人魚姫症候群
当方に医療知識は一切無い旨をご承知ください。
近年流行りだした病に、人魚姫症候群という名を持つ奇病がある。
ここで言う奇病とは正に読んで字の如く奇妙な病気であり、その完治方は勿論、治療法さえ年々進歩を遂げて止まない医学の手から離れた場所にあった。
人間、得体の知れない物は妙だと言って近付きたくないものだ。それが病気となれば尚更だし、この人魚姫症候群を発症した人間の末路を思えば、奇病と呼んで忌避したがるのも頷ける。
人魚姫症候群患者の最期は、泡と消える。
骨の1本、髪の1本、わずかな皮膚片すらも残さずに、今迄其処で呼吸し、話していたのが夢か幻であったかの様に。
名前を冠する童話の結末通りに、泡となって掻き消えてしまうのだ。
見た目に発症者だと分からない病気でありながら、その患者が、この病気が忌避されるのは、未知である以上にそうした一種の不気味さが影響している。
※
「花を吐くとか、涙が宝石になるとか。同じ奇病でもそんな綺麗なものがあるのに、この病気、マジハードで悲観的じゃない?」
「いやいや。他人事だからそう言えるだけで。花を吐き下すのは苦しそうだし、眼球から宝石が零れるとか絶対ぇ痛いっすよ!?」
外装内装共に洒落た喫茶店の窓際の良席。外から差し込む心地良い日の光に、しかし眠気が誘われる様子はなく、黒髪の少女が不満を零す。しかしそれでいて彼女の口調は軽く、どこか茶化しているようなニュアンスさえ感じ取られた。
それは彼女の発言に否定を返した少女の眼前に座る金髪の少年も同様で、奇病について語りながらもその口調は遊ぶ約束でも取り付けるかのように軽やかで、表情も明るい。
店内には他に客がいるが、会話の声量が大きくはないこともあってか、この2人組を怪訝そうに見つめる者はいない。もっともそれと違う意味の視線は、ちらちらと窺うように向けられているが、2人にとっては慣れた物で、痛くも痒くも、といったところだ。
加えて2人にとって、今自分が抱えている問題を前に、他人の視線なんて構っている余裕がない、というのも少なからずあるだろうか。
ああ、もう。
やりきれないと言うように呟いて、少女はテーブルに乗っていた紅茶を1口運ぶ。テーブルの下の足を行儀悪くぱたぱたと揺らした。
「でもタイムリミットは存在しない。平和的な治療方法だって用意されているじゃない。それなら異物を体内から吐き出す嫌悪感には、喜んで耐えるべきだと思うわ」
少なくとも私は、替わってくれるのなら歓喜の涙さえ流して、苦痛に耐える。
少女はそう付け加えて、ぼんやりと窓の外を見つめた。その結果店の外から2人の席を窺っていた1人と目が合うが、にこりとも笑わずに無視。
そんな少女の言動は、もはや少年にとって見慣れたもので、嗜めるどころか微笑ましげに少年は少女を見つめ続けた。さすがに至近距離での視線は気になるのか、向けている相手が相手であるからか、少女は視線を窓から少年へ移せば、小虫を払うかのように手を軽く顔の前で振った。
「あまりマジマジと見ないで。穴が開きそう」
「それは無茶。片恋の相手を目の前にしてそっち見ない程冷めてはいないっす。健気なオトコゴコロ、分かって?」
「そういうガラでもあるまいし」
聞き慣れた少年の言葉を少女は笑って聞き流し、少年はいつもの少女の態度にわざとらしく頬を膨らませて笑う。
幼馴染みという立場上2人の中では何度も、それこそ飽きるほどに繰り返されたやり取りではある、が。
タイムリミットを設けられた2人にとって、いつものじゃれあい、で済ます事が難しくなっていっているのも、また、事実。
物心つく前から一緒だった2人は、仲良くと言うべきなのか、人魚姫症候群の発症が確認された。
詳細は知られていないながらも研究は牛歩ではあるものの進んでおり、その中で感染性は皆無の病気だと発表されている。つまりこの2人は本当に仲良く発症したワケで。
だからこそ、いつものじゃれあいをしながら、互いにどこかで複雑なものを宿している。
