第6話 聖女の涙
王都の朝は、いつもより冷たかった。
鐘の音が一度鳴るたびに、どこかで誰かが祈りをやめていくような空気。
広場ではまだ勇者の像が立っていたが、その足元には花ではなく、石が投げられていた。
花は枯れ、言葉は乾き、人々の信仰は砂のように崩れていた。
◆
聖堂の奥、祈りの間。
リディアは膝をつき、両手を組んでいた。
けれど祈りの言葉は声にならず、唇の動きだけが宙に浮く。
十日間、彼女はほとんど眠っていなかった。
勇者の加護は、日に日に乱れている。
その光を鎮めることができるのは、神の声を聴く聖女だけ——
……のはずだった。
「……神よ、どうか——」
言葉が途切れた瞬間、耳元で囁く声がした。
——神は沈黙している。
——だが“影”は、お前を見ている。
「っ……!」
リディアは顔を上げた。
天井の聖像が見下ろす中、彼女の視界に黒い残像が滲む。
影が、柱の間を掠めて消えたように見えた。
幻覚か。それとも、クロウが見ているのか。
恐怖ではなく、なぜか安心が胸に満ちた。
——彼なら、まだこの国を見捨てていない。
そう思う自分に、リディアは驚いた。
◆
一方その頃、勇者は王の間で荒れていた。
机の上には、処刑命令書の山。
「噂を広めた罪人」を次々と裁く判が押されている。
王は沈黙し、臣下たちは目を逸らす。
勇者の瞳だけが赤く濁っていた。
「この国は腐っている。
神を疑う者は、すべて——罪人だ!」
リディアが駆け込んできた。
「勇者様! お願いです、民を罰しないでください!」
「リディア……お前まで俺を疑うのか?」
「疑ってなど——!」
「なら、祈ってみせろ。
俺の中にある“光”が、まだ神のものだと証明してみせろ!」
勇者が手をかざすと、加護の光が迸った。
白いはずの光が、紅く染まっている。
それは血と同じ色。
リディアの頬を撫で、床に燃えるような紋を残した。
「見ろ! 神はまだ俺に力を——」
「違います!」
その叫びは、祈りではなかった。
リディアの声が石壁に反響する。
「これは、神の声ではありません……!
あなたの怒りが光を濁らせているんです!」
勇者の目が揺らぐ。
彼は一歩、二歩と後ずさりした。
その指先が震える。
「リディア……お前も、あの影に——」
「影?」と彼女が問う前に、勇者は剣を掴み、叫んだ。
「俺を笑っている奴がいる! 闇の中から俺を——!」
剣が振るわれ、聖堂の柱が砕けた。
リディアは悲鳴を飲み込みながら、崩れる瓦礫の下を走った。
勇者の叫び声が背後で響く。
「出てこい、クロウ! 貴様がこの国を壊したのだろう!」
その声は、神の加護よりも深い狂気の色を帯びていた。
◆
その叫びを、俺は屋根の上で聞いていた。
王城の尖塔から響く声は、街中に反響する。
人々は怯え、祈りをやめる。
劇は予定よりも早く燃えはじめていた。
「……勇者が、完全にこっちを“見た”か」
隣でマーヤが低く口笛を吹く。
「派手に燃やしたもんだね。こりゃ神様も逃げる」
「神は最初から舞台にいない。
俺たちだけで、芝居を終わらせる」
「それで? あの聖女は? あんたの“観客”じゃなくなったんだろ」
「……彼女は、舞台の外から涙を流している。
だが涙は、観客を呼ぶ。
信仰よりも速く、噂よりも確実に広がる」
俺はポケットの中の欠けた“祝福の印”を握った。
リディアが返したそれは、もう微かな光も放たない。
だが冷たく硬い感触だけが、確かに存在している。
——祈りは縛らない。
彼女はそう言った。
なら、俺がしてきたことは、ただの“縛り”だったのかもしれない。
勇者を、神を、そしてこの国を。
糸で縛り、動かし、壊した。
それを正義と呼ばないなら、何と呼べばいい?
俺は夜空を見上げた。
雲が裂け、淡い月が顔を出す。
その光の下で、ふと何かが頬を伝った。
——雨ではない。涙だ。
俺はもう何年も、泣いたことなどなかったのに。
「……観客が、舞台に泣くとはな」
マーヤが驚いたようにこちらを見る。
俺は小さく笑って肩をすくめた。
「いい劇には、涙が必要なんだ。
たとえ、それが聖女の涙でも。
——いや、俺の涙でもな」
◆
その夜、リディアは一人、崩れた聖堂の跡で祈っていた。
瓦礫の隙間から差す光が、涙を照らす。
彼女の唇が震え、かすかに名を呼ぶ。
「……クロウさん……」
祈りではない。
ただ、届かない誰かへの呼び声。
その声を、誰かが暗闇で聞いていた。
影の中、ひと筋の涙を指で拭いながら。




