転露の国
マヤはラディシュに付き添って聖都へ戻って行った。ヒコザには「唾を付けた」ので放置するそうだ。居場所を伝えると約束したので、とりあえず実務へ戻るのだろう。
できればヒコザは白石砦に戻り、じいやんや砦の戦士たちにティファラの失踪について話したかったのだが、地理的に遠く、ヒコザの魔法の危険性も考え、手紙を送るだけにした。今後の具体的な対処はオスカル空尉が考えるだろう。
虎退治の依頼はとうの昔に期限が切れており、既に行商人に鞍替えしていたエンティ達は、喜んで転露の国への移動を引き受けてくれた。
幻想郷と呼ばれる転露の国へは、四つの村を経由し、緑変した川を遡ること十日で辿り着いた。
国と呼んでいるがそれは観光地的な呼称で、実際は豊かな源泉を誇る人口二万人程の自治区である。
街を取り囲む山の木々が薄っすらと光を帯び、急峻な山並みを夜暗に浮かび上がらせている。この地方が闇に覆われる前から、この地域の植物は山陰の日照不足を補うために蓄光成分を纏っていたそうだ。自治体は街路にも同じ木を植えていて、光るそれを間近に観察する事が出来た。すると、葉の表面に粉のようなものが付着しており、その粉が発光しているのだとわかる。
市街地の薄闇を透かすと勾配の入り組んだ町並みに湯を沸かす何本もの煙がたなびいているのが見て取れた。
光る木々と愛嬌のある町並み。幻想郷と呼ぶにふさわしい景観だった。
しかしここに、別の見識を持つものが居た。
「幻想郷というよりは」
ヒコザは両手で眼前に湯をすくい、ふむ、と納得して。
「温泉郷、だな」
ヒコザは岩で組まれた湯船に足を伸ばして浸かっていた。肌を刺すようだった湯は慣れるに従ってまろ味を帯び、その刺激の残り香すら程よい印象に変化していく。
湯の色は無色透明、湯温は四十三度くらい。FEA出身のヒコザにとっては「まだまだ」だが、間違いなく「あつ湯」に分類される。ちょっと舐めてみたかったが循環式かもしれないのでやめておいた。
ヒコザはつい温泉と呼んでしまったが、こちらの言葉に温泉に当たる単語は無い。
この世界には温度を持って湧き出す水が無く、さらに言えば活火山も無い。
風呂の湯はミネラル豊かな湧き水を沸かしているのだ。
ワンダの実家は旅館を営んでおり、季節柄他に客は居なかったので、一行はそのまま厄介になっている。見たところ増築分を入れても部屋数は十に満たず、家族と数人の雇人で経営しているようだ。
混浴だが露天風呂があり、旅の疲れを癒やしてくれる。あいにくエンティ達には熱い湯にじっと浸かる習慣がなく、やや苦痛のようだ。
「おいヒコザ、大丈夫なのかこれは。お前だけ特殊なスキルで熱を遮蔽しているのでは無いのだな?」
「熱いからいいんだ。雑菌が減るから。キングもすぐに慣れるから安心しろ」
「俺様は大丈夫だ。常に完璧だからな」
「足の先しか入れてないじゃないか…」
男たち三人は半ば意地の張り合いで肩まで浸かってゆっくり百まで数えてから湯を上がる。
玄関近くの団らんコーナーに陣取って香り付きミルクを飲み干していると、浴衣姿のワンダが通りかかった。
「いい感じに茹で上がったわね。塩が有ったら擦り込んであげるのに」
「ぬめりを取るつもりか」
「エンティが料理を知っているとは驚きね」
「タコ確定かよ」
「それはそうと、出発は明後日でいい?」
「ああ。俺たちはヒコザを送っただけだしな。この街は良いところだが、明日の荷降ろしで仕事は終わりだ。小豆が良い値で卸せそうなんだ」
「そう。ヒコザ君の修行は気になるけど、おばあちゃんに任せておけば良い師匠を見つけてくれる筈よ」
「すまないな。色々と」
ワンダは親指を立てると無言で風呂場へ向かって歩いていった。
翌朝、ワンダと連れ立ってしばらく歩き、町の中心街へ辿り着いた。
妙に坂の多い地域で、家屋も密集しており、色どりも鮮やか。控えめに言っても珍妙な町並みだ。
どの家も坂に建てられており、独特の凝った飾り付けがなされているので、それが入り口なのか、二階の窓なのか、分かりづらい。
ワンダはふと坂の途中で腰をかがめ、民家の軒にのれんの如く数珠に下がっているビーズを掻き上げると、そこに空いた空間にひと声かけて入っていった。少し面食らったがヒコザも続いて入った。
そもそもこの世界は年中薄闇で、通路には蝋燭の明かりが灯っていたから、中に入って暗いと言うことは無かった。
