第21話
あれは、兄が留学のため隣国へ向かう直前のことだから、いまから二年前になる。朝から書庫に行ったきり戻らない兄アスターを探して、マリアベルはふだん足を踏み入れることのないその場所に入った。
兄は、いた。ちいさな丸テーブルに分厚い書物を開き、熱心にそれを眺めていた。マリアベルが入ってきたことにも気付かない。
何を読んでいるのだろう。そっと近付いて、背後から兄の手許を覗き込んだ。そこにあったのは細かい文字の連なりではなかった。絵というよりはイラストに近いだろうか。護符のような、おそらく何かの意味を持つのだろう複雑な模様が描かれている。
『マリアベル』
妹の存在に気付いたアスターが顔をあげた。マリアベルは、尋ねた。
『お兄さま、これは何?』
『これ? これはね、古い紋章だよ。歴史ある名門公爵家の家紋』
いまは使われていないものも多いけれど、と言って、彼はページのなかの紋章のひとつを指差した。
『マリアベル、三貴公家は知っている?』
『いいえ』
『そうか。三貴公家はね、この国の三大公爵家をそう呼ぶんだ』
とんとん、と指で示したその紋章をたたく。
『これはそのなかでも筆頭、つまり第一位の、アーヴィン公爵家。その両隣りは、それぞれ三貴公家のアルティーアとローディアス』
公爵家、と言われても、マリアベルにはぴんとこない。どれもはじめて聞く名だった。
『領主さまは、その、三貴公家ではないの?』
『うん。失礼だけれど、アルフォードさまよりも、三貴公家の方が偉い』
『同じ公爵さまなのに?』
そう尋ねたマリアベルに、兄は苦笑して、その頭をなでた。
『この三つの家は、特別なんだよ。領主さまだって十分に偉いんだ』
マリアベルにはよくわからなかった。領主さまより上、となると、それこそこの国の王様くらいしか思い付かない。
『じゃあ、お兄さま、このアーヴィンさまが、この国で一番偉い公爵さまなのね』
とくにたいした意味もなく、マリアベルは言った。
しかし、アスターは、何も答えなかった。
『お兄さま?』
『………ああ、悪い。ちょっと驚いて』
彼はまたとんとんとページをたたき、指を動かして、本の隅に載っていた紋章のひとつを示した。それから先ほどとは違う改まった声で言った。アーヴィンさまより上がいる、と。
『この国で一番影響力を持っているのは、ヴィスタンツェ公爵さまだよ。国王陛下の実の弟君にあたられる』
リール家は爵位持ちではないがアルフォード領内でもかなり古い家柄で、由緒ある一族と言える。リチャードは、リール家の姫君マリアベルの名前を聞いたことは何度かあった。が、直接会ったのは、姉に呼ばれアイリスの城に戻った時がはじめてだった。彼女の兄、半年前に亡くなったアスター=リールとならば何度か顔を見たこともあったが、彼女に関しては、ただ姉の友人という認識しかなかった。なのに。―――どうしてこんなことになった。
いま、自分ことリチャード=アイリスの目の前には、ふたりの青年がいる。どちらも銀髪蒼眼、この国の王族であることはひとめで見て取れる。
ひとりはアルフォード侯爵アルディーン卿。リチャードの仕える主で、アルフォード公爵家の次期当主でもある。
いまひとりはアーヴィン侯爵オルテローシュ卿。言わずと知れたこの国でも一二を争う名門アーヴィン公爵家の嫡子で、彼もまた跡取りだ。しかもこのひとは、第七位の王位継承者でもあるれっきとした王家の人間でもあった。間違ってもリチャードなどがお目にかかれるような相手ではない。………普段ならば。
「リチャード? 聴いているか」
「はい」
気を抜くと意識がどこか遠くへ飛びそうになる。これも現実逃避の一種だろうか。
「俺をマリアベル姫の護衛に、ということですね」
「そうだ。引き受けてくれるか」
アルフォード侯爵は言ったが、引き受けるもなにもない。リチャードは彼に仕えるのだから、その要望には従うまでだ。そして、リチャードにはこの任務に自分が選ばれた理由も理解している。
マリアベル=リールはヴィスタンツェ公爵家の五番目の王子、シオンに求婚された。五番目の王子とは、第五王子という意味ではなくて、王位継承者第五位をあらわす表現だ。ヴィスタンツェ王弟公爵の嫡男である公子シオンは王家の一員である。
このことはまだ、周囲には知らされていない。王位継承がらみでは何かと騒動が起こりやすいため、今回のことがよそに漏れることは好ましくない。だから、リールの令嬢の護衛には、もともと事情を知っていて、なおかつある程度の信頼のおけるリチャードが選ばれた。
「………待て、アルフォード公子。それともうひとつある」
脅しをかけるようだがな、とアーヴィン侯爵はつぶやいた。その淡い蒼の瞳は、色が希薄なために感情を読み取ることが難しい。
「リチャード=アイリスとかいったか? アルフォード家に仕えているなら、ある程度の宮廷事情も知っているな」
「はい」
「なら、僕の妹―――アーヴィン公爵令嬢リアーナが、シオンにけそうしていることも知っているな」
「………はい」
「リアーナだけは、シオンがリール家の令嬢に求婚したことを知っている」
「!」
それは。かなりまずい事態ではないのか。
漏れ聞くところでは、アーヴィン公爵令嬢はヴィスタンツェ公子シオンのもっとも有力な婚約者候補、ということだ。さらに城内で流れる噂では、こう言われている。
アーヴィン公爵令嬢はヴィスタンツェ公子に懸想しているに違いない、と。
当然、リチャードの目の前にいるアーヴィン侯爵も、その噂は知っているはずだ。そのうえで、彼はリチャードに尋ねた。
「リアーナが何らかの行動を起こすことも、当然考えられるわけだが。それでも引き受けるか?」
二対の蒼の瞳が、じっとリチャードを見つめる。その真意を確かめるように。リチャードは思った。
いま。自分は、どんな顔をしているのだろう。
「―――謹んで、承ります」
リチャードは答える。
その結論を出すまで、要した時間はさほどでもなかった。