第18話
王宮の廊下で、日頃さんざん見慣れたその人物とばったり出くわしたとき、レイトアルシュは頭痛をおぼえて、額をおさえた。
何故お前がここにいる。屋敷でおとなしくしているはずではなかったのか。訊きたいことはたくさんあるが、いまさら何を言っても遅いだろう。
「………シオン」
「ルーシュ!」
レイトアルシュの姿を見つけ、シオンは飛び跳ねるように駆け寄ってくる。子供か、お前は。すでに―――いちおうは―――成人しているはずなのだが。
案の定、シオンは護衛もつけず、ひとりである。ここが城内である以上不用心とは言わないが、シオンの身分を考えると、護衛のひとりくらいいてもいいと思う。一年前に王位継承がらみでごたごたがあって以来、王族の身辺も少々ぶっそうになった。それは、殿下と呼ばれる身分の者も変わらない。
あまりよろしくない行動だという注意を込めて、ひとりか、と尋ねる。だがシオンは、その問いの意味を勘違いした。にこにこと笑って答える。
「ううん。マリアベルと一緒に来たんだよ」
嫌な予感しかしない。
シオンのそばにマリアベル=リールの姿はない。いまの言葉は、城へ共に来た、という意味なのだろうが、それはつまり、彼女はここにいない、ここではないどこか別の部屋にいるということだ。―――まさか、と思う。
ここでレイトアルシュが思い出すのは、先ほど宮廷で聞いた話。とある令嬢―――シオンの有力な結婚相手候補であり、自身も政略抜きにシオンに好意を抱いているその人物が、久しく王宮に姿をあらわさなかったシオンに会いに来ていると。
普通、ひとが貴族に会うために城へ上がれば、その足でまっすぐどこを目指すか。決まっている。
目的の相手に与えられている部屋だ。
「………リールの姫君はどこにいる?」
「僕の離宮にいるよ」
嫌な予感が。
的中した。
途中で会ったアルディーンを拾い早足でシオンの離宮を目指したが、その扉の前に立ったレイトアルシュは、ドアノブに向かって伸ばしかけた手を、とめた。わずかに開いた扉の隙間から、なかの会話が聞こえてくる。あまり穏やかではない、この声は。
どうやら、遅かったようだ。ふたりは会ってしまったらしい。
すこしためらって、扉を開けた。けれどふたりは気付かないのか、こちらに意識を向けるそぶりはない。入室したレイトアルシュに背を向けている少女から見えないのはもちろんだが、その少女に向かいあっているマリアベルからは、ちょうど飾り棚のかげになるのだ。
目の前の銀髪の少女が、マリアベルの言葉を繰り返し、追い詰めようとする。
アーヴィン公爵令嬢リアーナ。彼女こそが、シオンの第一の妃候補にして、名門アーヴィン公爵家の娘である。
リアーナの態度は、まこと堂々としている。マリアベルは、半分おびえたように萎縮している。それも当然だろう。リアーナの態度も、その容貌も、一般人からすればほとんど威圧的に思えるものだ。
レイトアルシュは嘆息した。それは、彼の意識しての行動ではなかった。リアーナの言動は、貴族―――支配する側の者の在り方としては正しいのだ。彼女の思考も、レイトアルシュにはよくわかる。見慣れている。
リアーナに、マリアベルを萎縮させるつもりなど欠片もないのだろう。けれどそれは宮廷の、王宮の流儀だ。宮廷の住人でないマリアベルにとっては、それは異世界の常識にも等しい。
「―――そこまでだ。リアーナ嬢」
瞬間、リアーナははじかれたように背後を振り返る。彼女の蒼い瞳が驚愕にいろどられる。そのくちびるがかすれたつぶやきを紡ぎ出す。
「レイトアルシュさま………どうして、こちらに」
どうして、と言われても。ここでレイトアルシュは少し迷った。なんと答えたものか。マリアベルとリアーナが顔を合わせるのを阻止したかったのだが、それは手遅れだった。
