プロローグ
初投稿です。拙い文章ですが、楽しんで頂けたら嬉しいです。では、どうぞ!
空がだんだんと赤み始め、樹木や地面も同じ色に染まる森の中で、一人の女が木陰に隠れて十数メートル先の様子を伺っていた。女の目線の先にあるのは一際大きいメリアの木の洞に置かれ、白い布に包まれた赤子だった。女がここまで抱えて運んだ赤子である。
しかし、それは女とは似ても似つかない。それどころか、人の姿をしていなかった。
その赤子は獣の姿していた。
灰色や茶色の混じった黒くふさふさとした毛に頭上の三角耳、まだ小さく可愛らしい尻尾。
……狼である。
赤ん坊というのは種別問わず可愛いものだ。女にもこの狼の子は例外なく愛らしく見える。だが、それも自分の腹の中から産まれれば別だ。
産まれ落ちた我が子を見て発狂しそうになった。
実は元々獣の耳や尻尾が生えているのは想定済みだった。子供の父親は獣人だったからだ。
しかし、彼女が見たのは全身を獣毛に覆われた狼の姿だった。
いくら獣の血が流れているといっても、完全に人の面影を残さないなどありえない。
女は恐怖した。
そして今、彼女は自分の子を手放そうとしていた……
このミクベクレンの森はシェヘルティア王国の北西に位置するメリアの木の大森林である。
メリアの木は甘い樹液を出し、薬に混ぜて使われることがある。苦い薬を飲みやすくするためだ。栄養価も高い。
女はボルド村(ミクベクレンの森の手前に居を置く集落)の薬師だった。
メリアの樹液も使うし、採取するためにミクベクレンの森に入ることもよくある。といっても森の手前の方までしか入ったことはない。
ミクベクレンの森の奥の奥には魔境が存在し、恐ろしい魔物が跋扈しているのだ。
もっとも、森の手前の方で現れたという話は聞かないので、メリアの樹液を採るだけなら危険は少ない。
それに、「魔物狩人」の存在がある。
あまり知られていないが、魔境付近に住み魔物を退治する専門家のことだ。この世界、武術・剣術・魔術を心得ていれば魔物に対抗できるが、魔境付近を管理する者達を特別に魔物狩人と呼ぶ。魔物狩人のいる地域の人々が魔物の脅威にさらされることは極めて少なかった。
ただ、魔物狩人が表に出てくることは少なく、人々も敢えて危険な魔境の近くには寄らないため、その存在を知る者は魔境付近の住人か国家機関に従事する者ぐらいだ。
ミクベクレンの森にも魔物狩人が住み着いている。そして女のねらいこそこの魔物狩人だった。
メリアの樹液は森で暮らす者にとっても嬉しい栄養源だ。現に彼女はミクベクレンの魔物狩人がメリアの樹液を採取している所を何度か見かけたことがある。
それはいつも同じ場所だった。そしてそれが大きな洞に赤子を寝かせたあのメリアの大木だった。
女にはもう一人幼い子供がいる。二年前に別れた人間の男との間に生まれた、純粋な人間の男の子だ。
もしこの狼の子が人間の精神を持たない獣だったら?もし村の住人に姿を見られたら?
1年前に出会った獣人の男は子供が生まれる前に突然姿を消してしまった。
女には頼れるものが何もなかった。
そこで彼女は魔物狩人に目をつけた。ミクベクレンの魔物狩人を見かける時、いつも一匹の狼を連れていたからだ。
彼ならもしかしたら…この狼の子を同じように育ててくれるのではないか。疲弊していた彼女には、その考えが天啓のように思えた。
こうして現在、彼女は魔物狩人の男がやって来るのを持っているのだった。
木陰に隠れて待つこと三時間。赤く燃え上がる太陽が地平線に沈み込み、赤から青への変転が起こる頃、遂に一人の男と付き従うように寄り添う一匹の狼が現れた。
例の魔物狩人だった。
女は息が漏れぬよう口を手で覆い、身を強張らせた。
男が真っ直ぐに大木に向かう前に狼が先に赤子に気付き、男に一鳴きする。
女は更に鼓動が速くなるのを感じた。
男は洞の中を覗くと固まったように動かなくなった。数分して赤子を抱えてのっそりと立ち上がり、メリアの樹液も採らずにその場を去って行った。
女は男があっさりと赤子を連れて行ったことに驚きながらも緊張を解いた。空は徐々に紺に染まり、周囲も薄暗くなり始めた。
「う…あぁ……うぅ…」
女は自分の口から嗚咽が漏れるのを聞き、再び口を押さえた。自分には泣く資格などないのだ。どんなに言い訳をしても自分の行いは正当化されない。
自分の子を 捨てた のだ。
女は勢いよく走りだした。木々の小枝に服が引っかかり、あちこちがほつれたが、彼女は全速力で森の中を駆けた。
そんな彼女を月明かりの影が追いかけていった。
女は知らなかった。
獣人の男が「純血統」と呼ばれる血筋だということを。
女は知らなかった。
五年もすれば、獣の姿から完全に人の姿に変わることを。
女は知らなかった。
この赤子が後にこの世界に変革をもたらすことを。