第7話 呪われた加護
夜が赤く染まっていた。
王都の上空を、火の粉が吹雪のように舞う。
祈りの鐘は鳴らない。聖堂の塔は倒れ、城門は炎に包まれていた。
人々は叫び、逃げ惑いながらも、誰も「神の加護」を口にしなかった。
——それが、何よりの皮肉だ。
屋根の上から、俺は燃える街を見下ろしていた。
王城の中央、聖なる光が爆ぜている。
あれが勇者の加護。
神が授けたはずの力が、今や災厄そのものになっていた。
「……始まったか」
隣でマーヤが息を呑んだ。
彼女の瞳に、燃える王都が映る。
その光景は美しく、そして絶望的だった。
「加護ってのは、あんな化け物じみたもんなのかい」
「元は違う。
本来、加護は神の“信号”だ。
人の心が清ければ清いほど、神の力は穏やかに流れる。
だが勇者の心が腐った時——力は、器を壊す」
「つまり、あの光は……」
「神の沈黙に耐えられなかった人間の末路だ」
俺は屋根の縁に手をかけ、風下に身を乗り出した。
炎の熱気が頬を焼く。
その向こう、王城の中庭で勇者が立っていた。
背中の翼のように広がる光が、空を裂く。
「神よ……俺はまだ、間違っていない……!」
勇者の叫びが、雷鳴のように王都に響く。
だがその声には、祈りではなく焦燥しかなかった。
地面が震え、建物が次々と崩れていく。
王は逃げた。聖堂騎士は恐怖に凍りつき、
リディアだけが、彼の前に立っていた。
「勇者様! その光を止めてください! それは神のものではありません!」
「黙れ! 神は沈黙した! ならば俺が神になる!」
リディアの頬に光が当たり、焼けるような音が響く。
彼女は泣きながらも、彼の腕を掴んだ。
「お願いです……あなたは、そんな人じゃなかった……!」
「俺を見下ろすな! お前も俺を裏切ったんだ!」
勇者が腕を振る。
その一閃が、空気を裂き、聖女の法衣を切り裂いた。
リディアが倒れ、石畳に手をつく。
その涙が、燃える地面に落ち、蒸気を上げた。
俺はその瞬間、屋根から飛び降りていた。
◆
城壁の上、熱気の中を駆ける。
勇者と聖女の間に割り込むように降り立つと、
勇者が目を見開いた。
「……お前か、クロウ!」
「相変わらずだな。
誰かを“裏切り者”にしないと、自分を保てない」
「黙れ! 貴様が俺を——!」
「俺は何もしていない。
お前が勝手に堕ちただけだ」
勇者の加護が唸りを上げる。
紅い光が渦を巻き、空を焦がす。
その中に、一瞬だけ“黒い影”が見えた。
まるで人の形をした神の亡霊のように。
「見えるか、勇者。
それが本当の加護の主だ。
神じゃない。お前の“欲”が形をとっただけだ」
「嘘を言うなぁああああ!」
光が弾け、爆風が走る。
城壁が崩れ、石片が宙を舞う。
俺はリディアを抱きかかえ、瓦礫の影に転がり込んだ。
「……まだ、生きてるな」
「あなた……どうして……」
「観客が、舞台に降りただけだ。
あいつの芝居はもう終わりだ」
リディアの手が震え、俺の外套を掴む。
「殺さないでください……あの方を……」
「もう遅い。
これは“神”と“人間”の契約の崩壊だ。
止めるには、神そのものを断ち切るしかない」
リディアの瞳に、強い光が宿る。
彼女の胸元の“祝福の印”が、再び光りはじめていた。
「もし……その神を断ち切ったら、
あの方は救われるのでしょうか」
「分からない。
だが、泣くな。涙は神を呼ぶ」
俺は立ち上がり、腰の刃を抜いた。
炎に照らされたその刃が、淡く赤く光る。
勇者の加護が生み出した“偽りの神”と、
影の刃がぶつかる時が来た。
風が、燃える城を貫く。
光と闇が衝突する瞬間、世界が一瞬だけ無音になった。
——それは、祈りを断ち切る音だった。
◆
次に俺が意識を取り戻した時、
空は灰色で、雨が降っていた。
王城は半壊し、勇者の姿はなかった。
リディアが傍に座り、俺の手を握っていた。
「……終わったのか?」
「はい。でも……勇者様は……」
言葉はそこで途切れた。
リディアの手の中で、黒く焦げた“加護の印”が粉になって消えた。
「神は、もう沈黙すらやめたらしいな」
「それでも……祈ります。
誰かが見ていなくても、私は祈ります。
あなたのためにも」
俺は笑おうとして、うまく笑えなかった。
空の雨が頬を叩く。
それが涙なのか、雨なのか、もう分からなかった。
「リディア……お前は、まだ光の側に立てるか?」
「わかりません。
でも、あなたが“影”でい続けるなら……
私はその隣で、光であることを選びます」
言葉が、静かに落ちた。
火の消えた王都を包む雨の音が、唯一の祈りのように響いていた。
俺は目を閉じ、呟いた。
「……舞台は、まだ終わっちゃいない」
遠くで、誰かが笑った気がした。
それは神か、勇者か、あるいは——俺自身かもしれなかった。




