病院へ
朝起きて寿に連絡を取り、病院にはお昼頃向かうことになった。
昼食を終え少し休憩したあと、丁度いい時間になったので、そろそろ向かうことにした。私の胸はドキドキとワクワクで一杯だった。
「ナナ、そろそろ病院に行くから用意して」
だが彼女は生返事をしただけで、行動に移すことなくナイフを投げていた。
壁には木の板でできた的が貼られている。お手製ではあるがちゃんと真ん中から、『100』『75』『50』と丸の中に点数が書かれていた。今その的には、三本のナイフが刺さっている。ナナの仕業だ。三本とも『100』の的を射ている。
何故かナナは、ナイフ投げに熱を上げていた。ダーツでは駄目らしく、どうしてかと問うてみたら、ナイフを投げたいからだよと言われた。答えになってない答えだった。
この的は私が貼ってやったもので、なんと初めは壁に向かって投げていたのだ。その光景を見た私の悲鳴はといえば凄まじかった。賃貸だというのに!だから私が的を用意してやり、どうせならと点数も書いてやったのだ。
「ナイフ遊びもそうそうにして、早く用意しな」
「うん、解ったよ」
そう言ったくせにナナはまたナイフを投げた。しかし今度は『100』を射れなかった。ナナは苦々しく舌打ちをする。いい気味だ、私の言うことを聞かないからである。
ナナは用意のため隣の部屋へ向かったが、ああそうだそうだと振り返り、
「ねえ、ナイフも持っていっていいかな」
「いいって言うと思ったか?」
ナナは肩をすくめた。
母親に抱かれている赤ん坊は、入院中に提供される白い乳児服を着せられ、紐に巻かれているハムのようなぷにぷにの腕を小さく動かし、つぶらな瞳で私たちを見ていた。
今にも駆け出してしまいそうなくらい元気な男の子で、とても可愛らしいお猿さんであった。血液型はA型らしく、まさか本気で信じているわけではないだろうが、寿らは血液型占いの本を熟読していた。人間を四つに分けれるはずないというのに。
「やっぱ赤ちゃんは可愛いなー」と私は言った。「それで名前は?」
この質問には、私の親友でこの子の父親でもある寿が答えた。
「いやあ、それがまだ決めてないんだよ」
「そうなの、寿くんなかなか決めてくれなくて」
嫁さんにそう言われ、寿は面目なさそうに頭を掻いた。
名前は川藤優衣。歳は私らと同じである。優衣はやつれた様子で、先の戦いの疲労がまだまだ取れていないようであった。幸い部屋は個室だから、周りに気にすることなくゆっくりと体を休めれるだろう。
「名前は一生ものだからな、そりゃ慎重にもなるよ」と私は言った。「そうだ、じゃあエラリーってのはどう?」
「ばりばりの日本人だっちゅうに」
ふと気になりナナを見てみると、腕を組んで壁に寄りかかり、実験動物を眺めている科学者のような佇まいをしていた。そこまで珍しくもないだろうに。
私は優衣に両手を差し出すと、「いいかな?」と子供を抱かせてもらうように懇願した。
優衣は快く了承し、赤ん坊を抱かせてくれた。私は優しく片手で抱きかかえ、よしよしと体を揺すった。にこりと笑いかけると、心なしか喜んでいるような気がした。
「なんだか手馴れてるなー」
寿は関心したように言った。
「きょうだいも多かったしな、よく面倒見てたんだよ」
その言葉に、優衣は大発見したような顔をして、
「じゃあ時々面倒を見てもらおうかな」
「お、全然いいぞ」
私は軽く了承する。しかしナナは顔をしかめていた。
ナナに赤ん坊を抱くように促すと、渋面を作りながらも、爆弾を扱うような慎重さで抱きかかえた。くさいものを見るように顔をしかめていたが、ナナはぎこちなく笑って見せた。すると赤ん坊もこいつは悪いヤツじゃないと解ったらしく、キャッキャッと笑った。
いささかナナが乗り気ではないにしろ、そんな微笑ましい光景に、私の胸はほっこり暖かくなった。
私はナナらに目を向けたまま、
「なあ寿、優衣の親御さんは来てくれたのか?」
「ああ、今朝来てくれたよ」
「どうだった」
「やっぱ孫には弱いらしいな、終始にこにこしていたよ。といっても俺にはそんな顔してくれなかったけどな。でも、ねぎらいの言葉をくれたよ」
「そうか!良かったじゃないか」
「うん、ほんとに良かったよ」
二人は所謂、できちゃった婚というやつで、向こうの親にはいいように思われていなかった。若い愛娘を孕ませたろくでもない青二才と思われていたし、親族連中にも、昔からの受け継がれし伝統の言葉、最近の若いもんは、と苦言されていた。
二人の肩身は狭いことだったろう。まだまだ子供のくせに軽率な行為、子供に子供を育てられるのかと、全ては自分たちの幼さ故の批難である。致し方ないことかも知れないが、若い夫婦は傷ついたはずだし、同時に今に見てろとも思ったはずだ。いつの日か、この子の恥じぬ親になると、酒の席ではあるが寿は堂々と宣言していた。ただしビールは五杯ほど進んでいた。でもそれは、子を想う父の顔をしていた。私は素直に、カッコイイと思った。