「それはさて置き。オレも異物を吐き出す苦痛には喜んで耐える心構えっすけど、病気を交換できるなんて話、聞かないっすよ。現実的な話をするならオレを好きになっちゃえばいいんす」
「どこが。そもそもそれこそ、いつもの軽口でしょ?」
「じゃあ先輩を」
「それ以上は冗談でも許せない。同じ事返してやるわ」
少女の反応に少年は肩を竦め、片目を瞑る。深刻にならないように意識して、ごめんごめんと軽く謝罪。
まだ全貌が明らかになっていない奇病でありながら、人魚姫症候群について明らかになっている事もいくつかある。
感染性はないというのもその1つであるし、見た目では患者かどうか分からないというのもそれだ。
そして実際のところ、治療方法は実は発見されていたりもする。
治療方法については2つ。1つは恋を叶える事。
そしてもう1つが、片恋の相手を殺す事だ。
もっとも治療法とは言え人を殺す事を大々的に肯定は出来ない上に、全貌が明らかになっていない病気だ。それが本当に正確な治療法かも分からない為、他の方法はないかと日夜模索されているというワケだが。
病気を避けている一般人であればまだしも、自分が発症者であると自覚のある患者の耳にその乱暴な治療法は嫌でも耳に入ってきてしまう。
正に名前の通り、人魚姫の童話を沿ったかの様な病。
人によって多少異なるらしいが定められたリミットを迎えるまでに恋を叶えなければ、恋に生きる為海を捨てた姫の様に泡と消える。
そんな病から逃れるにはハッピーエンドを迎えるか、その姫が選ばなかった選択を取るしか、現状では術無しとされている。
だから。
だから、少女を本心で想っている少年としては。つい、少女の片恋相手である己の先輩を殺してでも、少女に生きていて欲しいと願ってしまうのだ。
もっとも自分が少女を殺せるかどうかは際どいし、仮に殺せたところで、そうしたら少女は死んでしまうのだから共に歩める未来とやらは潰えているも同然だが。
ではもう1つ。
少女が先輩との恋を叶えれば。
少女は平和的に病を治し、そこから先も幸せに暮らすだろう。しかしこの病はあの童話に沿った病。つまり恋の相手が他の相手と結ばれた時どうなるかは明瞭。泡と消える。
つまりこのまま2人で今迄と変わらずに過ごしていくには、少女か少年の心変わりが必須である。
少年の言葉をどこまで本気で受け止めているか定かでない少女はともかく、少年はそれをよく理解していた。だからこそ、少女を生かし、自分の少女の隣で生きる為に心変わりを起こそうと努めた事もあるが、全て徒労に終わった。
それにこの病の厄介なところは、そうした逃げ道を使えないらしい事。それこそ少年が本当に、本心から少女以外を好かなければ無意味らしい。情けなくも主治医に縋った際、彼が痛ましそうな目を向けて少年に説明した言葉は頭の片隅から離れてくれない。
どうしたらいいのだろうか。
いつも通り少女と笑いあいながら、少年は頭を悩ませていた。いっその事、本人が殺さずとも片恋の相手が殺されたのであれば相手の病も治癒するのなら良いのに。
「そろそろ時間だわ。私は先に行くけど、そっちは病院大丈夫なの?タイムリミットもそこまで長くないだろうから、早く恋を実らせたら?性格はともかく、外見はいいんだからすぐに実るわよ」
「いやいや、それ言うなら先輩との仲だって簡単に実るでしょ」
少女の声で意識が浮上し、少年は軽い口調で返す。
本当は誰よりも実って欲しくないと、自分の命の為ではなく、自分の感情の為にそう願いながら。
※
普段と変わらない病院からの帰り道をぼんやりと歩く。診察と言っても病気の全貌が明かされていないし、治療法も明らかになっていない。ただ普通の風邪だの怪我だのを治す病院とは異なる病院で主治医と2つ3つ会話をして終わり。ただ一応はこの病気に専門家の立場から触れている為、泡になるまでのタイムリミットは見られるらしいが。
当然の事ながらタイムリミットは短くなる一方。医者という立場である以上殺人を推奨出来ないのは分かっているが、そろそろ恋を結ぶか、“諦める”かした方が良いと控えめに告げられた。
