こわくないよー?
ヒコザは椅子を組み立てて砂浜に据えると、丈夫さだけは折り紙付きの宇宙軍謹製軍靴を脱いで右手に持ち、荒目の砂を足裏に感じながら湖に入って行った。
砂浜は思ったより遠浅で、ズボンの裾を少し濡らしただけで件の岩に辿り着く事が出来た。地底なので風もなく、ヒコザの立てた波紋が収まると、水面は鏡のように凪いでいた。
岩の凹凸に浅く腰掛け、軍靴を履き直すと岩をよじ登って頂点に座った。ここで指定の時間まで待てば良いのだろう。ゆっくりと今後の事でも考えて…。
すると遥か遠くの湖面から水が吹き上がった。大きな魚が跳ねたようだが、湖は対流しないので水温が低く、生物は大きく育たない筈だ。
水の跳ねた地点に目を凝らすと、光る物体が浮かんでいた。ゆるい着物を着た人のように見える。
それは真っ直ぐヒコザに向かって突進すると、慣性も減速も衝撃波も無くヒコザの正面に留まり、言葉を発した。
「おまえ、ヤバい」
「え」
ヒコザは天女の放つ光の一撃で、岩ごと消し飛ばされてしまった。
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うん、真っ暗だね。
僕は今、点になっている。
そう、存在が、無いわけじゃないけど、限りなくゼロな状態。
暇だ。
何もしなくて良いのだけど、うっかり暇を意識したら、じっとしていられなくなってしまった。
そこで点の自分を伸ばして、線にしてみた。みゅいーん、とね。
ははぁ、これは面白いな。
今度は三角形を作る。これで面だ。
三角形を複製して閉じる。正四面体になった。
ここまでやると、周りが何もない空間だとわかる。暗いのはそのままなんだけど、それだけじゃなかった。
「何でっ、消滅、しないのよっ」
なんだっけ。
そうだ、僕は天女に吹き飛ばされたんだ。
死んだ?
うん。
でも存在はここにある。
天女は何かの攻撃を続けているけど、僕には効かなかった。
むしろ、僕と、そうでないものの、二つが、世界に存在するってことがわかっちゃった。
世界?そう、世界も存在する。
僕は四つの面にそれぞれ正四面体を複製して、トゲトゲの物体になった。
かこいい。
どんどん増やすぜ。
どんどんどんどん。
どんどんどんどん。
僕は大きくなって、正四面体の集合物は龍の形になった。
「正体を現したな、邪竜め」
言われて思った。憎まれている。そう、僕には敵がいる。
一つの正四面体を赤くすると、他の全ても同時に赤くなった。青くすれば青く、金色にすれば金色になった。
量子論みたいだ。
僕は龍らしく細部を仕上げ、左手に珠を握ると、金色の鱗をかき鳴らし、天女を見据えた。
何もしていないのだけれど、いよいよ追い詰められた天女は光る剣を構え、斬り掛かってきた。
この感じ、覚えがあるなぁ。英雄と呼ばれた神との戦い。そしてその時と同じく、僕は敵を飲み込んだ。
+++
あの時英雄神は右手とヴァジュラを失って生き延びたのだけど、今度の天女は違った。
それほどの力が無かったのだ。もしくは勇敢だった。
僕は彼女を取り込むとすべてを我がものとし、奪った力を元にポリゴンチックだった龍体をリアルタイプに再生成した。もちろんキンキラキンだ。この姿は代謝効率が良いのか取り込んだ天女の力が大きかったのか、程なく強大な力に溢れた僕は余力でさっきの天女を再生成し、その命と力を返した。
「ねぇ、天女さん、どうして僕を恨むんだい?」
「貴様が破壊をもたらすからだ」
「うん、敵とは戦うよ。でも全てを破壊などしない」
「そんな筈は無い。邪竜であろう」
「その偏見やめてくれないかな?」
天女は僕の目の前の空間に胡座をかいて思案している。
「僕が怖いかい」
「とても」
「それは理解が足りないからさ。ぼくの名前はヒコザ」
「また名を変えたのか」
「生まれたときから、だよ。本名は小原緋虎左衛門。長いからヒコザ」
「変な名前だ」
「ひどいよ」
「ふん」
天女は鼻で笑ったが口元が緩んでいた。
「ねぇ、まだ僕が怖い?」
「いいや」
