第10話 神の遺跡
北の山脈は、灰色の雲に覆われていた。
王都を離れて五日。
風は冷たく、足元の雪は膝まで埋まる。
それでも、俺とマーヤは止まらなかった。
地図の端に記された「神の遺跡」という言葉——
あの加護の源を辿る唯一の手がかりだった。
「まるで、世界の終わりに向かってる気分だね」
マーヤが息を白くして笑う。
「終わりじゃない。始まりの場所だ」
俺は雪を踏みしめながら答えた。
「始まり?」
「加護が生まれた場所。
つまり、“神が造られた”場所でもある」
マーヤの目がわずかに動いた。
「……神を造る、ね。勇者の国が聞いたら発狂するよ」
「もう誰も信じちゃいない。
信仰は死んだ。残ったのは、仕組みだけだ」
◆
夕暮れ、山の裂け目に洞窟を見つけた。
雪に埋もれた入り口には、古い碑が立っている。
石に刻まれた文字は、半分崩れて読めない。
かろうじて残っていたのは三文字——「創」「加」「殿」。
「“創加殿”……つまり、“加護を創った神殿”か」
俺は指先で文字をなぞった。
石は生き物のように冷たく、微かに脈打っている。
中に入ると、空気が変わった。
静寂が重く、耳鳴りのように低い音が響いている。
壁には古い紋章。王国の印ではない。
その中央に、見覚えのある模様があった。
——勇者の加護の紋と同じ形。
だが、色が違う。
黒と金が絡み合う、まるで「影と光の融合」のような意匠。
「ここで……作られたのか」
俺の呟きに、マーヤがランプを掲げた。
「何か書いてあるよ」
壁に彫られた碑文を読む。
そこには、こう記されていた。
《神は存在せず。
人が神を求めた時、影は光を模倣した。
加護とは、恐れの集合体である》
「……神は“影の投影”だったってことか」
「信仰ってやつの、裏側だね。
人が怖れたものを形にして、“神”と呼んだ」
「勇者は、その模造神の力を使っていた。
だから壊れたんだ。
神は外にいない——人の中にいたんだ」
その時、奥から微かな声がした。
風ではない。
誰かが、祈りの言葉を唱えている。
◆
洞窟の最奥、広い円形の部屋。
中央に立つのは、白い衣をまとった影。
その背は細く、肩までの髪が風に揺れる。
——リディアだった。
「来ると思っていました」
彼女の声は静かだった。
だがその足元には、無数の魔法陣が描かれている。
光と闇の文様が絡み合い、淡い脈動を放っていた。
「お前……ここで何をしている」
「勇者様の残した“加護の断片”を集めていました。
そしてようやく、理解したのです。
この遺跡こそ、神が造られた場所。
——なら、私はもう一度、祈りをやり直せる」
「やり直す? それは……危険すぎる。
ここに残る力は、加護を再現するための仕組みだ。
制御できるものじゃない」
「だからこそ、必要なのです。
あの方が壊した“信仰”を、この場所で正したい」
リディアの瞳が、かつての勇者のように燃えていた。
光が強すぎると、影は薄れる。
——彼女は、光の側から堕ちようとしている。
「リディア、やめろ。
お前が神を再び呼べば、この世界は同じ過ちを繰り返す」
「私は、信じたいんです。
あなたが“影”であるように、私は“光”でありたい。
それが私の祈りです」
足元の魔法陣が輝き始めた。
光の帯が彼女の体を包む。
マーヤが後ろで息を呑んだ。
「クロウ、止める気なら今だよ」
俺は答えなかった。
リディアの目が、真っ直ぐ俺を見ていた。
迷いのない、祈りの目。
それを壊す覚悟が、自分にあるのか分からなかった。
「……リディア。
お前は、神なんかじゃない。
でも、お前の祈りは——俺には見える」
俺は彼女の腕を掴み、魔法陣の中心から引き離した。
光が暴走し、洞窟全体が揺れた。
天井から岩が崩れ、轟音が響く。
「離して、クロウ! 私は——!」
「もう十分だ! あの勇者が壊したのは神じゃない。
“人間の信仰心”だ。お前まで壊す必要はない!」
リディアが泣いた。
その涙が魔法陣に落ち、光が一瞬で消えた。
闇が戻る。
残ったのは、沈黙と、彼女の震える肩だけだった。
◆
外に出ると、夜明けの光が差していた。
雪が溶け、空は淡く青い。
マーヤが後ろで肩をすくめる。
「危なかったな。もう少しで、世界が二度目の破滅だ」
「世界は壊れないよ。
壊れるのは、いつも“信じすぎる心”だけだ」
「……お前、影のくせに優しいね」
「優しさじゃない。観客の務めだ。
誰かが舞台を見届けなきゃ、物語は終われない」
リディアが静かに立ち上がる。
その瞳は泣きはらして赤く、それでも穏やかだった。
「ありがとう、クロウ。
あなたがいたから、私はもう“光”に縛られません。
これからは、自分のために祈ります」
俺は頷いた。
そして、空を見上げた。
雪雲の隙間から、一筋の陽光が差していた。
その光は、まるで影の上を撫でるようにやさしかった。
◆
帰り道、マーヤが呟いた。
「結局さ、神って何なんだろうね」
「さあな。
けど、こうして誰かが誰かのために泣くなら——
それが一番人間らしい“神の証”なんだろう」
雪を踏みしめながら、俺は歩き続けた。
影の旅は、まだ終わらない。
けれど、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
それが、祈りに似た感情だと気づくのに、少し時間がかかった。




