第22話
護衛兼従者のようなもの、という説明とともに、リチャードはマリアベルの傍に付くことになった。彼女がそのことを納得しているかはともかく、この件についてはとりたてて問題は起こっていない、いまのところは。
むしろ問題と言えば、別にある。もうしばらく王都のアルフォード邸に滞在することになったマリアベルだが、なにぶんこちらに知人友人親戚のたぐいはいない。屋敷のひとたちはよくしてくれるが、日中は彼らにも仕事がある。
要するに。マリアベルには、することがない。刺繍やら何やらで時間をつぶすことはできようが、かといって、それが楽しいわけではない。
「こういう時、貴族のお姫さまは、どうやって過ごすのでしょうか」
「さあ………アルフォードの姫君、つまりレイトアルシュさまの妹君は、毎日勉強に励まれていらっしゃいますよ」
「お勉強?」
「確か、礼儀作法と立ち居振る舞いからはじまって、詩歌、香合わせ、話術、共通語と古語、貴族名鑑の暗記、王家の歴史、南国の政治状勢………」
指を折ってリチャードが数え上げていくものに、マリアベルはまばたきをした。話術くらいならともかく、女性が政治まで学ぶとはとても珍しい。だが、アルフォードの姫君といえば第二王子殿下の婚約者だ。未来の第二王子妃ともなれが、それくらいのことが求められるのだろうか。
「大変、ですね」
「でしょうね。ここのお屋敷も、姫君にお教えするための教師やら学者が毎日出入りしていますよ」
想像するだに恐ろしいが、貴族の令嬢としてはそれが普通のことだ。婚家で恥をかくようなことがあっては実家の名に傷が付く。なので、どこの家出も優秀な教師をたくさんつけて、教養から何まであらゆることを身に付けさせようとするのが普通だ。
自分もそろそろ相手を見つけないといけない時期だな、とマリアベルもぼんやり思ったりしてみる。いまのうちから勉強しておくべきだろうか、と考えて、現状ではそれもままならないことを思い出す。シオン―――実は王家の貴公子でした、という出自がついてきた彼の真意がどこにあるのか、マリアベルにはいまだにわからない。
「―――そうだ、本」
「え?」
「あの、詩集や小説ではなくて、字の本って、ないでしょうか」
「字の本。詩集や小説以外の………」
リチャードはちょっと考え込むそぶりを見せる。世間一般に、女性とはあまり小説など読まないものとされている。読んでも詩集、あるいは娯楽小説。そのくらいだ。
「ええっと………まさか軍書は読みませんよね………」
マリアベルは首を振る。そうですよね、とつぶやいてしばらく考え込んでいたリチャードは、そうだ、と手を叩いて顔を上げる。
「図書室! 図書室に行きませんか。お屋敷の本のほとんどは、そこにあるんです」
「構わないのですか?」
本とは高価なものだ。そして貴重でもある。他家の蔵書に勝手に触ってもいいのだろうか。
「屋敷のなかは自由に使っていいと、許可はいただいてあるんです」
行きましょう、と立ち上がるリチャードの瞳は、きらきらと輝いている。
図書室―――書庫に行く、といって部屋を出たものの、それから先が長かった。
リチャードの案内で、マリアベルは広い屋敷のなかをあちこち歩き回った。彼の話によると、アルフォード公爵家の書庫とはそれだけで独立したひとつの建物になっているのだという。なんでも、屋敷の離れをまるまる占拠して、それに改装をして書庫にしたのだとか。
「それにしても、本当に広いお屋敷ですね」
「そうですね。俺もいまだに迷ったりしますよ」
もう三年も仕えているんですけどね、と彼は言う。三年、と繰り返してマリアベルは頭のなかで数えてみた。リチャードは自分よりひとつ下だから、三年前というと、十二歳の時から奉公に出ている計算だ。
「でも、四公爵家のお屋敷なんかはもっと大きいですよ。ここのお屋敷の倍くらいはあるかな」
「二倍!」
まったくもって想像の外にある世界だ。
「お屋敷に住んでいる方は、迷わないのでしょうか」
「お屋敷にある部屋は、半分以上が来客用だったり宴用だったりで、普段は使わない部屋ですからね。それに、公爵一族と使用人とでは、立ち入る領域も違いますし」
「たしかに」
考えてみれば、貴族の住むところには、使用人が働くためのスペース―――例えば洗濯場や炊事場など―――がそれなりの割合で占めていたりする。マリアベルも、幼い頃リールの城の厨房に入ろうとして、礼儀作法の教師から叱られたことがある。貴族の踏み入れる場所ではない、といって。そんな昔のことを思い出していると、ふいにリチャードが声をあげた。