「だったら友達だね」
「よかろう。今から我はお主の敵ではない」
「ありがとう」
僕らは力を合わせて元の世界に戻った。
+++
急に質量が戻ったので岩が尻に食い込んで痛かった。無事にリングへ戻って来れたようだ。
この世界をリングと呼ぶのも、今、初めて知った。
おぼろげに天女の知識と龍体の記憶が残っていて、今の自分が元の自分なのか疑わしい。神隠しからテララに戻ったときみたいに、ぼんやり。
だけど左手に古い傷跡も有るし、腹の空き具合も変わらない。問題ないだろう。
振り向くと組み立て椅子に座ったままのおばばが変わらず不機嫌な顔でこちらを見ている。あのしかめっ面は確かにワンダに似ている。時間まで待つとしよう。
+++
天女の能力の殆どはその特質に依っていて、ヒコザ自身のスキルとして落とし込むことは出来なかった。
だが放射系の扱いや空中での姿勢制御、亜空間での立体把握が巧みで参考になった。繊細な次元制御も身につけ、今後は周囲を危険に巻き込むことも無さそうだ。
魔法使い達はこの世界の魔法を「水を掬う」と表現する場合が多い。もちろん扱いのコツを伝えるための方便だが、なかなか的を射ている。ヒコザに理解できる範囲で、の話だが、今回得た知識によれば、魔法とは対象物の空間と重なる異次元に干渉して「物質をほぐし」、少ない力でその元素に影響を与える技術のようだ。時折、魔法の行使で青白い発光現象が見られるが、これは物質内の荷電粒子が光より速い速度で運動する際に見られる発光現象に近似する現象が起きていると考察される。つまり人知を超えた莫大なエネルギーが働いている証拠となりえる。理論上魔法使い自身が強大なエネルギーを持っていれば異次元への干渉は不要だが、立てたコインを倒すのに高速増殖炉並みのパワーが必要だ。操作による損失も考慮しなければならないが、それに相当する影響力を異次元干渉によって成し得るのが魔法であり、より多く干渉できる者、つまりたくさんの水を掬うことができる者は魔力が高いとされる。
地底湖で天女に攻撃された件を、おばばは認識しておらず、結果的にヒコザは滞在を許された。無意識下での次元干渉における周囲への影響を抑えるという当初の予定は済んでしまったが、ワンダによると師匠を持たない魔法使いは何かと面倒なことになるそうなので、ヒコザは予定通り、師匠につき一通りの修行を収めることにした。
宿に戻ったヒコザがワンダとエンティ達に礼を言うと、彼らは満足して旅立っていった。まずはワンダを大学へ送り届けるそうで、その後はまだ決まっていないとエンティは言っていた。エンティに連絡先を聞くと、少し困った顔をしながら白石砦の知り合いだと言って、とある戦士の名を出してきたので、深い事情は聞かずに別れた。
ヒコザが師事する事になったのは武闘派の誉れも高いジェガンという壮年の魔法使いで、背が高く体も頑健で、ついでに声が大きかった。
彼は王城に長らく勤めたが早期引退し、実家のある幻想郷へ戻って来たそうだ。
ヒコザが挨拶すると、彼はあからさまに欺瞞の目を向けてきた。
「お前のようなヒヨッコが砦の戦士だと? あそこは知り合いが多いからな、聞けばわかるんだぞ」
「ではガゾルはご存知で? 彼に聞いて下さい。僕の養父です」
「たわけた事を。ガゾル様に子は居ない。養子が居たが行方不明だ。名は確か…、ヒコザと」
「初めまして」
「魔道士殺しのヒコザ! なんでここに!」
「戻りました」
「良くわかった。ああそうだとも。いいとも、いいとも。俺の指導は厳しいぞ」
「宜しくおねがいします」
「ガゾル様はご息災か?」
「おかげさまで。今は現場を離れ後進の指導に当たっております」
「何よりだ。それでお前、指先は器用か?」
「はい?」
ヒコザは装備品を少しずつ現地の物に入れ替えていますが、靴だけはどうしても良いものが無く、漂着当時の物を使用しています。室内履きとランニングシューズは現地で手に入れています。
それにしても、ノリの良さそうな師匠で良かったですね。




