推理、そして……
天気はあまり良くなかった。今にも降り出しそう、とまではいかないが、曇り空が太陽を覆い隠し、見える景色は薄暗い。
今日はどうやら休診らしく、病院内に人の気配はあまり感じられず、静けさがあたりを包んでいた。いっそう、病院独特のうら寂しさを感じた。
ナナにどこに向かうんだと訊くと、田中さんのところだと言う。まだ聞くことがあるのか。
扉をノックし田中さんの返事をもらうと、ナナが先頭を切って入っていった。
「失礼します、田中さん」
ナナはいつもみたいに、少し素っ気ない感じで言った。昨日みたく演技しなくてもいいのだろうか?あれに意味があったはずなのでは。
「また、来てくれたのね、ナナさん」と田中さんは言った。赤ん坊はベットで眠っていた。
「はい、確認したいことがありまして」
昨日とはまるで人格が入れ替わったような様子に、田中さんはやはり戸惑っていた。答えを求め視線を私に移したが、首を捻らせることしかできなかった。
「今村ドクターは出勤してますか」
「ええ、今朝会ったけど……」
「そうですか」ナナは顔を伏せ、何やら考え始めた。そして何かを思い出したように、「そうだ、今村さんは性格的に屈折していませんか?」
「えっ」
「大変重要なことです、なにかあなたと揉め事を起こしたりしませんでしたか?」
「え、ええっ……!」
田中さんは当惑した様子でまた私に視線を移す。答えを求められても、私は目を泳がすばかりだった。
ナナは顎を撫でながら、ジロジロと田中さん観察し、
「質問は以上です、どうもありがとうございました。確証は取れました」
と告げると踵を返し、歩き出した。
「あの、ナナさんちょっと待って」
「はい?」
ナナは振り返った。
「占いの結果はどうだった?」
少し困った様子でナナは笑い、そのまま答えるでなく部屋を出ていった。私も頭を少し下げナナの跡を追う。
背中に戸惑う田中さんの視線を感じた。同時に、眠っていた赤ん坊が泣き出した。
私たちは喫煙所前の、中庭がのぞめる廊下にいた。相変わらず外は曇り、人の気配も相変わらずない。
今村さんが、白衣のポケットに手を突っ込みながら面倒くさげに現れた。田中さんの病室を出たあと、今村さんに話を聞きたいからと誘い出したのだ。
「すいません、お忙しいところ」とナナは言った。「今日は休診の日だし、人もあまりいないから、お話しするには丁度いいかなあって思いまして」
「まあ、別にいいんですがね」
「ではさっそく事件のことをお訊ねしたいんですが、事件があった日はご出勤なさってたんですよね?」
「ええそうですよ」
「しかも遅くまで残っていたそうで」
「ええ」
今村さんはつまらなそうに欠伸を噛み殺した。ナナは気にする様子もなく、
「では何か見たり聞いたりしていませんか?」
「いやあ残念ながら、僕はなにも」
「そうですか。まあそうですよね。だってあなたが犯人なんだから、聞くもなにもないですよね」
「え……」
今村さんは口をぽっかりと開け、固まった。そしてみるみる内に、まとっている白衣のように顔を白くしていった。ナナはにたりと笑った。
私はびっくりしてナナを見た。あまりにもこの事件に関係のない人物を犯人と呼んだからだ。今度ばかりは間違っているんじゃあ……、と思った。
しかしナナの自信しかない笑みを見ていると、次第に私が間違いだと思い始めた。やっぱり彼女が間違うはずないと。
「おいおい、どうして僕なんだぁ?君は馬鹿かい」今村さんは幾分か持ち直して、嘲笑するように笑った。
「天才は馬鹿なんです」
「いいや君はただの馬鹿だ。どうして僕が関わりのないご夫婦の赤ん坊を殺さなければならない?」
「そう、そこが問題です」ナナは語気を強めて言った。「川藤夫妻に関わりもなければ、動機もない」
「そうだろう?だったら――」
「だがあなたが殺ったんだ」
ナナは今村さんの言葉を遮り、そう断言した。もし間違っていたらという気兼ねは微塵もなかった。
「巧みに隠されているだけで、殺しにもちゃんと理由がある。川藤夫妻の赤ん坊が殺された意味が。
どんな理由かは解らないが、あなたはとある赤ん坊をどうしても殺してやりたかった。憎くてたまらなかった。まあ恐らくはくだらない恋愛絡みでしょう、今村さんの一方的な愛によるものなのか、それは解らないが。……でも普通に殺してしまえば、その親と知り合いであるし、いずれ捜査によって動機があることも発覚し、容疑者として浮かび上がってくることは間違いない。しかも、もっとも黒い容疑者としてだ。足がつくのも時間の問題だ。