「ああ、ここですよ」
目の前にはドアがひとつ。リチャードが開けてくれる。それは、外へ繋がる扉だった。すぐ足元から細い石畳の小道が伸びていて、二階建ての離れへ続いている。
「あの建物が、書庫?」
「ええ。―――よっ」
リチャードは軽やかに地面に飛び降りる。マリアベルもそれに続こうとしたが、屋敷の床と地面とは段差がかなりあって、ドレスを着たまま降りるにはいささか苦労しそうだった。
「大丈夫ですか、マリアベル姫?」
「ごめんなさい、すこし―――」
待って、と、言おうとしたのより早く。
驚くほど至近距離から、リチャードの声で囁かれた。
「失礼」
「えっ? きゃあっ!」
彼の腕が伸ばされたと思ったら、次の瞬間、いとも簡単にマリアベルのからだは持ち上げられていた。それからわずかな浮遊感があって、気付くと、マリアベルはリチャードの腕に完全に横抱きにされている。いわゆるお姫さま抱きというやつだ。
「ちょっと揺れますよ」
そう告げて彼がマリアベルを持ち上げたまま歩き出す、と予告通りに確かに揺れた。
まさかとは思うが落とされたりはしないだろうか。不安になって、目を閉じてぎゅっ、とリチャードにしがみつく。足が地面についていないというのは存外奇妙な感覚だ。目が回りそうでもある。怖さと不安感のためかどきどきする。そういえば、同年代の異性と接触したことなど、なかったのに………。
「マリアベル姫、大丈夫ですか?」
「あ、はい」
「着きましたよ」
彼のシャツから慌てて手を離したが、思い切り掴んでいたせいで皺が寄っている。地面に降ろされると、先ほどの浮遊感の残りか、すこしふらついた。まだ揺れている気がする。運ばれていたのは、そんな長い間のことではなかったのに。
「なかに入れるかな。鍵は………もともとないみたいですね」
リチャードが扉の握りに手を掛けると、ガチャン、と重たげな音とともに把っ手が下へ押しさがった。建物自体は瀟洒な白の平屋づくりなのに、西国風の扉だけが重々しくも武骨なつくりになっている。
扉を開けた瞬間、ふたりは思わず声をもらした。建物のなかは、書庫というより、ほとんど物置のような有様だった。それがただの物置とは違うのは、置かれているのがすべて本である、という点だろう。入り口に敷かれた絨毯の上から本と木箱ばかりが床を埋め尽くさんばかりに置かれ、元はそう狭くもなかったはずの廊下も、なんとか通路が残っているような状態である。
「すごい………」
「えっ、と。マリアベル姫、ここが図書室………のはずなんですが………」
確かに本はたくさんある。というか本しかない。ところどころに置かれている木箱、あの中身も現状からするにおそろく本なのだろう。
「すいません、こんな所だとは思いもしなくて。定期的に人が入っているはずなんですけど」
「でも、なか自体はきれいですね。お掃除がしてあるみたい」
ほとんど「乱雑一歩手前」のような状態で置かれ―――というか積まれている大量の本だが、手近な一冊を手に取ってみると、それ自体の状態はよかった。この部屋も、窓を開けてあるのか空気もよどんでいないし、埃っぽくもない。少なくとも、定期的に人が入っている、ということは本当のようだ。
「えっとですね、扉を開けて突き当たりの部屋に、歴史の本は置いてあると言われたんですが………」
「この突き当たりの部屋、ですか」
「はい。ここを通り抜けないと、いけないみたいですね」
ここ。とは、この本の道のことだ。人間ひとりが通るには十分な幅がとられているものの、目の前からうねうねと伸びる道は、ひどく長く感じる。途中で服の裾を引っ掛けたりしそうだ。ここにある本が崩れたら………とは、あまり考えたくない。ひとつの山が崩れるだけではとうてい済みそうにない。
マリアベルは思い切ってドレスの裾をたくしあげてみた。これなら、通ることができる。
「マリアベル姫!?」
「行ってきます。すぐに戻りますから」
「なら俺も行きます!」
「リチャードさんはここにいてください。もしふたりとも本の下敷きになったりしたら、助けを呼ぶひとがいませんから」
そう言われると、それに対する反論は浮かばない。それに、もともとマリアベルのためにここまで来た以上、引き返すと、また何もすることのない退屈な状態に戻ってしまう。
「じゃあ………お気を付けて」
「はい。行ってきます」
散らかっているのは廊下だけのようだ。目当ての部屋になんとか滑り込んだマリアベルは、室内の有様に驚愕の声をもらした。片付いている。廊下との差、扉一枚へだてただけなのに。