ナナはもういらないと、慎重な手つきで赤ん坊を差し出した。かすかに手が震えている。
寿は赤ん坊を抱きかかえると、
「でもまだまだだよ、心から認めてもらえるのは。この子を立派に育て上げてからだよ」
「そうだ……、そうだよな。これから始まるんだよな!」何故か途端に嬉しくなり、私は声を大きくした。「頑張ってくれよ~」と寿の肩を叩いてやった。
「もちろんさ」
「何かあったら遠慮なく言ってくれよ」
「うん、ありがとう」
「ところでさ、いつまで入院するの?」
優衣は寿から赤ん坊を受け取ると、
「あと四日、五日かな」
「じゃあその間は新生児室に預けるの?」
「いやどうかなあ。まだ体力は完全に回復してないけど、やっぱり離れたくないっていう気持ちもあるしね。昨日は産まれたばかりだし預けなくちゃ駄目だったけど、今日は一緒に眠るかな」
「ふーん、そうか。でも無理のないようにな」
そんな会話をしていると、まるで通り雨のような突発さで赤ん坊が泣き出した。優衣が授乳の時間だと言う。部屋から出て行こうとすると、寿は気を使って俺も出るよと言った。
「ああ、ナナさん」と優衣がナナを呼び止める。「良かったら見学していかない?」
ナナは驚きまくってびびりまくって、首を振りまくった。
「いい機会じゃないかナナ、見学させてもらいなよ」
「えっ、え」
「じゃあ頼むよ、優衣」
そう言い残すと、哀願の瞳で見つめてくるナナを無視し、部屋から出て行った。これでいい経験になればと思う。
部屋から出ると、寿は壁に寄りかかり、ふうっと一息ついた。物思いにふけるような面持ちで、病室の扉を見つめている。
「でも未だに不思議な感じだよ……、俺が親になるなんてなぁ……」
まるで夢を見ているかのように寿は言った。
「俺もそう思うよ。子供の頃は漠然と、いつかは結婚して子供もできるんだろうなあって、さして疑いもせず思っていたけど、いざとなるとなぁ。俺もお前が親父なんて、信じられないぜ」
「だよなあ。でもこれまた不思議なんだけど、いくら夢見心地でも、こう、力が湧き出てくるんだよ。俺が守ってやらなくちゃっ、て」
「親っていうのは不思議な生き物だよな」
まるで親というものを知っているかのように、私は生意気に言ってみた。
「そうだ賢一、今日飲みにいかないか?」
「お、いいな。でも優衣はいいのか?」
「許してくれるだろーよ。一応何かあった時のために飲みすぎないようにするし」
私は頷いた。「よし、じゃあいこうか」
さあ、惚気やらこれからの意気込なんてのを、延々と聞かされるのだろうな。まあいいけど。私もそういう話、嫌いではない。
大学へ行く支度が終わり、バックを背負いリビングに向かう。
女性の方が色々と手間取り時間がかかりそうなものだが、ナナは既に支度を終えて、ボクサーのようにシュッ!と息を吐きナイフを投げていた。スポーツに打ち込む無垢な少年のように目を輝かせている。どれだけ好きなのだ。
にやっと笑っておもむろにナイフを二本掴むと、鮮やかな動きでシュッシュッ!と連続で投げてみせる。私は思わず唸った。見事、両方『100』を射ていた。
「正確無比。凄いな」
ナナはかすかに首を捻りこちらを確認したが、すぐに向きなおしてまたナイフを投げ出す。
「賢一さん、頭は痛くない?」
「え、ああ大丈夫」
頭が痛いかと問われたのは、昨日――ではなく今日の深夜二時まで飲んでいたからだろう。
「流石に眠いけどな。ちゃんと講義を受けれるかどうか」
「いつもはちゃんと受けてるような口振りね」
その言葉は私の胸をえぐった。
「そ、そういえばさ、昨日あまり喋ってなかったよな、病室で。緊張してた?」
「違うよ」とナナは顔色も変えず言った。「私は空気を読めないところがあるし、言葉というのは0歳児から吸収していくもの。だから下手な言葉は使えないし、どう喋ればいいか悩んでたのさ」
なるほど、彼女は子供が嫌いなわけではなく、どう接すればいいか解っていないのだな。このことを知れただけでも収穫である。連れて行って正解だった!
「よし、取り敢えず大学に行こうか。ほらナイフを置いて!――ん」
私は玄関の方へ首を向けた。チャイムが鳴ったのだ。誰だろう、こんな朝っぱらから。
当然のように対応するのは私とみて、ナナはそのあいだだけでもと嬉々としてナイフを投げ出した。狂ったような笑みを浮かべている。
廊下を渡り、玄関の扉を開けると、そこには二人の警察官が鋭い眼光を向け立っていた。
「なにか……?」
「少しお訊ねしたいことがありましてね、よろしいですか」
私は訝しげに顔をしかめた。
「どうしてです」
二人の警察官は困ったように見つめ合った。私はもっと訝しげに顔をしかめ、不安な気持ちを抑えた。すると、一人の警察官がとうとう重い口を開いた。
「実はですね、ご友人である川藤夫妻のお子さんが、殺されたのです」
目の前がぐらりと歪み、頭の中が真っ白になった。
「え?」
瞬時には、飲み込めなかった。