その空間は人一人が通れる狭さの階段に続き、螺旋を切りながら下っていた。突き当りは広めのホール。家具は一切無く、三方に扉が付いている。恐らく、ここはまだ屋外の扱いなのだろう。団地の階段のようなものだ。
ワンダが正面の扉に付いているドアノッカーを三度叩くと、扉は音もなく内側に開いた。
中には年の頃四十前半の男性が立っており、笑顔で迎えてくれた。
「ワンダお嬢様、おかえりなさいまし。おばば様がお待ちでございますよ。お客人もどうぞ奥へ」
「壮健で何より、ガルーダ。これは後で食べて頂戴」
「お気遣い痛み入ります」
ワンダの差し出す紙袋をうやうやしく受け取った男性は、さっと先に立ち奥の扉を開け入っていった。
奥の部屋は前室と比較にならないほど広く、暖かく、家具も揃っており、過ごしやすそうだった。
光は射さないが上方に窓が付いており、天井も高い。部屋は凝った意匠の衝立でいくつかに仕切ってあった。天井は明るい色の板張り、壁は泥を固め色を塗ったもののようだ。壁に据えられた燭台が壁の細かい凹凸を浮かびあげている。入り口の床は青味がかった石で、やや隙間があるが丁寧に敷かれていた。奥の段は濃い色の木で出来たステージで、落ち着いた雰囲気の絨毯が幾重にも敷き詰められていた。
そしてヒコザは見た。コタツだ。ここにはコタツがあるのだ!
望郷の念を押し留め、部屋の主を見定める。
おこた、いや、毛布仕立ての座卓に座る老婆は髪こそ白いが眼光鋭くヒコザを見据えていた。
この街では顔が広く、ヒコザに合った魔法使いの師匠を紹介してくれる筈なのだが、どうにも表情が硬い。
間が空いたのでヒコザは自己紹介をする。
「お忙しいところ失礼します。白石砦のヒコザと言います。本日は私の宿す魔法についてご相談が有って参りました」
「あ、ああ、魔法の話だったね」
老婆は困った顔をしてワンダに視線を送る。
ワンダは今ひとつ意思が汲めていないようだ。
「仕方がない。着いておいで」
老婆は壁に据えられた鉄の箱を開け、いくつか鍵を取り出すと、衝立の奥に隠された扉に向かった。中は明かりも無く倉庫のようだった。ヒコザはコタツに未練がましい視線を送りながらも老婆に続く。
ワンダはガルーダに促され、部屋に留まった。
倉庫のような部屋で折りたたみの椅子を手にすると、老婆は奥の扉の鍵を開け通路に出た。
青味がかった石の通路は左右に伸びており、自分たちが長い通路の壁の扉から出てきたのだとわかった。
壁の蝋燭はまばらで、通風口らしき穴が多く、肌寒かった。老婆とヒコザは左へ進んだ。ヒコザは折りたたみの椅子を老婆に代わって持った。他に荷物は無いようだった。
「ヒコザ殿、お主、ミレニアの神官にエンドラと呼ばれたそうだが、それは誠かね」
「ええ、何らかの条件に当て嵌まったようです。もちろん本物ではありませんよ。僕を宗派の何かに使いたいようです。取引に応じて所在を伝えていますが、それ以上の約束はしていません」
「お主がエンドラか、もしくは別のものかはわからぬ。しかし」
彼らの話し声は真っすぐで果てしなく続く通路に響いた。
「しかし、それほどの魔力を持つとなると、そのまま師匠に付ける訳には行かぬ」
「すると?」
「かの方のご判断を仰ぐ」
しばらく無言で歩き、ついに辿り着いた突き当りの扉を開けると、そこは巨大な洞窟で、見果てぬ限りまで湖面が続いていた。
足元は岩壁だが、少し先で目の粗い砂浜になっている。
「なんと大きな地底湖…。壁面の発光石が素晴らしい。もしや発光する木はここの岩の成分を…? ああ、こちらが本当の幻想郷なのですね」
「うむ。お主にはここに住まう天女様に滞在の許しを得てもらう」
「なるほど。そのような存在が在るのですね。どうすれば?」
「湖に岩があるだろう。あの岩で一刻ほど待つのだ。何もなければそれで良し。さぁ、行くのだ」
おばばは転露の国魔法士協会会長で、ガルーダはそこの事務総長です。隣の秘書室には雇人が何人か詰めています。それを知っているのでワンダの手土産は個包装されたお菓子です。
天女の姿を見た記録は残っていませんが、何らかの理由が有ると天女のささやきがおばばの耳に届きます。
これを元に調査を行った結果、犯罪歴の隠蔽等が発覚し入会を許可されなかった例が幾つかあります。