そこであなたは思いついた。もし“その赤ん坊を、まったく関係のない他人の赤ん坊とすり替えてしまったら”どうなるだろうか?」
「まさか……」
「そう、“殺したい対象は、たちまち関わりのない赤の他人の子供となってしまうんだ”。殺しても、その人らと一切関わりがなければ動機もないから、まずもって捜査線上にあがってくることもない。だからこの方法を使えば、あなたは哀れな被害者が入院する病院の、一ドクターでしかなくなる。これが狙いだった。自分は憎い赤ん坊を殺せ、捕まる心配もないんだから。そう、川藤夫妻は警察の目を欺くデコイにされた。そもそも、川藤夫妻の赤ん坊が殺されたというのが間違いだった。私たちは巧みに欺かれていた……。そして、自分が殺してやった赤ん坊の本当の親は、なにも知らず赤の他人の子供を育てることになる。復讐としてはこの上なく完璧だ」
私は衝撃で頭がくらくらした。ミステリーには交換殺人というものがあるが、ある種それと似ている。
確かにこの方法を使えば、自分は蚊帳の外だ。九州の連続殺人犯が捕まった時も、ナナは言っていた。殺人は関連する人物や動機から探っていくから、面識のない人物や動機が不透明な場合は捕まえるのが難しいと。
しかし、なんとおぞましいことを企むことか――
「そしてここのドクターであるあなたならば、すり替える機会がある。行うとすれば新生児室だ。二人の赤ん坊が揃うのは新生児室だけだからだ。今村さんはドクターだし、知人に頼まれたから――そうだね、例えば、“お守りを届けるように頼まれたから”、なんて言えば、新生児室に難なく入れる。すり替えを行ったのは、恐らく人の少ない夜間でしょう。見張り番も、一人か二人だ。目を盗むのは至極簡単。邪魔だったら、しばらく僕が見てるから少し休憩でもしてきたら?と誘惑してやればいい。もしくは他の業務に当たらすか。
すり替え自体は、足の名前を書き換えネームバンドを交換し、場所を入れ替えるだけで済むからそう難しくない。服装は病院で配布されているものだし皆一緒だ。だから五分もかからないだろう。そしてすり替えてしまえば、看護師はもう気づけない。足に名前が書かれてあるのだし疑いもしない。
だが一番の問題は親に気づかれるかどうかである。これは両者とも親にバレる心配がある。しかし、“産まれたその日に”だったら、果たしてどうだろうか?考えてみてほしい、術後の疲れや陣痛の痛み、それに興奮もある。我が子の顔を見ていたとしても、新生児室に預けそのあいだにすり替えられたら、容易には気づけないのではないか。しかも一日目の夜は確実に預けてしまう。もしそのあいだにすり替えられてしまったら?誰が寝て覚めたら子供が入れ替わってると思うだろうか?足にもちゃんと名前が書かれている。父親の方も同様のことが言えるだろう、母親よりも顔を見る時間は少ないし。それに事実として、取り違いなんていう事件も起こっているのだ」
私はなるほどなと思った。
それなら確かに気づけないのではないだろうか。あれ?と思ったとしても名前が書かれているのだし、そこで納得してしまう。
ナナは手振りを交えなかまは
「何故病院で殺したのか?それは殺しのタイミングが入院中にしかないからだ。退院した後では外出先を狙うしかない。そうなると、親が絶対に引率している。赤子だけを殺すのはとても厳しい、怨みのない親共々殺さなくてはならなくってしまう。しかしそんなことは望んでいなかった。あくまで対象は赤ん坊。ましてや家に忍びよって殺すのも論外である。リスクが大き過ぎる。
病院内で殺すのも勿論リスクがある――いや、むしろリスクのない殺しなんてないのかも知れないけど――でも、この病院なら自分の庭みたいなものだ。看護師の見周り時刻も熟知しているし、病院内を歩いていても何ら不自然ではない。
そして、DNA鑑定もされないとあなたは踏んでいた。ここの病院で二、三日前に産まれたばかりだし、『川藤優衣』の病室で殺されていたのだから、当然、川藤夫妻の赤ん坊という認識だ。親も周りの者も、その認識だった。誰も入れ替わっているとは思わない。そもそも、身元不明の遺体でもなく明らかに絞殺なのだから、DNA鑑定なんてされない。だから犯行前から、あなたは気づかれないと確信していた」
ナナは続けて説明する。
「私はこのすり替え殺人を、なぜ川藤夫妻の赤ん坊が殺されたのか、と考えてみて、ふと思い至った。すぐさま、これだ!と確信した。私はその証拠を探すことにした。
