02 近くの店だと同級生にバレるかもしれないから、隣の駅の入ったことないドラッグストアを選ぶんだろ?
「はい、そこまでー」
教師のその言葉を聞いて、俺は長く続いた緊張から解放された。
三日間にも及んだ中間テストは、この瞬間にとうとう終息を迎えた。
脳のキャパシティを越えた毎日の詰め込み学習もこれにて終了、そのことを思うと俺の心身は何物にも代えがたい解放感に満たされたのだった。
下校のチャイムと同時に、俺に似合わない軽やかな足取りで教室を飛び出す。
駐輪場に向かう途中でふと空を見上げる。太陽はまだ登り切っていなかった。
普段は日が傾くまで椅子に拘束されている高校生がこんな早い時間帯に自由を与えられるなんて。この特別感が俺の胸を更に昂らせる。
しかし、普段より早く帰宅する権利を与えられても、俺は直帰する。
寄り道したい場所もなければ、共に寄り道する友もいない。
毎日の学校生活は全て一人で執り行っている。昼食だって教室で一人、黙々と弁当を食している。連中のように、わざわざまとまって飯を食う意味が分からない。ハイエナじゃあるまいし。
この日々に精神的な苦痛は無かった。むしろクラスメイトたちと会話をする方がストレスだ。
同じクラスの人間たちは原始人めいたセンスの持ち主ばかりだ。大きな身振りでゲラゲラと笑い合っている。
小説を読んだりサボテンに水をやったりする、静かな楽しみを求む俺とはそもそも種族が異なるのだ。
教室を出るときに耳に飛び込んできたのだが、連中はテストの打ち上げでカラオケに行くという。打ち上げるほどのなにかを成し遂げたわけでもないくせに。
この打ち上げはチャットアプリを通じて企画されたらしい。そもそもチャットグループに入っていない俺にはまるで関係のない話だった。もちろん誘われたとしても、返事はお察しの通りである。
連中が主催するカラオケなど、容易に内容の想像がつく。
どうせ動画サイトのトップページに表示されている流行歌しか歌わない、いや歌えないのだ。
「俺たちって一生の青春仲間だぜぇ!」というような雰囲気で肩を組んでおきながら、少しでもマジョリティから外れた趣味を見せた人間は爪弾きにするのだ。
互いの顔色を伺い合い、本当の趣味を受け入れる度量も無いくせに何が親友か。
偽りの馴れ合いで時間を浪費するくらいなら、数学Ⅱのテストの愚痴をサボテンに聞いてもらう方が充実した余暇を過ごせるというものだ。
俺の自転車は校舎から最も遠い突き当りが停車位置だった。
はやる気持ちを抑えて、駐輪場の最奥に急ぎ足で向かった。
目的の場所では、目を背けたくなるような恐ろしい光景が繰り広げられていた。
「花子ちゃん……♡」
「太郎くん……♡」
どこぞのクラスの生徒が、場所も気にせずに身を寄せ合っている。
男女が互いの腰に手を回し、鼻先が触れ合うほどに顔を近付けている。
男の方はツーブロックに前髪を横流し、女子はボブカット。世界に自分たち二人しかいないとでも思っていそうな、その蕩けた表情は見ているだけでサブイボが立つ。
しかし現実は、お前らのいる場所は、偏差値が47しかない県立蛙高校の寂れた駐輪場だ。
そしてそこまで顔を近付けていたら、お互いに相手の顔なんか見えないだろ。
その愛の巣は、俺の自転車のすぐ横で営巣されていた。
恐らく隣の駐輪スペースにある自転車が、あの二人のどちらかの物なのだろう。
なぜあと数秒だけ、その感情を抑えられなかった?
チンパンジーだってもう少しまともな場所に巣を作る。
校門を抜けてから、公園でも河川敷でも好きな場所で盛ればよかったものを。
俺は一秒でも早く自室に籠りたかった。幸い明日から連休だ。一歩たりとも外出せずに遊びつくしてやる。
しかし連中はその場にとどまり続けた。こんなペンキが剥がれた駐輪場の、どこに居心地の良さを感じているんだ?