まったく、そう簡単に諦められれば苦労はしないというのに。少女は内心のモヤモヤを吐き出すように溜息。もっとも主治医の方も少女が先輩を諦めきれない事は理解しているだろうが。
「先輩好き、なんて軽々しく言えるワケないじゃない」
玉砕したら死ぬかもしれない、という理由ではない。そんな理由ではなくて、恥ずかしいというか、先輩の負担になりたくないというか。少女の中で複雑な感情が絡まって、渦巻いている。
だからもう、少女は覚悟を決めているのだ。
先輩はやさしいから、少女の病気を悟れば受け止めてくれる可能性は高い。しかし心の本質を見抜くという厄介な病が、先輩の気持ちが本当は少女にない事をつきつけ、少女が結果泡と消えたら先輩を多少なりとも傷付けてしまうかもしれない。
少女は彼を好いているし、彼に好かれたいという気持ちも絶無ではないが、彼に負担を掛けたいワケではないのだ。負担を掛けるくらいなら、喜んで泡と消えてやる。この病の由来である海の姫もそうだったではないか。愛する人を手に掛けるくらいならと、泡になる道を選んだではないか。
つまりは、そういう事。
この病気を知ってからとうに決めていた決心を、更に強める。
私は泡と消えよう、と。
足元の小石を何気無く蹴飛ばして、そう決心しながらも唯一残っている己の未練について少女は思う。ほんの数時間前一緒にいた、そしてこの十数年間を共に過ごしたあの少年。少女の中で燻って消えない、先輩とは異なる感情で根付かれている彼の事。
少女の事を好きだとからかう様に語る、仲良くも同じ病気を発症した少年。先輩を殺してしまえばいいなんて、酷い事を言う無神経な男だが、それだけ少女の事を想っているのだとまるきり悟れない程、少女も鈍くはない。
それ以上は冗談でも許さない。私も同じ事をする。
脅しても、売り言葉に買い言葉の類でもなく。きっとそれは少女の本心なのだが、果たして少年の想い人を殺す様に推奨してやるという己の言葉は、一体どうした感情から生まれたものか。
「診察お疲れっす」
「……先に帰っていいのに」
本人の声が聞こえて、少女の思考はそこで強制終了を告げられる。
少年が少女の診察を離れた場所で待っているのは珍しい事ではない。寧ろ待っていない事の方が稀だ。それでも少女は普段通りに呆れたような感想を漏らす。少年は見慣れた笑顔を浮べて、まあまあと軽い調子で言葉を続ける。
「恋するオトコノコは、好きな子の贈り迎えとか、憧れるんじゃないっすかねぇ?家、お隣だし」
「はいはい。まったく、そんな余裕もないでしょうに」
「それよりオレはアンタの事が心配っすよ。先輩との仲が上手くいくように、オレがなんとかしてもいいんすよ?」
「本当に気にしなくていいのよ」
そこで少女は1つの嘘を思い付く。
幼馴染みの少年は時に言葉が荒く、素直な性格とは世辞にも言えない。それでも少女の事を何よりも想い、考えてくれている。それこそ自分の病気なんて考えずに。
この少年であればもしかしたら、少女の想いを完全に少年に向けた後、少年を殺す様に仕向ける事をやってしまいかねない。それは少女にとってよろしくない未来だ。
自分が先輩への恋を抱えたまま泡と消えるのは構わない。少年が自身の恋心を実らせようと、暴走の果てに相手を殺そうと構わない。流石に彼が恋破れて泡と消える未来は避けて欲しいところだが。
だから、少女は思い付いた嘘を口にする。
軽薄そうな笑いの奥で、この少年は、とんでもない事を考え、実行してしまう人間だから。
「私のタイムリミットが伸びたのよ。大幅にとは言えないけれど、キミのリミットを裕に越す事はハッキリしたわ。だからキミは、私の為じゃない、キミの為に急げば良いの」
※
なんら反応のない少女の自宅扉を前に、少年は立ち尽くす。この結末が全く予測出来ていないと言えば嘘になるだろう。それでも少年に出来る事は何もなかった。正確に言えば己の無力ゆえの歯痒さを殺す事しか。
もし本人以外の殺害であっても有効であるのなら少年は躊躇いなく先輩を殺しただろう。しかし本人の殺害でなければ意味がない。だからこそ少年は何も出来ずに、ただいつもの様に少女と何気無い時間を、軽い口調で話しながら過ごしてきた。