とはいえ、それはあくまでも廊下のように本が積み上げられてはいないだけで、室内にある本の量もまたおびただしい。
「やっぱり、すごい………」
低くない天井まで届く書架が壁全面を覆っている。そこには一切の余りもなく、ぎっしりと詰め込まれた本。腰の高さくらいの丸テーブルには誰かの読みかけらしい、紙片が挟まった本が数冊積まれている。そこに広げられた羊皮紙には筆記用の崩した書体で数行、何かが書き付けられている。異国語らしく、読むことはできない。木製軸のペンと、青いガラスのインク壺も置かれている。
誰かがいた痕跡だ。ということは、この部屋―――この建物に立ち入っている人間がいるということ。しかしいまは誰もいない。静かすぎる部屋のなかは、古い書物特有の紙の香りと、まだ乾いていないように漂うインクの香りがいりまじる。まるで、日常の世界から切り離されたようだ。
「―――そうだ、早く戻らないと」
あまり待たせてもいけない。リチャードは心配するだろう。
ざっと壁の本棚を眺めて、そこに収められた本の数にほとんど感嘆する。異なる言語で書かれた神話・歴史の書物ばかりこれほど集めたとは。
「えっと、『神話変遷史』………」
ずらりと収められた本のなかで、ある一冊が目を引いた。白い革の装幀に、金の素っ気無い簡略文字でタイトルが書かれている。これならおもしろそう、と思ったが、ずいぶん高いところにあって手が届かない。脚立は、と探したが、見つけたそれの上には本が乗っかって、積み上げられている。わざと狙ったのか異様に分厚い本ばかりで、どれも百科辞典並みの厚みがある。持ち上げてどこかに移動させるだけでも苦労しそうだ。そしてそもそも、勝手に動かしていいのかもわからない。
もう一度、試しに思い切り背伸びをして、手を伸ばす。それからぴょんぴょん飛び跳ねてみると、背表紙に指の先が触れた。
「あ! おしい―――」
「―――これが取りたいの?」
ふいに。何の前触れもなく、背後からひとの声が聞こえた。驚きのあまり思わず硬直したマリアベルの顔の横から腕が伸ばされ、視線の先にある白い本をするりと抜き取った。
はい、と差し出されたそれをマリアベルは何も考えずに受け取ってしまった。驚きの余韻がまだ残っている。が、とりあえず礼は言っておくべきだ。
「あ、ありがとうございま………」
うしろを振り返ったマリアベルは。そこで、再びの驚愕に襲われた。
そこに立っていたのは―――なんと言おうか、奇妙な人間だった。
まず背が高い。マリアベルよりゆうに頭ひとつ分は差がある。それから、何故か夜会服と思しき華やかな仕立てのシャツと上着に、乗馬用の脚衣とブーツを履いていた。
そして何よりも。
その人物は、くせの強い前髪に目元が覆われていて、顔がわからなかった。
「何を書いているんだ?」
「―――まあ」
後ろからのぞき込み声を掛けると、リアーナは顔をあげて手にしていたペンを置いた。振り返った彼女の蒼の瞳に、アーヴィン侯爵オルテローシュはかるく笑いかける。
「いらっしゃったなんて。びっくりさせないでほしいですわ、お兄さま」
彼女はそう言ったものの、その表情には驚いた様子など欠片もない。リアーナに限らず、上流階級の人間はたとえ家族の前であろうと感情をさらすことなどめったにないものなのだ。それはオルテローシュも同じである。もちろん、わざと怒ったふりをしたり、ということはあるが。
「手紙なんて珍しいな。恋文か?」
「違いますわ。そんなもの、書いても出す相手がいませんもの」
「シオンがいるじゃないか」
「あら、シオンさまはアルフォード家臣の令嬢に求婚なさったのでしょう?」
平然と答えたリアーナの本心を、見抜くことはオルテローシュにもできない。年頃の少女の噓の上手さは異常だ、とオルテローシュは常々思っている。
「リアーナ、怒っているのか?」
「どうして。わたくし、別にシオンさまの婚約者というわけでもありませんもの」
確かに正式な話はなかった。だが、リアーナはシオンの結婚相手として最有力候補だった。リアーナとて、自分自身でもその意識はあったはずだ。
「シオンのことが好きだったんだろう」
「わたくし、そのようなことを一度でも口にしたことがありまして?」
肯定も否定もしない。むしろはぐらかすような、答えにもなっていない答え。たぶん、言うつもりはないのだろうなと見当をつける。だとしたら、どれほどしつこく食い下がったところで意味はない。
リアーナは言葉を続ける。
