第11話 祈りの残響
山を下りると、春の匂いがした。
雪解け水が谷を流れ、野花が一斉に顔を出している。
王都を離れてから、季節が変わったのだとようやく気づいた。
冬の終わりは、思ったより静かで長い。
それでも世界は、何事もなかったように息をしていた。
マーヤは先を歩きながら、指先で花を摘んだ。
「生き返ったみたいだね、街も人も」
俺は頷き、目を細めた。
「壊れるたびに、世界は少しだけ優しくなる」
「……皮肉だね」
「皮肉こそ現実だ。神より正直だ」
◆
王都に戻ると、街の空気が変わっていた。
人々は新しい聖堂を建てはじめている。
だが、そこに神像はなかった。
祈る相手を描かず、ただ空を見上げるだけの建物。
信仰ではなく、記憶を留めるための場所だった。
リディアはその中央に立ち、子どもたちと石を積んでいた。
顔にかつての聖女の威厳はなく、
代わりにひとりの女性の穏やかな笑みがあった。
「クロウさん。帰ってきてくださったんですね」
「……ここが、お前の祈りの場所か」
「ええ。
もう“神のため”ではなく、
“人のため”の祈りをしたいんです」
彼女の指先は泥に汚れ、爪には石の欠片が挟まっていた。
かつて加護を降ろした手が、今は瓦礫を積み上げている。
それだけで、十分だと思えた。
◆
夜。
俺はひとり、王城跡の塔に登った。
崩れた屋根の隙間から見える星は、驚くほど多かった。
風は柔らかく、遠くの聖堂の灯が瞬いている。
そこから、リディアの祈りの声が微かに届いた。
——神ではなく、人へ向けられた祈り。
声は震えていたが、確かに届く強さがあった。
その音を聞いていると、不思議と胸が静かになった。
俺は、かつて影であることを誇っていた。
光を利用し、真実を暴き、崩壊を観測する。
それが俺の生き方だった。
だが今、その役目が少しだけ色褪せて見えた。
崩壊の先にも、祈る声が残るのなら——
影は、光の亡骸を温めるために存在しているのかもしれない。
◆
足元に、小さな音がした。
振り向くと、マーヤが階段を上ってきていた。
「相変わらず、屋根の上が好きだね」
「景色がいい」
「いや、逃げ場がないからでしょ」
彼女は笑い、腰を下ろした。
手にしていた紙袋を俺に投げてよこす。
中にはパンが二つ。温かかった。
「お前、珍しくまともな飯を持ってくるな」
「リディアが焼いたやつ。あんたに食べさせてやれって」
「……聖女がパンを?」
「今じゃ“聖女”じゃないよ。ただのリディアだ」
俺は袋を開け、ひと口かじった。
焼きたての香ばしい匂いが広がる。
それは、信仰の味でも奇跡の味でもない。
——生きている味だった。
「どうだい、影の王。久々の人間の食い物は」
「悪くない。……泣けるほど、悪くない」
「そりゃ結構」
マーヤは夜空を見上げた。
星がひとつ流れた。
願いごとを口にするでもなく、
ただ静かにその軌跡を追う。
◆
「なあ、マーヤ」
「ん?」
「もし、神が本当にいたとして——
あいつは、今どこで何を見てるんだろうな」
「そんなの決まってるさ。
“もう自分がいなくてもいい”って、笑ってるんだよ」
俺は少しだけ笑った。
それは、影の男が初めて浮かべた、安らかな笑みだった。
◆
夜明け前。
塔の上から見た王都は、煙も血もなく、
ただ人々の灯りが点々と並んでいた。
それは星空と同じ形だった。
神はもういない。
でも、誰もが少しずつ祈りを取り戻していた。
それで十分だと思った。
俺は立ち上がり、東の空に向かって歩いた。
マーヤが後ろで声をかける。
「どこへ行くんだい?」
「次の舞台へ」
「今度は、どんな劇を?」
「——誰も泣かない劇を」
風が吹き抜け、朝の光が街を染めた。
その光の中で、影は薄れ、やがて消えた。
けれど確かに、歩き出していた。
祈りの残響を背に。