それでも少年の事を少女が好いてくれる一縷の望みに縋りながら。自分が泡と消える日まで、と。
そうした中で少女のあの日の嘘を、どこかで嘘だと分かっていたのかもしれない。嘘だと分かりながらも如何にも出来ない無力な自分。だからこそ自分はそろそろ泡と消えるからと少年は思っていたのかもしれない。
合鍵で少女の家の扉を開ける。回避を渇望しつつ、どこかで覚悟していた状況。それを目の当たりにしている今、少年の心音は他人にも聞こえる程激しく、大きく、高鳴っている。煩い。口の中が乾く。
リビングには誰もいない。少女の両親は長期主張の最中であるから不自然ではない。しかしいつも通りであれば少女が在宅している時間。誰もいない、完全なる静寂は不自然である。
いくつかある部屋。洗面台。キッチン。散々見慣れた少女の自宅に見慣れた姿はない。風呂場を覗くのは流石に憚られたが使用中の気配はない為、いないと判断して大丈夫だろう。そして、少女の部屋。
ノックをする。返事はない。どこかで無意味な行為だと理解しながらもう1度。返事はない。入るよと前置きしてから少女の部屋に入る。何度も入った事のある部屋。自室と同じくらいに見慣れ、自室と同じくらいの時間を過ごしたと言っても過言ではない幼馴染みの少女の部屋。
見てまわった中で最後の部屋である其処に少女の姿はなく、代わりとでも言うように少女が毎日眠っているベッドには、まるで大量の水をぶちまけたかの様な大きな染みが1つ。
人魚姫症候群の末路。
最期は、或いは恋破れた時には、泡となって消える。
「だから言ったじゃないっすか。オレにしておけば良いって」
ああ、でもそれは言い訳。或いは言い逃れだろうか、と少年は思う。結局は少女に少年の想いは伝わっていなかった。それは己の力不足であるだろうに。
痛感しているからこそ少年は己の言葉を打ち消す様にゆるゆると首を横に振る。少女のベッドに触れればまだ湿っており、少女が末路を迎えて時間がそう経っていない事を悟る。
「でも、オレがちゃんと伝えてないのが悪かったんすねぇ。だけど嘘は吐かなくて良かったんだよ。だってオレには1つしか道がないんだから」
もし片恋の相手が先に、患者本人が殺害した以外の理由で死んだ場合、遺された患者はどうなるのだろう。少年は考える。しかし考えても無意味だろうと少年は直ぐに結論付ける。
少年のリミットが今日なのを、少年は誰よりも理解していたから。
かつて少女の形をしていた大きな染みに、1つ新しい液体が落ちる。自分の頬を涙が伝っている事を少年は遅れて理解した。涙を流しながらも少年は笑う。かつて、それこそほんの1日前迄自分達の生死に関わる病でさえ笑い、気楽に話していた時の様に。
あはは。
漏れた笑い声は何時もの様に気楽そうで、しかしそうでありながら普段とは異なり僅かに震えていた。
「本当、最期まで一緒なんて、仲良しっすねぇ、オレ達」
はいはいと、呆れたように、しかし微笑みながら返ってくる事葉はない。
瞼が重い。頭も。体も。
少年の頭は重力に従う様に布団の上へ落ち、少年の瞼もゆっくりと落ちる。ばちゃりと、大量の水をぶちまけた様な水音。
布団に広がる染みは増え、徐々に床まで濡らしていった。
あとに残ったのは、それだけ。
※
ベッドの上で横たわりながら少女は思う。主治医に告げられていた日程から考えても、自分の体に訴える本能的な何かから考えても、そろそろだと思って間違いないだろう。
先輩に告白してみれば良かったのだろうかと考える。しかしそれは違う気がすると少女は否定する。そろそろ瞼が重い。単純に眠いと言うのでは違う気がする。そうした中で少女は考える。今浮かぶのは少年の事。いつも、互いの生死に関する病気さえ笑いあっていたような幼馴染の片割れ。
少年が自分の恋に専念出来たのかは分からない。でも今日も普通に笑いあっていた時点で希望は抱いていい様に思う。
だから。
少女は目を閉じる直後思った。幸せになって生き長らえなさいよ、と。
十数年も笑いあって傍にいた幼馴染の幸福を。