『復讐の兆し』
ぬるぽ
ガッ!
激しい音が教室に響いた。
とある中学校の放課後の教室。
生徒は皆、部活や委員会に行く時間帯。
だが、教室には、一人の男子生徒と彼を取り囲む四、五人の男子生徒がいた。
「おい。テメェ俺の女になに手ェ出してんだコラ」
「お前よくそんな冴えねぇ面で劉輝の彼女に釣り合うと思ったな」
「いや、分からなかったんじゃないか?こいつ見るからに馬鹿じゃん?」
そんな怒りに満ちた言葉や挑発、侮辱する言葉が教室を乱反射していた。
しかし、その矛先となっている少年はただ黙るばかり。
そんな態度が気に食わなかったのか、劉輝と呼ばれた男子生徒が、黙ったままの少年の胸ぐらを掴んだ。
「なんか言えや」
静かに、しかし威圧のある低い声で少年に呟く。
だが、
「・・・・・」
少年は沈黙を保ったまま。
その顔には、焦りや恐怖といった感情が滲み出ていた。
「テメェ黙ってりゃ許してもらえる、なんて思っちゃいねぇよな?少なくとも骨二、三本は持っていくからな。」
黙ったままの少年にも飽きたのか、劉輝は腕を思い切り振りかぶった。
「ッ!?」
その瞬間、少年が不規則に暴れだした。
生存本能が働いたのか、腕を振り回して胸ぐらを掴んでいる手を解こうとしたのだ。
だが、劉輝の振りかぶった拳が少年を殴り飛ばそうと飛んでいく。
当たればよければ打撲か、悪ければそれ以上に至っただろう。
だが、
バキッ
中学校の教室にはとても似つかない鈍い音が、静まり返った教室に鳴り渡った。
「う、うがぁぁぁぁ!?」
悲鳴をあげたのは、劉輝だった。
そして、彼の振りぬいた腕は、決して曲がるはずのない方向に痛々しく曲がっていた。
おそらく、振り回されていた少年の腕が、ちょうど彼の力を別の方向へ逃がすことに成功したのだろう。
彼の人より優れた膂力が引き起こした、不幸な事故だった。
「て、テメェ……何しやがる……っ」
劉輝が腕を押さえながら呟いた。
その視線の先には、振り回した腕を見て恐怖に震えている少年の姿があった……
……嫌な夢を見たな。
時は移ろいで四年。
少年こと、佐藤弘明は、今年で高校二年生。
怠い身体を洗面所へと動かす。
(今日は割と軽めの夢だったな)
そんなことを思いながら家を出た。
今は家族と離れて暮らしているため、ここ何年かは朝食を摂らない生活が続いている。
家族と離れて暮らすようになったのは、四年前の秋。
ある事件がきっかけで、家族はバラバラとなった。
中学児童暴行事件。
とある男子生徒が友人に暴力を振るい、その結果、暴力を受けた少年は腕を複雑骨折。
暴力を振るった理由は、恋愛関係が拗れた末、怒りの矛先を怪我を受けた少年に向けたという。
メディアはこの事を、児童のいじめやその類を防止するよう大々的に取り上げた。
暴力を振るった家族には、何千万という賠償金が要求され、その少年の家族はバラバラになったという。
学校に着いたのは8:25頃。
「馬鹿」「犯罪者」「クソ」、そんな言葉がマーカーやスプレーで描かれた下駄箱を開け、ボロボロになった上履きで教室に向かった。
目的の教室からは、廊下にいてもうるさいくらい賑やかだった。
教室の扉の前まできて、静かに扉を開く。
中に入ったのとほぼ同時に、今の今まで賑わっていた声が静寂に変わった。
そして、ひそひそ声が教室内の所々で囁かれ始めた。
もう毎度のことで慣れてはきたが、やはり心にくる。
「あいつって、友達の彼女に振られたからって、その友達の腕折ったんだって」
「えーまじー?」
「流石に振られたからって他人に暴力振るうなよって思う」
「うん思う思う」
所々でそんな囁き声が飛び交う中、弘明は、絵の具で「死ね」と描かれた机の中に、淡々と荷物を入れていった。
"ガラガラ"
前の扉から担任の滝藤先生が入ってきた。
先生は教室を一通り見回した後、出席を取り始めた。
「安藤」
「はい」
「市川」
「はい」
出席確認が続いていく。
そして、
「近藤」
「はい」
「佐川」
「はい」
「えーと、」
そう言いながらこちらを一瞥した後、
「紫乃宮」
「はい」
「佐川」と「紫乃宮」の間に誰もいなかったかのように、続けていく。
始めの頃、この高校に入学して間もない頃からこのような不当な扱いを受けていた。
その時、幾度となく泣きそうになるのを無理やり抑え込んだが、もう今となっては習慣化してしまった。
比較的弱かった自分のメンタルは崩壊寸前まで追い込まれ、いつ崩れてもおかしくなかった。
そのおかげ(?)か、他人に対して哀れむ心が正常に機能しなくなった。
いいことなのか悪いことなのか、それは判断しかねるが、この状況においてはプラスに働くと確信している。
なぜなら、何をしても罪悪感や哀れみを感じないから。
これは持論だが、いじめを受けている者はその苦しさを知っているが、いじめている側からすれば、そんな苦しさなど知ったことじゃない。
だが、いざ加害者から被害者に変わると、今まで被害者だった者は、今までされていたが故、その苦しさをよく知っている。
だから、今までに恨みを持った相手であっても、危害を加えることはそれほど容易にできるものではない。
しかし、それは罪悪感や哀れみの感情からそのような心情になるわけだ。
つまり、罪悪感と哀れみを感じないとあれば、痛めつけるのは容易にできる。
そして今、弘明の手には一冊のノートがある。
その中身は、今までに弘明の恨みを買った多くの人物の「弱み」が書かれている。
このノートは、今まで受けに徹してきた弘明の努力の結晶。
そして唯一の反撃の武器。
ただ暴力でいたぶるのは、一瞬の優越感に過ぎない。
しかし、このノートがあれば、社会的な死に、最悪、いや最高の場合、相手を自殺に追い込むのも可能。
ポスッ
不意に何処かからか、丸めた紙が飛んできた。
クシャクシャになったその紙を広げると、
「クズ」
そう書かれていた。
……よし、そろそろかな。
本当はもっと後に動こうかと思っていたのだが、もうそんな考えは吹っ飛んだ。
殺そう。
そしておもむろに席を立った。