第19話
それが夢だとすぐに気付いたのは、目の前にいたのがマリアベルの兄だったからだ。いるはずのないひとがいるのなら、それは夢だろう。いまマリアベルの前にいるのは、もう二度と、会えるはずのないそのひと。
兄さま、どうしてここにいるの。ぼんやりとした頭でつぶやいた。兄の夢など、葬儀の時から一度も見なかった。
その存在を忘れたわけではない。それでも、あの悲しみから、ようやく立ち直れてきたのだと思っていた。
『さあ、そろそろ起きる時間だ』
優しい声。
ああこの声だ、と思った途端、無条件に泣きたくなった。でも、これは夢だから。
『皆が待っているよ、マリアベル。心配させてはいけない』
待って。兄さま、もう行ってしまうの。まだ目を覚ましたくない。もう少しだけでいい、この声を聞いていたい。
けれど、優しい声は、ふいに遠ざかった。それに雑音がまざる。ぐるりと視界が転がった。え、と思うよりも早く、すべては光に塗りつぶされる―――。
意識が浮上してすぐ、マリアベルは目を開かない。あの夢の余韻が、澱のように裡に沈んでいる。夢。マリアベルはあまり夢を見ない。ひと月に一度二度見れば、それでも多い方だ。まして、亡くなった兄の夢など。
起きたくない。もしかしたら、いまもまだ夢のなかなのかもしれない。
会いたい、とつよく思った。見知らぬ王都で、マリアベルはひとり、あまりに心細い。たぶん、無意識のうちに何度も考えていたのだ。
ああ、もしここに兄がいてくれたら、と。
その、時である。
「マリアベル」
驚くほど近いところから、マリアベルの名が呼ばれた。耳元に囁かれるように。優しい声だった。
「にい、さま?」
ふっと瞼をおし上げる。焦点をあわせるわずかな間、その視線は宙を漂い。
そして硬直した。
すぐ近いところにマリアベルを覗き込む、わずかに暗い蒼の瞳がある。
「し、シオンさま」
「マリアベル! 具合は大丈夫? 気持ち悪くはない?」
勢いよく尋ねられたが、寝起きの頭ではすぐに理解できない。それに、この状況は? ここはどこだろう。何が何やら、さっぱり分からない。どうやら寝台に寝かされているようだということくらいはわかったけれど。
とまどい周囲へ視線をめぐらすと、奥の方から声が聞こえてきた。
「マリアベル姫、起きられたんですか」
ぱたぱたと足音がして、リチャードが駆けてくる。それに気付いたシオンが身を離してその瞳が遠ざかったので、内心マリアベルはほっとした。
リチャードはマリアベルの顔を見て、明らかな安堵の笑みを浮かべた。
「よかった、気付かれて。倒れてから半日近く眠ってらしたんですよ」
「………倒れた?」
「はい」
「うん。みんな心配したんだよ」
そう言われたが、マリアベルは覚えていない。記憶の最後がどのように途切れたのか、頭がぼんやりとして辿れない………。彼女の思考は、リチャードの声で一時中断した。水を注ぎましょうか、と訊かれたので、お願いしますと答えた。
手渡されたグラスに口をつけると、冷たい水には黄玉橙のかすかな味がした。すっきりしたその香りに、すこし頭がすっきりした。すると、思い出したのは、少女の声。
「あの、わたし、どうして倒れたのでしょうか」
マリアベルが訊くと、スツールを寝台のそばに引き寄せたシオンはそれに座って、答えた。その表情には、何も含むところなどない。
「びっくりしたんだと思うって、ルーシュは言ってたよ。―――マリアベルはルーシュが皇太子だって知らなかったから、って」
やはりそうか。冷たいグラスをぎゅっとにぎる。あまりにあっさりと言われたから、聞き流しそうになったけれど。マリアベルが倒れるすこし前。皇太子殿下、と呼びかけられたレイトアルシュは、それを否定しなかった。
薄々、気付いてはいた。たぶん、彼らはただの王族ではないのだろう、と。王族でも貴族の子弟ならば、昼間から仕事もせずにふらふらしていることなど有り得ない。役職にもつかずそんなことを許されるのは、王族でも、三貴公家かそれに次ぐ家柄の人間くらいだ。その予想は当たった。
そして。
この国の皇太子のいとこだというシオン。彼は。
「―――シオンさま。お名前をうかがっても、よろしいでしょうか」
マリアベルは言った。その返答が得られるまでの時間は、長かったのか短かったのか。果たして。
彼は答えた。
「僕は五番目の王子、エルシオン・エルディオン。ヴィスタンツェ侯爵だよ」