このすり替えを行うには、当然ながら赤ん坊の条件が同じでなければならない。つまり血液型や性別が同じで、時刻は違えど、その日、一緒に産まれてなければないんだ。
ではこの推理が確かなら、“私が言うその条件に、川藤夫妻の赤ん坊が当てはまっていたことになる”。そして逆に言えば、川藤夫妻の赤ん坊と同じ条件の子供が、もう一人いるということだ。つまり、川藤夫妻と同じ日に産まれたA型の男の子が、この病院のどこかに。そしてその子のいる夫婦が、犯人が憎くて堪らない本当のターゲットということになる。……他愛もなかった、私は難なく見つけた。他に条件が合う子がいるか探してみた。同じ日に産まれた末永さんのとこがあったけど、でもそれは女の子だった」
「そうか、だから聞き込みをしていたのか」
「ええ、そう」とナナは頷いた。「結局、条件に合うのはその子だけだった。私の推理が正しかったと、半分は証明することができた。もう半分を証明するには、犯人を特定しなけれければならない。でも特定するのは至極簡単だ。犯人にも幾つかの条件があるのだ。この特殊な犯行を行うためには、それらを必ず満たしてなければならない。
一つは、ここで働く男性の看護師ないし医者であるということ。男性なのは検死の結果で明らかだし、ここで働いてなければすり替え自体、到底行なえないからだ。それにロビーや出入り口にはカメラが備え付けられているし、ますます外部のものでは有り得ない。
もう一つは、この病院で出産し今現在入院している知り合いがいるということ。しかも、その知り合いの赤ん坊が、“A型で、川藤夫妻と同じ日に生まれた男の子でなければならない”。そうでなければ犯人ではありえないし、この推理は破綻する。事実、これらの条件の全てを満たすのはそう簡単ではない。ただし犯人をして別だ」ナナはにたりと笑った。「そしてこの条件全てを満たしているのが、あなただ今村さん。これは論理的帰結、あなたが犯人だ。動機なんてものも、調べればすぐに解ることさ」
今村さんは――いや、今村は口をぱくぱくさせ何かを言おうとしたが、声が出ていなかった。なにを言ってるだ君は――おおよそこんなところだろう。
ナナは満足げに頷き、
「付け加えると、あなたがこのすり替え殺人を思いついたのは、子供が産まれたその日であると窺える。殺意はもともとあったのかも知れないけど、この姑息な殺人方法は条件に合う赤ん坊を前提としているし、予期してできるものではない。まあもしかしたら、リスクを覚悟でそれ以前に産まれた子供を使うつもりだったのかは解らないけど。どちらにしてもあなたに取っては幸運が起こった」
幸福。人を不幸にする幸福。私は不快感でいっぱいだった。
「でも、あなたのクソみたいな運ももう尽きた。赤ん坊のDNA鑑定だってすればいい。それに昨日確認したけど、新生児室の入り口には監視カメラがついていた。つまりこれを確認すれば、あなたが出入りした証拠がばっちりと写っているし、入れ替わっているという事実とも照らし合わせれば、ますますあなたは逃れられなくなる。どんな言い訳をするっていうのかな」
今村は苦々しく歯を噛み締め、拳を握っていた。
額からは、焦りの汗を吹き出している。
ナナの言葉に、ことごとく身をえぐられたのだろう。
言い知れぬ痛みを、私は胸に感じた。解決しても、真実は残酷だった。
私はいたたまれなくなって、でも確認しないわけにもいかなくて――
「じゃあ、やっぱり田中さんの子供が……」
ナナはこくりと頷いた。「そうなるね。」
その時、今村さんはこの世の真理に触れたように顔をはっと強ばらせ、私たちの後ろを、まるでこの世の終わりみたく呆然と眺めていた。
振り返ってみて、私も絶望した。
そこには、赤ん坊を抱えた田中さんが立っていた。真実を知った恐怖に足を震わし、赤ん坊を抱える手も同様に震えていた。目を泳がし、信じられない顔で私たちを見つめている。
ナナも苦りきり、舌を打った。
「田中さん、どうしてここに」と私は言った。
「あ、あなたたちの様子が可笑しくて、なにかあるんだと思って、看護師にも内緒でつけてきたの……」手足と同様、声もか弱く震えていた。「それで、それで柱に隠れて聞いてたら、ナナさんが、そんなことを言うから……。でも、信じられなくて、確かめようと思って」
ナナは目を逸らした。どんな言葉が正解なのか、解りかねている。珍しく狼狽えていた。
「ねえ、そんなまさか、ね。そうでしょ、今村くん……あなたがそんなことをぉ……」