声をかけることはできない。
俺は所詮、遠巻きで眺めながら脳内で毒づくことしかできないのだ。
一旦、図書室で時間を潰すか……。
踵を返して校舎に戻ろうとした、その瞬間だった。
背後から聞き覚えのある声がした。
「さくらんぼ狩りのシーズン到来だな」
「は……?」
肩に優しく手を置かれる。雪の結晶のように白い手だった。
腕から肩に視線を這わせて振り返る。あの人が立っていた。
『帰』の一文字がプリントされた黒い三角の覆面を被った、三年生の女子生徒。覆面さんだ。
彼女は俺の横を通り抜け、真っ赤に染まった佐藤錦の元へ一直線。
この状況において、その背中はとてつもなく大きく見えた。
先日の図書室での光景を思い出す。きっと今日も、あいつらを追い払ってくれるはずだ。
二粒の果実は未だ自分たちの世界に没入しており、覆面さんの存在には気付いていない。
覆面さんは二人との距離が詰まっても一向に勢いを落とさず、なんとそのまま二人の間に体を割り込ませた。
無理やり体を引き離された二人は、何が起こったのかさえ分かっていない様子だった。
辺りを見回して自分たちを引き離した犯人を見つけると、男の方が怒りをあらわにした。
「なんだよお前!?」
男は女を自分の後ろに下がらせた。睦み合いを邪魔された女もまた、覆面さんを鋭く睨みつけている。
オスがメスを守る。はるか古来から紡がれてきた本能的な行動である。
しかしこのひりついた空気の中でも、覆面さんは臆する様子を見せなかった。
大きく息を吸い込み、二人をまとめて一喝する。
「学校が終わったら帰宅しろーーーッッッ!!!!!」
その勢いを受けたカップルは、同時にじりじりと後ずさった。
男は面喰らいながらも、負けじと言い返す。
「い、言われなくても帰るわ!」
しかしその程度の否定では、覆面さんは止まらない。
「帰ると言っても真っ直ぐ帰宅はしないんだろ?
自転車ノーヘル二人乗りでゴムを買いに行くんだろ?
近くの店だと同級生にバレるかもしれないから、隣の駅の入ったことないドラッグストアを選ぶんだろ?」
「それは別にいいだろ! どこで買っても!」
「聞かれてもいないくせに "すぐ使うんで袋要りませんw"とかへらへらほざき散らすのだろ?
テレビの内容を丸写ししただけのネットニュースより浅い羞恥プレイに店員さんを巻き込むな愚か者どもめ!!!」
「愚か者は下らない妄想してるお前だろ! 誰だか知らないけど、お前こそ早く帰れよ!」
「ねぇ、もういいから行こうよ……」
女の方がうんざりした様子で男の袖を引っ張る。覆面さんの相手をするくらいなら、この場から逃げた方がマシだとようやく理解できたようだ。
説得を受けた男は我に返り、言いかけた言葉を飲み込んだ。
二人は覆面さんを睨みつけながら、すごすごとその場を去っていった。
覆面さんは小さくなる二人を眺め、満足げに頷いたのだった。
助けてくれたことには感謝だが、今回もめちゃくちゃな理屈だった……。
そして前回と同じく、途中から方向性がおかしくなっていたような……。
「キミ」
覆面さんは前回と同じように、俺の方に近付いてきた。
今日は何を言うつもりだ?
「私と共に、この蛙高校に革命を起こすぞ」
「え?」
革命?
いきなり何を言い出すんだ、この人は?
「私たちのような人間が呼吸をするため、『帰宅 (させる)部』は協力者を求めている」
そう言うと覆面さんは、俺に右手を差し伸ばしてきた。
「『帰宅 (させる)部』……?」
そんな部活動は聞いたことがない。
しかし覆面さんの行動を思い返してみれば、活動内容について大方の予想はつく。
覆面を被り、マナーの悪い生徒を残さず帰宅させる活動といったところか。
その『帰宅 (させる)部』に、俺が誘われている……。
ここ数日の覆面さんの振る舞いを思い出す。
彼女が連中に向けて啖呵を切る姿を見ると、痛快な気分を味わえた。スカッと系の動画を見る人間の気持ちが理解できた。
見ているだけで十分に楽しめたこの活動を、もし自分でやることになったら……。
煩わしい連中を俺自身で言い負かすことができれば、その快感はひとしおだろう。
覆面でプライバシー管理は万全だ。身バレの危険性はない。安全圏から一方的に石を投げることができる。
なによりも、覆面さんはこの学校で初めて出会った、同じ思想を持つ人間だった。
連中を憎むレジスタンスとして、彼女と共に戦いたい。
俺は覆面さんの右手を迎え入れるように、自分の右手を伸ばし……。
いや、待て。冷静に考えろ。
いくら連中を憎んでいるからと言って、俺がここまで身を削る必要があるか?
その時だった。
「お前ら、何やってるんだ!」
大股で近付いてくる、赤いジャージを着た体育教師。
その後ろには、帰ったはずの先ほどのカップルが立っている。
どうやら奴ら、自力では勝てないことを悟り大人の力を借りたようだ。より強い立場の人間に泣きつくとはなんと情けない。普段は授業などまともに聞いていないだろうに、困った時だけすがりつく。
「チィッ!」
覆面さんはすぐに反対方向に走り出した。
その姿を見た体育教師は速度を上げて覆面さんの後を追った。
カップルは勝ち誇った顔でその様子を見届けると、再び校門の方へ向かっていった。
俺は一人、寂れた駐輪場に取り残された……。




