第2話 聖女の呼び声
夜が明けきる前の空は、灰色よりも鈍い鉄の色をしていた。
港の倉庫群はまだ眠っている。だが、影は眠らない。
俺は古びた木箱の上で、濡れた外套を絞りながら、昨夜の従者の言葉を反芻した。
——“真実を知りたい”。
あの聖女リディアが、そんなことを言うとは思わなかった。
彼女は、勇者に寄り添う“光”。
王都の誰もがそう呼び、彼女自身も信じていたはずだ。
だが光は、長く続くほど、影を濃くする。
俺は指先に残った血の跡を見つめた。
宰相の血ではない。昨日、逃げる途中で割れたガラスの欠片が刺さったものだ。
それでも、痛みは生きている証拠だ。死者は痛みを覚えない。
そして、俺はまだ“生き残っている側”だ。
◆
聖堂の裏庭に足を踏み入れたのは、鐘が二度鳴った後だった。
朝霧が低く漂い、花壇の薔薇は露に濡れて重たげに垂れている。
その中央に、白い法衣を纏った少女が立っていた。
「……来てくださったのですね、クロウさん」
聖女リディア。
勇者と共に神の加護を授かった、純白の象徴。
だが今、その顔には疲労の影が色濃く差していた。目の下には微かな隈。指は祈りよりも震えに近い。
「従者がよく通したな。俺は今、指名手配の“裏切り者”だぞ」
「ええ。……でも、あなたは裏切っていないでしょう?」
穏やかな声。
その瞳は、まっすぐに俺を見ていた。嘘を映さない鏡のように。
だが、真実は往々にして、鏡の外側にある。
「俺が信じるものは影だけだ。あなたが言う真実とは、どんな光のことだ?」
「……勇者様が、変わってしまわれたのです」
その一言に、空気が揺れた。
リディアの声は震えていない。ただ、長い祈りのあとに息を吐くような静けさだった。
「加護を授かった頃の勇者様は、確かに優しかった。誰よりも民を思い、戦場では決して怒らなかった。
でも最近は——笑わないのです。民を“数”と呼ぶようになりました」
俺は無言で、袖から小さな包みを取り出した。マーヤの作った“噂の石”だ。
表から見ればただのガラス。裏から覗けば、嘘を真実のように映す。
俺はそれをリディアの足元に転がした。
「これを覗いてみろ」
リディアは戸惑いながら、しゃがみ込む。
石の中には、王城の一室が映っていた。
勇者が椅子に座り、手を震わせながら書簡を破り捨てている。
その眼は、狂気に濡れていた。
「……これは……?」
「噂だよ。だが、真実と嘘の境目にある。
お前が“信じたいもの”が、映る仕組みだ」
リディアの指先が震えた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、唇を噛んだ。
「……この光は、神のものではありません。あの方の中に、何か別の“声”が……」
そう呟くと、彼女は胸に手を当てて祈りを捧げた。
その瞬間、彼女の背後で、空気が裂けた。
——加護の光。
だがそれは、俺の記憶にある“聖なる輝き”ではなかった。
白金ではなく、濁った赤。まるで血が光になったような色。
リディアの体が一瞬だけ硬直し、光が爆ぜる。花壇の薔薇が一斉に枯れた。
「……見えましたか」
「ああ。勇者の加護は……すでに侵食されている」
「私には止められません。祈っても、沈黙が返るだけです」
リディアは震える手で胸のペンダントを外し、俺に差し出した。
透明な宝石の中央に、細いヒビが走っている。
「神の加護を象徴する“祝福の印”です。……勇者様のものと対の形。
彼の印は、もう完全に黒く染まっていました」
「……そして、俺を呼んだ理由は?」
「——あなたなら、止められると、思ったのです」
俺は短く息を吐いた。
笑うほど、哀しい言葉だった。
「俺は殺すことはできても、救うことはできない」
「それでも、あなたは一度、勇者様を救ったではありませんか。
あの砦の夜。あの方が剣を折られた時、あなたが影から守ったと聞いています」
「昔話だ。今のあいつは、もう“勇者”じゃない」
「それでも……私には、あなたしか頼れません」
沈黙。
霧が薄れ、朝の光が差す。
リディアの頬に落ちる光は、祈りというより、諦めの色に近かった。
俺は包みを拾い上げ、ポケットに戻す。
視線を彼女から外し、花壇の枯れた薔薇を見た。
「勇者の加護が壊れていくのは、神の沈黙のせいじゃない。
“人間”の欲が、神の声を濁らせたんだ」
「……それを証明できるのですか?」
「できる。けど、証明した瞬間に、この国は壊れる」
リディアは俯いたまま、小さく頷いた。
彼女も分かっているのだ。真実は、祈りよりも重い。
「お願いです、クロウさん。勇者様を——」
「俺は見届けるだけだ」
その言葉を、切り捨てるように言った瞬間、
聖堂の鐘が高く鳴った。
鐘の音に混じって、城門の方角から喧騒が響く。兵士の怒号、民の悲鳴。
「何だ?」
リディアが振り返り、俺はすでに屋根へと跳んでいた。
聖堂の尖塔から王都を見渡す。
城壁の上、黒い煙が立ち上っている。
——勇者の旗が、燃えていた。
◆
勇者が初めて、自分の加護で人を殺した日。
それは、俺が“見届け役”として舞台に戻る幕開けだった。




