第12話 影の終幕
夜明けの光が、山と街の境を染めていた。
王都を離れて三日。
俺は北東へ向かって歩いていた。
目的はない。けれど、終わらせなければならないものがあった。
——自分という「影」の存在を。
草原の風はやさしく、空は澄んでいる。
人が祈りを失っても、世界は止まらない。
それでも、どこかで誰かが「見届けること」をやめた時、
世界は本当に死ぬのだと、今は分かる。
◆
途中の村で、老人に出会った。
古い石橋の修復をしていたらしい。
俺の顔を見るなり、彼は笑った。
「お前さん、旅の人か。王都の騒ぎももう静まったと聞くが」
「騒ぎは終わった。だが、跡は残る」
「跡があるうちは、生きてる証拠だよ」
老人は、土に埋もれた石を撫でながら言った。
「昔、神の使いを名乗る者が来てな。
橋を壊して、“この川は罪を流す聖域だ”って言ってた。
それでも人は橋を直した。罪より、向こう岸にいる家族の方が大事だからな」
その言葉に、俺は微かに笑った。
祈りとは、そういうことなのかもしれない。
誰かを救うよりも、誰かと繋がるためにある。
◆
夜、丘の上に火を焚いた。
焚き火の音は静かで、風が通り抜けるたびに火の粉が星のように散った。
マーヤが残していった旅袋から、古い紙を取り出す。
勇者の紋が描かれた手記。
彼がまだ正気だった頃に書いたものだ。
《人は光を求める。だが、光に焼かれて死ぬこともある。
影は恐れられる。だが、影こそ人の輪郭を守るものだ。》
……そうか。
勇者は最後の瞬間まで、自分の“影”を見ていたのかもしれない。
なら、俺の役目は最初から決まっていた。
壊すためじゃない。
「見届けるため」に、影は生まれたのだ。
◆
焚き火の炎が小さくなった頃、
闇の中から、誰かの足音がした。
「……探しましたよ、クロウさん」
リディアだった。
肩までの髪が風に揺れ、手にはランプを持っている。
その光が、影のような俺を柔らかく照らした。
「どうしてここに」
「あなたが、“終わりを見に行く”顔をしていましたから」
彼女は少し笑って、隣に座った。
「王都は落ち着きました。
マーヤさんは商会を始めて、子どもたちの面倒を見ています。
……あなたの話をすると、皆が笑うんです。
“影の男が世界を救った”って」
「救ってなどいない。
ただ、照らされていただけだ」
「でも、あなたがいなければ、誰も気づけなかった。
神の沈黙も、人の祈りも、同じ“声”だということに」
リディアはランプを見つめながら言った。
火が小さく揺れる。
その炎に、勇者と俺、そしてリディアの影が重なった。
◆
「クロウさん」
「なんだ」
「あなたにとって、“影”とは何ですか」
俺は少し考えてから答えた。
「……影は、終わらないものだ。
光が消えても、記憶の中に残る。
たとえ誰も見ていなくても、存在の形をなぞる。
だから影は、生きている証なんだ」
リディアが静かに頷いた。
「それなら、あなたはずっと生き続けますね」
「そうかもしれない。
だが、いつかこの影が誰かの祈りになれば——それでいい」
その言葉に、彼女は微笑んだ。
炎が小さく鳴り、夜風が吹く。
星空が広がり、遠くで朝の鳥が鳴いた。
◆
夜が明ける。
丘を下りる時、リディアがランプを差し出した。
「これを持っていってください」
「いいのか」
「はい。影が消えるのが怖くなったら、灯してください。
きっとまた、誰かの声が聞こえますから」
俺は受け取り、頷いた。
ランプの火が朝日に溶けていく。
その中に、勇者の微笑みが一瞬だけ見えた気がした。
俺は歩き出す。
背後でリディアが祈りの言葉を口にする。
それは神ではなく、ただ世界への小さな願い。
——どうか、影が誰かを導きますように。
その声を背に、俺は新しい朝の光の中へ消えた。
影はもう、逃げることをやめた。
光の下で、生きることを選んだ。
世界は静かに続いていく。
祈りの残響とともに。
——終幕。