田中さんは弱々しい足取りで近づいた。今村さんを見つめ、哀願するようにぎこちなく笑う。
今村さんは後ずさり、青い顔をして視線をさ迷わせた。
「あなたが、私のことを好きって言ったのは、高校の頃の話でしょ?もう何ともおもってないって言ってたじゃない?だから、こんなこと――ねえ、答えてよ!」
「う、うるせえ!き、きみが、きみがきみが君が悪いだぞ!あんな男と結婚するから」
「じゃあ本当に……!」
吹っ切れたのか、途端に今村は勝ち誇ったような顔をし、
「そうさ、そうさそうだとも!ずっと殺してやりたかったんだ!君が僕の気持ちも知らずこの病院に入院するなんていうから、こんなことになったんだぜ。仲睦まじく子供なんてつくりやがってよお!他の病院に行けばよかったものをォ。ハッハ!ああ神よ、あなたは私に味方してくれた!ハッハハハ――!!」
愉快で仕方がないらしい。今村は狂ったように笑い始めた。
高笑いが響き渡る廊下の中、田中さんは崩れ落ちるように膝をついた。声を出さず涙を流し、空虚を見つめ、絶望していた。
私はとてつもない怒りに包まれた。つまらない理由で友人夫妻を巻き込み、心をズタズタにし、田中さんをどん底に突き落とした。そしてなにより、罪もなければお門違いの理由で殺された赤ん坊を思うと、私の目の前は真っ赤になった。
ナナは、蔑むようにふんと鼻で笑い、
「今のうちに笑っておきなさい。あなたにこれからはないんだから」
その言葉に、今村はぴたりと笑いを止めた。次第に言葉の意味が解ってきたらしく、こくこくと顔色を悪くしていった。
「すべて終わりさ」
今村はぷるぷると身を震わし、恐怖に慄いていた。いずれ訪れるこれからを、頭の中で巡らせているのだろう。
「う、うわぁぁぁっ――!」
すると今村は、壊れたように奇声を上げ、背を向けて逃げ出した。
この期に及んで逃げようとするのか――そう思うと私は自然と駆け出していた。
「待てよっ!」
だが今村は速かった。瀬戸際に立たされた人間の卑しい底意地だった。
次の瞬間、ナナが声を張り上げた。「賢一さん伏せて!」
私はこの一瞬のあいだに思考をふるに働かせた――伏せて?なぜ伏せければ……?まさかナイフを投げるきかっ!?
飛び込むように身を伏せ、額を床に擦り付け、手を後頭部にやった。
今村の悲鳴と共に、ドサッと人が崩れ落ちる音が聞こえた。
顔を上げてみると、今村は曲がり角近くで倒れていた。右の二の腕に手をやり、喘いでいる。
私は立ち上がると、憎しみがこもった足取りで今村に近づいていった。
今村の腕には、メスが刺さっていた。いったい何処でくすねたのか。『100』の的をいとも容易く射るナナだから、急所は外しているだろうが。警察に問い詰められても、ナナなら上手く誤魔化すだろう
私は今村を見下ろした。今村は喘ぎながらも、なお這って逃げようとしていた。
メスを掴み、ゆっくりと引き上げていくと、その痛みに逆らえず今村は身を起こしていった。
「あ、アアア……!」
「痛いか馬鹿野郎。あんたは絶対に許さない! 二つの家庭も不幸にしやがって!お前にどんな権利があるってんだ!気持ち悪い自分の欲求ために、あの人は――!このバカ野郎があっ!」
今村は痛みに喘ぐばかりで返事はしなかった。
放るようにメスを離すと、今村は倒れ込んだ。そのとき曲がり角からナースが現れ、この異様な光景に悲鳴を上げた。今村から私に目線を起こし、まるで殺人者を見るかのような目付きで、おどおどと私をみていた。
「どうぞ警察を呼んでください」
そう告げると背を向け、田中さんのところへ向かった。後ろから、大丈夫ですか今村さん!という声が聞こえた。
田中さんは、赤ん坊を包み込むようにして抱きかかえ、膝を折っりぺたりと座り込んでいた。ナナはいたたまれない様子で田中さんのそばに佇み、見つめていた。
「田中さん……」
そばに近づき私は言った。
「いやっ!この子は私の子よ!誰がなんて言おうと――!なにがすり替えだ、そんなの嘘に決まってる、誰が信じるものか、この子は私の赤ちゃんよっ!」
私もナナも、それ以上はなにも言えなかった。かけれる言葉がなかった。
「絶対に、絶対にこの子は渡さない……違う、この子は私の赤ちゃんだ……」
田中さんからは、鬼から我が子を守り通そうとする、母親の意志が感じられた。
だが同時に、本当の場所に返して上げなくてはならないという、母親の悲しき愛情も、また感じた。
数日間ではあるが、確実に田中さんはこの子の母親だったのだ。その事実は、これからも変わらないから、私は悲しかった。