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追放された暗殺者、勇者が堕ちる瞬間を見届けることにした  作者: 妙原奇天


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第2話 聖女の呼び声

 夜が明けきる前の空は、灰色よりも鈍い鉄の色をしていた。

 港の倉庫群はまだ眠っている。だが、影は眠らない。

 俺は古びた木箱の上で、濡れた外套を絞りながら、昨夜の従者の言葉を反芻した。


 ——“真実を知りたい”。

 あの聖女リディアが、そんなことを言うとは思わなかった。


 彼女は、勇者に寄り添う“光”。

 王都の誰もがそう呼び、彼女自身も信じていたはずだ。

 だが光は、長く続くほど、影を濃くする。


 俺は指先に残った血の跡を見つめた。

 宰相の血ではない。昨日、逃げる途中で割れたガラスの欠片が刺さったものだ。

 それでも、痛みは生きている証拠だ。死者は痛みを覚えない。

 そして、俺はまだ“生き残っている側”だ。



 聖堂の裏庭に足を踏み入れたのは、鐘が二度鳴った後だった。

 朝霧が低く漂い、花壇の薔薇は露に濡れて重たげに垂れている。

 その中央に、白い法衣を纏った少女が立っていた。


「……来てくださったのですね、クロウさん」


 聖女リディア。

 勇者と共に神の加護を授かった、純白の象徴。

 だが今、その顔には疲労の影が色濃く差していた。目の下には微かな隈。指は祈りよりも震えに近い。


「従者がよく通したな。俺は今、指名手配の“裏切り者”だぞ」


「ええ。……でも、あなたは裏切っていないでしょう?」


 穏やかな声。

 その瞳は、まっすぐに俺を見ていた。嘘を映さない鏡のように。

 だが、真実は往々にして、鏡の外側にある。


「俺が信じるものは影だけだ。あなたが言う真実とは、どんな光のことだ?」


「……勇者様が、変わってしまわれたのです」


 その一言に、空気が揺れた。

 リディアの声は震えていない。ただ、長い祈りのあとに息を吐くような静けさだった。


「加護を授かった頃の勇者様は、確かに優しかった。誰よりも民を思い、戦場では決して怒らなかった。

 でも最近は——笑わないのです。民を“数”と呼ぶようになりました」


 俺は無言で、袖から小さな包みを取り出した。マーヤの作った“噂の石”だ。

 表から見ればただのガラス。裏から覗けば、嘘を真実のように映す。

 俺はそれをリディアの足元に転がした。


「これを覗いてみろ」


 リディアは戸惑いながら、しゃがみ込む。

 石の中には、王城の一室が映っていた。

 勇者が椅子に座り、手を震わせながら書簡を破り捨てている。

 その眼は、狂気に濡れていた。


「……これは……?」


「噂だよ。だが、真実と嘘の境目にある。

 お前が“信じたいもの”が、映る仕組みだ」


 リディアの指先が震えた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、唇を噛んだ。


「……この光は、神のものではありません。あの方の中に、何か別の“声”が……」


 そう呟くと、彼女は胸に手を当てて祈りを捧げた。

 その瞬間、彼女の背後で、空気が裂けた。


 ——加護の光。


 だがそれは、俺の記憶にある“聖なる輝き”ではなかった。

 白金ではなく、濁った赤。まるで血が光になったような色。

 リディアの体が一瞬だけ硬直し、光が爆ぜる。花壇の薔薇が一斉に枯れた。


「……見えましたか」


「ああ。勇者の加護は……すでに侵食されている」


「私には止められません。祈っても、沈黙が返るだけです」


 リディアは震える手で胸のペンダントを外し、俺に差し出した。

 透明な宝石の中央に、細いヒビが走っている。


「神の加護を象徴する“祝福の印”です。……勇者様のものと対の形。

 彼の印は、もう完全に黒く染まっていました」


「……そして、俺を呼んだ理由は?」


「——あなたなら、止められると、思ったのです」


 俺は短く息を吐いた。

 笑うほど、哀しい言葉だった。


「俺は殺すことはできても、救うことはできない」


「それでも、あなたは一度、勇者様を救ったではありませんか。

 あの砦の夜。あの方が剣を折られた時、あなたが影から守ったと聞いています」


「昔話だ。今のあいつは、もう“勇者”じゃない」


「それでも……私には、あなたしか頼れません」


 沈黙。

 霧が薄れ、朝の光が差す。

 リディアの頬に落ちる光は、祈りというより、諦めの色に近かった。


 俺は包みを拾い上げ、ポケットに戻す。

 視線を彼女から外し、花壇の枯れた薔薇を見た。


「勇者の加護が壊れていくのは、神の沈黙のせいじゃない。

 “人間”の欲が、神の声を濁らせたんだ」


「……それを証明できるのですか?」


「できる。けど、証明した瞬間に、この国は壊れる」


 リディアは俯いたまま、小さく頷いた。

 彼女も分かっているのだ。真実は、祈りよりも重い。


「お願いです、クロウさん。勇者様を——」


「俺は見届けるだけだ」


 その言葉を、切り捨てるように言った瞬間、

 聖堂の鐘が高く鳴った。

 鐘の音に混じって、城門の方角から喧騒が響く。兵士の怒号、民の悲鳴。


「何だ?」


 リディアが振り返り、俺はすでに屋根へと跳んでいた。

 聖堂の尖塔から王都を見渡す。

 城壁の上、黒い煙が立ち上っている。


 ——勇者の旗が、燃えていた。



 勇者が初めて、自分の加護で人を殺した日。

 それは、俺が“見届け役”として舞台に戻る幕開けだった。

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