「それに、もしもわたくしが、シオンさまに恋愛感情を抱いているのだとしても。その感情を婚姻話にまで持ち込むほど、子供ではありませんわ」
婚姻とは、家同士の契約。貴族の政治。ことに、王族同士の縁談ともなれば、まず政略でしか有り得ない。そんなことはふたりとも百も承知なのだ。その上で、この会話は展開されている。
「じゃあ、そういうことにしておいてやる。それで、本当は何を書いているんだ?」
「招待状です。お茶会の」
お茶会、と聞いたオルテローシュは何とも奇妙な顔になった。宮廷で開かれる女性限定の集まり。その実態は、不明。彼が宮廷で同年代の貴族の子弟と交流するように、リアーナには彼女で良家の息女との、女同士の付き合いというものがある。それは男のオルテローシュには未知の世界であり、男子禁制の茶会には、得体のしれない不気味さと恐ろしさがある。なかに入りたいとも思わない。噂に聞くだけでもずいぶんと恐ろしいものだという話である。
「招待状? そんなもの、代筆にまかせればいいだろう。わざわざ自分で手書きするのか」
「大事な招待客にだけですわ。さすがに十枚も書けませんもの」
「誰に出すんだ」
そう訊くと、リアーナは口許を揃えた指先で隠してうふ、とわざとらしく笑ってみせた。
「リール家のマリアベル嬢ですわ」
「………」
一拍の沈黙。
なんと言ってやればいいのか、オルテローシュは迷った。これは、やはり。
「お前、やっぱり、怒っているんだろう」
「あら、何をです?」
「シオンがお前以外の相手に求婚したことを」
「怒ってなんていませんわ」
「………女は怖いな」
前に、噂半分に聞いたことがある。なんでも、一部の―――ここを強調しておきたいが―――集まりでは、気に入らない人間を茶会と称して呼び出し、吊し上げるということがあるとかないとか。あながち有り得ない話でもない、とその時は思ったのだが。妹がそんなことを企んでいるようであれば、兄としては止めるべきなのだろうか?
「リールの令嬢を敵と見なしたのか?」
「違いますわ」
「隠さなくても、別にお前の『計画』を邪魔するつもりはないぞ。他人の恋愛事情に首を突っ込めば、痛い目にあうのはわかっているからな」
「だから、違います。ただ………すこし、気になることがあって」
「気になること?」
「………」
しばし、沈黙。リアーナの瞳がすいと足元に落とされ、さまよう。何かを言いあぐねるように。何かの言葉を探すように。
オルテローシュは急かさず、待った。やがてぽつりとリアーナはつぶやいた。
「―――リール家は、本当にただの城主階級なのかしら」
「リアーナ?」
「あのひとの身に着けている作法、とても一城主の娘としてはふさわしくありません。身分に不相応というか」
「確かに、下級貴族の令嬢にしては礼儀作法ができているな」
「だとしても、王族や王位継承者に対する作法まで、あの位の階級の人間なら学んでも仕方ないでしょう」
確かに普通に考えてみれば、地方小城主の令嬢など、一生のうちに王族と面識を得る機会など、まず、ない。ならばそのための作法など勉強する必要はない。であれば、マリアベル=リールはむしろ特異。なるほど、そう言われれば、納得する点も出てくる。オルテローシュは、自身がいままで抱いていた違和感の正体を理解した。彼女の立ち居振る舞い身のこなしは、下級貴族の令嬢というよりは、まるで宮廷の人間のそれに近い。
「それに」
「まだあるのか?」
「あのひとの身に着けていたペンダント、アルティシアの細工物でしたわ」
「アルティシアの?」
「はい。見間違えるはずありません」
アルティシアか、と繰り返す。いまから数百年も前に滅びたその王朝は進んだ文化を保持していたが、国の消滅とともに、その優れた技術も失われた。アルティシアは、とくに金属の加工技術において、大陸随一を誇っていた。数百年前に発達していたその技術の再現に、現在に至るまで成功した者はない。だからこそ、アルティシア細工といえば、歴史的・美術的価値から恐ろしいほどの高値が付けられる。ちいさな指環ひとつですら金貨何百枚という世界である。言うまでもなく、地方小城主階級の人間の持ち物としては不自然なものだ。
「ペンダントか。そんなものまでよく見ているな」
「身に着けている装飾品で、相手のことを見る大事な判断材料でしょう」
「これだから女は怖いんだ」
くすくすとオルテローシュは笑う。
とはいえ、笑いごとではない。
「わかった。僕の方からリールの家について調べてやる」
敵情視察だな、と笑みも隠さずオルテローシュは言った。
ややあって、お兄さま! とリアーナが声をあげた。