃなくなっているんじゃないかと思っていたが、それを指摘してしまうと本当になってしまいそうで怖いから、見ないふりをしていた。


 今も冗談めかして話を逸らそうとしたけれど、言っている途中でコースケの顔を見て声が詰まってしまった。



 あ、ヤバイ。



 スコン、と顔から表情が抜け落ちる瞬間を、初めて目の当たりにした。


「あ……」


 中途半端に空いたコースケの口から、小さく声が漏れる。なに?と思った次の瞬間、コースケは、なんのためらいもなく部屋の窓から飛び降りた。





 ***




 それからどうなったか……。

 結論から言うと私は今、コースケと一緒に住んでいる。





 あの後、飛び降りたコースケは下の階の人が呼んでくれた救急車で運ばれていった。

 下の階の人もいきなり部屋の前に人が落ちてきたからさぞかし驚いただろう。


 手が震えてスマホのボタンも押せずにいる私に代わって下の階の人が119番に連絡してくれて、状況説明まで全部してくれた。私はほとんどしゃべれず、促されるまま救急車に同乗しただけだ。

 病院には警察も呼ばれ、何があったのか説明を求められたが何を話したかあんまり覚えていない。

 最終的に警察は『痴話げんか』と判断したようで、簡単に調書を取って帰って行った。


 飛び降りたと言ってもアパートの二階からだったので、死ぬような怪我ではなかったが、受け身を全くとらずに落ちたせいで、コースケは足と手首を骨折していた。


 実家にも連絡が行ったようで、その日のうちにコースケのお父さんが病院に駆けつけてきた。


 病室に居た私を見るなり、ひとりで納得した顔になり、お金の入った封筒を私に差し出してきた。

 そして、『息子とは別れろ』と言ってきた。ついでに『そうすれば被害届は出さないでやる』と付け加えて。

 どうやら私がコースケに怪我をさせた加害者だと思っているようだ。

 まだ事の経緯を聞いていないのだろうが、なにも聞かないうちから想像で決めつける無神経さに驚いて腹が立った。

 だが私がなにか言う前に、ベッドの上に居たコースケが父親に殴りかかったので怒るどころではなくなってしまった。


 その後、騒ぎを聞きつけた看護師さんや警備員さんに止められてコースケは父親から引きはがされた。止められるまで散々殴られた父親は、もうお前の後始末はしてやらんと怒鳴って、結局何の話も聞かずに帰って行った。


 闇深い家庭だなあと思いながらぼんやりと他人事のようにその光景を見ていたが、父親が入院の手続きをしてくれなかったので、他にやれる人が居ないからと、なんとなく流れで私がお世話をすることになってしまった。


 その後、コースケと父親のあいだでどのような話し合いがあったのかは分からない。でもコースケは退院後も実家に戻ることはなかった。



 ここまでくると、突き放すタイミングを完全に失ってしまい、退院後コースケはウチのアパートに転がり込んできて、今に至る。



 友人にコースケの話をすると、絶対に『別れるべきだ』と助言されるし、私自身もこうなるまでにものすごく悩んだ。どう考えても、キレてあんなことをしでかすような男とは縁を切るべきだと頭では分かっているのだが、あれだけ不遜で陽キャの代表みたいな男があんなにボロボロのぐちゃぐちゃになってしまったことがあまりにも衝撃で、放っておけなくなってしまった。



 いくら思い返してみても、私のなにがコースケの狂気スイッチを押したのか全く分からない。

 もしかして、もうずっとコースケの中に溜まっていたものが、ちょうど限界を迎えて決壊しただけなのかもしれない。

 壊れた家庭の中で、コースケ自身もゆっくり壊れていっていただけで、私のことは単にきっかけに過ぎないんだろうと思うが、いずれにせよ、その壊れる瞬間に立ち会ってしまったのだから、少なくともコースケの精神が安定するまで一緒にいてやるか、などと仏心を出してしまった。




 コースケの怪我が治ったところで、私は『ちゃんと大学に行け』と言うと、コースケはごねることなくちゃんと通いだした。学費と生活費は父親から支給されているので、親のすねをかじるなら無駄にするなと言ったのだ。


 お金のことを言って復学させたが、私の目的はコースケに元通りになってもらうことだった。

 私に対する変な執着も、突然私に拒否されたことでプライドが傷ついたことが原因だと思う。だから無理に離れようとせず、コースケの好きなようにさせた。

 そしてまた、友人たちと会話したり遊んだりして過ごして日常を取り戻していけば、なんで私なんかに執着していたのかって、自分のおかしさに気付くだろうと考えていた。すぐにコースケの目も覚めるだろうと、この時は割と楽観視していた。だが……。





