コンバンハ!
朝方、クジに一番負けたエンティに見張りを引き継ぎ、ヒコザは水場へ向かった。帝国の百夜は森の生態にも強い影響を与えており、耳に届くのはフクロウを筆頭とする夜行性の生物の鳴き声が殆どだ。中にはかつての習性を頑固に失わず、目覚めの朝を主張するものも居なくはないが、少数派の彼らはちょっとした物音に怯え、気配を隠してしまう。
雰囲気に配慮した訳ではなく、ヒコザもかつての習慣から林間では足音を消して歩いてしまう。枝に当てないよう背中の銛に手を添え、常に周囲に目を配り、必ず遮蔽物を確認しながら重心を前に進む。水場は就寝前に確認しておいた小川にアクセスできる緩やかな崖だ。水質のチェックはしていないが、今のところ全員が腹痛を訴えては居ない。ふと泥濘に足跡を見つける。エンティのブーツ、キングのサンダル、ワンダのデッキシューズに自分の軍靴。そこへ金属の金具をつま先に打ち付けた恐らく板金鎧の足跡。さらにやけに重い荷物を持ったハイキングシューズ的なソールが、いつの間にか加わっていた。どちらも細く女性の物と思われる。我々より後に訪れた彼女らの正体を調べておくべきか、とヒコザは考えたが、その結論を出す前に金属を激しく打ち合う音が聞こえて来た。
今度は完全に頭高を落とし、脚だけで走る。アサルトゴーグルを戦況モードでアクティブにするが、AIリンクが無いのであまり役には立たない。今正確なのは気温くらいだ。ついインカムを使いそうになるが、聞いてくれる者は居ない。様子を見てエンティ達を呼びに行かなくては。茂みの下に這い込み、地面の高さから透かしてみる。果たして剣と剣のぶつかり合いであった。
女性達は大きな岩が二つ重なりあって、一晩を隠れて過ごすには持ってこいのロケーションにキャンプをしていたようだ。立派な鎧をまとった長身の女性が頭から血を流して倒れている。出血が多い。もう一人の軽鎧の女性は片刃の長剣で侵入者の攻撃を防いでいる。良い腕をしているが、相手が悪かった。二メートル半の大男が三人。しかも持っている剣や槍で既に倒れている女性に攻撃をしようとしている。それをかばって長剣の彼女は動きを封じられてしまっていた。
助けを呼ぶ隙は無いと結論し、ヒコザは茂みを匍匐して男たちの背後に回った。男たちのパンツの後ろから薄汚れたふさふさの尻尾が伸びていたのには少し驚いた。犬男だ。砦を襲う三つの亜人種の一つで、恐ろしく力が強くタフなので手加減は無用だ。ヒコザは藪の中から深く刺さるよう筋肉の境目を狙って一番大きい奴の尻に銛を突いた。一際大きな叫び声を上げると突かれた犬男は大げさに転げまわり、やたらと喚いた。残りの二体が振り向く。その顔は短毛に覆われ鼻が前方に長く伸びていた。顔の先端に付いた鼻が黒く湿っていて、ヒコザに近所で飼われていた洋犬を思い出させた。
「危険よ!逃げて!」
長剣の女性が叫ぶがヒコザは素手で構える。焚き火の明かりがまたたき、女性の顔がちらりと見える。ヒコザはその顔に見覚えが有った。工場に彼を追って来た役人だった。
残った二体が立ち上がったヒコザを黒目がちな犬の眼で睨む。彼らがヒコザに気を取られた隙に、長剣の女性が片方に一太刀浴びせた。峰打だったらしく、ボキンと骨の折れる音が暗闇に響き、犬頭は白目を剥いてどさりと崩れ落ちた。怯んだ隙にヒコザがもう一体の首筋に渾身の回し蹴りを入れる。犬男はそのまま腰を中心に空中で半回転して頭から地面に落ちた。ヒコザが転げまわって喚く最初のでかい奴にエルボードロップを入れようと体を宙に踊らせると、同時に全く同じモーションを取っていた長剣の女性と空中で目が合った。
「ヒコザ?!」
そのまま二人同時に肘を入れ、現場に静寂が訪れる。
「貴様まさか僕を追ってきたのか」
女性はそれには答えず、逆手に持っていた長剣を鞘に収めると意外な事を言った。
「コンバンハ」
日本語だと?
「何故お前が」
「私、小原マヤです」
「はぁ?」
ほとんど消えかかった焚き火の明かりの中。
そこに居たのは家の写真で見たきりの、あの利発そうなお嬢様だった。
ヒコザと取り替えっ子になった相手。
決して会えない筈の、存在はしていても、ヒコザにだけは会えない人物。
突然の事に、ヒコザはもし探し出せたら言ってやろうとしていた悪態を一つも思い出せなくなってしまっていた。
「あたし! あなたに言いたかった事が」
「俺も有る。だが後にしないか。こいつらの応援が来るかもしれない」
「そうね。どこか逃げる場所は?」
「道へ戻ってここから離れるべきだな。近くに仲間が居る。馬車があるからこの鎧の女を運べるだろう」
「馬があるわ」
「引いて来てくれ。小川の小道はわかるな? あの上流へ進め。その女を運んで先に移動している。重そうだからな、鎧が」
「その人達は何者?」
「学術調査系の探索者が三人。女性も居る。怪我人に親切なのは請合う。重い方の荷物を寄越せ。残りは馬に積め」
マヤは鎧の女性から視線を戻し、頷いた。
通常、助太刀に入る場合は少し離れた場所から声を掛けます。
「申す申す、我こそは白石砦がヒコザ、助太刀申す」
とやり、要らんと言われたら遅滞なく去ります。
今回は敵味方がはっきりしており、その敵が強敵だったため緊急介入しました。
エルボードロップはプロレス技で有名ですが、ダウンした敵に追撃する際、つま先で蹴ると足の指に怪我をする場合があります。ひじの骨は人体で最も丈夫と言われており、このような状況でのチョイスは大変結構かと存じます。運命の出会いとしてはどうかと思いますが。




