第3話 腐敗の勇者
王都の空は、まだ煙の匂いを残していた。
昨日、勇者の加護が暴発したと伝えられている。
原因は魔族の呪い、というのが王国の公式発表だ。
だが、俺は知っている。あれは呪いでも、神の試練でもない。
——人間の傲慢が、加護の器を壊しただけだ。
通りを歩けば、どこも静かすぎる。
焼けた家の前で泣く女の子を、兵が無言で通り過ぎる。
祈りの声も上がらない。人々は、誰を信じていいのか分からなくなっていた。
俺は路地裏の屋台に腰を下ろし、冷めたスープを啜った。
背後の陰から、マーヤの声が落ちてくる。
「勇者の旗、もう焼けたまんまだってさ。王は“新しい紋章を準備中”だとさ」
「つまり、傷を隠す気か」
「そう。加護が暴走したんじゃなく、“新たな段階に進化した”って触れ込みになる」
マーヤが差し出した紙には、すでに印刷された“新紋章案”が描かれていた。
中央には勇者の象徴だった白い太陽。
だが、その周囲を囲むのは、血のような赤い輪だ。
「……これは悪趣味だな」
「王の顧問が選んだらしい。“力強くて神々しい”ってさ」
俺は鼻で笑う。
民の不安を塗り潰すための派手な色ほど、腐臭を隠すのに都合がいい。
「マーヤ、例の“声”はどうだ」
「王都の下層で噂が回ってる。“勇者様の光を見た”って奴らがな。
でも誰も、同じ色を言わない。白だった、赤だった、黒に近かった——バラバラだよ」
「なるほど。つまり、“人によって違って見える”」
「嘘の光は、見る人の罪を映すってことか?」
「もしくは、神がもう見ていないということだ」
マーヤが短く笑った。
それは皮肉でも同意でもなく、ただ“恐怖”の笑いに近かった。
「……あんたは、まだ見届ける気なのか?」
「ああ。俺は剣を抜かない。だが、糸は引く」
「糸?」
「勇者のまわりには、操られた傀儡が多すぎる。聖騎士、貴族、学者、神官——それぞれが“英雄”の恩恵を食ってる。
その糸を少しずつ、切ってやる」
「殺さないで?」
「殺さなくても、十分に堕ちる」
マーヤは肩をすくめ、懐から羊皮紙を取り出した。
そこには、勇者パーティの構成員たちの名前と、現在の所在が記されている。
半分はすでに失踪。残る数人も、表向きは“出世”したことになっている。
「最初は誰だ?」と彼女が問う。
俺は紙の端に指を置き、ある名をなぞった。
「リューク。勇者の参謀役。
元々は宰相の弟だ。今は“聖騎士団の指揮官”。」
「内部の情報源ってわけね」
「そう。こいつが王と勇者の間を繋いでる。……だが、繋がりが深いほど、切れたときに響く音も大きい」
◆
夜。
王都の北端にある神殿街。
聖騎士団の宿舎には、金で縁取られた窓が並んでいた。
そのうちの一つに、俺は忍び寄る。
内部では、リュークが机に向かって何かを書いていた。
背筋は伸びているが、目の下の影は深い。
勇者の下についた者は、皆同じ顔になる。
“誇り”という名の縄で、自分の首を絞める顔だ。
俺は音もなく天井の梁に移り、袋から黒い粉を取り出す。
“記憶の香”。嗅いだ者は、最も恐れている光景を夢に見る。
直接手を下すわけじゃない。夢を見て、壊れるのは本人の選択だ。
粉を蝋燭の火に投げ入れると、青い煙が立ち昇った。
リュークの瞼が落ち、筆が机の上を滑る。
彼の手が震え、紙の上に走った文字が乱れる。
《勇者、神に見放される》
……見放された、か。
人はいつも、自分の罪を神の沈黙のせいにする。
俺は屋根に戻り、煙の流れを見た。
風が南へ運んでいく。勇者の城へ向かって。
◆
翌朝、王都に新しい噂が広がった。
——“勇者が夢の中で、神に罰せられた”と。
その噂は尾ひれをつけて広がり、
昼には「勇者が民の魂を喰らった」、
夜には「聖女が祈りを拒んだ」になった。
俺は屋根の上からその流れを眺めていた。
噂は風に乗り、やがて毒になる。
そして毒は、いずれ“自分自身”に返る。
影は剣を振るわない。
けれど、糸を引くだけで世界は少しずつ崩れる。
俺は空を見上げ、呟いた。
「さて、次はどの糸を切るか——」
◆
その頃、王城の玉座の間では、
勇者が膝をつき、血を吐いていた。
「……また、神の声が聞こえない……!」
リディアは震える手で彼の肩を支えた。
勇者の目は、狂気と焦燥に濡れている。
背後では、王が眉を寄せたまま沈黙していた。
「お前は……クロウを討てと言ったのに……どうして……!」
「落ち着け、勇者。彼は影だ。影は斬れん」
王の言葉に、勇者は拳を握りしめた。
手の甲に、黒い紋が浮かび上がる。
“神の加護”が、明らかに歪んでいた。
「……あいつが笑っている。どこかで、俺を見て——」
勇者の叫びが、王城の柱に反響した。
その声は、まだ誰も知らぬ“堕落の序章”だった。




