第1話その4
幼い頃、父の実家がある田舎町の夏祭りに行った。
地元の企業なども参加していたため、田舎の割に祭りの規模は結構大きかった。
しかし、賑やかなことにさほど興味の無かった俺は焼きそばやたこ焼きといった屋台の食べ物を食べた後、何をするでもなく会場をぶらついた。今考えてみれば、親よ子供から目を離すな、と思う。
そこで、泣きじゃくっている女の子と出会った。
とても綺麗な花柄の浴衣を身に纏った女の子。
年は俺よりちょっと上かもしれない。
何があったのか尋ねると、親とはぐれて迷子になったという。
女の子の手を握り、祭り会場入口付近にある迷子センターへと連れて行った。
「ここで待っていれば、すぐにパパとママに会えるから」
そう言って俺はセンターを後にしようとした。
が、女の子は俺の手を離そうとはしない。
「寂しいから一緒にいて……」
女の子はそう言って聞かなかった。
なんとかコミュニケーションを取ろうと、とりあえず名前を訊く。俺が先に名乗ると、女の子は消え入りそうな声で自分の名を答えた。
次にゲームをして遊んだ。思いの外ハマったのか、いつの間にか女の子は元気を取り戻し、可愛らしい笑顔を見せてくれるようになった。
それからしばらくして、会場に流れた迷子のお知らせを聞きつけて女の子の両親がやって来た。
その姿を見るやいなや、女の子はすぐさま駆け寄って母親に抱きついた。母親はヨシヨシと女の子の頭を撫でていた。
女の子の両親は俺やセンターの係員に礼を言った後、今度ははぐれないように女の子を手をしっかりと握りしめた。
「あれ、どうしたの?」
センターを出て行く直前、女の子は俺の方に歩み寄り、
「……!」
無言で頬にキスをしてきた。
周りの大人達はあらあらと二人を微笑ましく見つめる中、俺は女の子の突然の行動に、ただ呆けて立ち尽くすしかなかった。
何か夢を見ていた気がする。過去の出来事を夢という名の映像で見ていた気がする。
だが、その内容の大半は目覚めた時点で、すでに頭の中で霧散していた。
「ここは……そうか俺、倒れて……」
視界いっぱいに広がる天井。ほんのり香る消毒液の匂い。そして、シーツの感触。
どうやら俺は保健室のベッドに寝かされているらしいと、なんとなく知覚した。
「よかった、気がついたんだね」
声と、目の端に捉えた人の影。左側に視線を少し動かすと、俺の目覚めに安堵の表情を浮かべる銀髪の麗人の姿があった。
「先輩……っ」
俺は上体を起こそうとして、ふらつき倒れそうになる。それを先輩は、すんでのところで支えてくれた。
肩に女性特有の柔らかな膨らみが僅かに触れ、先輩が次の言葉を発するまでのしばしの間、思考が止まった。
「大丈夫かい? あまり無理はいけないよ」
「あ、すいません……」
「先生によると風邪だろうとのことだ。幸い、明日明後日と休日だし、ゆっくり静養するといい」
その言葉に俺は、はい、と短く返した。
そして、そういえばと言って先輩に問いかける。
「俺がこんなことになって中断しちゃいましたけど、先輩が生徒会室で言おうとしてたことって一体何なんですか?」
ややあってから先輩は、
「まぁ……急いでいるわけじゃないし、それは後日改めてということで」
と、俯き加減で言った。はぁ、そうですか、と俺は返す。
この時の俺は先輩の頬が仄かに赤かったことに、さして疑問は抱かなかった。
ふと、視線を窓に向ける。
夜の闇が徐々に空を染める夕焼けのオレンジに取って代わろうとしていた。
「結構暗くなってきたなぁ」
と、俺は呟く。
同じく窓を見ている先輩は、あぁ、と答える。続けて、
「君が倒れてから一時間くらい経ったからね」
「え、そんなにですか? その間、先輩はずっとここに……?」
と、俺は先輩の方に顔を向けた。
「そうだよ。目の前で倒れられたのに、それを放置して帰るわけにもいかないからね。先生も忙しそうにしてたし」
「なんだか申し訳ないです。迷惑かけてしまって」
「気にする必要はないよ。今日は特に予定もなかったしね。……さて、そろそろ帰らないと」
はい、と頷き、俺はベッドから降りて帰り支度を始めた。
外に出ると、さっきよりも夜の闇がその勢力を強めていた。
星が瞬き始めた空を眺めていた、その時。
近づいてくるドカドカと急いでいるような足音。
その音が残り1メートル弱まで接近してきたところで、
「りゅー君!!」
視界が突如として暗転する。
顔面を襲う水風船かゴム毬のような弾力のある膨らみ。全身を締め上げる痛み。そして、鼻と口を塞がれたことによる息苦しさ。
足音の主が俺に飛び掛かって力強く抱きしめてきたのだ。
「りゅー君、大丈夫?」
「いや……姉さん、貴女のせいで今にも天に昇りそうなんですけど……」
くぐもった声で答える。
「え? それって気持ち良いってこと? やっとお姉ちゃんの魅力に気づいたのね。すっごく嬉しい!」
時折、姉の思考が理解できないことがある。今のように。
「違うから。都合のいい解釈をするんじゃない」
なんとか顔だけ拘束から脱出して奪われた視界を取り戻す。
既に下校していたはずの姉が何故現れたのか話を聞いてみると、スーパーで夕飯の材料を買い出し中のところ先輩から連絡を受けて、あと十分ほどで半額シールが貼られる惣菜に後ろ髪引かれる思いを抱きながら駆けつけてきたのだという。
「でもホント、りゅー君が無事で良かったわ」
体を締め付ける力が強くなる。
「やめてっ、磁石の力のロボットの必殺技みたいになるから、やめて」
姉から一方的な愛情を受けていると、フフッという先輩の微笑み声が聞こえた。
「それじゃ、お大事にね」
「あ、はい。今日はありがとうございました」
「ありがとねー」
俺は礼を言い、姉は言葉と共に手を振った。
別れの挨拶をすると先輩はゆったりと落ち着いた歩調で去っていった。
姿が見えなくなるのを確認してから、ふと、
……あの時、先輩は何を言おうとしたんだろう。
彼女が言いかけていた言葉の先を、未だ熱でぼやけている頭で考えながら、俺は姉を引き剥がして帰り道を歩き始めた。