「ミコトおつかれぇ」

「……コースケ。会社の前で待たないでっていつも言ってるじゃん。終わったら寄り道しないで帰るし、家で待っててよ」

「何?俺が待ってたら迷惑なの?見られたくない相手でもいんの?」

「んなわけないでしょ……寒い中で待っている意味ないでしょ……」


 コースケは大学に通うようになったが、元通りにはならなかった。

 持っていたスマホを解約して、全ての友人たちとの連絡を絶った。

 必要最低限の講義にだけ出て、あとはウチで家事をこなし、最近では時間を持て余して私の仕事が終わるのを会社の前で待つという日々を繰り返している。

 新しく買ったスマホには私の連絡先しかないし、GPSアプリを入れて、位置情報を私と共有する設定に勝手にしていた。


 コースケの友人たちは、突然連絡を絶たれたことに納得がいかず、何度も接触を試みたらしいが、コースケは完全に無視を貫き取り付く島もなかったという。


 なぜ私がそんなことを知っているかというと、仕事帰りに見知らぬ女の子に捕まって散々罵られながら教えられたからだ。


 その女の子曰く、大学でのコースケは文字通り人が変わったようで、別人と入れ替わっているんじゃないかと言われているそうだ。

 彼女は自分のことを『コースケの一番のお気に入り』だと自称して、その自分を無視するなんてありえないと思い、コースケの後をつけて私にたどり着いたのだそうだ。


 彼女は興奮していて口をはさむ隙もなく、『あんたがコースケを洗脳したんでしょう?!』と大衆の面前で叫ばれて、私はうんざりした。

 そんな技術持ってないし、そんなにコースケが欲しいのなら引き取ってくれと、叫ぶ彼女に言うが耳に入らない様子なので途方に暮れていたら、ちょうど迎えに来たコースケがその場から私を引きはがした。


 歩み去る私たちの後ろから女の子の叫ぶ声が聞こえたが、コースケは振り返りもせずその場を離れた。


 さっきの子を完全に無視していたから、あの女の子と仲良しだったんじゃないの?とコースケに訪ねてみたが、その後また吐いて体調を崩したのであの子のことは訊けず仕舞いだった。



 それ以来、コースケがほとんど会社の行き帰りにまで付いてくるようになり、気付けば社内に居る時以外は四六時中コースケが傍にいて息が詰まる。


 それに何故か最近、会社での会話や出来事をコースケが把握しているので、何かを仕込まれている気がするが、手荷物を探ってみても何も見つからないので、本当にどうしてなのか分からない。

 誰かに相談しようにも、友人には縁を切られてしまったし、会社の人も以前はもっと仲が良かったはずなのに、ここ最近はなんだかよそよそしくて距離を置かれている。


 一度、仲の良かった同期に『私なんかやっちゃったかな?』と訊いてみたが、『いや、お前の彼氏が……』と言い淀んだきり、もう話してくれなくなってしまった。それから何度訊ねても答えてくれず、同期とは気まずさだけが残った。


 うちの会社はセキュリティが割としっかりしているので、社員カードがなければ入ることができないし、コースケが会社の人になにか出来るとも思えないのだが、私の中で疑念と不安が膨らんでいった。


 だってここ最近のコースケは、なんというか……静かに狂気が増している。

 パッと見は今まで見たこともないくらい落ち着いていて、おかしいことなど何もないように思えるのに、突如として言動が意味不明になる瞬間があって、正直私の理解を超えている。


 先日、コースケが下半身丸出しでのたうち回っているから何事かと思ったら、油性ペンで局部に文字を書いたらメチャクチャ染みて痛かったと笑いながら言っていた。

 意味が分からず、『はあ?』と言いながら股間を見てみると……竿の部分に滲んだ私の名前が見えて、心の底からゾッとした。




 体調が戻って生活が落ち着けば、コースケも正気に戻ると思っていた。

 元々友人も多くて楽しいことをたくさん知っている人なのだから、いつまでもこんな窮屈な暮らしが続けばいずれ嫌になるはずだと思っていたから、この生活も期間限定だと楽観視していたのに……。


 もしかして、正気に戻るどころか、一生このままだったりする……?


 そんな可能性があったことに今更気が付いて、私は何も言えず茫然と間抜けな格好のコースケを眺めていると、こちらに気付いたコースケが私を見てにっこりと笑ってこう言った。


「油性ペンじゃダメだな。やっぱタトゥー入れるしかねえか。なあ、ミコトはローマ字とカタカナどっちで入れてほしい?」


 どっちも嫌です。と思ったけれど、口には出せず私は曖昧に微笑んだ。




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― 新着の感想 ―
小さい頃に負い、癒やされずにこびり付いてしまった闇が、上手く書かれていると思った。
面白いとは違うと思うのですが、語彙力がなく上手く表現できませんが。 面白かったです、ありがとうごさいます。
[良い点] こういう話を求めてました!!!! 最高です!!!
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