ここで口ごもっては、いかにも不自然だ。助け舟を出すため、いままで黙っていたアルディーンがふいに口を開いた。
「令嬢、レイトアルシュはあなたが城へ上がったと聞いてここに…」
だがしかし。リアーナは、ほとんど睨みつけるような瞳、いっそ冷ややかとさえ言える突き放した口調で、はっきりと言った。
「うるさいわ侯爵。わたくしは殿下にうかがったのよ―――アルフォードふぜいは黙っていなさい」
アルディーンが言葉を詰まらせる。レイトアルシュも、想定しなかった事態に驚いた。
その当主は王の重臣であり、皇太子の副官と第二王子の妃を輩出したほどの名門公爵家を、アルフォードふぜい呼ばわりするとは。こんなことが言えるのは、この国の公爵家のなかでも筆頭の名を冠する、アーヴィン公爵家の人間である彼女くらいしかいないだろう。
「それとも、あなたがこのひとをここへ通したの、侯爵? シオンさまの離宮に、王族でもなければ出自だって不確かなひとを」
「―――公爵令嬢。彼女はアルフォード臣下の、由緒正しい貴族です」
「陪臣を王宮に入れたということ?」
リアーナの非難は、ある意味で正しい。王宮は城のなかでも、王族の生活する部分を指す。それゆえに王宮は、さまざまな身分の人間が集まる宮廷とは区別される。この国の王族が集まる場所だから、その安全のために警戒するのも理解できる。
けれど。リアーナの言った陪臣とは、王の臣下のさらに臣下という意味の言葉であり、一種の侮蔑の言葉だ。もちろんそれは、身分の低い下級貴族を見下した物言いである。
「あなたの臣下を王宮に連れて来たの? 侯爵。ここはあなたの王宮ではないわ」
どういうわけか、アーヴィン公爵令嬢リアーナはアルフォード侯爵アルディーンと反目しているらしい。いや、反目というより、リアーナが一歩的にアルディーンを嫌っているのか。
とはいえ、この状況ではレイトアルシュが動かざるを得ない。友人の窮地を黙って見ているわけにもいかないし、年頃の可憐な少女の罵倒も、見ていて楽しいものではない。
「リアーナ嬢。少し言葉がすぎる」
それは軽い忠告。けれど振り向いた彼女は、きっとレイトアルシュを、ほとんどにらむように見つめた。
まっすぐ向けられた瞳は、あまりに力強い。
「―――どうしてお止めになりますの、皇太子殿下!」
背後でちいさく、マリアベルが息をのむ。皇太子殿下? とつぶやいて。レイトアルシュはわずかに瞳を細める。
皇太子。
その称号で呼ばれる者は、この国にひとりしかいない。レイトアルシュ=ウォーレン=ヴォールドという名の、ヴィルドローレン第一王子―――。
自分の正体は、マリアベルにははじめから明かさないつもりだった。できることなら隠し通すつもりでいた。なのに、それは公爵令嬢リアーナの口から明かされてしまった。考えがあってわざと黙っていたことを。気分のよいことではない。
まして自分の友人を貶める発言を笑って許せるほど、レイトアルシュの誇りは低くないし、そのこころも広くない。
だから。
ちいさく、本当にちいさく、レイトアルシュは怒っていたのだ。
あとさきのことも考えず、行動を起こすくらいに。
まだ何も知らないリアーナに歩み寄り。その長身をかがめ、彼女の耳に、ささやいた。
「令嬢。この姫君はシオンの客だ。―――シオンが、彼女に求婚した」
リアーナははっと顔をあげた。見開かれたその瞳でマリアベルを凝視する。
ありえない、と言うかたちで固まったくちびる。けれど彼女は知っている。レイトアルシュは、そのような冗談を言う人間ではない。
そして、数拍。
ふいに、ばら色のはなひらくドレスの裾をひるがえし、彼女は部屋を飛び出していった。