~ありきたりな日常の中で~
名前、それが仮初でも自分のものであると認識できることは、おぼろげな自我が固形として凝固していくような感覚を貴方は覚える。自分は、ヴェルという存在なのだと、思えることが幸福なことだった。
「何呆けた顔してんのよ。わかってる? 腑抜けならおいてくわよ」
彼女が未だに怒った様子なのも、許せる。いや、言葉として正しくはない、そうあることを受け入れる余裕ができた。自分が自分であると確信し、それは他の存在がいることを認識して許容できることなのだと、貴方は思い微笑む。
その瞬間に振り向いたのだろう、その笑みにも、なんかおかしいことでもあったのかと噛みついてくる。先ほどまでは落ち着かなかった貴方だが、しっかりと名前を呼んでくれて嬉しかったと答える。
「へ? 別にあんたの名前じゃないでしょ。マリーの付けた名前なのに、何が嬉しいのよ」
それに、怒っているだけだと思っていた彼女だが、表情はコロコロ変わる。怒ってみたと思えば、戸惑ったり、そういえばラルクが妙なことを言った時も、怒るというより恥ずかしがっているようにも思える。
貴方がニコニコしているのが落ち着かないのか、とにかく来なさいと言葉と共にクルダは先へ行く。それに貴方も従う。
マリーから、貴方とクルダはある仕事を任されていた。第一階層にある村で生産している食料の受け取りに、貴方達はそこへ向かっている。実はこの第一階層のある程度は入塔者の手により、自分達の領地として確保しているのだ。確かに浮島にいる人間の数は少ない、しかし、それに対して浮島自体が広い訳ではなかった。そうなると、新たに入植地を作る必要があり、そしてあるのはこの塔だけ。
第一階層は危険と言える存在がいなかったから出来たとも言える。しかし、それは他の階層に比べればという前提を持っての話。この階層でも犠牲者が出なかった訳ではないし、現に今も、マリーが敵を一刀両断で切り伏せたような、敵は存在するのだ。
敵は人の形はしている、違うのは鋭い爪と赤い目、全身が紫色を帯びた肌色。そこまで観察した辺りで、空間に溶け込むように消えていった。
「…普段は洞窟とかでこそこそしてる奴なんだけど」
何かしたのかと、視線でこちらに訴えてくる。もちろん、貴方は何もできないからクルダに着いてきているのだ。そのことを伝えると、彼女もそれもそうだと頷くしかなかった。
今度はあなたの番だった、何も知らない貴方は先ほどの敵について聞く。普段は洞窟にいるようなタイプの敵で、外に出てくるとしても今のような昼間ではなく夜ぐらい。簡単に倒せる相手ではあるが、爪による攻撃は注意する必要があると説明を受ける。
「縄張り争いでもあったのかもね。ヴェル、いい? あたしから離れないでよ」
貴方は頷く。もし仮に彼女からはぐれた場合にできるのは先ほどの階段まで逃げることしか、貴方はできないのだから。
しばらく歩き続けていると、村が見えてきた。出入り口には守衛が1人立っているのも見える。クルダが目的地に着いたことを告げ、貴方は話に合った食料はどこで受け取るのか尋ねる。
「ここの村長が準備してるはずなんだけど…。聞いてくるわ」
先に守衛へ向かってクルダはかけ走り、話をし始めた。徐々に聞こえてきた内容と2人の表情から、あまり良い状況ではないのはわかった。
クルダは、側まで来た貴方に体を向け。
「さっき倒した奴と同じの。ここを何体か襲ったみたい。村長はその討伐だって。あたしも手伝いに行ってくるから、ここで待ってて」
そして向かおうとする彼女の肩を、貴方は掴んだ。
起きていること。
そもそれが変化。