第4話 王都潜入
王都に、妙な静けさが流れはじめていた。
昨日まで英雄を讃えていた市場の歌が、今日は途絶えている。
代わりに聞こえるのは、囁きだ。
——「勇者は呪われた」「神に見放された」
その声は小さい。だが、影は小さい音を好む。
俺の計画は、ようやく呼吸を始めた。
◆
夜の王都は、月明かりがある分、昼よりも賑やかだ。
密売人は声を潜め、貴族の子弟は仮面舞踏会の帰り道で愚かな歌を口ずさむ。
俺は彼らの誰にも紛れられる。
今夜の顔は、“ラヴェン商会の副代表”。
偽の書状と印章、王室の通達を模した命令書、
そして、笑顔。表の人間がもっとも信じやすい仮面だ。
行き先は——王都神殿。
そこには勇者を支える神官たちの集会がある。
“勇者の加護を信じ続ける者たち”の最後の防衛線だ。
信仰は脆い。疑いがひとつ入れば、砂上の塔になる。
◆
「おや、あなたが“供物商会”の方ですか?」
神殿の裏門を守る神官が、半信半疑の顔で俺を見た。
「ああ、聖堂長の命で来た。勇者様の加護を安定させるための儀式用香料を」
俺は包みを見せた。
中身は香料——に見せかけた、“幻香”。
祈りの場に焚けば、見る者の心の奥にある“恐怖”の形を光として浮かび上がらせる。
神官は目を細め、香りを嗅いだ。
そして、満足げに頷いた。
「……なるほど、清らかだ。入ってよい」
俺は礼をして、石畳を踏みしめる。
神殿の中は眩しすぎた。
白い大理石の柱、金で縁取られた聖句、燭台の炎。
だがその奥に、祈る声よりも強い“恐れのざわめき”が漂っていた。
勇者が壊れ始めているのを、誰もが知っている。
それでも、信じたい——信仰とは、そういう“諦め”の形だ。
◆
祭壇の奥。
俺は香料を焚き、煙が立ち昇るのを見届けた。
白い煙は天井の高みで赤く染まり、ゆっくりと形を変えた。
人の形。剣を掲げ、光を振りまく——勇者だ。
だが、その顔が次第に歪む。
血の涙を流し、笑いながら、背後の神像を焼く。
神官たちの悲鳴が響く。
「加護が……加護が堕ちた!」
予定通りだ。
俺は小声で呟く。
「——舞台は整った」
だが、そこで背後の気配に気づいた。
香の煙に混ざる、異質な光。
白ではなく、銀。
リディアだった。
◆
「やはり、あなたでしたか……クロウさん」
振り返ると、聖女の法衣が闇の中で揺れていた。
彼女の手には、俺が置いたはずの幻香の包み。
すべて見られていたのか。いや、見抜いていたのだ。
「祈りの場に幻惑を? あなたは何を望むのです?」
「望みはない。ただ、“真実”を見せただけだ。
勇者が恐れているものを——神官たちにも見せた」
「恐れ? 勇者様が恐れているのは、敵でも魔王でもない……」
リディアは一歩近づく。
その目は、涙でも怒りでもない、ただ真っ直ぐな光だった。
「——自分自身です。
あの方は、誰よりも弱さを憎んでいる。
あなたの幻は、それを暴いた。だから壊れてしまう。
そんなことをして、あなたは何を得るのですか?」
「何も得ない。俺は、観客だ。舞台が崩れるのを見届けるだけ」
「それを“正義”と呼ぶのですか?」
彼女の声が震えた。
信仰が崩れはじめている音だった。
俺は短く息を吐いた。
「正義なんて、誰かが言葉にした時点で嘘になる。
俺は、嘘が暴かれる瞬間を見たいだけだ」
「……それがあなたの生き方なのですね」
リディアは小さく祈りの印を結んだ。
そして、俺の手の中に、昨日渡した“祝福の印”の欠片を戻した。
「これを返します。
あなたの手には、もう“加護”は要らないのでしょう」
「……ああ。加護は呪いと同じだ。
信じた瞬間に、縛られる」
「でも、祈りは縛りません。
祈りは、ただ誰かを想うこと。——それを、あなたは忘れている」
彼女はそう言って、去った。
香煙の中、彼女の足跡だけが淡く光を残していた。
◆
夜が更け、神殿の外でマーヤが待っていた。
「どうだった?」と訊かれ、俺は肩をすくめる。
「聖女は……想像以上に賢い。
そして、危うい。あの光は、勇者よりも深い闇を抱えている」
「闇のある聖女、ってのは嫌いじゃないけどね。
で、次はどうする?」
「次は、“噂の王”を仕上げる。
民衆が勇者を恐れ始めた今、もう一押しだ」
「お前、ほんとに手を汚さねぇな」
「汚すほどの血は、もう流れた。
俺は、それを洗う役だ」
マーヤは苦笑した。
港の方から、遠く鐘の音が響いた。
王都がまた一夜、腐っていく音だった。
俺は空を見上げた。
月が、ちょうど欠け始めている。
勇者が堕ちていく速度と、同じくらいの速さで。




